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みことばに生かされる(25)「みことばを行う人に」

   日曜日の礼拝で牧師がお話した聖書のメッセージです。
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「みことばに生かされる恵み」25        2012.3.25
     「みことばを行う人に」
ヤコブの手紙1章19‐27節



1 「みことばの受肉」が稀であるという現実
 今年度最後の礼拝は、重点目標、「みことばに生かされる恵み」の総まとめとしてお話させて頂きたいと思います。
 4世紀に活躍したキリスト教会の有名な教父、カイザリヤのバシレイオスと呼ばれる人が、こんなことを言ったそうです。「神からのお告げはしばしばあるが、受肉は稀である。」
 「受肉」というのは、あのクリスマスに起こったことです。天におられた神の御子が、この世に人間の体を取って「目に見える、実態を伴った姿」でお出でになった出来事です。それは歴史上、御子イエス様だけが体験された、ただ一回限りの特殊な出来事です。だから、「稀である」「稀でない」という話自体、本当はおかしな話なんですね。
 ですが、バシレイオスは、比喩として言ったんです。つまり、「神からのお告げはしばしばあるが・・・」というのは、「神様のみことばについて人々に、『神様はこうおっしゃる』と、いろいろ語って聞かせる人は沢山いるけれど・・・」という意味です。そして、「受肉は稀である」というのは、「神様のみことばを、キリストの『受肉』のように、実際に目に見える形で、実態を伴った姿で見せている人は稀である」ということです。「神様のみことばは、いろんな所で語られ、聞かれているけれど、そのみことばを実践している人、『ああこの人は、確かに神様のみことばの通りに生きている』と思える人は、なかなか見られません」と、バシレイオスは言ったんですね。

 キリスト教会が始まって300年しか経ってない頃、もう既に、そういうことが教会の中で嘆かれていたんですね。何だか親近感が湧く感じもしますが、「なんだ、昔のクリスチャンもそうだったんだ」と安心しちゃうことでは、まずいと思うんですね。神様がご覧になると、それは悲しい話、ガッカリしちゃう姿に違いないからです。
 例えば、皆さんが単身赴任中の親だとして、遠くで暮らす子供たちに手紙を書いたとします。「ちゃんとお母さんの言うことを聞いて、家族皆で仲良く暮らすんだよ」と。ところが、やがて家に帰ってみたら、子供たちは我がまま放題で、お母さんを困らせてるわ、兄弟喧嘩ばかりしているわ・・・だったらどうでしょう?しかも、「おまえたち、お父さんが書き送ったことばをちゃんと読んだのか?」と聞いたら、「読んだよ」とケロッとした顔で答えたとしたらどう思います?なんともガッカリで悲しくて、非常にむなしい気持ちになっちゃうんじゃないでしょうか?
 神様だってそうなんです。神様は私たちに、半端じゃないくらいの熱意と愛と期待を込めて「みことば」を書き送って下さったはずです。ところが私たちは、その「みことば」を、ただ聞いて眺めるだけで満足しちゃってる・・・ということが多いんじゃないかと思います。もちろん、聞くことは大事です。「信仰は聞くことから始まり」とある通り、みことばに聞かないと何も始まりません。
 だけど、どうも私たちは、それで終わってしまい、「みことばを聞くということ自体が目的の信仰生活を送っている」ことが、あるんじゃないでしょうか。「今日は素晴らしいみことばを聞きました。その通りだなあと教えられました」と感動するのは良いことです。でも、それだけで満足して終わるとしたら、聖書は私たちにこう言います。
「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(22節)

 考えてみて下さい。「ご飯」は、何のためにあるんでしょう?食べるためですね。だから、せっかく作ってもらったご飯を食べずに放って置いたら、「作ってくれた人に悪い」と思うんじゃないですか?私も小さい頃、ご飯を残すと「お米を作ってくれたお百姓さんに悪いでしょ!」とお祖母ちゃんから叱られたものです。
 では、「神様のみことば」は何のためにあるんでしょうか?「神様はさすがに良い事おっしゃるね」と感心するため?いや、そうじゃなく、それを実際に行なって生きるためにこそ、与えられているんです。それなのに、その「みことば」を何も行なわないで、放り投げて置いたとしたら、私たちは、「語って下さった神様に申し訳ない!」とは思わないでしょうか・・・?
 昔のイスラエルに、まさにそんなふうに思った王様がいました。ヨシヤという王ですが、このヨシヤ王の時代、イスラエルの国では実は、聖書がどこかに紛失していました。当時の聖書は、「モーセの律法が書かれた巻物」で、誰もが持っているわけではなく、神殿に安置されていたものでした。ところが、それまでの歴代の王様たちが、エルサレムの神殿に様々な偶像崇拝を持ち込んでは、神殿の中を荒してしまっていたんです。それで、神殿にあったはずの「聖書の巻物」も、どこかに行方不明になっちゃってたんですね。
 それがヨシヤ王の時代に見つかり、「聖書のみことば」が皆の前で読み上げられた時、ヨシヤ王はどうしたと思いますか?「いやあ、これは有難いものが見つかった!いいご利益があるだろう」と能天気に喜んだわけではなかったんですね。彼は心を痛めて神の前に謙り、自分の衣を裂いて、大声を挙げて泣いたといいます。
 なぜでしょう?それは自分たちが、その「聖書に教えられているみことば」の通りに生きて来なかった・・・、「神様のみことば」をしっかり行なっていなかった・・・ことが分かったからです。それで、「神様に誠に申し訳ないことをした」と心を刺されたヨシヤ王は、衣を裂いて悔い改めたというんですね。

