人気ブログランキング | 話題のタグを見る

教会のご案内

歓 迎 
ようこそ寒河江キリスト教会へ
教会のご案内_f0238747_17083737.jpg

保守バプテスト同盟 
  寒河江キリスト教会
(2022年度、
山形第一聖書バプテスト教会から
自立しました) 

牧師: 津嶋 理道 (つしま まさみち)

住所:〒991-0043 
山形県寒河江市大字島字島東72
TEL:0237-85-6255
FAX:0237-85-0335
教会や聖書に関心のある方は、
上記まで直接ご連絡ください。

主日礼拝
 毎週(日)午前10:45-11:45
どうぞおいでください


それぞれの項目をクリックしてみてください

集会のご案内
礼拝メッセージ
日曜日に礼拝で牧師が語る聖書のお話

チェリーキッズ(小学生以下の子ども会)
毎月1回土曜午前に行われる小さな子どもたちの会

チェリーキッズJr. (中学生・高校生の会)
毎月1回日曜日の午後に行われる中学生・高校生の会

サンデーキッズ(教会学校)
毎週日曜日の朝に行われる子ども会

その他にもいろいろな集会を行っております。
くわしくはこちらをご覧ください。
*集会は変更もありますので、
 ご一報ください。




# by sagaech | 2023-12-01 16:56 | 歓迎

献堂記念&クリスマス・コンサートをします

昨年の11月3日、献堂式を行いました。
それから1年間、
たくさんの恵みを頂いて歩んできました。
今年、
献堂1周年とクリスマスの恵みに感謝して
4年ぶりのチャペルコンサートをします。

かつて、
旧会堂で初めて行ったコンサートにご出演し
ずっと励まして下さった
柳瀬洋&佐和子ご夫妻の讃美演奏です。
ぜひ、お越しください。

11月25日(土) 午後6時30分開演
前売券 1000円(小中学生500円)
当日券 1200円(同   600円)
*教会にご一報ください。
*駐車場は、十字架塔の場所です。
(お間違いのないよう、お願い致します)

献堂記念&クリスマス・コンサートをします_f0238747_10172055.jpg

# by sagaech | 2023-11-10 10:16 | イベント

信じることが、お手上げになった時

                             2023.10.22

 「信じることが、お手上げになった時」

             マルコの福音書521-43節 


 「もう信じられない」となった時…

 ところで皆さんが、仮にもし、この世の中のいろんな厳しい現実、困難に押し潰されて、「ああ、もうダメだ…」となってしまったら、そういう時に皆さんはどうしますか? そんな時に、皆さんの希望はいったい、どこにあるんでしょう…?

 感謝なことに、ある人たちは、そういう時には思い切って教会の門を叩いたり…、普段は読まない聖書を読んでみたりします。そしてその時に、多くの人が、この聖句に出会うんです。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイの福音書11章28節)と仰るイエス様のみことばです。

 そして、「ああ、なんて有難い!私の希望はきっとここにある!」と慰められる…、そういう方が少なくないんじゃないかと思うんです。

私たちは皆、この世の中で「もうダメだ」となった時、救い主イエス様の中にこそ、この世の中では見つけられなかった希望を見出させてもらった…、そういう者たちなんですね。 だから、こうして教会に来てるんです。

 けれども、そうやってイエス様を信じる歩みを始めた私たちは、それで、すべてがうまく行って万々歳で終わるのか?…というと、そうではないんですね。私たちの人生に見舞う困難は、簡単ではないからです。次々と新しい試練が襲って来たり…、いつまでも同じ問題に振り回されて出口が見つからない…ってことが、しばしば起きちゃうからなんです。

 そうすると私たちは、せっかく「もうダメだ」と思って、藁をも掴む思いでイエス様を信じたはずなのに、そのうち「もうダメだ」「もう信じられない」という呻きに変わってしまうんですよ…。そして、何だか裏切られたような気持ちになって、絶望感だけが残っちゃう…ってことがあるんじゃないかと思うんです。

 では、それならば、そういう私たちには、いったいどこに希望があるんでしょう? それとも、そうなったらもはや、どこにも希望は無いんでしょうか?   

