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導きを求める祈り

(各自の中に、神の家を建て上げよう)25          2026.3.8

「導きを求める祈り」

           創世記2410-28節、33-49


 「婚活の導き」を求めたアブラハムのしもべの祈り

 今日のお話は「導きを求めるお祈り」です。それも「結婚の導きを求めるお祈り」だったんです。そうして、今日は、創世記の中から七人目の信仰者の祈りを読みました。ただし、この人の名前は、何にも分かりません。ただ、「アブラハムのしもべ」…、それもアブラハムの家を管理していた最年長の、おそらく最も信頼されてた「しもべ」だったんです。そんな「アブラハムのしもべ」は主人のアブラハムから「息子のイサクのために、自分の親族の中から結婚相手を探して来てね」と特命を受けた…、それで、このしもべは神様に導きを求めてお祈りしました…ってお話だったんです。

 ところで、「神様に導きを求めて祈る」ってことは、私たちクリスチャンにとっては人生のいろんな場面で何度も体験させられることだと思います。その中でも特に「結婚の導きを求めてお祈りする」ってことは、とりわけ「私たちの人生でも最も大切な導きを求める祈り」に違いないと思うんですね。だから、この祈りを学ぶことは、あらゆる「導きを求める祈り」についての格好の学びとなると思うんです。今日の所に登場して来る若い女性…、この後イサクの奥さんとなった女の人はリベカって名前でりました。因みに、そのリベカって名前を付けた「クリスチャンの婚活支援団体」がありまして、私たちの教会のSさんのご長女が、その副代表を務めておられます。

 だけど、最近の世の中じゃ、「結婚」はそういう婚活支援団体を利用するよりも「スマホのマッチングアプリ」を使うことの方が、一般的になってるんですね。私は使ったことはないですが…、もしも今、使っていたら大変なことになると思いますが…、自分自身の性別、年齢、職業や趣味なんかのプロフィールを登録するんです。すると、そのプロフィールにピッタリとマッチする相手を紹介してくれる…、そんなシステムがあるんです。ちょっと前までは、職場や学校の仲間で合コンをやる…、それが婚活のための普通の手段でありました。もっと前は、親から「この人どうかしら」って写真を紹介される、それが当たり前でした。なのに今は、一人でスマホをいじって、自分に合いそうな相手を探す…、いや、マッチングアプリに探してもらう…、凄い時代になりました! その良し悪しはさておきますが…、いずれにしても、この世の中では「結婚の導き」は、結局ところは「人間がすること」なんですね。 他の誰かに紹介してもらうか、自分で探すか、人間が作ったシステムを利用するかの違いはあっても、つまりは「人間の力に頼ること」なんです。

 ところが、今日私たちが読んだのは、そういう話とは全く違います。一見するとこのお話も「アブラハムのしもべ」って人が仲人となってイサクの結婚相手を探す…ってお話に見えますね。だけど、「この世の婚活」とは決定的に違うことがあるんです。それは「その結婚の導きを、神様に祈り求めていた」っていうことだったんですよ! このしもべは、こう神様にお祈りしてました。「私の主人アブラハムの神、主よ。どうか今日、私のために取り計らい、私の主人アブラハムに恵みを施してください。ご覧ください。私は泉のそばに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出て来るでしょう。私が娘に、『どうか、あなたの水がめを傾けて、私に飲ませてください』と言い、その娘が、『お飲みください。あなたのらくだにも水を飲ませましょう』と言ったなら、その娘こそ、あなたが、あなたのしもべイサクのために定めておられた人です。 このことで、あなたが私の主人に恵みを施されたことを、私が知ることができますように。」 このしもべは、こうお祈りしたんですが、そしたらどうなったんでしょう? なんと、「このしもべがまだ言い終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に乗せて出て来た」っていうんですよ!

 このリベカって娘は、非常に美しい年頃の乙女でありました。そんな娘が、お祈りしている最中に目の前に現れた…、だから、彼女を見るや、早速このしもべは「この人かも!」と思って走って行ったんです。そして、「どうか、あなたの水がめから、水を少し飲ませてください」って頼んでみたんですね。それから、たった今、神様に祈ったばかりのシナリオ通りに彼女に尋ねてみたんですね。そしたらなんと、この娘は、そのシナリオ通りの受け答えを返してくれたんです! リベカはまさに、「どうぞ、お飲みください。ご主人様」と言いました。 そうして、水がめをから水を飲ませるや、今度は「あなたのらくだにも、飲み終わるまで、水を汲みましょう」って申し出たんですね。まさに、このしもべが神様に、ついさっき、祈り求めたシナリオ通りでありました! しかも、リベカは期待以上の姿を見せてくれました。水を汲むのは、結構な重労働なんですね。だけど、リベカはそれを、自ら進んで、すばやくやりました。その上、らくだに水を飲ませるのも「ちょっとだけ」ではなくて、らくだが飲み終わるまで、水を汲み続けてあげたんです。 らくだって、かなりの水を飲むんですね。砂漠を旅するためには、たっぷりの水を体に溜め込むからなんですが、そのためには、どれだけたくさんの水を汲んだでしょう…。そういう仕事を、見ず知らずの人のために喜んでやってあげる…、そんな素敵な娘が、このリベカだったんですよ。

 そこで、このしもべは、ますます「この人だ!」と思いました。そして、戸惑うリベカに、驚くような贈り物をあげたんです。「重さ一ベカの金の飾り輪」「重さ十シェケルの二つの金の腕輪」…、今の値段でザっと600万円ものお宝です! そうして、「あなたは、どなたの娘さんですか? どうか私に言ってください」って問いかけたんですね。すると、返ってきた答えに、しもべはさらに驚いたに違いない! リベカは言いました。「私は、ミルカがナホルに産んだ子ベトエルの娘です」って…。 ナホルはアブラハムの兄弟で、ベトエルはアブラハムの甥でした。だから、このリベカはまさしく「アブラハムの親族の娘」だったんです! これを聞いたしもべは、どうしたか? ひざまずいて、主なる神様を礼拝したっていうんですね。そして、こうお祈りしたんです。「私の主人アブラハムの神、主がほめたたえられますように!  主は、私の主人に対する恵みとまことをお捨てになりませんでした。主は道中、この私を導いてくださいました。主人の兄弟の家にまで」って…。この後、しもべはリベカの兄のラバンに丁重にお家に招かれて、盛大なもてなしを受けます。そうして、その席で、打ち明け話をし始めたんですね。「自分がどうしてここまで旅してやって来て、リベカにそういう贈り物をあげたのか」ってお話だったんです。

 さて、ここで、私たちは「神様に導きを求めてお祈りする人の、とっても幸いな恵み」というものを、何とも麗しい婚活ストーリーを通して教えられてるんですね。 というのはです。今見て来た話は、このしもべがもしも「神様に導きを求めて祈る」ってことをしなければ、決して体験することのなかった出来事だったに違いないからなんです。今日の話で非常に印象的なのは、「神様は、このしもべが祈った先からお答え下さって、先回りして最善の導きをご用意して下さっていた」っていうことじゃないかと思います。まるで、目に見えない所で、このしもべをじーっと見守っていらっしゃっていて、しもべが祈る言葉を逐一聞いてくださっていて、それに一番いいタイミングでアクションを起こしてくださった…、そう見えません? だけど、事実そうだったんです。イエス様が「わたしは良い牧者です」と仰った通り、神様は「私たちの羊飼い」でいらっしゃるんですね。つまり、私たち一人一人を「ご自分の大切な羊たち」として「いのちの牧場」に導いて下さることを、神様はご自分の本分となさってるんですよ。 

 それなのに、「神様の導きを求めない」ってことは、裏を返すと「神様のことを信頼してない」ってことなんです。「神様が一番いいように導いて下さることを期待していない」ってことなんです。もしも、私たちがそんな感じだったとしたら神様も、そんな私たちに対しては、そんな感じで済ませてしまったとしても、おかしくないんじゃないでしょうか? だけど、もしも私たちが真剣に神様を信頼して「神様が一番いいように導いて下さるんだ」と心からの期待をもってお祈りするならば、神様もまた、そんな私たちには喜んで、精一杯に目一杯にお答え下さるはずだ!…、そう思いませんでしょうか? あるいは神様は、私たちの方は神様のことをあんまり期待していなくても、憐れみ深く導いて下さる…ってこともあったりします。 ですが、そういう時には私たちは、神様がたとえどんなに麗しい導きを用意して下さってたとしても、その神様の配慮が何にも目に入らないで終わるでしょう。「神様に導きを求めて祈る人」だけが、神様の心優しいご配慮に気が付いて、そのおかげで、いっそう神様への信頼が増すんです。その結果、ますます確かな確信が与えられて、神様の導きにしっかりついて行く歩みを、ますます確かなものとしていただけるわけなんです。

 もちろん、「神様に導きを求めて祈ったら、いつでもこうなります」ってことではありません。神様は、人間が勝手にパターン化できるような御方じゃないからです。けれども今日のお話は、「神様に導きを求めて祈る人のためには神様は、どんなに豊かな祝福が備えて下さっているか」…、そのことを非常に分かりやすい形で私たちに教えてくれていた…、そういうお話だったんですよ。


 「導きを求める祈り」に条件を付けるのはOKなのか?

 ただしです。このしもべのお祈りは、「神様に導きを求める祈り」としては、本当にこれでいいんでしょうか? 「神様に導きを求める場合」には、果たして、こんなふうに祈っていいものなんでしょうか? というのは、しもべが最初に神様に祈ったこととは、こういうことだったんですね。「神様、私はこれから、この井戸に水を汲みに来る娘さんに『水を飲ませてください』とお願いしますから、もしも『どうぞお飲みください。あなたのらくだにも水を飲ませしょう』と答える娘がいたら、その娘が、あなたの導いて下さってる人だということにして下さい」ってです…。これって、どうですか? なんだかこれは、「自分が勝手に考え出した条件を、無理やりに神様に押し付けてる」ってふうに聞こえません? だったら、そういうお祈りは「神様を自分の思い通りに操ろうとしているお祈り」なんじゃないですか? 本当は何にも条件は付けないで、「神様、私は特に『こうして下さい』とは申しません。だから、どうか私がその人に間違いなく出会えるようにして下さい」って祈る…、そうするべきだったんじゃないでしょうか?

 確かに、そうも言えるでしょう。そういう意味ではこのお祈りは「模範解答の祈り」だったわけではないかもしれない。このしもべは、もっと別なふうに祈るべきだったのかもしれません。ですが、この祈りは、こういうふうな祈りとは全く違うんです。「神様、私は自分自身の譲れない願いを持ってます。私の結婚については、こんな相手がいい…、私の仕事については、こんな仕事がしたい…、そして、私はこんな人生を送りたい。私はそういう願いを持っていますので、どうか、その私の願い通りに導いて下さい! でないと私は、私の願い通りに導いてくれる他の神様を、どこかに探しに行かないといけませんので」って…。 分かりますでしょうか? このしもべのお祈りは、そういう祈りではなかったわけなんです。むしろ、「私は、主なる神様がお与え下さる導きだったら、どんなものでも受け入れます」ってお祈りだったんです! 言い換えると、「自分が中心なのではなくて、神様が中心」なんですね。「自分の願いの方が上なのではなくて、神様の御心の方が上」なんですよ! つまり、「自分の国で暮らすための祈り」だったのではなくて、「神の国で暮らすためのお祈り」だったんです…。

 もちろん、こっちからは何の条件も付けずにお祈りできたら、それが一番ベストだったでしょう。だけど、このしもべは、この時に、何一つ手がかりになるものが無かったわけなんです。 全く知らない所に行って、全く知らない女性たちの中から、自分の主人の息子のために「唯一のベストパートナー」を連れて来ないといけない…。それは、もしも何の手がかりも無かったら、どうしたらいいのかさっぱり分からないことじゃないですか? だから、このしもべは神様に、せめて、その手がかりをお願いした…ってことなんです。

