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健全な良心を育んで

(教会の中に、神の家を建て上げよう)19           2023.12.31

 「健全な良心を育んで」

           テモテへの手紙第一118-20節 


 「信仰」と「健全な良心」

 今日の聖書の箇所には、「信仰」と「健全な良心」という二つの大事なことばが繰り返されています。パウロは、この二つのことばが大好きなようで、パウロが書いた手紙の中には、この二つが結構しばしば出て来るんです。

 ただ、「信仰」ってことばをよく使うのは当然です。聖書は「信仰の書」だからです。ですが、「良心」ってことばをよく使うのは、「ちょっと意外だなあ…」って感じがしませんか? というのは、「良心」ってことばはどちらかというと、「宗教」よりは「道徳や倫理」の方面で使われることが多いからなんです。

もちろん、決して悪いことばじゃありません。むしろ、「健全な」という形容詞までもが付いてるんで、これは物凄く良いことばです! だけど、私たちクリスチャンという者は、「信仰」ってものさえしっかり持ってたら、それでもう十分なんじゃないですか? 「べつに『良心』なんか、わざわざ教えてもらわなくても、『信仰』だけで十分にやって行けます」って思いませんでしょうか…?

 けれどもです。もしも、そんなふうに思っていたら、実はまだ聖書を十分には読んでいないんです。そして、「パウロが一生懸命に教えようとしていた事も半分しか分かってない」と言われても、おかしくないと思うんです。

 それならパウロは、この「健全な良心」ってことばで、どんな大切なことを教えようとしたんでしょう? そのことを、もう一つの「信仰」ってことばとの関係を調べてみることで探ってみたいと思うんです。

 それでは最初に、ことばの意味から押さえましょう。まずは、「信仰」…、これはいったい何を意味してるんでしょう? 国語辞典によると「信仰」とは「神々を信じて崇めること」だと言われてます。だけど、聖書が教える「信仰」は、それだけではありません。

もっと深掘りすると、こんなふうに言えるんです。「『信仰』とは、『私たちが神様とプライベートに繋がって生きるために必要な、神様との信頼の絆のこと』なんだ」ってです。つまり、簡単に言うと「神様と繋がるための絆」…、それが「信仰」なんですよ。

 一方、「良心」とは何なんでしょう? これも国語辞典を引くと、「物事の善悪を正しく判断して行動しようとする心のこと」だと説明されています。ただし、これも聖書が教える意味を深掘りすると、さらにこんなふうに言えるんです。「『良心』とは、『物事の善悪』だけでなく『神様の教え』について正しく判断して行動しようとする心のこと」なんです。

 つまり、「信仰」とは「神様との生きた絆をキープするもの」で…、それに対して「良心」とは「神様から教えられたことを正しく実践していくためのもの」なんですよ。

 ただ、この二つは互いに影響し合います。たとえば、もしも私たちの「信仰」が「本物の福音」を聞いたおかげで、ますます純粋なものになると、私たちの「良心」もますます純粋なものになるんです。ところが、もしも私たちの「信仰」が「偽物の福音」を聞いたせいで歪んだものになると、私たちの「良心」も歪んでしまうんです。

それは、あの統一教会を考えると、よく分かります。「人間に過ぎない教祖を神だと崇め、その教祖様にたくさんの献金を献げることで救われる」と信じる彼らの「信仰」は、あまりにも歪んでないですか? そして、その「信仰」を信じる統一教会の信者さんは「献金を集めるためには嘘をついても構わない」と思ってるんですよ。それほど「良心」が歪められてるわけなんです。 

ただしです。ここで覚えて欲しいのは、「その影響には逆方向もある」ってことなんです。つまり、「私たちの『良心』も、私たちの『信仰』に影響を及ぼしてしまう」…、実は、そういうこともある…ってことなんです!

私たちの「良心」が、私たちの罪によって歪んでしまい「不健全で麻痺した良心」になっちゃうと、その結果、私たちが持ってた「健全な信仰」までをも歪めてしまう…、そういうことも起こるんです! そうして実は、今日の所でパウロが語っていた話は、そういう場合のお話だったんです。

 今日の所に、「ヒメナイとアレクサンドロ」って二人の名前が挙げられておりました。この二人は実は、当時テモテが牧師をしていたエペソ教会で、そういう問題を起こしていた典型的な代表者たちだったんです。