将棋の話で言うと、藤井八冠と戦って詰んでしまった将棋の対局みたいに「まいりました」と諦めて、自分の人生を投了しないといけないんでしょうか? 実は、今日読んだお話は、そんな私たちへの神様からの答えが書かれてるんですよ。


 「もう、信じられない…」となったヤイロ

 ここに、ヤイロという人が登場いたします。実は彼は、ある必死の願いを抱えてイエス様の所にやって来たんですね。そして、恥も外聞も投げ捨てて、イエス様の前にひれ伏したわけなんです。

というのは、このヤイロは会堂司であって、立場上はイエス様に敵で、地位も名誉もあった人間だったんですね。だけど、「そんなことは、もう、どうでもいい!」ってくらいにヤイロは行き詰ってたんですよ。

なんと、まだ12歳の可愛くてしょうがない自分の娘…、文字通り「目に入れても痛くない最愛の娘」が、病で死にかけていたんです。それで、藁をも掴む思いでヤイロはイエス様の前に頭を下げに来た…。そして、「私の小さな娘が死にかけています。娘が救われて生きられるように、どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください!」って一生懸命に懇願したんですよ。

 すると、感謝なことにイエス様は二つ返事で立ち上がり、一路、ヤイロの家へと急いでくださいました。この時ヤイロは、どれだけ有難かったことでしょう。

 「ああ良かった、これで何とかなるぞ! どんな病も癒すイエス様が来て下さるんだから、きっと娘は助けてもらえるはずだ!  ただ、あとは、間に合うかどうかだけだ…」って。だから、ホッとしつつもヤイロは「急がなきゃ!」と焦ってたんですね。救急車でもあったらイエス様を乗せて、サイレンでも鳴らして突っ走りたい…って感じだったんですよ。

 ところがです。イエス様が歩き出したらなんと、大勢の群衆が「金魚のフン」みたいにくっ付いて来たんですね。そうして、道を開けて欲しいのに道を塞いじゃう…、だから、気が気でなかったと思うんです。

 しかもそんな中、こともあろうに当のイエス様までが、突然、足を止めてしまいました!

そして、「だれがわたしの衣にさわったのですか?」(マルコ5章30節)としきりに辺りを見回し始めちゃったんです。「イエス様、こんな時に何をやってんですか!」とヤイロは、さぞかしイライラしたと思いますね。

 だけど、そうしてるうちに今度は一人の女性が進み出て、不思議なことを話し出したんです。「私は、十二年間も婦人病の長血の病を患っていて、酷い医者から散々ふんだくられた上に、ますます悪くなってしまいました。ところがその病が、イエス様の衣に触った途端、たちどころに癒されちゃったんです! それも、ひっそり隠れて、そっと触っただけなのに…」って。

 というのも、当時のユダヤでは、長血の病は「汚れた病」とされていて、人に触るのはご法度だったんです。というか、そんな彼女はいわば「汚れた存在」そのものであって、到底イエス様の前には出られる者ではない状態だったんですよ。

「でも、私にはもう、イエス様にお縋りするしか道はありませんでした。それも精々イエス様の衣に密かに触ることだけでした。ところが実際やってみたら、直ちに癒されてビックリしたんですが、直ちにイエス様にもバレちゃった!  だから、どんなに叱られるか…と思ってビクビクしてたんです。」…、そういう打ち明け話をしたんです。

 これもまた、とっても重たい話じゃないですか? ヤイロの娘は僅か十二歳で死の床にいて、この女性は十二年間も特殊な病に打ちのめされて来た…。どちらも、決して軽い話じゃありません。だけど今、彼女はついに癒されて、その苦難の中から見事に解放されたんです!

 けれども、これはやっぱりヤイロにとっては「あとにしてくれよ!」って出来事だったに違いないと思いますね。「せっかくイエス様を捕まえたのに、間に合わなくなる!!ってパニックになりそうだったと思うんです。

 そして、ようやく再び歩き出した時、最悪の知らせが届いてしまったんです!「お嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか」(マルコ5章35節)って…。

 たぶん、私がヤイロだったら発狂してたと思いますね。「どうしてだ? せっかくイエス様を連れて来て『これで娘は助かった』と思ったのに…。私がイエス様を信じたことは無駄だったのか…? もう、何にも信じられない! 今の俺には『絶望』の二文字だけしか残っていない!」って…。 


 「自分の信仰」にではなく、「主の真実」に寄り頼む

 さて、いかがでしょう? 皆さんは、この時のヤイロのようになったことがありますか?  これは「信仰の危機」であって、「信じることがもはや、お手上げになる」ってことなんです。宗教に限った話じゃないですが、人は一般に「希望というのは、信じた先にある」って考えるんですね。だから、スポーツの世界では盛んに「信じろ!」って選手を励まします。「『信じる力』があれば勝てる! 勝利の希望は『自分の信じる力』で掴み取るものなんだ」って思うからなんです。

 ところが私たちは、「自分の中にはもはや『信じる力』が失せちゃって、『信じる』ってことを考える気力さえも無くしちゃう」ってことが起こって来るんです。 特に、一旦「信じた」あとで「信じること」に躓いた場合は、よっぽど酷くなるんです。

その結果、私たちは、どこにももはや「希望」を見つけられなくなっちゃって…、見つけられるものはただ「絶望」だけ…ってふうにもなってしまうんです。

 ところがです。ところが、そんなふうになりそうだったヤイロのために、この時イエス様は、間髪入れずにこう仰られたんです。 「恐れないで、ただ信じていなさい」って…。

 ルカの福音書では、「そうすれば、娘は救われます」とも言っています。しかもイエス様は、「お嬢さんは亡くなりました」って知らせを敢えて無視するかのようにして、「ただ信じていなさい」ってヤイロにお語り下さったんですよ…。

 このイエス様のみことばは、どうでしょう…、なんて慰められることばじゃないですか? 「もうダメ、信じる気力も出て来ない」って時に、すぐそばで力強く「恐れないで、ただ信じていなさい」って囁き掛けてくださることばを聞ける…、それは、なんて幸いで有難い話じゃないでしょうか!

