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アドベント4「あなたの人生に降誕された救い主」

  日曜日の礼拝で牧師がお話した聖書のメッセージです。

アドベント4 2016年12月18日

「あなたの人生に降誕された救い主」

ルカの福音書2章1―20節


 遠回りで、この世界に来られた救い主

私は時々、こう思います。「イエス様は、なんて遠回りな方法で、この世界にお出でになったんだろう…」って。クリスマスとは、「イエス様が救い主として、天よりこの世界にお生まれになった」そういう出来事です。でもそうならば、何もわざわざこんな生れ方をしなくても…、もっとシンプルに、ストンと生まれて来ても良かったんじゃないか?って。

たとえば、あの夜、羊飼いたちに、天使の大軍勢が現れて、イエス様の誕生を伝えました。でも、それだけだったんです。なんでその時イエス様は、天使たちと一緒に、天からパンパカパーン!って降りて来なかったのか? そうすれば、マリヤも「処女懐胎」なんて誤解を招くような事を背負わなくても良かったし…、お腹が大きくなった時に死ぬ思いしてベツレヘムに長旅をする…なんてことも、しなくて済んだはずです。

また、どこにも居場所が見つからなくて、家畜小屋なんて侘しい所で出産…、そんな涙が出そうな惨めさも、味わう必要がなかったわけです。もしもイエス様が、どうしても赤ちゃんとして生まれたかったら、もっと立派な場所に、エルサレム宮殿なんかに堂々と生まれて来れば良かったんじゃないですか?

 でなければ、「赤ちゃん」なんて面倒な姿を取らないで、天におられたままの姿で「我こそは救い主だ!」ってお出ましになった方が良かったんじゃないでしょうか? その方が、全ての人に「救い主だ」と分かったし、羊飼いたちがわざわざイエス様を探しに行く手間も省けたはず。その方が、断然簡単で、良いことずくめになっていたんじゃないでしょうか…。

なのに、イエス様は、そんなふうにはしなかった。むしろ、面倒な道を選んで、遠回りをしている、と見えることを、敢えて、なさったように思えてしょうがないんです。まるで、新幹線に乗ればあっという間に着いちゃうはずなのに、わざわざ各駅停車の鈍行に乗って、何度も面倒な乗り換えしながら旅する…、そんな感じじゃないかと思うんです。

 それっていったい何のためでしょう…?「お金がない」んじゃないなら、それは普通、「ゆっくり走って、各駅停車で、一つ一つの風景をじっくり眺めて味わうため」です。だったらきっと、イエス様もそうだったんです。

 イエス様が遠回りしてこの世界にお出でになったのは、「そうすることによって、じっくり味わいたいものがあったから…、そうしないと、じっくり味わえないものがあったから」だった…。イエス様がそんなにまで、じっくりと味わいたいと思われたのは、いったい、どんなものだったんでしょう…?

 それは、「私たちのこの世の人生」というものだと思います。さらに言うなら、「この世の人生を生きている私たちの、様々な生ける苦しみ」…、そういうものだと思うんです。それを数えたらキリがない程がありますが、今日は、三つの点に絞って見たいと思います。



 救い主が「遠回りの降誕」で味わったもの…「いじめと拒絶」

それではイエス様は、「私たちのこの世の人生」の、どんな「生ける苦しみ」を味わわれたんでしょうか?

まず一つ目。イエス様は、ご自分のこの世の親となってくれたマリヤとヨセフ、この二人が背負った「生ける苦しみ」を、二人のすぐそばにいて、一緒に味わって行かれました。それは、「いじめ」とか「拒絶」と呼ばれる「苦しみ」です。たとえば、皆から、「なんだ、あいつら!」って白い目で見られて、悪口を言われて罵られる…、そういう「苦しみ」だったんです。

 なんで、マリヤとヨセフは、そんな「苦しみ」を味わったんでしょう? それは、マリヤがヨセフと結婚する前からお腹が大きくなっちゃったからですね。つまり、当時は絶対あり得なかった「出来ちゃった婚」をした…って思われたからです。しかも、誰の子か分からない…。「なんて不埒なマリヤ…。 ヨセフも、あんなマリヤとわざわざ結婚するなんて、お人好しを通り越して、おかしいんじゃないの?」って笑われる…。そうして「ナザレの如何わしい若夫婦」って、あちこちから後ろ指を刺される、そんな「苦しみ」です。

 もちろんそれは、「聖霊によって身籠った神様の奇跡」に他なりませんでした。ですが、そんなこと言っても、誰も信じてくれません。 それに、「救い主」だと知ったら命を狙って来る悪い奴もいるので、大っぴらには話せなかったんです。だから、マリヤもヨセフも、全く謂れのない「いじめと拒絶」を、ただただひたすら耐えるしかなかったわけです…。

更に、臨月を迎えたマリヤは、ローマ皇帝の住民登録の命令で、身重の体を百キロ以上もロバに揺られてベツレヘムまで旅をする羽目になりました。「なんてタイミング悪い話…」って思いません?これもまた、「この世の抵抗し難い力が、マリヤをいじめてる」、と見えませんか?