 「ある人たちは健全な良心を捨てて、信仰の破船にあいました。その中には、ヒメナイとアレクサンドロがいます」(19-20節)とパウロは言いました。「信仰の破船にあった」とは、「この二人の信仰が、嵐の海で遭難した船みたいになって壊れて沈没した」ってことなんです。ということは、この二人はどうやら「自分たちに与えられた『健全な良心』を捨て去って『不健全で麻痺した良心』になった…、そのせいで、彼らが持ってた『健全な信仰』までもが麻痺してダメになっちゃった」っていうことなんですよ。

 そしてです。こういう話が、どうして「神の家族の教科書」であるテモテの手紙の中で語られているんでしょう? そのわけは、この問題を放って置くと、当人たちが「信仰の破船にあう」だけでなく、「神の家族の教会」も非常に深刻な影響を受けちゃうからなんです。


 「自我の欲望」のために「健全な良心」を捨てた人の具体例

 「ヒメナイとアレクサンドロ」は、いったい、どんな人たちだったんでしょう? 二人とも、テモテが牧師をしていたエペソ教会のメンバーだったこと以外は、よく分かりません。ただ、大よそのことは推測できるんです。

 パウロは13節からの所で、こう言いました。「ある人たちが違った教えを説いたり、果てしない作り話と系図に心を寄せたりしないように命じなさい。」 また、15節からの所では、こうも言ったんです。「この命令が目指す目標は、きよい心と健全な良心偽りのない信仰から生まれる愛です。ある人たちはこれらのものを見失い、むなしい議論に迷い込み、律法の教師でありたいと望みながら、自分の言っていることも、確信をもって主張している事柄についても理解していません」って…。

 「果てしない作り話と系図」とは、旧約聖書の聖徒たち(たとえばモーセなど)にまつわる「勝手な言い伝えによるでっち上げ話」のことなんです。「そういう怪しい話で議論を巻き起こし、『自分こそは何でもよく知ってる教師なんだ』と自慢する。そんな偽教師が当時の教会にいて、その代表選手がヒメナイとアレキサンドロでした」ってことなんです。

 さらに、41節からの所では、こう言われています。「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。それは、良心が麻痺した、偽りを語る者たちの偽善によるものです。彼らは結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。」

 ここからさらに分かるのは、この二人はいわゆる「間違った福音」も広めてた…ってことなんです。それは「禁欲的な信仰」で、一見すると敬虔で立派に見えるんです。でもそれは、「自分の努力で救われる」という教えであって、「イエス様の十字架の恵み」を無駄にする、とんでもない教えだったんです!

 そうしてです。注目すべきは、そういうことをやってた彼らの「動機」なんですね。彼らはべつに「悪気はないけど、正しい知識が無くて勘違いをした」わけではないんです。彼らには「正しい知識はあった」んです。でも敢えて「正しい知識から食み出す」ようなことをしていたんですよ!

 何のためにでしょう? それが問題なんですが…、それはです、「何かしらパウロやテモテが教えてたこととは違う『革新的な教え』を語り出して、自分がいかにも優れた教師なんだとアピールし、パウロやテモテに対抗してやるために」だったんですよ!

 つまり、彼らの一番の根っこにあったのは「自分自身の罪深い自我の欲望」だったんです。具体的には「私こそが皆の上に立つべき『立派な人間なんだ』と思われたい!」って「野心」です。あるいは「パウロやテモテに対する妬み」です。「俺は、あいつらよりも優秀なんだ!」と自慢したがる「高慢な思い」…、そういうふうなものが結局は、この人たちの動機だったんですよ。

 だけど、そういうことをしてたら、彼らが持ってた「信仰」までもが気が付いたら歪んでしまい、「神様の御心とは違うことを平気で行う信仰」になっていた。しかも、そうした振る舞いが、他の人にも影響を及ぼして、他の皆の「信仰」までをも歪めてしまってた…ってことなんです。

 でも、なんでそんなふうになったのか? それは他でもない…、彼らが「自分の罪深い自我の欲望」に負けてしまったからなんです。

 本当は、パウロやテモテと心を合わせて一致協力する…、そのために「健全な良心」を用いるべきだったんです。それなのに、かえって妬みを起こして「パウロやテモテと張り合いたい」って「野心」を抱き、そのために自分の持ってた「健全な良心」を投げ捨てた…。残念ながらこの「ヒメナイとアレクサンドロ」は、そういうことに熱心になってた人たちだったんです。

