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敬老説教「本当の大切なものを悟る時」

日曜日の礼拝で牧師がお話した聖書のメッセージです。 

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2015年9月13日 敬老礼拝説教
「本当の大切なものを悟る時」
創世記47章27‐31節


はじめに 父の姿に見た「悲しい老いの現実」
 先月私は、胆嚢結石の発作を起こして耐えられなくなって病院に行きました。そしたら、即入院になっちゃって、点滴と心電図の管に絡まれながら、おかゆを食べて暮らすという、いかにも「病人」って生活をしてしまいました。しかも、この秋には胆嚢を取る手術もすることになっちゃって、先週は手術前の検査で、生まれて初めて大腸内視鏡検査をやりました。明日も胃カメラを飲まなきゃいけなくて、上からも下からも攻められちゃって、どうも最近病院漬けです。「ああ、こんなに病院に通うなんて、俺も年なのかなあ・・・」って思ったんですが・・・、ふと思い出したんです。
 「そう言えば、こんなふうに病院通いをした時があったよなあ・・・」って。それは、自分のためじゃなくて、私の父のためにでした・・・。
 私の父は、8年前に心臓発作で亡くなったんですが、半年ここで一緒に過ごさせてもらいました。その間、癌を患い、前立腺とパーキンソン病の治療もしたんですが、そんな父を、私は月2回は病院に連れて行っておりました。
 父は青森の人で、青森の実家でお店を経営していました。ですが、退職前に、長年連れ添った私の母を癌で亡くして、心の中にポッカリ穴が開いたんですね。さらにその一年後、今度は自分の母親、私のお祖母ちゃんを亡くしてしまい、文字通り、実家で独り暮らしになりました。
 ただ、退職したての父は、まだまだ元気で、車で遊びに行ったり、海外旅行にも行ったりして、悠々自適に過ごしていたんです。だけど、そうするうちに癌が見つかって、治療のために辛い闘病生活を始めました。それから、耳も聞こえなくなって、大好きだったテレビも楽しめなくなりました。食べるのも、歯が総入れ歯になっちゃって、固い物が噛めなくなって、好きな物を食べられなくなりました。また、パーキンソン病のせいでヨチヨチ歩きになって、旅行に行くどころか、身の周りのことも難しくなりました。自慢の車も、危なっかしくて乗れなくなってしまったんです・・・。
 それで、ここに来て一緒に暮らすようになったんですが、まあ、不憫なものでした。父はよく、アクビをしながら愚痴ってたんです。「何にも楽しい事が、なくなっちゃったなあ・・・」って。
 そんな父の姿を思い出すと、「老いるとは、ああいうことなんだなあ・・・」って、つくづく思わされるんです。ハッキリ言ってそれは、「今まで持ってたものを、どんどん無くして行く」ことでした。大切なものが、一つ、また一つと取り去られて行く・・・。若い頃の力と健康も、親しい人との交わりも、当たり前だった生活も、自分の頼みとしていたものが、一つ一つと引き剥がされて行くんです・・・。
 悲しいことですが、でもそれが「老いる」ってことの現実なんじゃないでしょうか・・・?


1 「老い」は「人生の最高のチャンスの時」
 もしそうなら、その先は、いったいどうなるんでしょう・・・?  どんどん大切なものが取り去られ、頼みとしていたものが剥ぎ取られて行って・・・、最期に何が残るんでしょう・・・?
 そういうことって皆さんは、考えてみたことがおありでしょうか?で、もしその時、何の確かなものも残らなかったら、それは、「悲しい」を通り越して、「恐ろしい」ことじゃないでしょうか・・・?
 「老い」とは、そういう問いを突き付けて来るんですね。「あなたが頼りにしていたものが、また一つ、あなたの手から取り去られて行っちゃったね。じゃあ、この先あなたはどうなるの?」・・・、そういうシビアな問いを、「老い」ってものは、無言で私たちに問い掛けて来るんです・・・。