 私は、きっとヤイロも、そう感じていたに違いないと思います。「もはや、何もかにもが無駄になった」とヘナヘナと崩れ折れる「絶望の真っ暗闇」に、ふっと天より差し込んだ「一条の希望の光」…。これはまさに、そういう恵みだったんです。

 けれども、この「恐れないで、ただ信じていなさい」ってことばは、果たして、どういう意味だったんでしょう?  イエス様は、どういう意味で「ただ信じていなさい」って仰られたんでしょう? スポーツ選手のコーチのように「いいかヤイロ、簡単には諦めるなよ! おまえが持ってる『信じる力』を最後の最後まで出し尽くせ!!と、活を入れて叱咤激励された…、そういうふうなことだったんでしょうか?

おそらくは、そうではないと思うんです。もしもそうならこれは、「信仰的な虐待」になりますもん。だって、一生懸命に信じる努力をしたのに出来なかった本人に、「まだまだ足りない! もっとおまえの信仰を絞り出せ!」って尻を叩いてるんですね。それは「昭和のスポコン精神」じゃあるまいし、あまりに無茶な話だからですよ。

じゃあ、それならば…、イエス様は、本当はどういう意味で「恐れないで、ただ信じていなさい」と仰せられたんでしょう?  たぶん、それはこういう意味だったんです。「ヤイロがこの時まで、自分の努力によって一生懸命に頑張って絞り出してた『自分の信仰』…、『自分自身の信じる力』と言ってもいいようなもの…。そういうものはここで、すっかり脱ぎ捨てて、ここからは『本当の信仰』でやって行くんですよ!」 そういう意味だったんです。

 ヤイロがこの時まで頑張って絞り出してた信仰…、それは言わば「自分自身の信仰」だったんですね。自分自身の精一杯の努力によって信じ抜ぬく…、スポーツ選手の「信じる力」みたいな信仰だったんです。

 だけど、そういう信仰は、必ずどっかで行き詰ります。それは「本当の信仰」じゃないからなんです。それでイエス様は、そういう信仰ではどうにもやって行けなくなったヤイロを「本当の信仰」に招いて下さった…、そういうことなんだと思うんです。

 でも、それならば、その「本当の信仰」というのは、果たしてどういう信仰なんでしょうか? それは「『自分自身の信じる力』でもって救いを勝ち取る」ような信仰ではなくて、「神様の真実にこそ寄り頼む」…。『自分自身の霊的ど根性みたいな力』は、むしろ抜いちゃって、ただただ『イエス様ご自身の変わらぬ真実』に、身を預けるようにして、ひたすら寄り掛かる」…、そういうふうな信仰なんですよ。

 イエス様の「ただ信じていないさい」ってことばを聞いた後、ヤイロはどうして行ったんでしょう? 聖書は詳しくは語っていませんが…、おそらくは、それまでとは違った歩み方をして行ったんだと思います。

 それまではたぶん、ヤイロがイエス様を「こっちです! 早く早く!」と引っ張って連れて行ってたんだと思いますね。けれどもそこからは、ヤイロはもはや、連れて行くどころか一人じゃ歩けなかった…、いや、立ち上がれなかったでしょう。そんなヤイロをむしろ、今度はイエス様の方が抱きかかえて歩かせて下さった…、そういう感じだったんじゃないかと思うんです。

 皆さんは、「宅急便のクロネコヤマト」のマークを知っていますよね。「親猫が、子猫を口に咥えて大切に運んでるマーク」です。「そんなふうに皆さんの大事な荷物を大切にお届けします」って、このマークは謳ってるわけなんです。

 私は思うんですが、ヤイロは最初このマークのように「自分が『親猫』になって、『子猫』のような大事なイエス様を娘の所まで、しっかりと運ばなきゃ!」って頑張ってたんだと思うんです。

 ですが、「お嬢さんは亡くなりました」って知らせを聞いた時から、その立場が逆転したんですよ。つまり、ヘナヘナとなって「自分の信じる力」じゃ一歩も歩けなくなった「子猫」のようなヤイロを実は、イエス様が「親猫」になって優しく咥えて運んであげる…、そういうふうになったんです!