 ようやくベツレヘムに着いたら、「産まれそう!」って…、なのに、「こんな所でお産をされたら困る! お前らを泊める場所なんてない!」って、どの宿屋からも拒絶された…。実際、住民登録のせいで旅人だらけで、宿屋は一杯だったんでしょう。でも、もしかしたら、「ナザレのあの夫婦が来たぞ」って「いじめられた」っていうこともあったかも…と想像しちゃいます。だって、世の中は、時々それくらい酷いものになりますから…。

 

最近、あるニュースに、腹が立ちました。「福島から避難してる子どもたちが、避難先の学校で、未だにいじめられている」というニュースです。震災から5年も経って、放射能についての誤解も正されたはずじゃないですか? なのに、子どもの世界じゃ「放射能が移る」って、「ばい菌扱いされるいじめ」が未だにあるというんです。

 たとえば、学校の給食の時、班を作って机を付けようとすると嫌がられ…、教室に飾ってあった図工の作品に悪口を書かれ、鉛筆で突つかれる…、ある子どもは、そう話しています。しかも、誰が教えたのか「賠償金あるんだろ」って言われてお金をせびられ、怖いから、自分の家から何万円もくすねて渡していた…、そんな「恐喝いじめ」もあるというんです。

 「ばい菌扱いされて、放射能だと思って、いつも辛かった…。福島の人はいじめられると思った。なにも抵抗できなかった」って、いじめられた子どもが告白していました。これも、何の謂れもない「いじめ」じゃないですか? そういうものは残念なことに、いつの時代も、どこの国でもなくならないんです…。

でも、だからこそ、「この世の救い主」として来られたイエス様は、それを素通りしなかったんです。やがてイエス様も、大人になって公けの宣教を始められた時、もっと激しい「いじめ」を受けました。けれどもイエス様は、その「生ける苦しみ」を、この世に生まれた赤ちゃんの時から、私たちと共有して下さっていたんです。



 救い主が「遠回りの降誕」で味わったもの…「貧しさ、卑しさ」

二つ目に、イエス様が産み落とされた「飼葉おけ」と、そこにやって来た「羊飼いたち」から滲み出て来る「生ける苦しみ」があると思います。それは、「貧しさ」や「卑しさ」と言われるものだと思います。イエス様は、「貧しさ、卑しさ」という「この世の生ける苦しみ」を、生まれて早々にじっくり味わっていらっしゃった…。

「飼葉おけ」がある所…、それは「家畜小屋」でした。当時の「人が住む家」の中には土間があって、そこでもヤギを飼ってて「飼葉おけ」があったというんですが…、宿屋に入れてもらえなかったマリヤがお産をしたのは、たぶん、「人が住まない家畜小屋」だったでしょう。

 当時の「家畜小屋」は、町外れの洞窟を使ったものだったりしました。だから、寒さと暗さは、どうしようもなかったと思います。 しかも、「飼葉おけ」は、そんな洞窟の地面に彫った「石のくぼみ」です。そんな所に藁を敷いて、布に包んで寝かせた赤ちゃんは、「世界で最も貧しく侘しい、卑しい赤ちゃんだ」って、見えたんじゃないでしょうか?


しかも、そこに現れたのは、「羊飼いたち」です。マリヤとヨセフは、素晴らしい御告げを伝えてくれた彼らを、とても喜んだと思います。でも、当時の「羊飼い」は、いつも野原で羊と一緒で、決まった時間にお祈りすることも、「食べる前に手を洗う」教えも、守れなかったんです。今なら「うちの子にノロウイルスうつさないでよ!」って言われてしまうでしょう。

そんな彼らは「心も体も汚れている」と思われて、「裁判の席で大事なことを証言する」資格を認められない「卑しい奴ら」と見なされていたんです。

ところがイエス様は、そんな「羊飼いたち」の証言を、喜んで受け止められたんです。「この子は御使いが言っていた救い主だ!」という彼らのことばを、イエス様は「飼葉おけ」の中で喜んで聞いて下さったんです。まるで、「わたしは、あなたたちから、そう言ってもらっただけで、もう十分だ! わたしはこの世の誰よりも、あなたたちから、そう言ってもらいたかった!」って言っているみたいじゃないですか?