 それならば、私たちは、「自分が神様のみことば通りに行なっていない」と気付かされた時、ヨシヤ王のように、心を痛めて泣く・・・ということが、果たしてどれだけあるでしょうか?22節の「みことばを実行する人になりなさい」というご命令を、どれだけ真剣に受け止めているでしょうか?「みことばが受肉した人になる」ということを、どれだけ本気に追い求めているでしょうか?そのことを私たちは、この一年間の総まとめとして、今一度、自分の心に問い直してみる必要があるんじゃないかと思うんです。


2 「みことばを実行する人になる」ためには?
 でもいったい、どうしたら「みことばを実行する人」になれるんでしょうか?どんなふうにしたら、「みことばが受肉しているような生き方」が出来るんでしょうか?
 23-25節で、この手紙を書いたヤコブは、「私たちが、なぜみことばを行う人になれないのか」、そして、「じゃあ、どうしたら、みことばを行える人になれるのか」の両方を説明しています。
 「みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。」(23-24節)
 「聖書みことば」が「鏡」に喩えられています。「みことば」は、それに向き合って読む人に、自分自身の本当の姿、自分の内側にある本当の自分を、鏡のように映し出してくれるものだからです。ですが、その「みことば」を、鏡で自分の顔をチラッと見てすぐ立ち去る程度にしか見ない時、私たちは「みことばを聞いても行わない人」になってしまう・・・と言います。すぐに忘れてしまうからだと。
 「自分の顔を忘れる?」と思うかもしれませんが、昔の鏡はそんなに鮮明じゃなかったし、今みたいにどこにでもガラスがあって、自分の顔を映して見られる環境ではなかったんですね。「ああ忙しい」と鏡をチラッと見ただけで、すぐ立ち去っちゃうと、寝ぐせがあったことも忘れて、その日を過ごしてしまいます。それは、「聖書のみことば」という「霊的な鏡」を前にしても言える、というんですね。

 「聖書のみことば」に向き合うと、「生まれながらの醜く罪深い姿」を映し出されて、真っ直ぐに突き付けられちゃいます。そんな私たちは、「みことば」に心を惹きつけられる一方で、「すぐにでも顔を背けて逃げ出したくなる」というものもあるんじゃないでしょうか?
 それで、あるみことばは、鏡をチラッと見る程度にして逃げ出しちゃいます。だから、そのみことばは、いつまでたっても行えないで終わってしまう・・・とヤコブは言うんですね。たとえば、26節のみことばを読む時、皆さんはその前から逃げ出したいとは思わないでしょうか?「自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。」 
 私は、正直言って、逃げ出したい気持ちになりました。「自分の舌にくつわをかけず」とは、ヤコブ書のことばで言うなら、「大きなことを言って誇る」こと。また、誰かに向かって「死の毒に満ちた」ことばを吐いて、「神にかたどって造られた人をのろう」ことです。それは自分の中にもいっぱいあるので、このみことばを見ると、居たたまれなくなっちゃうんですね。
 また27節では、「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです」と言われています。「本当にその通りだ」と思います。でも自分の中には、「困ってる人に寄り添うことを面倒がっている心」もいっぱいあります。それを、このみことばから突き付けられるので、チラッと見たら逃げ出したくなるんです。「読むなら、もっと他のみことばを・・・」と逃避しちゃうんです。
 その結果私たちは、いつまでたっても「この手のみことばは行えない」というクリスチャンになっちゃうんじゃないでしょうか? そういう私たちは、じゃあ、どうして行ったらいいんでしょうか・・・?
 