 そして、その姿は、とっても大事な事実を私たちに教えてくれてるんですね。それは、「私たちの救いとは、『私たち自身の信仰』が、いかにしてイエス様を私たちの問題の中に連れて来れるか否かに掛かっている…というわけではない」ってことなんです。

むしろ、逆なんです。「私たちの救いとは、『イエス様ご自身の真実』が、いかにして私たちを、神様の救いの中まで連れて行ってくださるか…にこそ掛かってる」んですよ!

 つまりです、「私たちの信仰」がお手上げになった時は「イエス様の真実」の出番なんです! …と言いますか、「信仰」とは、そもそもそういうものなんですよ。

「自分はお手上げだ」と悟った私たちが「イエス様の変わらぬ真実」に、ただ身を預けて寄り掛かる…。それこそが聖書が言ってる「信仰」なんですよ!!

 そして、そういう「信仰」で歩ませてもらったその先に、ヤイロは、最初にイエス様に懇願した通り、自分の死んだ娘をなおも「救われて生きられるように」していただいちゃったわけなんです。


 しかしなお、「あなたの信仰」が励まされている

 ただしです。イエス様はヤイロの目の前で、長血を患う女性に、こうお語りくださったはずではないですか? 「あなたの信仰があなたを救ったのです」ってです。「あなたの信仰が」と仰ってイエス様は、彼女を励まされたはずなんです!

 だったら、これはいったい、どういうことなんでしょう? やっぱりイエス様は「『あなた自身の信じる力』が大切なんだ! あなたの救いは『あなた自身が、どれだけこのわたしを信じられるか』に掛かってるんですよ」と言われたんでしょうか?

 いいや、そうではないんです。だったらイエス様は、このことばで、どんなことを教えようとされたんでしょう? 最後にそのことをお話しさせていただきたいと思います。

 皆さんは、「自分の服に誰かが後ろから、ちょっと触ったこと」って分かります? 私はたぶん、誰かが私の背中に「私はバカです」と書いた紙を貼っても分からないと思います。 

ところがイエス様は、大勢に紛れて、ちょっと触っただけの彼女の「信仰のアクセス」を、しっかりとキャッチされたんです! つまり、どんなに「かすかなもの」であってもイエス様は、イエス様を求める「あなたの信仰」を、しっかりと分かってくださるんですよ。

 そして、それを示すためにイエス様は不思議なことをされました。ご自分の衣に触れた彼女を、敢えて探し出そうとされたんです。

もしも彼女が癒されて、イエス様もそれに気付いたとしても、べつに、わざわざ探さなくてもいいと思いません?  癒されたのなら「ああ良かったね!」と、そのまま立ち去らせてもいいんじゃないですか?

ところがイエス様は「だれがわたしの衣にさわったのですか?」と辺りを見回して、しつこく見つけ出そうとされたんです。しかも、そばには「早く早く!」と焦るヤイロを待たせているのにです…。

 ですが、そこにはイエス様にとって、どうしてもスルーできない大切な目的があったわけなんです。イエス様は、彼女に何としても言ってあげたかったんですよ。「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」って…。

本当はイエス様は、「わたしの力があなたを救ったのです」と言っても良かったはずなんです。だけど、それより「あなたの信仰があなたを救ったのです」と仰った…、それは、こういうことを彼女に教えたかったからなんです。

 「いいですか、あなたの癒しは、たまたま運良く起こったわけではないんですよ。たとえ、ほんの少しわたしに触れただけだとしても、あなた自身が心からわたしを信じて寄り頼んだ…、その結果が、この癒しだったんです! だから、わたしを求める『あなたの信仰』を決して侮ってはいけません!諦めてもいけません! それは決して空しい骨折り損では終わらないんですよ!!…、そうイエス様は、彼女に…、そしてヤイロや私たちに教えたかったんです。

 先ほど私は、クロネコヤマトのマークを使って、「『本当の信仰』とは、私たちが『子猫』になって、イエス様に『親猫』になってもらうことなんだ」って話しました。けれどもそれは、「『子猫』の救いは『親猫』の気まぐれでどうにでもなるんだ。『子猫』が『助けて、ニャーニャー!』と叫んでも、『親猫』は知らんぷりしてるかも」ってことではないんですね。

 むしろ、「どんなに、か弱い声でも『親猫』は、『子猫』の声はしっかり聞いて飛んで来ます! だから、『親猫』ならぬイエス様を叫び求める『あなたの信仰』は、決して空しいものではありません! むしろ、その『あなたの信仰』があなたを救うんです!」…、そういうことなんです。


 私の学生時代の証し

 私がまだ20代の大学生だった頃、私も実は、今日のヤイロみたいになったことがありました。ヤイロほど深刻じゃありませんが、当時の私には「人生で最悪の体験」だったんです。