 今秋、ある「キリスト教を名乗る団体」から教会に手紙が届きました。「新天地イエス教」って韓国系の団体なんですが、そこの実質、教祖の人が、こんなことを手紙に書いて寄こして来たんです。「私は、私が見て聞いたことを証しせよと遣わされたイエス様の使者です。私が証しするのは、ヨハネの黙示録の全ての出来事が成就した様子を(この目で)直接見て聞いた話です。すべての教会の牧師と信徒の皆さん、このままでは救われません!」って…。「おいおい、なんて事を言ってるんだ!」と笑ってしまいましたが…、これは「聖書の福音の否定」であって、明らかなキリスト教の異端です。

 でも、恐ろしいと思ったのは、この手紙を送ってきたのは、その団体の信者の方で、その人も「ぜひともこれを読んで下さい!」って熱心に一筆書いて寄こして来た…ってことなんです。つまり、たった一人の教祖の「罪深い野心」が、大勢の無垢な人たちを「非常に歪んだ信仰」に惑わしてるんですね。そうしてそれは、たった一人の人が「健全な良心」を捨て去ったことから始まってるわけなんです。

 因みに私たちは、「そういう人たちに対してはキッパリと対処をするように」と教えられてるんですね。20節で、パウロはこう言いました。「私は、神を冒瀆してはならないことを学ばせるため、彼らをサタンに引き渡しました」って…。これは、「そういう人たちを教会の中から除いて交わりを断つ」という「教会戒規」と呼ばれる処置なんです。それは、他の皆を守るためと、その人たちに頭を冷やしてもらって悔い改めさせるためになんですよ。


 「信仰」だけでなく、「健全な良心」が不可欠な私たち

 皆さんに、ちょっと考えて欲しいんです。もしも皆さんが、どこかの無人島でずーっと一人ぼっちで暮らすとしたら、「健全な良心」はそんなに必要ないかもしれません。ですが、もしも皆さんが、他の誰かと一緒に暮らしたいと思ったら、「健全な良心」はとっても重要で不可欠なものになるんです! なぜなら「健全な良心」は「他の誰かにどう向き合うか」に深く関係しているからなんです。

 たとえば皆さんが、会社に行って皆さんの同僚や上司の人たちと毎日、平和に仲良くやって行きたいと思ったら、「健全な良心」を働かさないと、まず無理だと思いますよ。「健全な良心」がないと、あっという間に「パワハラ、セクハラ」の言葉を吐いちゃって…、あるいは、ちょっとした事で相手を赦せなくなっちゃって…、簡単にギクシャクし                                                                                                                                                                                                                                  ちゃって、やってられなくなるからなんです!

 ところが、私たちクリスチャンは、どうも「『信仰』さえあれば十分だ!」と考えやすいところがあるんです。「『信仰』さえしっかり持ってれば、『健全な良心』なんてものは必要ない」ってです…。

 つまり、「信仰」というものを、ある種の「免罪符」のように考えちゃうんですね。そして、「私は神様を信じてすっかり罪を赦されてるんだから…、『信仰』だけはしっかり持っていて、神様と繋がってるんだから…、私がどんな性格や人柄なのかは大した問題じゃない。『信仰』さえ持ってれば、多少、自己中心で我が侭な所があっても大目に見てもらえるんだ」と思いやすいんです。

 だけど、決してそうではありません。もしもそうなら教会は「この世界で最も自己中心な人間たちの集まり」にもなってしまいます!『神への信仰』を第一にする」という大義名分のためには「『健全な良心』を働かせて他人を思いやる」ってことを平気で投げ捨てる…、あってはならないことですが、そういう人がともすると、教会の中には生まれやすいんです。だから、パウロは言うんです。「『信仰』だけでなく『健全な良心』もしっかり保ちなさい! そうしないと、あなたも、あなたと一緒に暮らす人たちもダメにしちゃうんだ!」って…。

 思い出して欲しいんですが、「神様が私たちを招いてくださる救いの世界」とは「神の国」なんです。その「神の国」とは「自分と神様だけの世界」なのではありません。「神の家族とされた他の皆と一緒に生きる世界」なんですよ。そうすると、そこでは「自分がどれだけ熱心に神様に繋がってるか」だけでなく、「自分が神様から与えられた愛を、どれだけ他の皆にも分け与えられてるか」が問われるわけなんです。

だとしたら、その際に私たちの中には「自己中心で歪んだ良心」しかなかったとしたらどうします? お手上げじゃないですか! だからこそ、単に「神様を信じる『信仰』」だけじゃなく、「他の皆に正しく向き合うための『健全な良心』」が大切なんですよ。