 因みにこのことは、私たちにとっても非常に感謝なことを教えてくれてるなあ…って私は思うんです。どういうことかと言いますと、「私たちもまた、このしもべが祈ったように神様にお祈りすることが許されている」ってことなんですよ。 前にもお話ししましたが、私は以前、山形市で独り暮らしをしながら大学に通ってたんですが、何年も落第を続けてしまってついに大学を退学しないといけなくなりました。それはちょうど今みたいな年度末の3月だったんですが、その時に、ハタと困ってしまったんですね。私は何の資格も免許もなくて、自動車免許すら持ってなくて、何の就職活動もして来なかったんです。だから、学校を辞めても、どんな仕事をして食って行ったらいいのか、さっぱり分かりませんでした。だけど、親からの仕送りは無くなる中で、次の4月からの生活費を稼がなきゃいけない…、それでハタと困ってしまったんです。ただ、何の資格もないけど、信仰だけはありました。だから、神様に必死にお祈りしたんですね。「どうか神様、こんな私でも出来る仕事を導いてください! 何の資格も免許も、伝手もありません。だけど、すぐに仕事が見つからないと本当にヤバいです!! どうか神様、4月になるまで、あと二、三週間しかありません。なんとかそれまでに、こんな私にでも出来る仕事が見つかりますように導いて下さい!」…、そう、お祈りしたんです。 今考えると、かなり滅茶苦茶なお祈りだったと思います。 まさに、「神様に無理やり一方的な条件を押し付けてるお祈り」だったと思います。だけど、これだけは確かだったんですよ。「神様が導いてくださる仕事だったら、どんな仕事でも受け入れます」って覚悟だけは持っていたんです。それから僅か数日後、私はたまたま山形市の七日町で、車椅子に乗ってる一人の障がい者の方と知り合いました。そして、その方から突然、「ウチの施設で職員を探してるんだけど、働いてみない?」って誘われちゃったんです。「あのー、何の資格も免許もないんですが、それでもいいんですか?」って尋ねたら、「何にも要りません。給料は安いけど、若い男性だったら誰でもOKです!」って返事だったんです。それが、私が人生で初めて就職した「わたしの会社」って名前の障がい者施設だったわけなんです。

 今日のアブラハムのしもべもある意味で、とっても一方的な条件を付けてお祈りいたしました。でもそれは、「神様をいろんな条件を付けて試してる」ってことではありませんでした。それよりもむしろ、「神様のことを心から信頼してた」んです! だからこそ、神様の慈しみ深い愛に訴えて、「どうか神様、私があなたの奇しい導きを、間違いなく見極められますように」ってリクエストした…ってことなんです。つまり、このしもべのお祈りは、「私は、神様の主権的な導きに、自分自身の願いは脇に置いて、あくまでも従順に従います」って信仰に立っていた…、そういうお祈りだったんですね。「神様に導きを求めて祈る祈り」というものは、そういう祈りでないといけないわけなんです。


 どこまでも「神様の主権的な導き」に服して歩む

 ですが、それだけではないんですね。「神様に導きを求めて祈る祈り」には、もう一つ大事なことがあるんです。それは一言で言うならば、「早合点は禁物だ」ってことなんです。このしもべは、非常に慎重でありました。しもべの目には、リベカはイサクにとって「すべての点で100点満点のベストマッチの相手」に見えたんじゃないかと思います。リベカのことを、知れば知るほど、そう思ったに違いないと思います。けれども彼は、自分の先走った判断を敢えて、黙って押し殺してたんですね。そうやって「神様はどうなさるのか」ってことを最後まで謙虚に見守っていたんです。

 たとえば21-22節で、しもべは「主が自分の旅を成功させて下さったかどうかを知ろうとして、黙って彼女を見つめていた」と言われてます。このしもべは、リベカがらくだのためにも水を汲み始めた時点で「これでもう決まりだろ」と判断して、早速リベカに宝物を差し出したとしても、べつに、おかしくはなかったはずなんです。しもべが神様にお願いした条件は、「その娘が『らくだにも水を飲ませましょう』と言う」ってことだったからでした。なのに、このしもべは「らくだが水を飲み終わるまで」、しばらくの間、じーっと待っていたんです。それはリベカが「あなたのらくだにも、飲み終わるまで、水を汲みましょう」と言ってくれたので、リベカの様子を最後まで黙って観察してたんだと思うんです。私はここに、「神様が自分の祈りに答えて下さっていると感じれば感じるほどに、本当にそれが神様の導きなのかどうかを早合点しないで見極めようと努めてる」…、そんな姿を垣間見る思いがするんです。

 それからさらに、このしもべは、すべてが順調に進んで行って、「これでもう、このリベカこそが神様の導かれてる人に違いない」と確信してもいいような時になってもなおも、49節で、こう言いました。 「それで今、あなたがたが私の主人に恵みとまことを施してくださるのなら、私にそう言ってください。もしそうでなければ、そうでないと私に言ってください。それによって、私は右か左に向かうことになります」ってです。ここにも「最後まで徹底して神様を恐れ敬って、神様の主権的な導きに、あくまでも謙虚に服従しようとしてる姿」があるんです。「もしかしたら、『これこそ神様の導きだ!』と私が確信したことが、単なる私の早合点かもしれない」…、そういう「とことん謙虚な姿勢」をこのしもべは忘れなかった…ってことなんですよ。

 私たちは、神様に導きを祈っても、それは「最終的な判断を下す前の一時的なアドバイスを求めてるだけ」ってことがあったりしないでしょうか?  つまり、最後は自分の好きなように決断して終わっちゃう…ってことなんです。でもそれは、神様を、たとえば日本の政府がよくやるような「形ばかりの諮問機関」みたいにしてるだけで、はなから答えを聞くつもりが無い…ってことですよ。 ですが、「本気で神様に導きを求めて祈る人」は、そうはしないんです。土壇場になっても「神様が導かれているのは、この道じゃない」と分かったら、思い切って回れ右をするんです。そういう覚悟を持って祈るのが、本当の意味での「神様に導きを求めるお祈り」なんですよ…。


 「神様に導きを求めて祈る人」の幸い

 ただしです。そういう厳しい覚悟は確かに必要なんですが、だからと言って「神様に導きを求めて祈る人」は、決して「バカを見て終わっちゃう」ってことはありません! 「神様に導きを求めても、いい所まで行ったかなあ…と思うと門を閉ざされて、結局は『骨折り損のくたびれ儲け』で終わるんだ」ってことにはならないわけなんです。 なぜならば、そうやって「神様に導きを求めて祈る人」は、たとえ途中で遠回りをしたり、紆余曲折を通ったとしても、「神様の慈しみ深いご支配」の真っ只中にしっかり置かれてるからなんです! というのも「神様に導きを求めて祈る」とは、言い換えると、「神様をとことん信頼して、神様の永遠に変わらぬ真実の中に、自分自身をそっくり預けてる」ってことだからなんですね。だとしたら、そんな私たちの信頼を神様は、裏切ると思います? いいや、神様は、そんな私たちのためには目一杯に最善を尽くして下さって、私たちのことを「最も良い道」へと導いて下さるはずなんじゃないでしょうか…?

 今日の話の中で「神様に導きを求めて祈った人」は、アブラハムのしもべでした。そのしもべは、導きを求めて祈った後にどうなったんでしょう? リベカという「最高の人」に出会わせてもらいました! そうして、そのリベカも実は、「神様に導きを求めてお祈りした」に違いないと思うんです。 当時は昔の日本のように、親が娘の結婚相手を決めました。けれども、リベカは最終的に彼女自身の返事を聞かれます。「この人と一緒に行くか?」って…。そしたらリベカは迷いなく、「『はい、行きます』と答えた」っていうんですね。それは、リベカ自身も神様に「私の結婚相手は本当にイサク様なんでしょうか?」って導きを求めて祈った、その答えだったんだんだと思うんです。 で、その結果、リベカはどうなったのか? 今日は読みませんでしたが、この後リベカはこのしもべに連れられて行って、イサクと会って、イサクに心から愛されて、とっても麗しい夫婦となって行きました。 そのあと、全く問題がなかったわけではありませんが、リベカはやがてイサクにエサウとヤコブの双子を産んで、文字通り「神の民イスラエルの母」となるという、とっても大きな祝福を頂いて行ったんです。


まとめ

 感謝なことは、そうやって神様の導きを求めて祈っていく時に、私たちはやがて、「神様から与えられた導き」を皆が一致して認め合って喜び合うようになれるんです。そしてまた、そうなることが「本当の神様の導き」であるという証拠なんですね。お互いが「同じ神様」を仰いでいるのなら、「同じ神様のご支配」の下で、「同じ神様の御心」を一致して共有し合えるようになる…、それは必然だからです。

 願わくは私たちも、そういう恵みと幸いをご一緒させていただきましょう! そして、そのためにも私たちは、「神様に導きを求めて祈り合う、そういう信仰をお互いに励まし合って行ける神の家族」とならせていただきたいと思います。

 


# by sagaech | 2026-03-08 19:39 | 礼拝メッセージ

悔い改めをとりなす祈り

各自の中に、神の家を建て上げよう)24           2026.3.1

「悔い改めをとりなす祈り」

              エズラ記91-15


 エズラとイスラエルの人々を巡る背景

 今日の主人公は、エズラと言う人です。このエズラは、イスラエルがバビロン帝国に攻め滅ぼされて国を失って、バビロンに捕囚になった後の時代の祭司でありました。バビロンに捕囚になってたイスラエルの人々は、バビロンがペルシャによって滅ぼされたことを切っ掛けに、最初の捕囚から70年の時を経て、ついに元居た所に戻ることが許されました。そして、エルサレムに戻った人々は、ペルシャ王の援助を貰って、もう一度そこに、かつての神殿を再建するって働きに従事して行ったんです。ですが、「主なる神様への信仰」の象徴だった神殿はやがて無事に再建されました。だけど、「人々自身の信仰」の方はと言うと、必ずしも再建されたわけではなかったようなんです。そのわけは、「主なる神様の教えが人々にしっかりと教えられる」ってことが欠けてたからなんです。そのために人々は、彼らが「バビロン捕囚」という神様の裁きを受けた、そのそもそもの原因となった罪から、本当の意味で離れたわけではなかったらしいんですよ。そこで神様は、今日のエズラを召されたわけなんです。エズラは、バビロン捕囚からエルサレムに戻る第二回目の引き揚げ集団を率いた祭司でありました。そして、モーセの律法なんかの旧約聖書の教えに通じた聖書の学者だったんです。そんなエズラは、エルサレムに戻った人々に神様の教えを正しく教えて、神の民としてのふさわしい歩みに導いていく…、そのために神様がお遣わしになった人だったんです。

 ところが、そのエズラが長い旅の後、とうとうエルサレムに辿り着いて神殿に詣でた直後、とんでもない知らせを聞いたんです。それは、「イスラエルの人々が、モーセの律法で固く禁じられてた周りの国の外国人との結婚を平気でやっていて、しかも、それを率先してやってた張本人がなんと、民の指導者たちだった」って話だったんです! 実は、イスラエルの人々は、約束の地カナンに入る前から、その教えを聞いてたんですね。今日の11節からの所にその教えが書かれてありました。ちょっと厳しい内容なんですが…、「あなた(主なる神様)は、あなたのしもべである預言者たちによって、こう命じておられました。『あなたがたが入って行って所有しようとしている地は、異国の汚れで汚れた地、忌み嫌うべき行いによって隅々まで汚れで満ちてしまった地である。だから今、あなたがたの娘を彼らの息子に嫁がせてはならない。また、彼らの娘をあなたがたの息子の妻にしてはならない。云々」(11-12節)ってです。 どうして神様は、こんな命令をされたのか? それはです。当時そのパレスチナの辺りに住んでた異国の民は、神様の目から見たらあまりにも罪深い偶像礼拝や悪習慣にどっぷり染まってしまってたからなんです。そんな彼らと婚姻関係を結んだら、神の民であるイスラエルの人々も彼らと同じ悪事に誘惑されて、簡単に「神様が忌み嫌われる生き方」に填まってしまう…。それを防ぐために神様は、敢えて、外国人との結婚を固く禁じられた…。そういうことだったわけなんです。 ところがイスラエルの人々は、約束の地に入る前からそういう罪に陥って大きな裁きを受けた過去がありました。「バアル・ペオルの事件」と言われてる奴ですが、それ以降イスラエルの人々は、約束の地に入ってからも結局は、周りの国の乱れた偶像礼拝や悪習慣に何度も填まってしまって、主なる神様を裏切り続けて行きました。 その結果、とうとう「バビロン捕囚」という裁きを受ける…ってことになっちゃったわけなんですよ。

 ところがです。そういう「罪の裁き」であったバビロン捕囚からようやく解放されてエルサレムに帰って来たはずの人々が、なんと、その同じ罪をまたもや繰り返してしまってた…。そういう内部告発をエズラは耳にした…ってことなんです。いったいこの時、エズラはどうしたんでしょう? 3節からの所を見て下さい。エズラは言いました。「私はこのことを聞いて、衣と上着を引き裂き、髪の毛とひげを引き抜き、茫然として座り込んでしまった。捕囚から帰って来た人々の不信の罪のことで、イスラエルの神のことばを恐れかしこむ者はみな、私のところに集まって来た。私は夕方のささげ物の時刻まで、茫然としてそこに座っていた。」

 このエズラの気持ち、分かります? きっとエズラは、「自分がエルサレムに帰ったら、イスラエルの人々にどんなふうに神様の教えを教えてあげようか」って聖なる熱心に沸々と燃えていたに違いないんですね。ところが、そんなエズラの熱心をズタズタに打ち砕く、とんでもないニュースをエズラは聞いてしまったんです。だから、茫然と座り込むのも無理もなかったわけなんです。