 ヤコブは25節で、こう言います。
「ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。」
 「完全な律法、自由の律法」とは、「聖書のみことば」を言います。それを「一心に見つめて離れない」、それこそが、すぐに忘れないで、みことばを実行していく人になれる秘訣だというのです。つまり、いかに「聖書のみことば」と真っ直ぐ向き合い、生まれながらの姿にメスを入れて「聖めのわざ」をなさろうとしている神様から逃げないか・・・ということです。
 自分の魂の病んで傷ついている部分に斬り込んで下さる「みことば」を、いかにして「一心に見つめて離れない」歩みを続けて行くか・・・。その時、「聖書のみことば」自体が、私たちの内に住まわれる聖霊なる神様と相働いて、私たちをだんだんと「みことばを実行して行くことのできる人」へと育んで行って下さるんです。


3 「みことばを行う」のは、救われるためでなく、救われたから!
 ただし、誤解のないようにお話しします。私たちは今、「みことばを行うこと」をチャレンジされているわけですが、それは、「そうしないと救われない」とか、「それが救いの条件だ」と言うわけではないんですね。聖書はあくまでも「人は、行いによっては救われない」と教えています。それ程、人は罪深くて、「善い行いをする」だけでは望みがないんです。だからこそ、イエス様が十字架の上で私たちの罪を背負って下さり、「そのことを信じるだけで救われる」という、「ただ恵みによる」救いの道を開いて下さったんです。
 それなら、なぜ「みことばを行う」必要があるんでしょうか?行いによらず、信じるだけでいいのに、なぜまた「みことばを実行する人になりなさい」と言われているんでしょう?
 それは、「救われるため」ではなく、「救われたから」です。「救いの条件」としてではなく、「私たちがイエス様の十字架によって確かに救われた」ことの「しるしや証拠」として期待されているんです。つまり、「もしあなたが本当に救われているなら、神様のみことばを実践している姿が、あなたの中にないとおかしいんですよ。だってそれは、救いの恵みを頂いた人の当然のしるしなのですから・・・」ということなんです。
 
 さらに言うなら、私たちは確かに何の行いがなくても、イエス様を信じるだけで救われていますが、それはまだ「罪赦されて天国に入る」救いを頂いただけに過ぎないんですね。神様は、その後にもっと大きなご計画を持っておられるんです。
 それは、「罪赦される救いを頂いた私たちが、赦されただけじゃなく、生まれながらの姿を聖められていき、神様のみことばを行なって生きるという、本当に神様に喜ばれる者とされて行く」というご計画です。それはいわば、もっと広く深い意味での「救いの完成」です。
 だからこそ、神様は私たちに「みことばを行う」ことを求められるんです。そして、「神様のみことばが私たちの中に豊かに受肉されて行く」ことを、心から期待なさっているんです。

 化粧品や薬品会社として有名な会社の「カネボウ」薬品で、以前、会長をなさっていた三谷康人さんという方がおられます。この方は、カネボウに入社してしばらく経った頃にクリスチャンになられました。奥様がまず信仰を持ち、その影響で三谷さんも信仰を決心されたのですが、洗礼を受ける時、「あなたは仕事も人生も、いのちもキリストのために捧げますか?」と聞かれたそうです。それに「はい」と答えたら、その瞬間にとっても大きな喜びが湧き起こって来たそうです。
 その時から三谷さんは、「立身出世は捨てて神様を第一とする」という人生観を持つようになったといいますが、そう生きて行こうとした時、試練もたびたび経験したそうです。たとえば、部長時代に、粉飾の恐れのある命令を受けたそうです。悩んだ末にハッキリと「できません」と言ったら、見事に左遷されたというんです。
でも、三谷さんは、その命令を受けた時、家で奥様と一緒に祈ったら、こういうみことばを示されたそうです。
「今私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや、神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。 もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。」(ガラテヤ1:10)
 三谷さんは、「そうだ、神様に喜ばれることをしよう」と決心されました。すると、その途端に平安が与えられたのだそうです。この方もまた、神様のみことばを、思い切って実行する人となられました。それは他でもない、この方が、イエス様の十字架によって本当に救われていたからこそ、出来たことだったのではないでしょうか。


結論
 今日の所に「自分を欺いて」ということばが繰り返されています。「自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません」(22節)、「自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら・・・」(26節)と。つまり、私たちが「みことばを聞くだけで行わない」としたら、それは「自分自身を欺いている」・・・というんです。
 願わくは、そんなふうにならないようにしたいと思います。なぜなら、「欺くこと」は、悪魔の得意技だからです。ヤコブ書2章19節にこうあります。「あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。」
 悪魔とその手下の悪霊どもは、「神様がどんな御方で、何と語っているか」という「みことばの知識」は、私たち以上にあるんです。だけど、「みことば」が促すメッセージを欺き、全く正反対の行いをします。それが悪魔であり、悪霊どもなんですね。
 私たちは、そうならないようにしようじゃないですか。むしろ、「神様のみことば」が促すメッセージに真っ直ぐにお応えし、「みことばを実践し、みことばを受肉する者となる」、そういう一人一人に、そういう教会にならせていただきたいと思います。
by sagaech | 2012-03-31 16:33 | 礼拝メッセージ
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