 「健全な良心」にまつわるエピソード

この間、NHKのニュース番組で、イスラエル人で二十歳の息子さんを亡くしたお母さんの話を聞きました。息子さんは、イスラエルの兵役に就いてた兵士だったんですが、ハマスの攻撃があった時、国境の警護に就いてて殺されたんです。すると、それを知ったそのお母さんは、最初は悲しみに暮れるばかりで、他のイスラエル人と同じようにパレスチナ人への憎しみを募らせていたんです。「子どもを持つ親にとって、これ以上の悪夢はありません。想像できない辛さとは、まさにこのことです」と、そのお母さんは話しておられました。

 ところがある日、息子さんと同じ部隊にいた人から「生前の息子さんの姿」について聞かされたんです。すると、その息子さんはいつも、こんな様子だったと知ったんです。「どんな人とも分け隔てなく付き合って、毎晩のように誰かの悩みを聞いてあげていた。部隊にはイスラム教徒の人もいたけど『君の痛みを知りたい』と尋ねては、どんな相手のことも理解しようと努めてた。そんなふうに、とっても対話を大事にしていた人だった」って…。

 そうしたら、そのお母さんは、こう考えるようになったというんですね。「悲劇を繰り返さないためには、自分も息子のように対話をしないといけない」って…。そして今、そのお母さんはイスラエルの中で「パレスチナの人たちと対話しよう!」と訴える活動をし始めてるんですよ。

 もちろん、イスラエルの大多数が軍事作戦を支持しているので簡単ではありません。だけど、そんな中でも、そのお母さんは、こう訴えてるんですよ。「私たちは、自分たちの痛みが深くて、相手の痛みが見えていないんです。だけど、相手の痛みを理解すること…、それが共に歩むための唯一の方法です! イスラエル人であれ、パレスチナ人であれ、嘆き悲しむ親がいなくなるよう願っています」って…。

これを聞いて私は思いました。「これはまさに、勇気を奮って『健全な良心』を絞り出した、一人のたくましい女性のお話だ」って…。

 この世の中では普通、こういう時には「良心」なんてものは簡単に脇に追いやられます。そして、「徹底的にあいつらをやっつけろ!」って声の方が大きくなるんです。しかも、どんな宗教もそうですが、原理主義者と呼ばれる人たちが、「神への信仰」を理由に、そういう声を煽り立てるんです。そんな中、そういう流れを食い止められるのは何なのか? それは、私たちの中から勇気を奮って絞り出される「健全な良心」…、それしかないんじゃないでしょうか! だから、パウロは「信仰」だけじゃなく、「健全な良心を保ちなさい」って私たちに教えているんです。


まとめ 

 けれどもです。そういう「健全な良心」というものは、それじゃあ、どうしたら私たちの中から絞り出せるんでしょう? 「良心」は、生まれながらに私たちの中に与えられてるものだとしても、私たちの罪のせいで簡単に「歪んだ良心」になっちゃう、そういう現実の中で、私たちはどうしたら「健全な良心」を心の中にキープして養っていけるんでしょう?

 それは何よりも、聖書の「神様のことば」を謙って聞き続けることなんです! 「神様のことば」によって「私たちの頑固な自我」を、毎日毎日砕いてもらって溶かしてもらうことなんです! そうして、その上で、「健全な良心の最高のお手本」であられるイエス様のお姿を、「聖書のみことば」を通していつも見つめ続けさせていただくこと…、それに尽きると思います。

 願わくは、そうした営みを、明くる新年もぜひ、皆で一緒に励まし合ってまいりましょう! そして、誰もが安心して寛げる幸いな「神の家族」の交わりを、この私たちの教会の中に、ますますもって麗しく、建て上げさせていただきたいと願ってます。 


                                                   


# by sagaech | 2023-12-31 16:50 | 礼拝メッセージ

お入りください、イエス様

アドベント3                          2023.12.17

「お入りください、イエス様」

  ルカの福音書21-7節 

 

 テレビ番組『帰れマンデー』の話

 ところで皆さんは、月曜夜の『帰れマンデー』ってテレビ番組を知ってますか? お笑い芸人のサンドウィッチマンやタカトシが、ゲストのタレントたちと一緒に日本中を回って旅をする。そして、毎回どこかの有名温泉を目指して何㎞も、バスに乗ったり歩いたりしてゴールに向かう…。その途中「お寿司やピザや焼き肉」なんかの飲食店を行き当たりばったり探して食べ歩く…って内容なんですね。