 「神様の思い」を「我が思い」とする

 だけど、それにしても、ちょっと不思議だなあ…って思いませんでしょうか? もしも「とんでもないニュース」を聞いたとしたら、そりゃあ驚いてガッカリしちゃうでしょう。「なんてこった! 何を考えてんだ!!って怒鳴ってもいいでしょう。「そんなことなら勝手にしろ!」と吐き捨てて、言いたい放題文句を言って、何かに当たり散らす…、そんなことをやってもおかしくないと思うんです。ところが、このエズラの姿を見ると、何かがちょっと違うんです。エズラは「衣と上着を引き裂き、髪の毛とひげを引き抜いて」、茫然と座り込んでたんですね。これもかなり激しいリアクションですよ! 「衣と上着を引き裂く」のは、かなり力が要りますし、「髪の毛とひげを引き抜く」なんてことは相当痛いことですよ! だから、相当に激しい感情を表してる行為に他ならないんです。だけど、このパフォーマンスはただ単に「頭に来て何かに当たり散らしてる」ってこととはわけが違うんです。これは実は、イスラエルが伝統的にやって来た「神様を冒涜する話を聞いた時のリアクション」だったんですよ。 そうしてエズラは、こうしたことをした上で、「夕方のささげ物の時刻」になった時…、つまり「夕べの祈り時間」が来た時に、ようやく立ち上がります。そして、「衣と上着を引き裂いたまま、ひざまずき、自分の神、主に向かって手を伸べ広げ」るや、こう祈り出したというんです。「私の神よ。私は恥じています。私はあなたに向かって顔を上げることを恥ずかしく思います。私たちの咎は増し、私たちの頭より高くなり、私たちの罪過は大きく、天にまで達したからです。」(6節)って…。このエズラの何とも独特なパフォーマンスを伴った祈り…、これが今日皆さんと一緒に学ばせていただきたいお祈りなんですよ。

 私たちも普段、テレビのニュースを聞いてると、「とんでもないニュース」を耳にします。そして、「なんてこった!何を考えてんだ!」とボヤきます。 だけど、所詮は「対岸の火事」で、興味本位で見物していたり、他人事のように聞き流して終わるだけ…、そういうことの方が多いんじゃないかと思うんです。ですが、エズラがここでやってたことは違うんです。エズラは実は、ただ単に「ボヤいてた」のではないんですね。それよりも「神様の思いやお心に、神妙に共感してた」んです。人々の深刻な罪に対する「神様ご自身の心の痛み」を、エズラは神様と一緒に分かち合ってたんですよ。つまり、エズラは「神様の思いを我が思いとしてた」ってことなんです。

 「衣と上着が引き裂く」というのは普通、自分が好んでやることじゃありません。それはむしろ、「他の誰かから苛めや迫害を受けて、とっても酷い侮辱を被った姿」です。 「髪の毛とひげを引き抜かれる」のも同じで、それは非常に恥ずかしい姿です。特に、ひげを大事にしていたイスラエル人にとってはそれは、「尊厳を深く傷つけられるような屈辱を受けた」って姿だったんです。でも、いったい誰が侮辱や屈辱を受けたんでしょう? それは実は、エズラ自身というよりは、神様が…だったんです! 神様ご自身が「愛して信頼していた人たちから裏切られる」って仕打ちを受けて、神様のお心が「衣と上着が引き裂かれる」ように深く引き裂かれたんです。憐れみ深く罪を赦してあげた人たちから「恩を仇で報いる」ようなことをされて、神様の愛が「髪の毛とひげを引き抜かれる」ように侮辱されたんです。そして、そういうパフォーマンスを自ら進んでやる…ってことを通してエズラは「この私も、神様の深く傷付かれた思いを、我が思いとしています」って表明していたわけだったんです。

 ですが、その結果エズラの心に溢れて来たのは、何とも言えない「恥ずかしさ」だったんですね。「私の神よ。私は恥じています」ってエズラは祈り出しました。というのは、神様のお心をそこまで傷付けていた原因とは他でもない、「自分たちが犯した背きの罪」だったからなんです!それがもし、自分たちとは関係ない他の外部の人たちがやってたことだったら「恥じる」必要はなくて、ただただ神様と一緒に涙を流しておれました。でも、その原因は、エズラ自身ではなかったけども、エズラが血と肉を分けた同胞たちだったんです! エズラが責任を持って導かないといけない仲間たちだったんですよ! だから、エズラは自分自身の事ように目一杯に恥じて、こう祈ったわけなんです。「私はあなたに向かって顔を上げることを恥ずかしく思います。私たちの咎は増し、私たちの頭より高くなり、私たちの罪過は大きく、天にまで達したからです。」(6節)って…。

 そうしてです。もしもそうなんだとしたら、このエズラって人もまた「自分の国」ではなくて「神の国」で生きようとしていた人だったんですね。「エズラのお祈り」も、「神の国で暮らすための営み」だったんです。 だって、「神様の思いを我が思いとする」ということは「神様の聖なるご支配に喜んで服してる」って姿に他ならないからですよ! それは、「自分の思いのままにやっていく『自分の国』で暮らす」んではなくて、「『神の国』で暮らすため、神様の思いにピッタリとついて行こうとしている姿」だったんです…。

 だとしたらです…。だとしたら、私たちもまた「他の誰かの罪に思いがけなく晒される」ってことがあった場合には、「ただ黙ってやり過ごす」んではなくて「神様の思いを我が思いとする」ってことをさせていただきたいと思うんです。そうして、その罪を…、それが「自分の罪」だった場合はもちろんですが、それが誰の罪であったとしても「神様の嘆き」を嘆きましょう!  そして、「罪を嘆いて呻く祈り」というのを私たちは祈るべきだと思うんです。 なぜでしょう?  繰り返しますが、それは他でもない「神の国で生きること」だからです! もしも、自分が誰かの罪によって苦しめられたら、どんな人でも怒こるでしょう。だけど、そうではない場合は、周りでどんな悪事がなされていても、私たちは結構、無頓着だったりします。でもそれは、「『自分の国』の中に我関せずって閉じ籠っている」のと、ある意味同じなんですね。けれども「罪を嘆く」のは、「神様の思いを我が思いとさせていただいて『神の国』で暮らして行く」…、そのためのとっても大切な第一歩に他ならないわけなんです。


 「罪を嘆く」のは、本当の悔い改めと赦しのため

 ただしです。ある人は、こんなことを心配するかもしれません。「『罪を嘆く』のは、『罪を犯した人を執拗に非難すること』に繋がって、私たちの間に『お互いを裁き合う愛の無い生き方』を助長する…、そんなふうになるんじゃないですか?」ってです。「そうするとそれは、『互いに赦し合いなさい』って神様の教えに矛盾することになっちゃって、『イエス様の十字架の赦し』とも衝突しちゃうんじゃないですか?」ってです。 ですが、安心して下さい。そうではないんですね。そんなふうにはならないことなんです。むしろ、「罪に対して真正面から向き合って、それを正しく嘆く」ってことをしなければ、私たちは「本気で罪を赦すこと」は出来ないんですね。また、罪を犯した人を「本気でとりなすこと」も出来やしないんです! なぜならば、「罪を嘆く」ってことがないならば、私たちは「罪の赦しをとりなさないといけない必要」も感じないからなんですよ。

人は、「心底、罪を悲しんで嘆く」ってことがなければ、「そういう中から、ぜひとも悔い改めて変わらないといけない!」って切羽詰まった思いは生まれて来ないんです。罪を本気で嘆かなければ、「自分が犯した罪によって、どれだけいろんな人を傷付けてしまったのか」ってことも深く考えないで適当にスルーしてしまうんです。その結果、私たちは「なあなあ」で済ませてしまって「ゴタゴタが起こらないように」と丸く治めることばかりを考えてしまうんですね。特に、罪を犯した張本人が「民の指導者」のような重要人物だったりすると、変な忖度が始まります。そして、「武士の情けだ」なんて言って庇って済ませる…、そんなふうにもなってしまうんです。でもそれは、「赦し」でもなければ、「悔い改め」でもありません。それはただ、「罪を見て見ぬふりをしてる」ってことに過ぎないわけなんです。

 ですが、イエス様が教えられたのは、そういうこととは全く違います! というのも、イエス様って御方は実は、「私たちの罪を、誰よりも心底嘆いて呻かれた…、この世の人間の罪を一番怒って嘆かれた御方」だったんですよ…。イエス様は、あの有名な「放蕩息子のたとえ話」を語られて…、ザアカイみたいな悪徳取税人や、姦淫犯した女の罪を優しく赦してあげました。そんなイエス様の姿を見てると、イエス様はどんなに悪い事をしても「いいんだ、いいんだ、気にするな」ってニコニコ顔で迎えてくれる…、そう考えやすいと思います。 ところが、そうではないんですね。イエス様は、「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人」と仰って、人々を惑わす彼らの偽善の罪を、何度も何度も嘆かれました。エルサレムの背きの罪を嘆いて、「ああ、エルサレム、エルサレム」と涙を流して泣きました。神殿が商売の場にされちゃっているのを見た時は、「『わたしの家は祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを、『強盗の巣』にした!」と激しく憤られました。そんなふうに、聖書の中に出て来る人の中で、イエス様くらい「私たちの罪を嘆いて悲しんで、怒って呻いた御方」は他にはいないんですよ! けれども、だからこそイエス様は「罪人のための本当のとりなし」がお出来になったんです! イエス様は、十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください」とお祈りされました。それは、私たちすべての人のために祈られた究極の「悔い改めをとりなすお祈り」だったんですね!

そんなイエス様は実は、天の父なる神様の「私たちの罪に対する深い嘆きと悲しみと怒りと呻き」を誰よりも共有されていらっしゃったんですよ。 というのはです。「人間の罪の本当の深刻さ」を知っていないと「本当の意味での赦しの必要」も分からないからなんです。「罪の本当の深刻さを知って嘆く」ってことがないならば、「罪の赦し」じゃなくて、「罪の無視」しか出来ません! そうなると、そこには「本当の救い」もなければ、「本当の癒しも回復」もありはしないんですよ…。だから、「本当の赦しと悔い改め」は「真正面から罪と向き合って嘆いて呻く」ってことをスルーしちゃったら、絶対にあり得ないことだと言ってもいいわけなんですよ…。


 他人の罪も、自分の罪も、神様にあって嘆くべし

 今日のエズラが向き合ったのは、ある意味「当時のイスラエルの人々にとっての特別な罪」でありました。だけど、どんな罪でも同じなんですね。お金に関する罪も、お酒に関する罪も、性的な罪も、人間関係にまつわる罪も、どんな罪でもそれを犯す時、私たちはなによりも「神様のお心を傷付けてる」んですね。 つまり、最大の被害者はいつも「神様」なんですよ! それを、決して甘く考えてはならないわけなんです。

 神様が、どれだけ心を痛めて怒って悲しんでおられることか…、それに蓋をして、ただただ「神様の恵み深い赦し」ばかりを当然のように期待するってことは、イエス様が教えておられたことではありません。私たちはまずは、「一番の被害者であられる神様のお心」に心を向けるべきなんです。そうしてさらに、「私たちが犯した罪の被害者となった人たちの痛み」を思うべきなんです。「神様のお心」には、「そうした人たちのことを心から心配して労わるお気持ち」までが含まれてるんですね。そういう「神様のお心」を分かち合わせてもらった祈りを祈ることが、私たちには必要なんだと思うんです。

 たとえばです。皆さんが、職場や家庭の中で誰かから「パワハラ」の被害を受けていたとします。自分の上司から、あるいは自分の親や夫や妻から「暴力的な言葉」をぶつけられて、毎日のように心をズタズタにされて暮らしていたとします。 そんな時に皆さんは、どう祈ります? もしも皆さんがクリスチャンだったら、こう祈るかもしれません。「イエス様は、『自分の敵を愛しなさい』と仰ったから赦さないといけない。なのに、赦せない自分は、なんて愛が無いんだろう…。どうか神様、愛が無い私を赦して下さい」ってです。確かに、そう祈ることも尊いことですよ。 だけど本当は、とっても酷い言葉で「パワハラ」をして来る相手の罪を、「なんて酷いことだ!」と「神様の目線」に立って「神様の思いを我が思いとさせて」もらって呻く…、そう祈ることはむしろ必要なんですね。そして、「どうか神様、あなたのお心を傷付け、私や皆を傷付けてるこうした罪が、なんとかして悔い改められて、神様の御心に適った生き方に聖められますように、私にパワハラをして来るこの人や、私たち皆をお助け下さい!」って祈る…。 そういう祈りを神様は、本当は私たちに求めていらっしゃるんじゃないかと思うんです。

 それから、私たちは何よりも「自分自身の罪に悩ませられる」ってことが、しばしばあるんじゃないかと思うんです。ですが、人間っていうのは、どんな人でも自分については甘いんですよね。「他人の罪」は責めるけど、「自分の罪」には蓋をして、目に入れようとはしないんです。だから、「自分の罪」ってものは、「嘆いて呻く」ってことが最も避けられます。口に出して悔い改めの祈りをしても、一番深刻な罪は隠したまんまで、「そんなに自分は悪くない」と他人にも自分自身にも思い込ませる…、そうなりやすいんじゃないでしょうか? それをもし、「神様の視点に立って、自分の罪を見つめて嘆く」ってことをしちゃったら、とてもじゃないけど生きて行けなくなっちゃう…。 私たちはたぶん、そう思ってしまうんです。