 それは、大学時代を鬱状態で過ごした私が、何度も留年を重ねた挙句、とうとう期限切れで大学を辞めないといけなくなった出来事だったんです。

 当時、私は既にイエス様を信じて、親にも内緒でバプテスマも受けておりました。青森で高校生だった頃から「どん底の鬱」だった私は、「唯一の救いの望み」をイエス様にかけて、藁をもすがる思いで信仰を持ったんです。そして、山形大学にギリギリ引っ掛かって合格し、山形で独り暮らしを始めてからは教会にも熱心に通って来たんです。

 ですが、大学側から「もう、あなたは、ここにはいられない」と最後通知を突き付けられた時…、よ「目の前が真っ暗になって、頭の中が真っ白になる」と言いますが…、それは単なる比喩ではなくて文字通りそうなるんだと、人生で初めて体験させられちゃったんです。

なにせ、これからどうしていいのか、さっぱり分からなかった上に、親にもなんと説明したらいいのか分からない…。しかも、私の親は私の信仰に反対してたので、「キリスト教にカブレたからそうなったんだ!」と怒り狂うのが見え見えだったんです。

それで、その時に私が思ったことは、こういうことだったんです。「もう信じられない! 信じる気力もなくなった…。イエス様を信じることはやめにしよう」

 ですが、結果から言うと、そうはならなかったんですね。それどころか今は、こうして牧師にまでなっちゃってるんですよ! なぜでしょう? そのわけは、私も今日のヤイロのように「恐れないで、ただ信じていなさい」と御声を聞かせてもらったからだったんです。

 もちろん、イエス様から直に聞いたわけではありません。けれどもイエス様は、そんな私を心配して、私のために祈ってくれた他の方々を通して「恐れないで、ただ信じていなさい」って語り掛けて下さったんだなあ…って思うんです。

 特に、今もこの教会で、私の大切な同労者となって下さっている執事長のNさんには、本当にお世話になりました! 自暴自棄になってた私を、しばしばドライブに連れ出して下さっては、自分では聖書を開けなくなってた私のために、聖書のみことばを読んで祈って下さいました。そういう中で私は、クロネコヤマトのマークのように、「親猫」のイエス様に運んでもらう「子猫」のようにしてもらって来たんだなあ…と、しみじみに思うんです。


まとめ 

 ですから私は、皆さんにもぜひ、お勧めしたいんです。「恐れないで、ただ(イエス様を…、イエス様の変わらぬ真実を)信じてまいりましょう!」って…。

 そうして、いつの日か、「あなたの信仰が あなたを救ったのです」とイエス様から言ってもらえる日が来ることを、ぜひご一緒に待ち望ませていただきたいと思います。





# by sagaech | 2023-10-29 17:25 | 礼拝メッセージ

秋の特別講演会のご案内

秋の特別講演会のご案内_f0238747_18595965.jpg
寒河江キリスト教会にて、
秋の特別講演会を行います。
キリスト教の土台である聖書のお話を
わかりやすく聞くことができる講演会です。
初めての方、教会や聖書のことを聞いてみたい方、
新しくなった教会の中を見てみたい方、
ぜひおいでください。

講師:大友幸一 牧師
保守バプテスト同盟
 塩釜聖書バプテスト教会牧師

10月28日(土)
午後2時~3時半頃まで
第1講演 「神を見出す人生」
聖書「使徒の働き」17章24-28節より
★講演の後、ささやかなティータイムもあります。
 お時間のゆるす方はぜひどうぞ!

10月29日(日)
午前10時45分~12時頃まで
第2講演(日曜礼拝)「この方以外には」
聖書「使徒の働き」4章10-13節より
★礼拝の後、ささやかな昼食会もあります
 お時間のゆるす方はぜひどうぞ!

駐車場は、十字架塔のある所です。



# by sagaech | 2023-10-25 18:23 | イベント

神の召しに生きる私たち

(教会の中に、神の家を建て上げよう)17          2023.10.8

 「神の召しに生きる私たち」

            テモテへの手紙第一118-20節 


 「神の召し」を与えられてる私たち

 ところで、私たちキリスト教会は「神の家族とされた者たち」なんですが、そんな私たちは、「この世の他の集まり」と比べて、いったい何が違うんでしょう?

そりゃあもちろん、「イエス様を信じる信仰があること」が一番違います。だけど、さらに言うと、こういう違いがあると思うんです。それは、「『神の召し』というものをメンバー全員で一緒に共有している」ってことなんです!