 ただし、飲食店を見つけるまでは、どんなに遅くなってもゴールできない、帰れません!…って罰則付きなんです。だから、番組の名前が『帰れマンデー』なんですよ。

なにせ、歩くルートは大概、山道なんですね。なので、なかなかお店なんて無いんです。それで、何時間も歩いて、ようやく見つかるんですが、突然のアポ無しなので「お店にテレビカメラが入っていいかどうか」の取材許可は、その場でいきなりお店と掛け合います。そのため、グループの誰かがお店と交渉し、OKを貰えば食事ができる…、拒否されたら食べれないんですよ。

 まあ、普通はOKを貰えます。ですが、たまに「ダメ」って言われちゃうんです。そして、この間は4人のグループで、北軽井沢を歩いて草津温泉に向かってたんですね。因みに、そのグループには、元フィギアスケート選手の高橋大輔さんがいたんですが…、その彼が今回、ようやく見つけたお店に取材許可を貰いに行ったんです。

 いやぁ、高橋大輔さんが突然お店に来るだなんてビックリすると思いません? そんなことって滅多にない絶好のチャンスじゃないですか! だから、当然「さあさ、どうぞ!」と大歓迎されると思いきや…、なんと、見事に断られちゃったんです!! どうやら、そのお店は仕込みの準備で忙しかったようなんですね。だけど、高橋大輔さんは超有名人なので、「まさか断られるなんて…」って感じだったんですよ。


 イエス様を拒絶した宿屋の主人

 ところで、その様子をテレビで見ていた私は、ふっと、こんなことを思わされたんです。「そういえば、これと似たようなお話が、聖書のクリスマスの箇所にもあったよなあ」って…。そして、その話というのが今日の「ベツレヘムの宿屋」のお話だったんです。

 あの夜、高橋大輔さんよりも遥かに超VIPな御方が、ベツレヘムの宿屋にアポ無しで、飛び込み訪問をされました。他でもない「神の御子なる救い主イエス様」でした。因みにイエス様は、その時はまだマリアのお腹の中にいたんですが…、ところがなんと、そのイエス様も見事に断られちゃったんです!「ダメダメ空きは無いよ。悪いが他を当たってくれ」って…。

 ただし、今のは正確に言うと、私の勝手な想像です。キリスト教会が、二千年間も想像たくましくして思い描いて来た降誕劇のワンシーンです。というのは聖書には、そこまでの詳しい話は書かれていないんです。ただシンプルに、「…彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」って言ってるだけなんです。

 ですが、それを読んだ時、誰もが「あれ?」って思うはずなんです。「あれ? 飼葉桶ってベビーベッドだったけ?」って…。いやいや、「飼葉桶」とは家畜小屋に置いてる粗末な家畜の餌箱です。しかも、当時のよくある「飼葉桶」は、地面の石をくり貫いた固くて冷たい容れ物だったんです。「なのに、なんでイエス様は、そんな飼葉桶なんかに生まれたの?」って、誰もが思うはずなんです。

 あるいは、誰かがもっと良い所を紹介したのに、マリアが「私はここがいい!」と言い張ったのか?  まさかです! じゃあ、どうしてそうなったのか? すると、聖書はこう説明してるんです。「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」って…。つまり、宿屋はその時、満員御礼で空いてるスペースがありませんでした…ってことだったんです。

 まあ、今ならスマホで調べれば、ホテルの空室状況はすぐに分かります。だけど、当時は宿屋に行って、直接聞くしかありません。だから、きっとヨセフが宿屋を片っ端から回って、「どうか宿を貸して下さい!」って頼み込んだんです。「私の妻が、もうすぐ生まれそうなんだ! 頼む、泊めてくれ!!って、死に物狂いでお願いしたに違いないんです。

 ですが、なんとも哀れなことに、「そりゃあ大変!どうぞお入り下さい」と迎えてくれる宿屋は一つもありませんでした…ってことだったんです。逆に、どの宿屋からも「ダメダメ、空きは無いよ」と突っ撥ねられて、「だったら、どこで産んだらいいの?」とパニックになっちゃった…。そもそもは、こんな所まで来る予定はなかったのに、大きなお腹で命懸けの旅をした挙句、お産をする場所も無い…。それはまだ、十代で初産のマリアには、あまりに惨めで辛過ぎる…、そういうお話だったんです!