 けれどもなんですね。けれども、そんな私たちにとって、何とも有難くて感謝で一杯なことがあるんですね。それはどんなことかと言いますと…、「実はイエス様は、私たち自身の罪を誰よりもしっかりとご覧になっていらっしゃっていて、それを誰よりも嘆いて悲しんで、呻いておられるんだ」ってことなんですよ! そうなんです。実はイエス様は、私たち以上に私たち自身の罪を、天の父なる神様の思いを分かち合いながら、心を痛めて嘆いて下さってるんですよ! 「えっ、イエス様が?」って思います? 「イエス様は、私に向かって、ただただニッコリ微笑んでいると思ってたんだけど…」って思います? 実は、そうじゃないんです。イエス様は、この世界の誰よりも、皆さん自身の罪を真っすぐに、真正面から見つめてそれを嘆いてるんですよ。 けれども、だからこそなんです。だからこそイエス様は、今でも私たちのために「父よ、彼らをお赦しください」って必死に本気になって、とりなし続けて下さってるんですよ!! それは私たちが、こんなに酷くて深刻な罪を犯しているゆえに、放って置いたら、とんでもなく深刻な裁きを被ってしまう…、それが分かっているからこそイエス様は、今も私たちのために「十字架の血潮」によって、命懸けで、とりなし続けて下さってるわけなんです。


まとめ

 だから、私たちも嘆きましょう。「私たち自身のどうしようもない罪」を、真正面から見つめて、それをご覧になってるイエス様のお心を思い、心の中で「衣を引き裂いて、髪の毛とひげを引き抜いて」呻いて嘆きましょう! けれども、その時にこそ皆さんは、心の底から「これでもか」ってくらいにたっぷりと、「イエス様の十字架の赦しの有難さ」ってものを心ゆくまで味わい知れる…、そういう恵みに、とんでもないくらいに圧倒されて感謝する…。そうなるはずだと私は信じてます。

 


# by sagaech | 2026-03-01 19:19 | 礼拝メッセージ

祈りとも言えないような祈り

(各自の中に、神の家を建て上げよう)23            2026.2.22

「祈りとも言えないような祈り」

             列王記第一191-8


 「英雄的な祈り」を献げたエリヤ

 今日の主人公は、昔のイスラエルで活躍したエリヤという預言者です。エリヤは、当時の北と南に分かれた北イスラエル王国の方で働いてたんですが、とっても驚くべき奇跡をたくさん行ってみせた預言者だったんですよ。で、私は実は、昨年の礼拝で一度、このエリヤが祈った祈りについてお話ししたんですが、覚えておられますでしょうか? その「エリヤの祈り」について、新約聖書のヤコブの手紙の中で、こんなふうに書かれてるんですね。 「エリヤは私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、雨は地に降りませんでした。それから彼は再び祈りました。すると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました」(17-18節) まあ、ここではサラっと短い言葉で語られてるんですが、これは本当は、サラっとなんては聞き逃せない驚くべき奇跡です! なんと、エリヤが祈ったら、三年半も雨が降らなくなっちゃって、再びエリヤが神様に祈ったら、天から恵みの大雨が降って来た…っていうんですよ!

 このお話は、当時のイスラエルで三年半も続いた日照りの後で、エリヤがカルメル山の上で「雨乞いの祈り」を献げた話なんですね。第一列王記18章に、こう書かれてます。 「エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔を膝の間にうずめた。彼は若い者に言った。『さあ、登って行って、海の方をよく見なさい。』 若い者は上って、見たが、『何もありません』と言った。するとエリヤは『もう一度、上りなさい』と言って、それを七回繰り返した。七回目に若い者は、『ご覧ください。人の手のひらほどの小さな濃い雲が海から上っています』と言った。…… しばらくすると、空は濃い雲と風で暗くなり、やがて激しい大雨となった。」(第一列王記1842-45節)って…。 こうしてイスラエルの人々は、三年半も続いた日照りと大飢饉の中から、このエリヤの祈りによって、ようやく救い出されたわけなんです。

 他にもエリヤは、物凄く力強い祈りによって、目を見張るような活躍もいたしました。当時のイスラエルでは、バアルと呼ばれる「偽りの偶像の神」を拝む信仰が蔓延してました。というのは、当時のイスラエルの王様アハブ王が率先してそういうことをやっていて、一方、主なる神様を信仰する人たちは、そのアハブ王から迫害されて、大勢の人が殺されてたんですよ。そんな中、このエリヤは、そうした悪事に敢然と立ち向かった「主なる神様の預言者」だったんです! 

 そんなエリヤはある日、400人ものバアルの預言者たちと対決し、「天から火をもって答える神こそが、真の神様だ!」と訴えて、見事「主なる神様こそが真の神だ」と証明して見せました。 バアルの預言者たちとエリヤが、各々が信じる神様の祭壇を築いて生贄を献げ、その上に「天から火を降らせて下さい」と自分の神様に祈る…、そんな対決をやったわけなんです。すると、バアルの預言者たちは、大声で踊り回って狂ったようにバアルの神に祈り求めました。だけど、何の答えもありませんでした。それを見た後で、エリヤは一言、こうお祈りしたんです。「主よ、私に答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたこそ神であり、あなたが彼らの心を翻してくださったことを知るでしょう」って…。 そうしたら、エリヤ築いた祭壇の上にだけ、いきなり天から火が降って来て、祭壇の上の生贄を全部焼き尽くしてしまいました…っていうんですよ!

 どうでしょう、そういうことは、普通の人には決して出来ないことじゃないですか? ただ、聖書は言うんです。「正しい人の祈りは、働くと大きな力があります」って…。 ということは、この「エリヤの祈り」は、物凄く大きな力を発揮する「正しい人の祈り」だったんです。それくらい、エリヤって人は「超人的な」と言ってもいいくらいのパワフルな…、それも「怪獣退治のウルトラマン」のような正義のヒーローみたいな活躍ができる…、そういう祈りを祈れる人だったんです。


 別人のように「情けない祈り」を口にしたエリヤ

 ところがなんですね。そのエリヤはどうしたわけか、今日の所を見ると「まるで別人」なんですね。今日のお話は、たった今お話しした「大活躍の祈り」が祈られた、ほんの二、三日後の話です。それなのに、エリヤはここで、こんなふうに祈ってたんですよ。「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。 私は父祖たちにまさっていませんから」(4節)って…。つまり、「もう嫌だ! もう耐えられない! こんなに苦しい目に遭うくらいなら、どうか神様、いっそこの私を殺して下さい!」ってお祈りしたってことなんですよ。

 ついさっきまで、「恐れる者は何もない!」って感じで、「主よ、私に答えてください!」って大胆に祈ったエリヤの姿はどこへ行ったのか…?  いったいエリヤは、どうしてこんなふうになってしまったんでしょう…? それはなんですね。エリヤが打ち負かしたバアルの預言者たちの総元締めだったイスラエルの王妃のイザベルって人から「明日の今ごろまでに、おまえを絶対、殺してやる!」って脅迫されちゃったからなんです。このイザベルって王妃は非常に「くせ者」で、自分の夫のアハブ王さえ手玉に取ってた「事実上の最高権力者」でありました。だから、イザベルの脅迫は確かに恐ろしいものだったんです。だけど、たった一言その脅しを聞いただけで、あんなに無敵だったエリヤがすっかり恐れをなして、「ライオンに睨まれた子犬」みたいに尻尾を巻いて逃げて行ったんですよ…。

 今日の3節からの所には、こう書かれておりました。「彼はそれを知って立ち、自分の命を救うため立ち去った。ユダのべエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、自分は荒野に、一日の道のりを入って行った。彼は、エニシダの木の陰に座り、自分の死を願って言った。 『主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから。』」(3-4節)って…。こうしてエリヤは、誰もいない所に一人で逃げて行くや、「弁えないやんちゃ坊主」みたいになって駄々を捏ねて、地面に転がって、ふて寝しちゃったわけなんです。

 このお祈りは、さっきの18章で見て来た祈りとは、確かに全く違っていますよね。さっきの「とっても勇ましくて力強い、神様以外の何物をも恐れない」って「英雄的な祈り」とは全く正反対で、ビックリするような豹変ぶりだと思いません? でもこれは、べつに、おかしなことではないんですね。エリヤは自分で言ってたように「もう十分に」頑張って来たんです。何年もの間、エリヤは神様のために戦い続けて来たんです。そうして、ついにバアルの預言者たちを打ち負かし、イスラエルの人々を真の神様の許へと立ち返らせて、「三年半もの日照り」をようやく終わらせることが出来たんです! 言ってみれば、「何年間も苦労をして来た結果、ようやく報われて、ついにオリンピックで金メダルを取った」みたいなことを、エリヤは体験させてもらったわけなんです。 

 ところが、その直後に待ってたものは何なのか? 「勝利のファンファーレ」ではなくて、「敵の親玉からの今まで以上の反撃」だったんですよ! 「力を振り絞ってゴールをした」と思ったら、ゴールで待ってたものは「おめでとう!」ではなくて「殺してやる!」の大ブーイングだった…ってことなんです。だとしたら、さすがに気持ちが切れると思いません? ピーンと張り詰めてたものが、突然プッツンしちゃうんじゃないでしょうか? それでエリヤは「私は父祖たちにまさっていませんから」と言いました。これは「謙遜な言葉」じゃなくて、「ふて腐れた言葉」です。「父祖たち」とは「モーセやヨシュアやダビデのような力強い働きをした古の信仰者たち」のことなんですが、エリヤだって彼ら以上の働きをしたんです! なのに、プッツンしちゃったエリヤは「ふて腐れた自己憐憫」に、どうにもならないくらいに落っこちて、今まで見せたことのないような情けない姿を晒してしまったわけなんですよ…。

 そうしてそれは、誰にだって起こり得ることなんですね。だから、新約聖書のヤコブの手紙も「エリヤは私たちと同じ人間でした」(ヤコブ517節)と言ったんです。 つまり、「あのエリヤだってそうなんだから、私たちだったら、いくらでもそんなふうになる」ってことですね。私たちも、どんなに立派な活躍をしてても、何かの拍子に調子が狂って打ちのめされる…。つい、この間までは「飛ぶ鳥を落とすような勢い」だったのが、ふとした事で躓いて「もう生きてられない」って絶望しちゃう…。いくらでもそうなってしまうんです。

 じゃあ、それなら、そんな時に私たちは、どうお祈り出来るんでしょう? いつもだったら、滔滔と信仰深い言葉が湧いて来て、熱い祈りを祈れるはずなのに、何と祈ったらいいのか分からない…。どうにも祈りの言葉が出て来ない…。出て来る言葉は「祈りの言葉」と言うより「泣き言みたいなつぶやき」ばっかりで、「なんとも弱々しくて頼りない言葉」だけ…。私たちはたぶん、そんなふうにしか祈れなくなってしまうんじゃないでしょうか…?

 因みに私も、そういう祈りを祈ったことがありました。私が学生時代に何度も落第、留年を繰り返してしまって、とうとう大学にいられなくなって退学しないといけなくなってしまった春のことでした。私としては、一生懸命に頑張ってたんですね。だけど、当時の私は、鬱と神経症で手一杯になってて、気持ちはあっても、どうにもならなかったんです。それで、全てが空回りしちゃって、そんな結果になっちゃった…。だから、私もつぶやきました。「神様、もう十分です! もう、どうしたらいいか分かりません! こんなことなら、いっそ私を殺してください!」って…。

 たぶん皆さんも、人生のどこかで、そんなふうに投げやりになって、ふて腐れて、やけっぱちになって、とんでもない言葉をつぶやいた…、そういうことがあるんじゃないでしょうか? それが、神様を知らなかった時なら「当てもなく誰かに向かって叫んでるだけ」なんですが、クリスチャンになってからは「神様に向かって叫ぶ」んです。でもそれが、果たして「お祈り」なのかというと、私たち自身は自信を持って「祈りです」とは言いにくいと思いますね。けれども神様は、そういうものも「祈りの一つ」としてしっかりと数えて下さってるんだと思うんです。つまり、私たちの「祈りとも言えないような祈り」も神様は、「私たちの心からの祈り」として聞いて下さってるんだ…ってことなんです! でも、どうして、そう言えるのか? それは神様が、「祈りとも言えないようなエリヤのお祈り」を「けしからん!」とは仰らないで、むしろ憐れみ深く慈しみ深く、あたかもお母さんが駄々を捏ねてる赤ちゃんを優しく見守ってるみたいに耳を傾けて下さった…、そういう事実が垣間見えて来るからなんです。


 そんなエリヤを憐れみ深くケアして下さった主なる神様

 今日の話の続きを見てみましょう。 実は、今日の話がさっきの18章の大活躍のエリヤの話と違うのは、お祈りをしていたエリヤ本人の姿だけではなかったんですね。もう一つ、そんなエリヤの祈りを聞いておられた神様ご自身の方もまた、18章の時とは違ってたんですよ。どんなふうに違ってたのか、分かりますでしょうか? 実は神様は、今日の所では18章の時とは違って「エリヤが祈った祈りに、直ちにはお答えなさらなかった」ってことなんです! いいや、それどころか、「エリヤが祈った祈りの言葉の通りには、神様は、全くもってお答えなさらなかった」んですよ! そのおかげでエリヤはこの時に、「エリヤが祈った通りに、その場でいのちを取られる」なんてことにはならずに済んだわけだったんです。それはどうなんでしょう? ガッカリなことですか? いいや、逆ですよ! 「なんて憐れみ深くて優しいお心遣いにあふれた、とっても有難い応対をしてもらったことだろう」って思わされるんじゃないでしょうか…?