 なぜなら「教会」とは、元々のギリシャ語では「エクレシア」ということばであって、その意味は「神様から召し集められた者」ってことなんです。また、「神の召し」とは「神様から特別な使命のために呼び出されている」ということなんです。

 「この世の集まり」は、そういうものとは無関係ですが、「神の家族である教会」は「神の召し」を受けた人たちの集まりなんですね。それが決定的に違うんです。

 実は、今日の箇所も、「召し」ということば自体は出て来ませんが、「神の召し」がテーマになっています。18節で、パウロはテモテにこう言いました。「私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言にしたがって、私はあなたにこの命令を委ねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と健全な良心を保ち、立派に戦い抜くためです。」

 ここの「預言」ということばは、「神様がテモテを特別な使命に召し出すために語られたみことば」のことだったんです。

 でも、それならば、テモテが頂いた「神の召し」とはいったい、どんなものだったんでしょう? 残念ながら、聖書は詳しい話を何にも語っておりません。ですが、パウロはこう言いました。「私はあなたにこの命令を委ねます。…… それは、あなたが…、信仰と健全な良心を保ち、立派に戦い抜くためです」と。

 「この命令」とは1章5節でも語られていますが、それは「『神の家族』を正しく治めて建て上げるための命令」でありました。そうすると、テモテに与えられたのは「牧会者、牧師としての神の召し」だったんです。

 ですが、「神の召し」というものは、牧師になることだけではありません。むしろ、いろんな種類の「召し」があるんですよ。そして、もしも私たちが「神の召しを共有している者たち」だとしたら、私たちは誰もがそれぞれに、自分にとっての何らかの特別な「召し」を神様から頂いているはずなのです!

 それじゃあ、皆さんは、どんな「神様の召し」を頂いていますでしょう? 「皆さんが、神様と、神の家族のために…、また、将来、神の家族とされる人たちために、神様から召されている使命」とは、どんなことだと思います?

 もしもまだ、そういうことを考えてみたことがなかったとしたら、ぜひとも神様に祈って尋ねてみて下さい。なぜなら、それはきっと皆さんに「とっても確かな生き甲斐と、感謝と、喜び」を、たっぷりと与えてくれるからなんです。

 「私たちに『神の召し』がある」ということは、私たちにとって、どういう意味があるのでしょう? ある人は、「神の召しなど、有難くない」と思うかもしれません。「頼んだわけでもないのに、一方的に面倒な使命なんてものが与えられるのは傍迷惑だ! 私はもっと好きなように生きて行きたい! だから、『神の召し』なんて要らない、ほっといて!」って…。 だけど、本当にそうなのでしょうか?

 むしろ、自分の人生に「召し」と言われるものが何にもないとしたら…、実は、それくらい空しいことは他に無いのじゃないでしょうか? というのは、「神の召しがある」とは言い換えると、こういうことだからなんです。「私には、天地の絶対者である御方から、この世のどんなことより尊い務めを勿体なくも期待されている。神様は、それほどこの私を信頼して期待してくださっている」ってことなんですよ! 

 そうして、それは私たちに「この世のどんな真っ暗闇の中にあっても積極的に生きられる希望」を与えてくれるんです。だから、それは私たちに「確かな生き甲斐と、感謝と、喜び」を与えてくれるわけなんです!

 一方で「神の召しがない」とはその反対に、「私は何にも期待されていなくて、私の人生には何の意味も、生きてる価値も無い」という虚しさに繋がってしまうんです。

私たちはそのことを、この世の中で、どんどん成功して行って、何でも面白おかしく暮らしていられる間は、なかなか気付きません。そうしてある日、そういうふうにはもはや生きて行けなくなった時になって、初めて悟らされるんです。

 ですから皆さんも、そんなふうにはならないうちに、「自分自身の召し」というものを、ぜひとも神様から教えてもらって欲しいんです。


 「神の召し」とは、どのようなものなのか?

 でも、それならばです。「神の召し」とのは、具体的にはどういうものなのでしょうか? たとえば、ある人は、テモテやパウロのように「牧師や伝道者としての神の召し」が与えられています。けれども、ある人は、牧師や伝道者以上に大勢の人に、いつでもトラクトを配ってイエス様をお伝えする…、そういう「神の召し」を与えられています。

 また、ある人は、たっぷり時間を割いて誰かのために神様にお祈りする…。それが「私の召し」だと受け止めています。

 また、ある人は、礼拝の奏楽や賛美のために音楽の賜物を精一杯に献げてる…。

 ある人は、パソコンを使ったデスクワーク…。ある人は、教会の様々な設備の管理や掃除…。ある人は、子どもたちのためにメッセージや遊びの準備…。ある人は、高齢者を車で送迎することに忠実に励んでいる…。それらはどれも、とっても素晴らしい「神の召し」なんです!  