 もちろん、そうなったのには理由がありました。ちょうどこの時、全世界の住民登録がローマ皇帝によって命じられたからでした。そして、それには皆が一斉に自分の本籍地に帰って登録しないといけなくて…、そのせいで「年末年始の帰省ラッシュ」みたいなことが起こって、それで宿屋が超満員になっていた…。ただ、その宿屋は「正式な宿屋」と言うより、普通のお家の部屋を借りる「即席民宿」みたいなものだったらしいんですが…、とにかくそんな理由があったんです

 それともう一つ、宿屋の主人は「泊めてくれ」と求めた御方の正体がよく分からなかった…って理由もあったんです。ヨセフとマリアも「実は、お腹にいるのは救い主なんですが…」とは言わなかったんですよ。もしも分かっていたら、どんなに超満員でも「どうぞどうぞ!」と招き入れたでしょう。自分の部屋さえ「どうぞ使って下さい」と提供したでしょう。そして、記念写真を撮って、色紙にサインをねだって「末代までの家宝」としたに違いないんです!

 ところが実際は「空きは無いよ」と突っ撥ねた…。「この忙しいのに、お産の面倒なんか見ていられるか」と思ったのか、どの宿屋も「救い主にお泊りいただく絶好のチャンス」をまんまと逃しちゃったわけなんです。で、そんなこのお話は、ヨハネの111節に書いてるような、何とも言えない嘆きを感じてしまうんじゃないでしょうか? 「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった」って…。

 ただし、そんなこの「宿屋の主人の話」は、実は他でもない…、これを読んでる私たち自身の姿を映し出している…、そういうことなんじゃないかと思うんです。


 「神の国」と「インマヌエルの恵み」へのお招き

 私たちはべつに、「宿屋の主人」ではないかもしれません。ですが、そんな私たちの所にも、あの日、天より生まれたイエス様はお出でになられてます。私の人生の中にも、あなたの人生にも、「救い主」となってお生まれ下さろうとして「私たちの心の扉」をノックされてます。「どうか、入れて下さい! あなたの心と人生に、わたしの居場所を与えてくれませんか?」って…。

 そんな私たちは、じゃあ、どうします? 私たちも「ダメダメ、空きは無いよ」と言いますか?  だったら、なんて勿体ない話じゃないですか

 だけど、私たちは、どうしてそうしちゃうんでしょう? それはたぶん「私たちが、たとえイエス様であっても、自分の心や人生に入って来られることを嫌うから」なんです! しかもそれは「突然のアポ無しだから」ではないんですね。それよりもっと根本的な理由があるんです。ハッキリ言いましょう。その理由とは、「生まれながらの私たちは、『神の国』で暮らすより、『自分の国』で暮らしたいと思ってしまうから」なんですよ!

 「自分の国」とは、「自分自身が『自分の人生の王様』となって何でも思い通りにやって行く世界」のことなんですね。とりわけ「神様を信じてない人」は「自分の国」に拘ります。神様を信じてないと、すべては自分で何とかするしかないので、「『自分にとっての救い』とは、自分の思うがままに『自分の国』を築き上げることなんだ」と本気で思ってしまうからなんです。

 ところが、あの日、天より生まれたイエス様は、「天地の真の王」であられました! そして、そんなイエス様がおられる所は、神の御子が御心のままにご支配されてる「神の国」なんです! そして、「そんなイエス様が私たちの所にお出でになられた」ということは、「『神の国』が私たちの所にやって来た!」ってことなんです! 

 ですが、だからこそ、そんなイエス様の前では、私たちの「自分の国」と「神の国」のせめぎ合いが起こります。その結果、私たちは「自分の国」を好き勝手に追い求めることが出来なくなってしまうんです…。ハッキリ言うと、そのことが私たちは嫌なんです! だから、「お入りください」とイエス様をお迎えするのを渋ってしまう…、そういうことなんです。

 12月に入って、日本の世の中も一斉にクリスマスになりました。コンビニ、スーパーはクリスマス・セールを始めるし…、幼稚園や、老人ホームや、会社の飲み会までもクリスマス会を行います。ところが、そこに出て来るものは、サンタクロースとトナカイなんですね。

まあ、世の中は大体そんな感じで、良くてもクリスマス・ツリーを飾るくらいで、一番大事なものが欠けてます。クリスマスの主人公のイエス様が、どこにも出て来ないんです!

 日本人というのは何事も一番大事な中身を抜き取って「形だけ」にするのが得意なんですね。日本のクリスマスはまさに、その典型なんだと思います。ですが、それもまた「神の国」と「自分の国」のせめぎ合いの結果なんですよ。

 つまり、「神の国の王」であるイエス様は、世間の人たちがクリスマスを好き勝手に楽しむためには邪魔なんです。だから、イエス様は省いて「形だけのクリスマス」にして、お金儲けやドンチャン騒ぎのためにクリスマスを利用する…。そうやって「自分の国」のために「神の国の王」をシャットアウトしちゃうんです。でも、どうでしょう?  そういうことっていうのは、私たちの中にもあったりするんじゃないでしょうか…?