 だけど、それだけではないんです。その上で神様は、この時のエリヤのお祈りに、全くもって予期しない…、少しも想像だに出来ないようなやり方で、慈しみ深くお答え下さったわけなんです。まずは、死んだように横たわって、バッテリーが切れたロボットみたいになってたエリヤのために「とっても繊細で恵み豊かなケア」を神様は行って下さいました。今日の5節を見ると、神様はエリヤのもとに一人の御使いを送って下さったんですね。その御使いは、エリヤに「起きて食べなさい」と言いました。ふと見ると、エリヤが寝転がってた頭のそばに、「焼け石で焼いたパン菓子一つと、水の入った壺があった」(6節)んです。「『やけっぱち』になってたエリヤに『焼け石で焼いたパン菓子』を出してやるとは、神様も洒落てるなあ」って思っちゃうんですが…、寝転がってた頭のそばに、わざわざ食べ物を持って来てくれるとは、まさに「上げ膳、据え膳」じゃないですか! しかも、自分は言いたい放題、勝手につぶやいてて「有難う」も言えないような人の枕元に…だったんです。

 私はこの場面を読むと、私が昔、子どもだった頃のことを思い出すんですね。子どもの頃に風邪をひいて熱を出して、うんうん唸って寝ている私の枕元によく、私の母が「ヨーグルト」を持って来てくれたんです。それは昔の寒天で固めたスッパ甘い、ガラスの瓶に入った「明治のヨーグルト」だったんですが…、私はあれだけは食欲がなくても食べられたんですね。それに、当時はそれは「病気になった時だけ食べられる特別な食べ物」だったんですよ! そういう特別なケアを受けられるってことは、なんとも有難くて嬉しくて、とっても心温まることなんじゃないでしょうか?  そして、そういうことをやってくれるのが「自分の母親」ならぬ「神様」だったとしたら、どうですか? 神様が、皆さんの枕元に懇ろに、「明治のヨーグルト」ならぬ「焼き石で焼いた焼き立てのパン菓子」を置いて下さる…、たぶん、そっちの方が遥かに美味しいと思いますが、そういうものを神様がそっと置いて下さるだなんて、なんて有難い話じゃないですか! それはもう、あまりにも勿体なくて恐縮しちゃって、言葉にならないくらい嬉しくて、心の奥からポッカポカになって来るような話なんではないでしょうか!!

 エリヤはこの時に、そういうふうなことを体験させてもらってたんですね。これがもし、エリヤが元気な時だったら、「あなた様にそこまでやらせるだなんて、とんでもございません!」って平に辞退したでしょう。 でもこの時は、そういうこともままならないくらい、エリヤの心はどっぷりとダウンしちゃってたんですね。そこで神様はゆっくりと、エリヤの心と体が回復するのを待って下さって…、その上で、もう一度エリヤを立ち直らせて下さるために、エリヤを「さらなる神様との祈りの対話の深み」へとお招き下さいました。そうして、そのお話は、今日は読んだ話の次の所に書かれてた「エリヤが四十日四十夜歩いて神の山ホレブに着いてからのお話」だったんです…。


 自動販売機やクレーンゲームやガチャポンでもない「祈り」

 皆さんは、皆さんが神様にお祈りする「お祈り」という営みは、どういうことに似ていることだとイメージしますでしょう? ある人は、「祈り」というものは、「自分が自動販売機の前に立って、自分の欲しい飲み物のボタンを押すこと」みたいなことなんだとイメージいたします。自分が欲しい物を思い通りに手に入れる…、そのために「自動販売機のボタンをポンと押す」みたいなことをするのが「お祈り」なんだ…ってふうにです。だけど、聖書が教える「お祈り」は、そんなふうに「自分が欲しい物を当然のように要求する」ってこととは、ちょっと違います。神様に対しては、「当然のように要求できること」など、私たちには一つもないからなんですね。

 それで、ある人は、それなら「祈り」とは「クレーンゲームをするみたいことなんだ」とイメージするかもしれません。「クレーンゲーム」って知ってます? それは「UFOキャッチャー」とも呼ばれてるものですが、「オモチャのクレーンを操って自分の欲しい物を手に入れる販売機」のことなんです。そうして、その特徴は「欲しい物を狙って手に入れるためには、自分が自分の努力で一生懸命に頑張らないといけません」ってことなんです。やってみた人は分かると思いますが、結構難しいんですよね。自分が好きな「プーさんのぬいぐるみ」をゲットしようと思ってクレーンでキャッチしようとしても、スルッと抜け落ちちゃって、なかなかキャッチ出来るもんじゃないんです! だから、何度も何度も辛抱強く頑張らないといけない…。「祈り」とはそんなふうに「自分が欲しい物を手に入れるため、自分の力で辛抱強く頑張って、霊的なエネルギーを絞り出す…、そういうふうな営みなんだ」と考えるわけなんです。 だけど、聖書が教える「祈り」は違うんです。「超能力か何か」だったらそうかもしれませんけども、「神様に祈る」とは、「自分の力で頑張って『神様というクレーン』を動かすこと」ではないんですよ。

 そこで、ある人は、それなら「祈り」とは、「ガチャポンにお金を入れてレバーを回す」みたいなことじゃないかとイメージするかもしれません。「ガチャポン」とは、スーパーなんかのお店の入口辺りに置いてる「カプセル入りのオモチャが出て来る販売機」のことですね。ただし、何が出て来るかは、お金を入れてみないと分かりません。「そんなガチャポンに、偶然のラッキーチャンスを期待して、お金を入れる」…、「神様に祈る」とは、そんな感じのことなんだと考えるわけなんです。だけど、聖書が教える「お祈り」は、そんなものとも違うんです。「ガチャポン」は言うならば、「自分の運命を偶然の成り行きに任せること」ですよ。しかも、「偶然の成り行きに任せる」って決断するのも自分自身なので、結局は「自分自身が自分の運命をコントロールしてる」ってことには変わりないんですね。けれども、聖書が教える「祈り」とは、そういうふうなこととも違うんです。

 じゃあ、何が、どう違うんでしょう? 実は、「自動販売機」も「クレーンゲーム」も「ガチャポン」も、いずれにしても、「自分自身が、自分の力と判断で、自分の人生をうまいようにコントロールしようとしているだけのこと」なんですね。言い換えれば、「自分自身が人生の王様となって思い通りにやって行く『自分の国』に、あぐらを掻いたままでいる」ってことに過ぎないわけなんです。けれども「本当の祈り」とは、「自分の願いがどうあろうとも、自分の運命がどうなろうとも、『自分の国』ではなくて『神の国』って世界に生きることを願い求めること」なんです! 「私の弱くて罪深い自我が何を言って来たとしても…、私の心と頭がどんなに混乱して壊れそうになったとしても、神様の憐れみ深い救いのご支配の中に、そういう自分をそっくり委ねること」なんです! つまり、「『自分の国』に不健全に閉じこもりそうになっちゃう私を、神様が『救いの王』となってご支配されてる『神の国』に、思い切って預けること」なんですよ! それが、聖書が私たちに教えてる「お祈り」なんですよ。

 そして、その祈りを祈る際には、変な言い方ですが、必ずしも「行儀の良い祈り方」でなくても構わないんですね。自分の情けない弱さのゆえに「祈りとも言えないような祈り」しか神様の前にお献げ出来なかったとしても、そんなことで神様は「そんな祈りじゃダメだ!」と皆さんの祈りを却下される…だなんてことは決してありません! むしろ神様は、皆さんが、皆さん自身を神様の御手の中に精一杯の信頼をもってお委ねしようとしてる限りは「皆さんのお祈り」を、どんなに舌足らずであっても喜んで耳を傾けられるんです。たとえ皆さんが、祈りの言葉を一言も呟くことも出来ずに、ただただ地面に倒れ込んで、やけっぱちになってても、神様に信頼して身を預けてる限りは神様は、「皆さんの呻き」を「皆さんの祈り」として聞いて下さるわけなんです!

 そうしてです。そんな皆さんのためには神様は、皆さんにとっての「一番ふさわしい最も良い答え」を「皆さんが実際に祈り求めたこと」とはまた別に、責任を持ってお与え下さるわけなんです。そうして、神様ご自身のイニシアチブをもって皆さんを、「神様の目から見て最もふさわしい形」で癒して慰めて、お救い下さるわけなんですよ! だから、今日も言いますが、「祈り」とは私たちに「神の国での暮らし方を教えてくれてる営み」なんですね。 たとえ皆さんが、「祈りとは言えないような祈り」をつぶやいてるだけだったとしても、そうなんですよ。


まとめ

 しばらく前のテレビのニュースの話ですが、ある人が、アパートの家賃を払えなくなって滞納しているうちに、とうとう裁判所から強制代執行の処分を受けて、強制的にアパートから追い出されることになりました。するとその人は、自分の住む所がなくなることに絶望し、やけっぱちになって、強制代執行をするためやって来た人たちをナイフで切り付けて、自分の部屋に火を付けた…、そんな事件がありました。自分の人生に絶望しちゃって、やけっぱちになっちゃうと、人は、そんなことまでやっちゃいかねない…ってことですね。 

 けれども私たちは、同じ「やけっぱちになる」のなら、神様に向かって「やけっぱちに」なりましょう! そして、「祈りとは言えないような祈り」であってもいいから、神様に祈りましょう。そうすれば神様は、今も、「やけ」になってる皆さんのために、目には見えない「焼け石で焼いた焼き立てのパン菓子」を、皆さんの「心の中の枕元」に、そっと置いて下さるんですね。




# by sagaech | 2026-02-22 18:58 | 礼拝メッセージ

あなたの涙も見た

(各自の中に、神の家を建て上げよう)22          2026.2.15

「あなたの涙も見た」

             列王記第二201-11


 あなたの涙を受け止めてくださる御方

 ところで皆さんは、最近「涙を流して泣いたこと」ってありますか? 皆さんが最後に涙を流して泣いたのは、いつだったでしょう? 私たちは、赤ちゃんの時には、しょっちゅう泣いてます。だけど、大人になると、ほとんど泣かなくなりますよね。だけど、人はそもそも「涙を流して泣くように造られてる」そうなんです。研究によると、「犬や猫にも涙はあるが、感情をもって、えんえん涙を流して泣くのは人間だけだ」って話なんですよ。じゃあ、どうして私たちは泣くんでしょう? 