 こうしてイエス様は、「この世の貧しさ卑しさ」という「苦しみ」も、生まれた時からじっくり分かち合う歩みをして下さったんです。



 救い主が「遠回りの降誕」で味わったもの…「自責の念」

最後の三つ目。イエス様は、「私たちが抱く自責の念」という「生ける苦しみ」も、私たちと分かち合って下さっていたんじゃないか…と思わせられるんです。

 「自責の念」というのは、自分自身に何かの失敗や過ちの責任を感じて、自分で自分を責めてしまう気持ちです。 私たちはたぶん、そういう気持ちは、たくさん抱くでしょう。そしてそれは、私たちの「この世の生ける苦しみ」の中でも、最も深刻なものとなったりするんです。

イエス様は、一つの罪もない神様です。だから、「イエス様ご自身が、罪を犯して自責の念も持つ」ということは決してないんです。なのにイエス様は、「罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」(ヘブル書4章15節)とも言われているんですね。

「私たちと同じ試み」の中には、「私たちの自責の念」も、入っているんじゃないか…と思うんです。それを、どんなふうにイエス様は、味わって下さったんでしょう…?


神の御子イエス様は、「インマヌエルの恵み」、「神様が、我らと共にいます」という恵みを与えて下さる御方です。だから、イエス様を身籠ったマリヤは、一番その恵みに与って、「わがたましいは主をあがめ…」って讃美を歌ったわけです。だけど、マリヤを襲った「いじめと拒絶」の災難は、そもそもイエス様を身籠ったことが原因だったんです…。

 先週私たちは、マタイ2章を見ましたが、そこには非常に悲惨な事件が書かれていました。ヘロデ王がイエス様を「自分の王位を狙う者」と思って殺そうとしたんですね。イエス様は間一髪で逃れるんですが、怒ったヘロデ王は、イエス様がおられたベツレヘムの回りの2歳以下の男の子を、皆殺しにしたんです…。当時のベツレヘムの人口からすると、殺された子は20名はいただろう…といいます。

キリスト教会の最初の殉教者となったその子たちは、そもそもイエス様がベツレヘムで生まれなかったら、そういう目には遭わなかったんです…。「イエス様が悪いことをした」ということでは、決してありません。 ですが、これらの悲惨な出来事に、イエス様ご自身が関係していた…ということは、否定できないわけです。


やがて、大人になったイエス様は、ご自分が生まれた頃に起こった様々な悲しい出来事を知って、何を思われたのだろう…?って思うんです。 「わたしは何も悪い事はしていないから、何も感じません」、というでしょうか? そうではないと思います。むしろ、とても心を痛め、悲しまれたはずだと思います。「わたしと関わった人たちの中に、こんな苦しみがあったのか…」と、イエス様は、涙を流されたんじゃないかと思うんです…。

でも、このことは、「人間として生まれた以上、決して避けることの出来ない、地上世界の因果関係」というものじゃないでしょうか? 私たちは、この世に存在しているだけで、良い影響も与えれば、悪い影響も与えます。「誰かが私のせいで苦しむ」ことは、人間として生まれた以上、実は、誰も避けられないんですね。だから、全ての人が、何らかの「自責の念」を必ず持っているはず、なんです。


今月も、東松島に行って、震災後、高台に新しくオープンした市民センターで、第6回目の「クリスマス・カフェ・コンサート」を行いました。70名もの地元の方が来られて感謝だったんですが…、あの被災地で、そういう場所にもなかなか来れなくて、ずーっと沈んだ心でおられた方もいます。それは大概にして、「私のせいであの人、この人を死なせちゃった」という「自責の念」で苦しんでいる方です…。

 でも、私は思います。「イエス様は、そういう『生ける苦しみ』も、私たちと一緒に分かち合って下さったんだ」って…。「クリスマスの物語に織り込まれている『涙の出来事』は、そういう出来事だったんだ…」って思うんです。



 何のために救い主は、私たちの人生を味わわれるのか?

救い主なるイエス様が、この地上で暮らす私たちの人生の「生ける苦しみ」を、たっぷり味わうようにしてこの世界に誕生された…、それが、クリスマスだった…、そのことは分かりました。けれども、いったいイエス様は、何のために、そんなふうにされたんでしょう?  

何のためにイエス様は、私たちの「この世の人生の生ける苦しみ」の真っ只中に、降誕して下さったんでしょう…?