 けれどもそれは、なんとも勿体ないことです! それはむしろ「人生最大の救いのチャンスを逃してる」ってことなんです! というのは、聖書はこう教えているからです。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」(ヨハネの福音書1章12節)

 「この方」とは、「神の国の王」なるイエス様のことですね。「そのイエス様を受け入れる」とは、「神の国の中に、私たちが招き入れてもらう」ことなんです。するとどうなるか? 「神の子どもとしていただける」んですよ! 

 そして、「神の子どもとされる」とは、「神様が持ってる天の祝福を受け継いで、神様の懐で安らかに暮らせる者とされる」ってことなんです。

 そして、そういう恵みをイエス様は、ヨハネの黙示録320節で、こうも仰っているんです。「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」って…。

 こういう「救いの恵み」のことを、聖書は一言「インマヌエル」ってことばで表現しています。「インマヌエル」とはヘブル語で、「神が、私たちと共にいます」って意味なんです。つまり、「もしも私たちが、イエス様を喜んで自分の中にお迎えするならば、私たちは『神様が共にいますインマヌエルの恵み』に生かしてもらえる…、そういう『救いの人生』を歩ませてもらえるんです!」ってことなんですよ!

 ということは、私たちは、どこかでしっかりと、このことに気が付く必要があるんです。 「私たちの『救い』とは、『自分の国』を追求することの中にあるのではなくて、『神の国』に入らせてもらうことにこそあるんだ!」ってことをです。

 私たちが「『自分の国』を築き上げたい」と願うのは、「そうする先にこそ『私の救い』があって、そうしないと『救い』がない」と思うからなんですね。だけど、本当はそうではないんです。むしろ、そんなふうにすると私たちは「自分の自我」を暴走させて、ますます「救い」から遠ざかるんです。ところが、そんな私たちに「本当の救い」を与えて下さるために、あの夜、神の御子が天よりお出で下さったんです! 

 そして、そのために神の御子が取られた方法とは、「神の国」に私たちをお招き下さることだったんです! それも、「もしも救われたければ、天にある『神の国』まで上って来い!」と言ったんじゃないんです。むしろ、「イエス様の方が天の栄光を捨てて、わざわざこの地上の世界に降りて来て、私たちのもとを訪ねて下さった」んです!

 そして、そんなイエス様を喜んで「自分の心の宿」にお迎えするなら、私たちも「神の国」に迎えてもらって、「神が共にいます」って「インマヌエルの恵み」に与れる…。実はです…。クリスマスというのはまさに、そういう「恵み」を神の御子が、私たちのために天より持って来て下さった…、そういう出来事だったわけなんです。

 最初に紹介した『帰れマンデー』のテレビの話を、もう一度考えてみましょう。ある日、自分の店に「超有名人」がやって来た…、普通はそれは、お店に主人にとっては物凄く嬉しいことですよ。でもそれが、かえって傍迷惑に感じちゃう…って場合もあるんですね。

私が昔、学生だった頃、夜遅くに腹が減って、ある喫茶店に駆け込んだことがありました。そしたら、何とも気まずい顔したお店の主人から「今はダメ」って門前払いを喰ってしまったんです。「なんで? まだ営業中でしょ」と思ったんですが、中を覗いて分かりました。どうやらお店の常連さんたちと「秘密のいかがわしいビデオ」を見ていた最中だったんです。たとえば、そういう事情があったりするんです。

 ですが、それでも考えてみて欲しいんです。もしも「高橋大輔さんやサンドウィッチマン」なんかが自分のお店に来てくれて、「旨い、旨い!」って喜んで食事をしてくれたとしたら、どんなに有難いんじゃないですか? そして、彼らとたっぷり話ができて、記念写真でも撮らせてもらえたら、どんなに嬉しいんじゃないですか! それは、自分のお店にとっては物凄い宣伝効果となって、大きな祝福となること間違いなしではないでしょうか!!

 ただし、その恵みに与れるのは、「どうぞ、お入り下さい」ってその人たちを喜んで迎えられるかどうかに掛かってます。そして、それと同じことは、「あの日、天より私たちの所に来て下さった救い主」についても言えることなんです! それなら皆さんは、その救い主に対してはどうしたいと思いますでしょう…? 