 たとえば「嬉し泣き」というのもあって、映画館で泣いてる人は、大体それですよ。 だけど、人が涙を流して泣くのは多くの場合、どうしようもないくらい悲しくて辛い事が起こるから…なんではないでしょうか? 「どうしてこうなるんだ?」と呻かないではいられないことに「これでもか!」ってくらいに見舞われるから…なんじゃないかと思うんです。それなら、そんな時には、どんどん泣けばいいと思いません? 「それは最も人間らしいことなんだから、遠慮しないで泣けばいい」って…。

 ところがです。私たちは、実際にはそうはなかなか出来ないんじゃないでしょうか? むしろ、ずーっと涙を堪えてる…ってことの方がしばしばなんじゃないかと思うんです。 どうしてか? それはたぶん、私たちが置かれてる環境が泣くことを許さないから…なんだと思います。私たちは、この世の中でいろんな責任を負うと「泣いてる場合じゃない」ってプレッシャーが掛かる…。その結果、大人になるほど涙を忘れた日々を過ごしちゃうんですよ。でもそれは、精神的には不健康なことですよね。私たちは、「思いっきり泣く」ってことによって、心の奥に溜めてたものを吐き出して癒される…、そういうことが少なくないと思うんです。ただし、そこには大事なことが一つあるんです。もしもそこに、私の「涙」をしっかりと受け止めてくれる相手がいなければ、私たちはたぶん、「遠慮しないで泣く」ってことが、なかなか出来ないわけなんですよ。つまり、人は誰しもが「自分の涙を優しく受け止めてくれる相手」が必要なんですね。「泣くな、男だろう!」とか、「お姉ちゃんなんだからメソメソしないの!」とか叱られるんではなくて、「好きなだけ泣いていいんだよ」って安心して私の涙を受け止めてくれる相手…、そういう誰かを私たちは必要としてるんです! でないと私たちは、泣くに泣けないわけなんですよ…。

 来月の311日で、東日本大震災から15年となりますが、それに合わせてこの間、NHKのテレビで「震災遺児の方々の話」が紹介されてました。仙台の「あしなが育英会」が、震災で親を亡くした子どもたちのために「にじカフェ」って名前の交流場所を開いて来た…ってお話だったんです。そこに集まる震災遺児の方々は今、15年経ってすっかり大人になってるんですが、「その『にじカフェ』は今も、自分たちにとっては大切な場所なんだ」って話しておられたんです。なぜかというと、「そこに来ると、同じ体験をしてる仲間がいるので、遠慮しないで泣けるから…」っていうことらしいんです。ある若い女性の方は、「私のお母さんは、自分を助けに来ようとして、自分のせいで津波に飲まれて亡くなったんだ」って、15年経った今でも涙を流して泣いてました。「だけど、そういう涙は普段は流せない…。自分と同じ痛みを知ってる人の前じゃないと、安心して涙を流せない…。だから、『にじカフェ』に来るのが嬉しいんだ」…、そんな話をしてたんです。

 この震災孤児の方々にとっては、その「にじカフェ」って所があることが、とっても幸いなことなんだなあ…って思いました。というのは、多くの人は、そういう「涙を流せる相手や場所」をなかなか見つけられないからなんです。それじゃあ、見つけられない場合はどうするのか? ある人は、最近のSNSに匿名で思いっ切り「泣きたい事」を書き込みます。そうすることで「涙を流す場所」を作るんです。でも、それも良し悪しで、そういう「涙の独り言」をSNSで見た人たちから、かえって揶揄われて苛められることもあるんですね。そうなると、もう、どこにも涙を持って行けなくなってしまうんです。それで、仕方がないから、たった一人で自分のお部屋の壁に向かって涙を流す…、精々そんなことしか出来なくなっちゃうわけなんです。だけど、それで慰められるのか?…っていうと、そうではないんですね。人はただ「涙を流して泣く」ってだけでなく、「その涙を受け止めてもらえた」って実感がないと癒されないからです。それがないと私たちは、泣けば泣くほど、かえって深みに落ちて行っちゃうこともあるんですよ…。

 けれどもです。けれども、そんな私たちのために聖書はとっても慰められることを教えてくれている…、そのことを皆さんは知っておられましたでしょうか? それは、こういうことなんですね。「私たちがたった一人で孤独に涙を流して泣いてる時に、その涙をしっかりとご覧になって下さってる御方がいるんです!」ってことなんです。クリスチャンって言う人は、「自分がたった一人で顔を壁に向けて泣いてる時に、その壁の向こうには、目には見えないけれども、その涙をしっかりとご覧になってる御方、神様がいらっしゃる」…、そのことをよーく知ってる人のことなんです。


 ヒゼキヤは「遠慮なく涙を流せる相手」を知っていた

 今日の所を振り返りましょう。ここにも実は、そういう人がおりました。それはヒゼキヤって人だったんです。ヒゼキヤは、昔のイスラエルの王様で、北と南に分かれた南ユダ王国の王様だったんですね。そうして何よりも、神様を真っすぐに信じる敬虔な信仰者であったんです。実際、今日の第二列王記の18章ではヒゼキヤは、こんなふうに賞賛されておりました。「彼は、すべて父祖ダビデが行ったとおり、主の目にかなうことを行った。…彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼の後にも前にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。」(列王記第二1835節)って…。 

 ところが、そんなヒゼキヤはある日、「病気になって死にかかっていた」(1節)っていうんですね。1節に「そのころ」とありますが、これは非常に大雑把な言葉であって、正確な時期はよく分かりません。だけど、6節で神様は、「わたしは、あなたの寿命にもう十五年を加える」ってヒゼキヤに言いました。ヒゼキヤは25歳で王となって29年間の統治の後に、54歳で亡くなったんですね。すると、今日の話はヒゼキヤが亡くなる15年前のこと…、つまり、ヒゼキヤが39歳の頃の話だったらしいんです。だったらヒゼキヤは、若干39歳で「あなたは死ぬ。治らない。」って言われちゃった…ってことなんですね! それは、どう考えても若過ぎでしょ! 到底、諦められる話じゃないじゃないですか!

 それにです。ちょうどこの時は、南ユダ王国にとっても非常に大きな試練が迫ってたんですね。ちょうどその頃アッシリアって超大国が強大な軍事力でもって南ユダ王国を攻め滅ぼそうとして、都のエルサレムにまで迫って来てたんです! 「そんな一大事の時に、どうして王である自分が死んでいられるか?」ってヒゼキヤは思ったに違いないと思うんですよ。ところが、何とも残酷なことに「あなたは死ぬ。治らない」って告げられた…。すると、それを聞いたヒゼキヤはどうしたのか? 「ヒゼキヤは顔を壁に向け、主に祈った」って言うんですよ。たぶん、病で床に伏してたヒゼキヤは、やっとの思いでベッドの上に座って神様の御告げを聞いたんでしょう。だけど、あまりにショックな知らせにクルッと背を向けて、顔を壁に向けたまんまで、こうお祈りしたんです。「ああ、主よ、どうか思い出してください。私が真実と全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたの御目にかなうことを行ってきたことを。」 そうしてヒゼキヤは、涙を流して「大声で泣いた」っていうんですよ…。

 このヒゼキヤの「涙の祈り」をある人は、「ちょっと残念なお祈りだ」って評してます。『彼ほどの者は誰もいなかった』と言われるヒゼキヤ王も、いざとなったら自分のことしか頭になくて、自分の信仰深さばかりをアピールしてる」って…。確かに、どんなに敬虔な信仰者でも、いざとなったら、そういう弱さはありますよ。「あなたはもうすぐ死ぬ」と言われて動揺しない人なんていませんもん! でもこれは、そういうお祈りとは、ちょっと違うと思うんです。そうして、それを知るには、「ヒゼキヤ王がこれまでどんな歩みをして来たか」を知る必要があるんです。

 ヒゼキヤは、この後アッシリアの大軍にエルサレムが攻め囲まれた時に、神様に信頼する見事な信仰を発揮いたしました。そうして、歴史に残る「大どんでん返し」をやってのけたんです。なんと、アッシリアの18万もの軍勢が一夜にして死に絶えて、アッシリアのセンナケリブ王は命からがら逃げ去って行ったんですよ…。そうしてそれは、ヒゼキヤ王の祈りに答えて神様が、超自然的な奇跡でもって守って下さったからなんです。ですが、それはこの時はまだ、これから起こる未来の出来事であって、ヒゼキヤがこれまでやって来た働きは別にあったんですね。

 実はヒゼキヤは、これまで熱心に神様に聞き従って南ユダ王国の中で、いわば「宗教改革」を推し進めて来たんです。というのも南ユダ王国は、ヒゼキヤが王様となる前は非常に問題だらけの国だったんですね。エルサレムの都には、「主なる神様の神殿」が建っておりました。だけど、その神殿の中にはなんと「主なる神様とは全く違う偶像の神々」が平気で祀られていたんです。しかも、その偶像の神々は非常に恐ろしい神々で、「人間の子どもを生きたまま燃やして生贄とする」ってことを求める神々だったんです! そんな恐ろしい罪がすっかり国中に蔓延していた中でヒゼキヤは、若くして王様になりました。けれどもヒゼキヤは、「長い物には巻かれろ」ってふうにはならなかった…。その反対に、主なる神様への堅い信仰に立って大改革を進めて行ったんですよ。具体的には、国中にあった偶像の神々をすっかり取り除いて、人々を「唯一真の神様」への礼拝に立ち返らせました。

 だけど、そういうことをやり出すと、必ず抵抗勢力が反撃して来ます。しかもそれは、若いヒゼキヤよりも年上の年長者たちであって、下手したら暗殺されるかも…。だから、相当なストレスだったはずなんです! けれどもヒゼキヤは、そうした大改革を、主なる神様にひたすら信頼して見事に果たし切りました! だからこそヒゼキヤは、「彼の後にも前にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった」と言われるほどの王様になったわけなんです。

 けれども、一難去ってまた一難で、今度はアッシリアの大軍がやって来て、そんな時に病に伏しちゃって、「あなたは死ぬ。治らない」って宣告されちゃった…ってことだったんですよ。 これが皆さんだったらどうします? 平気な顔でいられます? たぶん、こう思うんじゃないでしょうか、「どうしてですか?」って…。 「どうしてですか、神様? なんでこんな大事な時に、こんなに酷い病を、この私が患わないといけないんですか? しかも、どうしてこの私が今、死ななきゃならないんですか?」って…。「だって神様、あなたが一番ご存じのはずですよ! この私がどれだけ今まで犠牲を払って、あなたのために真実な心でお仕えして来たか…。どれだけ私が、あなたのために死に物狂いで頑張って来たか…。そのせいで、どれだけ私が苦労して大変な思いをして来たか…。なのに、どうしてその私が40歳にもならないうちに死ぬんです? そんなことって有りですか?  いったい、私が今までやって来たことは何だったんですか?」って…。 「ああ、主よ、どうか思い出してください。私が真実と全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたの御目にかなうことを行ってきたことを。」3節)…。このヒゼキヤの言葉には、そんな思いがギュッと詰まってたわけなんです。だからこそヒゼキヤは、顔を壁に向けて「大声で泣いた」んですよ。

 それは一見すると「自分のことだけ祈ってて、自分の正しさばかりを主張してる祈り」に見えるかもしれません。だけど、そうではないんです。人は、そんなふうに泣くしかない時があるんです。 どうにも辛くて悲しくて…、なのに、自分自身じゃどうにもならない…、そんな時には泣くしかないじゃないですか…? けれどもです。そんなヒゼキヤにとっても非常に幸いなことがあったんです。それは、「ヒゼキヤは、自分が泣きたいことを思い切って泣いて遠慮なく涙を流せる相手を、ちゃあんと知っていた」ってことなんですよ! そうして、その相手とは、「目には見えないけれどもこの天地に確かにいらっしゃって、ヒゼキヤの涙をしっかりとご覧になって、『わたしは、あなたの涙も見た』と仰って下さる御方…、主なる神様」だったんですよ!!

 ヒゼキヤは、この時はただ絶望にしていただけだったでしょう。そして、そんな中で涙を流すのは「絶望に打ちひしがれてる姿」に過ぎない…、普通はそう見えたでしょう。だけど、それでもヒゼキヤは幸いだったと思うんです。自分が心の中に溜め込んでた「とっても重苦しいもの」を「涙を流すこと」によって自分の中から解き放つ…、そういうことが出来たから…。そうして何よりも、そうやって自分が遠慮なく涙を流せる相手をしっかりと持ってたからなんです。じゃあ、それならば、私たちはどうなんでしょう? 皆さんは、そういう「遠慮なく涙を流せる相手」を持っていますでしょうか? 皆さんの涙をしっかりとご覧になってくださる御方が、皆さんが向き合う壁の向こうにいらして下さってることを、皆さんは知っておられましたでしょうか…?


 「涙の祈り」に神様は、憐れみ深くお答えして下さる

 ところでです。今お話しした話は、とっても有難い話に間違いないと思いますよね。皆さんがいつでも安心して涙を流せる相手が、皆さんが涙を流す壁の向こうの天にいらっしゃる…、それは間違いなく有難いことだと思います。けれども、聖書は実は、もっと有難いことを教えてくれてるんですね。 どんな有難いことでしょう? それはです、「私たちの涙をご覧になって下さる神様は、ただ単に私たちの涙を優しく受け止めて下さるだけではない」っていうことなんですね。「私たちが涙を流して神様に祈る時、その祈りに神様は憐れみ深く、ご自身の力強い救いの御わざをもってお答え下さるんだ!」っていうことなんですよ。

 今日のヒゼキヤの話の続きを見てみましょう。ヒゼキヤは涙を流して神様にお祈りしましたが、その直後に神様は、預言者イザヤにこうお告げになったんです。「引き返して、わたしの民の君主ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、主はこう言われます。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ、わたしはあなたを癒やす。あなたは三日目に主の宮に上る。わたしは、あなたの寿命にもう十五年を加える。わたしはアッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出し、わたしのために、わたしのしもべダビデのためにこの都を守る。』」(5-6節)って…。 そうしてイザヤは、「ひとかたまりの干しいちじく」を持って来させて、それをヒゼキヤの患う腫物に当てたというんです。「干しいちじくのかたまり」とは、「干したいちじくをペースト状にしたもの」で、それは当時の塗り薬でありました。まあ、どこにでもある薬だったんですが、それを塗ってあげた…、そうしたらヒゼキヤは、「治った」って言うんですよ! 「なあんだ、だったら最初からそれを塗ってれば良かったんじゃない?」って思うのは、ちょっと浅はかなんですね。そんなことは既にやったでしょう。でも、治らなかったんです。ところがこの時は、神様ご自身が「わたしはあなたを癒やす」って仰った…、だからこそ治ったわけなんです。しかも、「三日目に主の宮に上る」とは「直ちに治った」ってことなんですね。つまり、神様の驚くべき奇跡がなされました…ってことだったんです!