 ただ、他にも私たちは、毎日、職場や家庭で過ごしてます。そこで一緒に過ごす人たちのために、自分のことばや振る舞いを通して「地の塩、世の光」となってお仕えする…、そういう「神の召し」があるんです。

 職場では、同僚やお客さんに誠心誠意向き合って…。家庭では、子どものケアや、親の介護に精一杯の愛と祈りをもって仕えて暮らす…。そうやって、私たちが置かれた現場に「福音」を満たして「神の国」をもたらして行く…。それは、私たち「イエス様を信じる全てのクリスチャン」に等しく与えられてる「神の召し」なんです! 

 だから、皆さんにとっての「神の召し」も必ずあるんですね。いや、むしろ、皆さんにしか出来ない特別な「神の召し」があるんですよ…。


 この教会に以前出席されていた教会のメンバーにIさんってご高齢の婦人がおられます。今はもう90歳を過ぎて施設に入所されてるんですが、そんなIさんがこの教会でバプテスマを受けられたのは、80歳になる少し前でした。ただ、お年もあって「自分は教会で何にもお役に立てることがない」と、いつも申し訳なさそうにしておられたんです。それで私たちは、「いえいえ、元気で教会に来て下さるだけで、十分に尊いご奉仕ですよ」って励ましてたんですね。

 そんなある日…、その頃、教会では礼拝後に毎週お食事会を開いてたんですが…、ある時、皆が忙しくなって食事の用意をするため台所に立てる人が誰もいなくなったことがあったんです。その時に、思い切ってIさんにお願いしたんですね。「すみませんが、これこれの食材を包丁で切っておいてくれませんか?」って…。そうしたら、喜んで台所に立って下さって、それがまた見事な包丁さばきだったんです!

 というのも、Iさんは昔、ある高校の寮に勤務されて、大勢の学生たちに毎日食事を振る舞う仕事をなさっていたんです。それで、「昔取った杵柄だ」と仰って、それ以来、何にも言わなくても自ら進んで台所に立って下さるようになったんです。

こうしてIさんは、台所仕事を「教会での自分の召し」のように受け止めて、膝が悪くなって「もう無理だ」となるまで頑張って下さいました。たとえば、そういうふうな「神の召し」もあるんですよ。

 それじゃあ、皆さんはどうですか? 皆さんは、神様からどんな「お召し」を頂いていると思いますでしょう?


 「神の召し」は、「みことば」と「神の家族」に根差してる

 ただしです。その時に一つ覚えておいて欲しい大事なことがあるんですね。それは、「『神の召し』とは単に『私がこうしたいと願ってること』でもなければ、『他の人から、こうしなさいと言われたこと』でもない」ということなんです。むしろ、「神の召し」とは文字通り、「神様ご自身から『あなたは、こうしなさい』と命じられて託されたこと」なんです!

 というのは、そうでなければ私たちは、何か非常に難しいことが起こった時に、簡単にその「召し」を放り投げてしまう…というふうになりやすいからなんです。

じゃあ、それならば、どんなに難しいことが起こっても、それでもなおも「神様の召し」にしっかりと立ち続けられるための「確かな根拠」とは、どこから生まれて来るんでしょう?

それはです、「この『召し』は、神様ご自身から命じられて託された大切な使命なんだ!」という確信の中から生まれて来るんです。そうして、その確信は何よりも「神様のみことば」によってこそ与えられて来るものなんです!

 今日の18節で、パウロはテモテに「預言」ということばを語りました。「私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言にしたがって、私はあなたにこの命令を委ねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と健全な良心を保ち、立派に戦い抜くためです」と…。

 最初に述べたように、この「預言」は「神様がテモテに語った『神の召し』についてのみことば」なのですが、それはどんな「みことば」で、どんなふうにそれを聞いたのか、詳しいことは一切分かりません。

 今の私たちの場合は、専ら「聖書」を通して聞かされます。ただ、当時は「新約聖書」が、まだなかったので、聖霊が直接語る「みことば」に聞いたりしたんです。それはともかく、テモテは若い頃、何らかの「神様のみことば」を聞いた…、それによって「神の召し」を与えられたのでした。そうして、それがテモテにとって、「これは私に対する神様からの使命に他ならない!」と確信させられる「揺るぎない根拠」となったわけなんです。

それゆえ私たちも、聖書を開いて「神様のみことば」に聞いて、そこから「神の召し」について教えられる…、そういうことが、とっても大事なんですね。

 けれども、そういう「神の召し」は、自分一人だけなら、それをしっかり握り締めることがなかなか難しかったりするんです。

 実はパウロだって、「イエス様の使徒となる神の召し」を一人でしっかり握り締められたのかという、そうではなかったようなんです。パウロは最初、ダマスコに向かう途中で出会った復活のイエス様から、直接「神の召し」を伝えられました。

でも、もしかしたら、それは単に「夢幻を見ただけ」なのかもしれないじゃないですか? ところがその後で、ダマスコ教会のアナニアという人が、わざわざパウロの所にやって来て、イエス様から聞いたのと同じ御告げを伝えてくれたのです。そのおかげでパウロは、「イエス様の使徒となる」という誠に畏れ多い使命を、「これは確かに私に対する『神の召し』なんだ!」って確信させられて行ったんですよ…。

 つまりです。「神の召しに生きる」のは、一人じゃダメなんです。自分勝手な思い込みをしたり、怖気づいて尻込みしたりするからです。だから、そうならないようにと神様は、「神の家族」の中で、いろんな兄弟姉妹との交わりを通して、各々の「神の召し」を確認し合って励まされて行く…。私たちには、そういうふうにして下さってるんですよ!