 ところが、「老い」とは、そういう時だからこそ、一転すると物凄いチャンスにもなると思うんです。そう、実は、「年を重ねて高齢者になった時」っていうのはある意味で、「私たちの人生にとっての最大のチャンスの時」なんです。
 どんな意味での「チャンス」でしょう? それは、「私たちの人生にとって本当に大切なもの」を、本当の意味で悟って、知って、見出せるようになるための「人生で最大のチャンス」です。
私たちは、「老い」の中で、自分が頼りにしていたものが、一つ一つと取り去られて行く時に、「それらは本当の頼りとするべきものではなかったんだ・・・」って気付かされるんです。「それらは確かに大切なものだけど、本当の意味でなくてはならないものではなかったんだ・・・」って悟るんです。
 たとえそれが、自分にとって物凄く意味があって、「自分の仕事に欠かせないもの」だとか、「私にとって掛け替えのない心の支え」だったとしてもです。「この私を本当に生かしてくれるものは、もっと別なものなんだ」ってことに目が開かれるんです。そしてむしろ、「あらゆるものが剥ぎ取られても、私はこれによって生きて行ける!これを頼みにするならやって行ける。」そういうものを、いろんなものが剥ぎ取られる「老い」の中でこそ、身をもって悟らせてもらえるんじゃないでしょうか・・・?
 そういう意味で、「老いる」とは、「人生の最高のチャンスの時」です。では、その「老い」の中で悟らされる「本当の大切なもの」とはいったい何でしょう・・・? 
 今日の箇所は、そのことについて教えてくれてるお話です。


2 老いたヤコブが悟った「本当の大切なもの」
 今日の所に一人の老人が出て来ます。ヤコブっていう人ですが、彼には「イスラエル」っていう別な名前もありました。ここでは、そっちの名前でたくさん呼ばれてるんですが、これは、同じヤコブという人のことを言ってるんですね。
 そのヤコブはこの時、147歳だったというんです。これは「何寿」って言うのか分かりませんけども、そんな歳だから、ヤコブは床の上で寝たきりで、そろそろ臨終の時が近づいていたんです。それで、息子のヨセフを呼び寄せて、最期に遺言みたいなお願いをした・・・っていうお話です。
 ヨセフという息子は、ヤコブの12人の息子の11番目ですが、この時ヨセフは、ひょんな事からエジプトで総理大臣になってたんです。それで、お父さんのヤコブを故郷パレスチナのカナンって所から呼び寄せて、一緒にエジプトに住まわせて養っていたんです。

 ここで、ヤコブはいったい何を、ヨセフにお願いしたんでしょう?それは、「自分が死んだら、自分の体を故郷カナンに運んで行って、先祖のお墓に葬ってくれ」ってお願いだったんです。「なんだ、よくある話じゃん」っても聞こえますが、これは、ちょっと違うお願いだったんです。
 ヤコブは単に「生まれ故郷」にこだわっていたわけではないんです。それよりも、「神様のお約束」に拘っていたんです。かつて、主なる神様は、ヤコブが若い頃に、故郷カナンで夢枕に現れて、こういう祝福を約束して下さったんです。
 「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。・・・・・見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこに行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」(創世記28章)
 年老いて147歳になったヤコブは何よりも、この「神様のお約束」に拘っていたんです。さらに、自分にそういう約束を与えてくれて、自分をここまで守り支えて下さった神様ご自身に、拘っていたんです。
 どうして、神様にこわだるんでしょう?
 実はそれこそが・・・、神様という御方こそが、ヤコブが見出した「本当の大切なもの」に他ならなかったからです。ヤコブはそのことを、「年老いる」ことを通して身をもって、心の中に深ーく悟らされたんです・・・。

 ヤコブは、若い頃から「人を出し抜く知恵に長けた人」でした。頭が良くて知恵が働いて、世渡り上手で、生活力に長けていて、自分の力でうまく他の人からいい物を奪って暮らして行く・・・、そういうのが得意だったんです。実際に若い頃、双子のお兄ちゃんからそうやって家督相続の権利を奪い取りました。それで、お兄ちゃんから物凄く恨まれて、命からがら家を飛び出したんです。
 その途中、ヤコブは夢枕で初めて「天の神様」と、プライベートな出会いを体験したんですね。さっきの「神様の約束」はその時に頂いたものですが、「これは有り難い!」と思ったヤコブは、この時以来「神様への信仰」を自覚するようになって行ったんです。
 でもその頃は、「まあ、どうしようもなくなったら、この神様にでも頼ろうか」ってくらいでした。つまり、ヤコブにとってその頃は、神様っていう方は「たくさんの大切なものの中の、ほんの一つ」に過ぎなかったんです・・・。