 皆さんは、缶コーヒーはお好きですか?サントリーの「BOSS」という名前の缶コーヒーがあるんですが、そのテレビCMに、ハリウッドの大物映画俳優のトミー・リー・ジョーンズさんが10年前から出演しています。 私はそのおかしなCMが大好きで、いつも笑って見てるんですが、内容は、ざっとこんな感じです。「ある惑星からやって来た宇宙人ジョーンズが、この地上の世界で、いろんな職業を転々としながら、未知なる地球を調査する」…、そんな奇想天外なお話です。

 因みに、これまでCMで、宇宙人ジョーンズさんがどんな職業を体験して来たかというと…、工事現場の土方、農家の手伝い、コンビニ店員に警備員、ラーメン屋の主人にタクシー運転手、学校の先生、お医者さん、宅配便の配達員に回転ずしの店員など…、全部で50以上の仕事をやってるんですね。そして、宇宙人ジョーンズは、そういう職業をしながら、この地球っていう世界の「ほろ苦い現実」を発見しては、缶コーヒーを飲みつつ、こうレポートするんです。

「この惑星の住人は、どこか抜けている…」

「この惑星の住人は、物欲に支配されている…、景気が上がると、すぐ調子に乗る…」

「この惑星の住人は、働くという行為に取りつかれている…、

しかも、疲れることが嬉しいらしい」などなど。

 つまり、宇宙人ジョーンズさんは、「この地球っていう世界で生きる人間たちには、どういう人生があって、どんな『生ける苦しみ』を抱えてるか?」ってことを、実地調査するためやって来てるんです。そのために、自分自身も「この世の人間たちの人生」の真っ只中に身を置いて、それを一緒に味わってる…っていうことです。


ですが、イエス様は、ただ単に「調査するために」やって来たんじゃないんです。この世で生きている私たちを、この地上のあらゆる「生ける苦しみ」から救い出し、究極の救いの世界に解放して下さるためにこそ、天よりお出でになったんです。

新約聖書、ヘブル人への手紙2章14-15節。

 「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯 死の恐怖につながれて奴隷になっていた人々を解放してくださるためでした。」

 私たちは皆「血肉の体」を持っているので、イエス様も同じように「血肉の人間の体」をお持ちになった…、これはつまりクリスマスのことを言ってるんですね。それは、何のためだったのか?

それは実は、私たちと同じ「人間の体」を持たれたイエス様が、その体を通して、私たちと同じように「この世の生ける苦しみ」をつぶさに味わい、その上で、十字架に架かって死んで下さるため、だったんです。

そして、それによって「死の力を持つ悪魔という存在」を滅ぼし、「一生涯、死の恐怖につながれていた私たち」を解放する…、つまり、人間を「死の恐怖」に追いやる「この世の生ける苦しみ」の中から、究極的に救い出して下さるため!、と言っているのです。



まとめ 「雑巾がけの雑巾」となられた救い主

今月、教会のクリスマス・コンサートの前に、教会の床をワックス掛けしました。ワックス掛けの前に、床の汚れを取るために、「雑巾掛け」もしたんです。雑巾を取り替えるのが面倒だったんで、一枚の雑巾だけで、床全部をゴシゴシしました。そうしたら、真っ白だった雑巾が、見事に真っ黒になったんです。一年分の汚れなんで当然ですが…、私はその雑巾を、洗うのが面倒なんで、ポイッと捨てるんです。「勿体ない」って怒られそうですが、でも、洗ったってどうにもならないくらい、真っ黒になっちゃうんです…。

イエス様がこの世に来られてして下さったことはまさに、その「雑巾掛け」のようことだったんです。イエス様は、教会の床より真っ黒なこの世界にお出でになって、「私たちの人生の真っ黒な生ける苦しみ」を、「雑巾掛けする」みたいに、つぶさに舐め回して下さったんです…。そしてその「真っ黒な生ける苦しみ」を、ご自身の中にすべて吸収して下さった上で、十字架で死んで下さったんです。

 何のために…?  

私たちを、「この世の真っ黒なもの」から、永遠に解放して下さるためにです。そのために、イエス様ご自身が「雑巾掛けの雑巾」になって、「この世の人生の真っ黒なもの」を全部ご自身の中に吸い取って、十字架の上で、それら一切の「のろいの力」を滅ぼし尽して下さるため…だったんです。

だとしたら私たちは、どれだけの感謝をもって、この「イエス様のお誕生」をお祝いしないといけないことでしょうか。そうして、この救い主を、どれだけの喜びをもって「この私の人生」にお迎えしないといけないことでしょう。

 願わくは、このイエス様に、「私が必死に背負っているもの」を、つぶさに味わい知っていただく…、そういうクリスマスを、皆さんでお迎えしたいと思います。


by sagaech | 2016-12-18 20:39 | 礼拝メッセージ
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