 今日のテモテの場合もそうでした。パウロは、テモテに与えられた「神の召し」について語る時、「あの預言」と言ったんです。「あの預言」と言ったということは、「パウロもそれをよく分かっていて、テモテと一緒に共有できていた」ってことですよ。

 つまり、「あの預言」と言えば、二人の間ではツーカーだったんですね。テモテがどんな「みことば」を聞いて、どんな「神の召し」を頂いたのかを、パウロは一緒に分かち合えていたんです!

 そんなふうなお交わりが、どうでしょう、「私たちにもあったらいいなあ…、いや、必要だ!」って思いませんでしょうか? だけど、大丈夫、それはちゃんとあるんです! 私たちの「神の家族」の中にあるんです。そのためにこそ私たちは、こうして一緒に集められてるんですよ…。


 故・T先生との「神の召し」を巡ったお交わり

 最後に、私自身の思い出話を紹介させていただきます。実は私も、「神の召し」について、今日のパウロとテモテに似たようなお交わりを持たせてもらったことがあるんです。それは、昨年の暮れに天に召されたT先生とのお交わりでした。

 T先生は、私の大学の一年下の後輩で、学生時代からなんでも一緒に祈り合ってやって来た「信仰の友」であったんです。その後、T先生は山形県の小学校の教師になって活躍されてたのですが…、ある日、思い切った決断をしたんですね。学校の教師を辞めて牧師になったんです。

 当時、私は既に、ここの教会に牧師になっておりました。だから、その知らせを聞いて、とっても喜びました! 「これでまた同じ畑で一緒にやって行けるなあ」って、ほんと嬉しかったんです! 

 だけど、どうして「牧師になる」って決断したのか、その理由を聞いたら、さらに驚かされたんです。T先生曰く、「それは、津嶋さんが語ったメッセージを聞いたことが切っ掛けで『神の召し』を確信させられたからなんですよ」ってお話だったんですよ。

それは以前、私がある集会でメッセージの御用をした時のことでした。その時私は、旧約聖書の創世記からアブラハムの話をしたんです。アブラハムが神様から「わたしが示す地に行きなさい」との「召し」を受けて、自分の故郷を後にして神様が示される地に出かけて行きました…ってお話だったんです。

すると、そのメッセージを聞いたT先生は「直接献身をして人々に神様の福音を伝える人となる、それが自分に神様が『行きなさい』とお示しになってる地なんだ」と示されて、「神様の召し」を頂いたんです…っていうことだったんです。

 そして、それ以来、創世記のアブラハムの「みことば」は、T先生と私の間ではツーカーで分かる「あの預言」となったのです。

 ですが、そんなT先生はやがて、事情があって、せっかくなった牧師をやむなく辞めることになりました。そして、H幼稚園の園長になったんです。その時に私は、T先生にこんなエールを送ってやりました。「『神様の召し』は何にも変わってないよ! 形が変わっただけなんだ。だから、幼稚園でも精一杯に頑張ってね」って…。

 だけど、それから間もなくして、今度はT先生の体に癌が見つかりました。その時は、さすがにT先生もショックを受けて落胆したんですね。けれども、その時にも私は「あの預言」を持ち出したんです。「私たちは最期まで『神様の召し』に生きるんだ! それが果たされるまでは、神様はしっかり生かして下さるから心配するな、大丈夫だよ!」って…。


まとめ 

 そういうお交わりは、神様を信じる私たちにしか出来ないことだと思います。内容や種類は違っても、お互いに与えられてる「神様の召し」を信じて励まし合えて、「神様のお召しに応えて生きる人生」を一緒に分かち合って行ける…。

これは、他の所じゃ決して体験できない「幸い」であって、こんな「感謝と喜び」は他にはないんじゃないでしょうか?

 だから私たちも、神様が私たち一人一人にお与えくださってる「神の召し」を、しっかりと尋ね求めて教えてもらおうじゃないですか! そして、その「お召し」に精一杯にお応えして生きる人生を、ぜひご一緒に、この教会の「神の家族」の中で、励まし合わせていただきたいと思います。


                                                   



More
# by sagaech | 2023-10-09 18:50 | 礼拝メッセージ