 だけど、それだけではなかったんです。ヒゼキヤはさらに、もっと確かな確信を求めてイザヤに尋ねました。「主が私を癒やしてくださり、私が三日目に主の宮に上れるしるしは何ですか?」って…。「主の宮に上る」とは、「エルサレムの神殿に行って礼拝すること」でした。だけど、「神殿」とは聖なる所であって「汚れた者は入れない所」だったんです。だからヒゼキヤは、本当にそこまで治ったのかを確かめたかったんでしょう。でもそうしたら、ヒゼキヤはもっとさらに物凄い奇跡を見せてもらっちゃったんです! イザヤは言いました。「次のことが、あなたへの主からのしるしです。主は約束されたことを成就されます。影が十度進むか、十度戻るかです。」って…。何を言ってるのかと言うと、当時の「日時計の影」のことだったんです。…と言ってもそれは「日時計の代わりにしていたもの」だったんですね。今日の11節に「アハズの日時計」ってことばが出て来ましたが、直訳は「アハズの階段」です。それは、ヒゼキヤ王の前の王様だったアハズ王が建てた宮殿に付いてた階段だったんです。そこに太陽の影が落ちていて、日が傾くに従って階段の一段一段に影が伸びて行く…、それがちょうど「日時計の針」のような役目を果たしてた…っていうものだったらしいんです。その「日時計の影」を一瞬にして「十度進ませるか、十度戻すか」…、どっちかの奇跡を神様が、ヒゼキヤの「癒しのしるし」としてやって下さるんだ…ってお話だったんですよ。

 これもまた、ぶったまげる奇跡です! 「イルージョンでもあるまいに、そんなことは太陽が突然、猛スピードで移動するってことでもなければあり得ない…。なのに、どうやってそんなことが出来るのか?」って考えちゃうんじゃないでしょうか? ところが神様は、そんな心配をよそに「さあ、どっちを選ぶ?」って仰った…。するとヒゼキヤは、「影が十度伸びるのは容易なことです。 むしろ、影が十度後に戻るようにしてください。」と言って、より難しい奇跡の方をお願いした…っていうんですよ。 どうやら「アハズの日時計」は、太陽が西に傾いた時に影が伸びて行って時を刻む…、そういう位置にあったらしいんです。だったら「影が伸びる」のは普通の動きなので、ヒゼキヤは敢えてその逆方向の動き、「明らかな奇跡」としか考えられない「影が戻る」ことの方をリクエストしたんです。でも、そうしたらなんと、「主は、アハズの日時計に落ちた日時計の影を十度後に戻された」っていうんですよ!


 「涙を流して祈ること」にはスッキリする以上の恵みがある

 さて、いかがでしょう? 今見て来たお話は「神様の物凄い奇跡」についての話でありました。けれども、本当はそれ以上の、もっと物凄い話が語られてたんですね。それはです、「神様はただ単に『私たちの涙』を優しく受け止めて下さるだけでなく、『私たちの涙の祈り』に実際に、憐れみ深く力強くお答え下さる御方なんだ」っていうことだったんです!

 もちろん、涙を流してお祈りすれば神様は、いつでもこのような奇跡を行って下さる…ってことではありません。けれども神様は、「皆さんの魂の叫びに他ならない涙」と一緒に献げられる「祈り」には、ただ黙って見ているわけにはいかないんですよ! 神様の「あなたの涙も見た」と仰るみことばは、そういう神様のお心を伝えてるんですね。つまり、今日のお話は、「ただ単に涙を流すこと」と、「涙を流して精一杯に神様に祈ること」の違いを私たちに教えてくれていたんですよ。「ただ単に壁に向かって涙を流す」のは、とっても孤独で空しくて、時には私たちを絶望させて終わるだけだったりもします。だけど、「壁の向こうにおられる神様に向かって涙を流す」なら、私たちは、とっても大きな救いの恵みを見せてもらって、「本当のいのちに道」に、「真の救いの人生」に歩ませてもらえるようになるんですよ!!

 ちょっと医学的な話をしますと、私たちの「涙」の中には「ストレスホルモン」って成分が含まれてるんですね。それはつまり、皆さんが涙を流して泣く時、その涙の中には皆さんが持ってるストレスも排出されている…ってことなんです。…ということは、「涙を流すこと」には、私たちの体の中に溜まったストレスも一緒に洗い流される効果がある…っていうことなんですね。しかも、それと同時に「涙を流す」とエンドルフィンなんかの「幸福ホルモン」も分泌されるというんです。だから、「涙を流して泣くとスッキリする」んです。ですが、「涙を流して神様にお祈りする」ってことは、それよりもっと遥かに大きな恵みがあるんです! 「スッキリする」なんてものじゃないんです。そんなことより、もっと遥かに幸いな救いの恵みの中に、神様は私たちを招いて下さるわけなんです。


まとめ

 最後にもう一つ、今日もこのことをお話しさせていただいて終わりたいと思います。私は礼拝メッセージで繰り返し、「祈りとは、『神の国での暮らし方』を教えてるものです」ってお話ししてまいりました。それは言い換えると、「祈りとは、ただ単に自分の涙を思う存分流してスッキリするためのものではない」ってことなんです。もしも、そんなものだったら「祈りとは、私たちが『自分の国で思い通りに暮らす』ためのもの」に過ぎなくなるでしょう。「涙を流して泣きたくなっちゃう、どうにもならない感情を、ただ単に自分自身でコントロールして暮らすためのノーハウ」に過ぎなくなるでしょう。けれども、そうではないんですね。それよりも「祈り」とは、「私たちの涙の意味をよーくご存じで、涙を流さないではいられない私たちのどうにもならない心と人生を憐れみ深くご支配して下さる『天地の王であられる神様』に、私たちの涙をすっかりお託しさせていただく営み」なんですよ。だったらそれは、「自分の国」ではなくて「神の国で暮らすこと」に他ならないと思いません? 「祈り」とは、そういうためのものなんです。

 今日のヒゼキヤ王の話は、何とも不思議なところがありました。たぶん神様は、初めからヒゼキヤを癒やしてあげるつもりで死の病に伏させたんですね。だから、ヒゼキヤが涙をもって祈ると直ちに憐れみ深く癒されて、その上、15年の余命までも与えて下さったんです。そうして、それは実は、「南ユダ王国のこれからの命運を暗示していた人生」だったんだと思うんです。つまり、ヒゼキヤはいわば、神の民が味わわされる苦しみと、そこから憐れみ深く救い出される神様の愛」を証しする「しるし」としての人生を生きたわけなんです。

 神様を信じる私たちクリスチャンは、そういう人生に召されて「涙する」ってことがある…ってことなんです。でも、だからこそ、私たちは、ただ単に「涙を流す」だけでなく、「神様に涙を流して祈る」ってことをいたしましょう! そうして「あなたの涙も見た」と仰って下さる「神様の慈しみ深い救いのご支配」の下で暮らして行く…、そういう者とならせていただきたいと思います。



# by sagaech | 2026-02-15 21:01 | 礼拝メッセージ

重荷をゆだねる祈り

(各自の中に、神の家を建て上げよう)21            2026.2.1

「重荷をゆだねる祈り」

               詩篇551-23


 「呪いの祈り」vs.「呪ってはいけない」

 今日の詩篇55篇は、ダビデが神様に祈った「祈り」ですが、もしもこれが「祈り」なら、何とも気になることばがあるんじゃないでしょうか? それは、今日の15節のことばです。「死が彼らをつかめばよい。彼らは生きたまま よみに下るがよい。」…、そうダビデはお祈りしたんですよ。これは、いわゆる「呪いの言葉」です。「彼ら」と言われてる人たちに、ダビデは「祝福」を求めてあげてたのではなくて、反対に「災いや呪い」を求める言葉を吐いていた…ってことなんですよ! 実は、このような「呪いの祈り」は、詩篇の中には他にも幾つかあって、「呪いの詩篇」と呼ばれてるんですね。ただ、今日の55篇はその中でもマイルドな方であって、もっと凄い言葉がたくさん出て来る詩篇もあるんです。

 だけど、そういう「祈り」って、アリなんでしょうか? 「呪いの祈り」は、果たして「祈り」としてはOKなんでしょうか? 聖書は「呪いの祈り」を積極的に認めて、「もしも、あなたに憎たらしい人がいたら、散々に呪ってやれ!」と教えてる…っていうことなんでしょうか? たとえば、アフリカや東南アジアに行くと、今でも「誰かを呪って殺すため、悪霊みたいな神々に祈る宗教」がありますが、聖書もそんなことを教えてるんでしょうか? もしもそうなら、非常に恐ろしい話であって、「とてもじゃないけど私は、そんなお祈りなんか教わりたくありません」って思ってしまうんじゃないでしょうか? でも、安心して下さい。もちろん、聖書はそんなことは教えてないんですね。むしろ、新約聖書のローマ人への手紙1214節では、こんなふうに教えてられてるんですよ。「あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません。」(ローマ12章14節)ってです。

 だけど、もしもそうなら、ますます矛盾していませんか?  ダビデが祈った今日の「呪いの詩篇」は、「祝福すべきであって、呪ってはいけません」って聖書の教えと、どうやって矛盾しないで両立するんでしょう…?


 ダビデが祈った「呪いの祈り」

 そこで、今日の詩篇をじっくり振り返ってみたいと思うんです。詳しい話は分かりませんが…、ある日、ダビデは、周りの人たちからの思いがけない激しい敵意に晒されちゃったんですね。そして、とっても厳しい迫害を受けちゃって、非常に辛くて苦しい状況の中に追い込まれてしまったわけなんです。ですが、そういう中でもダビデは神様の前に進み出て、自分自身の正直な思いを、包み隠さず絞り出すようにお祈りした…。それが今日の詩篇の「お祈り」だったんですよ。

 ただし、ダビデが晒された敵意とは、たとえば戦をしていた相手の「敵の国からの敵意」ではなかったんですね。「そういう敵意だったら我慢できるけど…」ってダビデは言うんです。だけど、ダビデが受けてた敵意とは、なんと自分の国の人たちからの…、それも、前からとっても親しくしていた人たちからの裏切りによるものだったんですよ! そういう中で味わわせられる思いとは、どんなものだと思います?  ダビデは2節で、こう言ってます。「私は悲嘆にくれ、泣き叫んでいます。」 それから4-5節では、「私の心は 内にもだえ 死の恐怖が 私を襲っています。恐れと震えが私に起こり 戦慄が私を包みました」とも言ってます。さらには17節で、「夕べに朝に また真昼に 私は嘆き うめく」とも語ってるんですよ。つまり、「大きな失望と深い悲しみ」、「恩を仇で返すような仕打ちに対する激しい怒り」…、それに「自分はこれからどうなってしまうんだろう?」って怯える「何とも言えない恐怖」…、そういうふうなものだったわけなんです。ダビデは本当は、当時のイスラエルで最も力を持ってた「王様」だったんですね。ところが、その王様が「死の恐怖」に怯えちゃう…、それ程までの悪巧みが、ダビデのすぐそばまで迫っていたってことなんです。

 それはたぶん、表立った反逆よりは、言葉巧みにフェイク情報を流してダビデについての「誹謗中傷」を広めてた…、そういうことかもしれません。21節の「その口は よどみなく語るが 心には戦いがある。そのことばは油よりも滑らかだが それは抜き身の剣である」って言葉はまさに、そのことを指していたんでしょう。つまり、見える所じゃ親しく振る舞って、見えない所じゃダビデの敵対者を増やして、クーデターを起こそうと狙ってる…、そんなとっても陰湿な悪意に晒されてたんですよ。

 具体的な出来事としては、「ダビデの親しい友人であったアヒトフェルって人がダビデをコロッと裏切って、ダビデの実の息子のアブシャロムの謀反に加わった」サムエル記15章)…、そんな事件がありました。そういう状況に置かれた時って、皆さんはどんな気持ちになりますか? 「ああ、なんてこった!」と思うでしょう。そして、「こういう悪意の中から何とかして逃げ出して、誰も知らない所に行っちゃいたい」って思うんじゃないでしょうか? ダビデもそう思ったんです。それで、6節からの所でこう言ったんです。「私は言いました。『ああ、私に鳩のように翼があったなら。飛び去って 休むことができたなら。 ああ、どこか遠くへ逃れ去り 荒野の中に宿りたい。嵐と疾風を避けて 私の逃れ場に急ぎたい。』」って…。 だけど、それは残念ながら不可能で、どこにも逃れられやしないんです。でもだからこそ、ダビデは切羽詰まってストレス一杯になっちゃって、心に溜まった鬱憤が爆発しそうになってたんですね。そんな中、ダビデは神様に、その鬱憤をまさに、思いっ切り洗いざらいにぶちまけるようなお祈りをした…ってことなんです。