 ところが、今日の所じゃ全く違うんです。ここでのヤコブにとって神様は、「自分の人生の全て」です。「自分にとっての最も大切なもの」となっていたんです。というのもこの時ヤコブは「今まで頼みとしていたもの」を、すっかり剥ぎ取られちゃってたんですね。
 かつては裸一貫、自分の力で成り上がり、たくさんの財産を手にした成功者でした。12人の息子と大勢の使用人がいて、周りの人から一目置かれるカナンの有力部族の族長だったんです。ところが今日の所では、そんな面影はどこへやらですよ。単に一人の無力な老人がいる・・・っていうだけです。

 いったい、ヤコブの人生に何があったのか・・・?
 実は、ヤコブが年老いて、そろそろ隠居を考えていた矢先、最愛の息子ヨセフが行方不明になったんです。ヤコブには事情があって、二人の奥さんがいました。その内の、ヤコブが愛したラケルという奥さんは不妊の女でした。そんなラケルにようやく生まれた子が、ヨセフだったんです。
 だから、ヤコブはヨセフをえこひいきして可愛がりました。そのことを、腹違いのヨセフの兄たちが物凄く憎んで、ある日、密かにヨセフをエジプトに、奴隷として売り飛ばしちゃったんです。何も知らない父ヤコブはそれ以来、悲しみの中で打ちひしがれちゃったんです・・・。
 しかも、ヨセフを無くす前にもヤコブは、愛妻ラケルに先立たれていました。だから、ヤコブは年老いた時、自分の愛する人を一挙に失っちゃったんです。それからというもの、ヤコブは「抜け殻」になったんです。あらゆる夢も希望も剥ぎ取られちゃって、何にも残っておりません・・・って感じになってしまったんですね。

 ですが、そんなヤコブに転機が訪れたんです。神様の憐れみ深いお導きによって、行方不明だったヨセフと何十年ぶりかで再会できたんです。「抜け殻」だったヤコブはもう一度、「忘れ掛けていた、とっても大切なもの」を思い起こしたんです。
 それは何だったんでしょう?それはかつて、自分に祝福の約束を与えて下さった「天の神様」です。というのはヤコブの人生は、結局はその神様の約束通りになったからです。何もなくなって「抜け殻」になってたヤコブに、最期まで残ったものは「神様」だったんです。彼を憐れんで、「わたしはあなたとともにあり、あなたがどこに行っても、あなたを守り、・・・、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない!」って約束して下さった、「天の真の神様」です。
 「この神様を崇めて、この御方に繋がって、この神様こそを自分にとっての何よりの頼みとして生きて行く」・・・、それこそが、ヤコブがあらゆるものを剥ぎ取られる「老い」の中で見出した「本当の意味での大切なもの」だったんです。

 そのことがまさに、ここでのヤコブの姿・・・、「床に寝たまま、おじぎをした」っていう姿に現れされています。実は、これと同じ姿が新約聖書のへブル書にも書かれていて、そちらの方では、こう言われています。
「ヤコブは死ぬとき、・・・自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝しました。」 「床に寝たまま」と「杖に寄りかかって」じゃ、ちょっと違うと思いますが、ユダヤ人のことばじゃ、「床」も「杖」も同じことばなんですね。それで、どちらの意味にも訳されているんです。
 だけど、どちらも「ヤコブが必死になって神様を礼拝した」姿に他なりません。「147歳のヤコブが、思うようにならない体に鞭打って、必死に床の上に座り直して杖に寄りかかり、神様に向かって身を屈めて礼拝した」、そういう姿だったんです。

 皆さんは、この姿をどう思いますでしょうか?  
 私は、「こんなふうに出来るなんて、なんて幸せなことだろう」って思います。これこそ、「『本当の大切なもの』をしっかりと掴んでいる姿だ」って思うからです。仮にもし、たくさんのものに恵まれて、溢れる程のお金や名誉や愛する人に囲まれながら「老い」を迎えたとしてもです。もしも、それだけだったら、「本当に大切なものを掴んでる」って言えるのかなあ?・・・って思うんです。
 むしろ、どんなにいろんなものが剥ぎ取られても、「決して剥ぎ取られない救い」を与えて下さる神様という御方・・・、その神様を知った時にこそ、「本当の大切なものを掴んでる」って言い得るんじゃないでしょうか? そして、「老い」の時は、そうなれるための「人生で最高のチャンスの時」に違いないんです。