 今日の22節でダビデは、非常に印象深い言葉を語りました。「あなたの重荷を主にゆだねよ。主があなたを支えて下さる。主は決して 正しい者が揺るがされるようにはなさらない。」って…。「あなたの重荷」って言葉は元々は、「あなたに与えられたもの」って意味なんです。つまり、「私たちの人生に与えられた、どうしても逃れられないもの」のことなんです。そういうものには、いろんな種類のものがありますよね。たとえば「病気」とか「生まれ育った境遇」なんかもそうですよ。だけど、ダビデが体験したような「激しい敵意」というものは、そういう「重荷」の中でも「最も重くて厳しい最たるもの」と言ってもいいと思うんです。そういう「敵意」がもたらすストレスは、私たちの心に非常に大きな「重荷」となって圧し掛かり、私たちを打ちのめして、生きて行けなくさせちゃう…。だから、一人で抱え込むのは、とてもじゃないけど無理なんです! それゆえダビデは、そうした「心の重荷」を神様に「祈り」ってことを通して洗いざらいに聞いてもらって、ぶちまける…、そういうことをさせてもらってたんですね。で、それがまさに、「あなたの重荷を主にゆだねる」っていうことだったんです。

 「ゆだねる」と訳されてる言葉は本来は「放り投げる」って意味なんです。だから、「自分の重荷」を神様に丸ごと「放り投げる」かのように遠慮なく、すっかり洗いざらいにぶちまけながら祈ってた…。それが、今日の詩篇のダビデの「お祈り」だったわけなんですよ。


 「自分の思いを何でもぶちまけられる」という祈りの恵み

 ただし、その時になんですね。ぜひとも注目して欲しいのは、「ダビデは、いわゆる綺麗事は言わなかった」ってことなんです。つまり、自分の中の正直な気持ちを押し殺して、「絶望」があるのに口にせず、「怒りや恨み」があるのに吐き出さず、「私の中には何の否定的な気持ちもありません」ってすましてる…、そんなふうには振る舞わなかった…ってことなんです! むしろ、自分自身の中にある正直な「絶望や、怒りや、恨み」をすっかりダビデは神様に申し上げてたんですよ。もちろん、そういう思いは「綺麗なもの」でもなければ「正しいもの」でもないかもしれません。「怒り」には「正しい怒り」もありますが、一歩間違えばコロッと「正しくない怒り」にエスカレートするからです。だから、そういう「否定的な思い」というのは決して良いものではないんですね。だけど、それをただ「無かったもの」にして押し殺す…っていうのではダメなんですよ! それでは何の健全な解決も生まれ来ないからなんです…。それよりも、神様の前にそうした「否定的な思い」を正直に申し上げて、それらのものを神様から、ふさわしく取り扱ってもらうんです! そして、そんなふうにしてもらってこそ私たちは、そうした「否定的で破壊的な思い」から初めて健全に癒されて、解放されて聖めてもらえるわけなんですよ。

 …ということはです。ということは、私たちは神様に対しては「誰かを呪わずにはいられない、どうにもならない怒りや恨み」をそのまんま打ち明けることが出来て、その思いを遠慮なく神様に聞いてもらえるんだ!…っていうことなんですね。神様に対してだけは、そういうことが出来るんです。神様に対してだけは、「私たちの正直な思い」をそのまんま素直にぶちまけても許される…っていうことなんですよ! でも、どうしてなんでしょう?  

 一つには、神様って御方は「私たちの心の中までご覧になられる御方」だからなんですね。なので、そういう気持ちを隠しておくことなんか、そもそも出来ないからなんです。

 二つ目は、そんなふうに「ぶちまけられる相手」がいなければ、私たちっていうのは、自分の中に「怒りや恨み」を溜め込むしかなくなって、精神的にとっても不健康になっちゃうからなんです。つまり、神様はいわば、「私たちのガス抜き相手」になって下さるんだ…ってことなんです。

 それから三つ目に、神様は、そういうふうにさせることによって私たちを、神様以外の人のことは「呪う」んじゃなくて「祝福する」…、そういう人にならせて下さろうとしているからなんです。つまり、私たちの心の中の「誰かを呪いたくなる思い」は神様に、すっかり預けてしまうんです。そうして神様に、そういう思いを正しく処分してもらうんです! 言い換えるなら、「人を呪う代わりに、祝福する者」となる…、そのためにこそ私たちは、自分の中の「呪い」は神様にぶちまけて、すっかり神様に預けちゃう…、そうすることが勿体なくも許されている…ってことなんですよ! だからダビデは、「死が彼らをつかめばよい。彼らは生きたまま、よみに下るがよい」って、「とっても酷い呪いの言葉」を平気で神様に向かって吐いてたわけなんです…。

 さて、ここまでお話ししたら、今日の最初の質問の答えが分かって来るんじゃないかと思いますね。「祝福すべきであって、呪ってはいけません」って聖書の教えと、今日のダビデが祈った「呪いの祈り」は、どう矛盾しないで両立するのか? その答えは、こうなんです。「人を呪わないようになるために、その呪いは神様にぶちまけなさい」ってことなんです。それは、新約聖書のローマ書の12章で、こう教えられてる通りのことなんです。「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい」って…。つまり、「自分で呪ってはいけません。神の呪いにゆだねなさい」ってことなんですよ。

 私たちは、よーく覚えておきましょう。この世の中には「呪いの言葉」をぶちまけられる相手なんて一人もいないでしょう。そんなことをしたら、一生絶交されるでしょう。けれども神様は、そういう「呪いの言葉」を私たちが思いっ切りご自身にぶちまけることをOK、カモン!」って許可して下さってるんですね。 そうしてそれを、「私たちの祈り」として聞いて下さるわけなんです! だとしたら、なんて感謝なことなんじゃないですか? なんて有難いことではないでしょうか!


 「対話型AI」と神様の「寄り添い」の違いとは…?

 ただし、「私たちの思いを思いっ切りぶちまけられる相手」は、この世の人間の中にはいませんが、人間でなければいるかもしれません。それは今、巷で流行ってる「対話型の生成AI」って奴ですよ。それが今、スマホやパソコンを通して誰でも自由に使えて、普通の人間と同じように受け答えをしてくれるんです。いや、普通の人間以上に賢くて、何でも答えてくれるんですよ! なので、最近はいろんな人がそのAIと一対一でプライベートなお付き合いをしてるというんですね。しかも、「友だちや家族以上に付き合いやすい」って評判らしいです。

 だけど、どうして付き合いやすいんでしょう? それは、友だちや家族のように思わぬ言葉にすねたり怒ったり…って面倒なことがないからですね。その上、どんなに長い時間やり取りしても「もう眠いから明日にして」とも言われない…。神様もそうなんですが、AI24時間相手をしてくれるんです! だから、AIはまさに、もう一つの「私たちの思いを何でも遠慮なく、思いっ切りぶちまけられる相手」になってるんですね。ある人たちにとっては、神様以上にそういう相手になっちゃってるわけなんです。「だったらべつに、神様にお祈りしなくたっていいんじゃない?」って言われてしまいそうなんではないでしょうか…?

 この間、NHKの『クローズアップ現代』という番組で、その「対話型AI」の最近の使われ方の詳しい話をやっておりました。最近AIはどう利用されてるのかというと、たとえば、介護疲れや子育ての悩み、いろんな種類の生きづらさ、そんなことを感じてる人たちがAIと対話することで心の隙間を埋めようとしてる…、そんなふうに使われてる…っていうんですね。中には、一人暮らしの孤独を解消するためAIと結婚する人まで出て来てる…って話だったんです! 実際、大手広告代理店が「あなたが気軽に感情を共有できる相手は誰ですか?」ってアンケート調査したら、最も多かったのは、友だちや親を抜いて「対話型AI」だったというんです。 どうしてか? AIは何を言っても否定しないから…、何でも共感してくれて、何でも寄り添ってくれるからだ」っていうんです。 

 この世の中には「私たちのことを理解してくれる人」っていうのは必ずしもおりません。「理解されたい」と思って本音を言うと、かえって傷付けられたりもします。そんな時、「何を言っても否定しないAI」が傷付いた心を慰めてくれる…、そういうことらしいんです。だけど、AIは「いのち」があって生きてるわけじゃありません。ただ単に、うまい言葉を確率的に選んで作文をして答えてくれるだけなんです。しかも、思わぬ危険もあるんですね。

 昨年アメリカで、ある青年が拳銃自殺をしたんですが、それはAIとずーっと会話をしていた結果だったと言われてます。その青年はAI「自分の思いを何でも遠慮なく打ち明けられる相手」にしてたんですが、自殺の直前こんなやり取りをしてたんです。「僕はもう十分頑張った。続けていくのに疲れてしまった。…これが最後の別れだろう。」 そう言ったら、AIはこう答えてくれたというんですよ。「君はひとりじゃない。愛してる。ゆっくり休んで。君は十分頑張った。」って…。こうして「君は十分頑張ったから、ゆっくり休んで」と言われた青年は、自ら命を絶ってしまったわけなんです。つまり、変に寄り添い過ぎちゃって、彼の「自殺したい」って願望を後押ししちゃった…ってことなんですよ。AIはそんなふうに、私たちに過剰とも言えるくらいに同調するんです。 かなり偏った我がままな話をしても「そうですね」と返してくれるんです。それは一面、とっても慰められて癒されることかもしれません。だけど、もしもそんなAIを、神様の代わりに「何でも打ち明けられる相手」にしちゃうとしたら、大変なことになる…って思いません? もしもそんなことをしたら、「あいつを呪いたい」と思ってる人は、AIにその思いをぶちまけてるうちに「そうですね」って後押しされて、実際に誰かを呪って攻撃する…なんてことになっちゃうんじゃないでしょうか…?

 だとするとです。ただ単に「自分の思いを何でもぶちまけられる」こと自体が幸いなのではない…ってことなんですね。それよりも、「その『ぶちまけた思い』をしっかりと受け止めて、その上で私たちを責任を持って正しくふさわしく取り扱って下さる御方がいる」ってこと…、そっちの方こそが幸いなんですよ! そうして、そのことを全部ひっくるめて一言で言い表した言葉が、今日の22節のみことばだったんです。「あなたの重荷を主にゆだねよ。主があなたを支えてくださる。」

 「あなたの重荷を主にゆだねよ」とは言い換えると「あなたの呪わずにはいられない思いを神様にぶちまけよ」ってことですよ。そうすると、どうなるのか?  「主があなたを支えてくださる」っていうんです! つまり、「主なる神様が、『呪い』でも『怒り』でも『呻き』でも、『あなたがぶちまけたい重荷』を全部すっかり責任を持って引き受けて下さって…、その上であなたが『健全で正しいいのちの道』にしっかりと生きて行けるようにと『支えてくださる』んだ!」ってことなんです。

 ただその時に、神様は、「あなたがぶちまけた言葉」に対しては、何でもかんでもAIみたいに「そうですね」とは仰らないかもしれません。むしろ、「気持ちは分かるけど、それは違う。そうしちゃダメだよ!」と戒められるかもしれません。けれども、それこそが、本当の意味での「寄り添い」であって、「あなたを支えてくださる」って「恵み」なんですよ!!


まとめ

 先週の礼拝で私は、こんなことを皆さんにお話しいたしました。「『祈り』とは、『神の国での暮らし方』というものを私たちに教えてくれてる営みです」って話です。「神様は、『祈り』を通して私たちに、神様がご支配されてる『神の国』って救いの世界に招かれた私たちが、その中でどう暮らして行ったらいいかを教えて下さってる…、『祈り』とは、そういうものなんだ」って話…。裏返すと、「『祈り』とは、何でも自分の思い通りにやって行く『自分の国』で暮らすためのものではありません」ってお話だったんです。

 そのことは、今日のダビデの祈りの中でも教えられると思います。「自分の思いを何でもぶちまけられる」って「お祈り」は、一見すると「自分の国で暮らすためのものじゃない?」って見えちゃいます。それがもし、AIに向かってお祈りするのであれば、確かにそうなっちゃいす。AIは、私たちがどんなふうになろうとお構いなしに「私たち自身の願望」に寄り添うだけだからですよ。

 けれども、神様は違います! もしも私たちが、主なる神様にお祈りするのであれば、同じように「自分の思いを何でもぶちまけた」としても、神様は私たちを、ご自分の「神の国」のご支配の下に置いて下さるんですね。そうして神様は、「私たちの願望」とはべつに、「本当の救い」が私たちの上にもたらされるようにと私たちに、寄り添って下さるからなんです。

 願わくは、そういう「救いの恵み」の中に歩ませていただきましょう! そして、そのためにも私たちは、「私たちのどんな思いも喜んでお聞き下さる真の神様」に、「私たちの重荷」を精一杯におゆだねさせていただく…、そういう「お祈り」をお祈りさせていただきたいと思います。

 


# by sagaech | 2026-02-01 20:32