3 人生の最期に「本当の大切なもの」を悟った広岡浅子さん
 NHKの朝の連続テレビドラマは、来月から「あさが来た」という新番組をやるそうです。その主人公は、明治時代に活躍した女性実業家、広岡浅子っていう人です。 
 明治時代、女性の実業家っていうだけで非常に珍しかったんですが、この広岡浅子さんは、元々三井財閥のお嬢さんだったんですね。嫁いだ先も、当時日本一の金融業をやってた家で、江戸時代に大勢の大名たちにお金を貸していたんです。
 ところが、明治維新で大名たちが破産して返済不能になっちゃって、嫁ぎ先の店も傾いちゃったんです。それで、商売を知らない夫に代わって、女だてらに新しいビジネスに挑戦して頑張った・・・ってことだったんです。そうやって彼女が作った生命保険会社が、大同生命という会社です。それから、紡績会社や炭鉱会社も作りました。
 そうして彼女は、女性がなかなか活躍できなかった時代に、女傑と言われて、目覚ましい働きをしました。さらに、女性教育にも深い関心があって、日本初の女性の大学、日本女子大を造るためにも走り回りました。そうやって広岡浅子は、日本における女性運動のリーダーとしても、大切な働きをして行ったんです。

 そんな彼女はハッキリ言って、当時の日本であらゆるものに恵まれていた女性です。お金も家柄もあって、才能もパワーも人脈もあって、大勢の人から慕われて、ある意味、ありったけのものを持ってた人だったんです。
 ところが、何を思ったか・・・、彼女は60歳を過ぎてから、教会に通い始めて、クリスチャンになったんです。大阪の教会で、62歳の時に、宮川経輝という牧師から洗礼を受けたんです。
 実は、彼女はその頃、乳癌の手術を受けてたんですね。なんと、拳二つくらいの相当に大きな乳癌があったというんです。明治の話ですから、今の乳癌手術とはわけが違います。さすがの広岡浅子も、「これまで手にして来たものを、これですっかり無くしてしまうかも・・・」って大きな不安に襲われたらしいんですね。それが、「人生の一大転機」になったらしいんです。
 彼女は「万が一を覚悟した」っていうんですね。そして、身の回りの事を整理して、「一切を天に任せる思い」で手術台の上に乗ったというんです。そうしたら、手術の前後に不思議な境地を味わったというんですね。なぜか、心の霧がすっかり拭われて、晴れやかな心地になって、厳かで偉大な力を感じてた・・・っていうんです。
 そうこうしているうちに、手術が終わって目が覚めた・・・。そして、憧れの思いを感じて、こう思わされたというんです。「もしかして、これが人の言う『神』って御方なんじゃないだろうか?」
 その後、彼女は知り合いの紹介で、宮川経輝牧師から聖書を教えてもらうようになりました。そしたら、さらなる変化が起きて来て、彼女自身、こんなふうに語っているんです。
 「自分の傲慢さが分かって、今までの生涯が、恥ずかしくも馬鹿らしくも思われて来て、悔い改めの気持ちで一杯になりました。」
 洗礼を受けた後、彼女は70歳で天に召されました。その前に彼女は、こんなふうに自分の証しを書き残しました。「その後、私は休むにも働くにも、神のみことばを離れては何事もすまいと決心いたしました。昔は、義侠心や国家のためという動機だけで、人の世話や世間のことをして来ましたが、今後は全て、個人のことも、家庭のことも、社会のことも、ことごとく神の御旨ということを標準としてやって行きたいと思います。・・・・・・ 不思議にも、神の御用のために働く身には、いよいよ新しい生命が加えられ、恩寵はいよいよ豊かになるのを覚えます。これでこそ、生まれた甲斐があると思って、感謝の他はありません!」

 この方も、今日のヤコブみたいに、いろんなものを剥ぎ取られて行く「老い」の中で、うろたえました。ですが、それがむしろ、「人生で最高チャンス」になったんです。あらゆるものが剥ぎ取られても、なおも私たちの中に「剥ぎ取られることのない幸いと救い」を与えて下さる神様を見出して、「人生で本当の大切なもの」を悟らされたからです・・・。


まとめ           
 それでは、私たちはどうでしょうか? 皆さんは、人生にとっての「本当の大切なもの」に巡り合えましたでしょうか・・・?
 願わくは、その神様に、しっかりと巡り合っていただきたいと思います。そしてこれからも、どんなに多くのものが剥ぎ取られても、神様を仰いで、神様にあって安らいで、神様の中に救いを見ながら生きて行く・・・、そういう毎日を、ぜひご一緒に送らせていただきたいと思います。
by sagaech | 2015-09-17 19:56 | 礼拝メッセージ
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