 

 せめてイエス様を「家畜小屋」へと迎え入れた人

 聖書の話に戻りますが、この夜、ヨセフとマリアとお腹のイエス様は、どうやらほとんどの宿屋から「ダメダメ」って拒絶されたんです。それで仕方なく、マリアは「家畜小屋」で出産し、「飼葉桶」の中にイエス様を寝かせたわけなんですが…、当時の「家畜小屋」には種類がありました。お家と棟続きの「家畜小屋」もあれば、自然の洞窟を利用した「家畜小屋」もあったんです。そして、伝説によるとイエス様は「ベツレヘムの、あるお家の裏にあった洞窟で誕生した」と言われてるんですよ。

 そして今、その場所の上には「ベツレヘム聖誕教会」って教会堂が建っていて、その建物の地下に「ここがその家畜小屋だ」って場所が保存されてるんですね。たぶん、それは本当にその場所なんだと思います。というのはそれは、何百年も後に造られた「眉唾遺跡」なんではなくて、初代教会の頃から当時の人に広く知れ渡ってた場所だったらしいからです。

 そして、もしもそうなら、その「家畜小屋」は、ベツレヘムの誰かが所有していたものだったんですよ。つまり、ほとんどの宿屋が拒絶する中で、ある人が、見るに見かねて「ウチの家畜小屋でもいいなら、どうぞ」って迎えてあげた…ってことなんです!

 残念ながらその人は、「暖かい自分のお家の中にまで迎えてやる」ってことはいたしませんでした。だけど、「お産のためなら家畜小屋の方が邪魔されなくていい」ってこともあったのか…、せめて自分の「家畜小屋」にイエス様をお迎えしたんです。

 だから、今日の話は「とっても悲しい拒絶の話」だけではないんですね。むしろ、そういう中でもせめて、「申し訳ないような場所」ではあったけど、「お入り下さい、イエス様」ってお迎えした人がいた…、そういう話だったんです!

 そうしたらその結果、その人がイエス様をお迎えした「家畜小屋」はどうなったんでしょう? きっと、その「家畜小屋」には「インマヌエルの恵み」がやって来たんです! その結果、以前は単なる「侘しい家畜小屋」に過ぎなかった所が、今ではそこに『聖誕教会』って立派な教会堂が建てられて、毎年、大勢の人が巡礼にやって来る…、そんなふうにまでもしていただいちゃったんです!


まとめ 

 だから、どうか、このクリスマス…、皆さんも、皆さんの「家畜小屋」にでもいいからイエス様に「お入りください」と言ってみて下さい。そうすれば、その「ささやかなウエルカム」に応えてイエス様は、皆さんの心と人生に必ずや「神の国」と「インマヌエルの恵み」をもたらし始めて下さいます!

 願わくは、皆さんの心と人生が「イエス様をお迎え出来るとっても幸いな家畜小屋」となられますように…、心からお祈りいたしたいと思います。 


                                                   


# by sagaech | 2023-12-17 15:41 | 礼拝メッセージ

御救いを見るまで待ち望む

アドベント1                         2023.12.3

 「御救いを見るまで待ち望む」

            ルカの福音書225-38節 


 「呻きをもって待ち望む」…それは幸いなアドベントの歩み

 ところで、私たちは普段、何かを待ち望んで過ごしてます。たとえば、「ご飯はまだか? お風呂はいつ湧く? カップラーメンは、あと何分だ?」って…。

ただ、そういうものはたぶん、あんまり苦にならないで「待ってる」んですね。それを「嫌だ」と思ったら、生きては行けないわけなんです。

 けれども、その「待ち望む」ことが、とっても深刻な問題となって、切実な呻きをもって涙ながらにしないといけなくなる…、そういうことが、私たちには残念ながら時々起こって来るんです。

 ですが、もしも皆さんが、そういうことを厳に今、体験なさってるんだとしたら、それは皆さんが「とっても幸いなアドベントの歩みに招かれている」ってことなんです! なぜならクリスマスとは、そういう「とっても切実な待ち望み」を通してこそ実現した出来事だったからなんです。そして、今日のシメオンの話は、そのことを典型的な形で教えてくれてたお話だったんです。

 25節を見ると、このシメオンは「エルサレムに住んでた」ことと「老人だったらしい」ってことしか素性がよく分かりません。ただ一つ、「正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた」…、これだけがハッキリ分かってる彼のプロフィールだったんです。

 それなら、「イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた」とは、どういう意味なんでしょう? 実は、当時イスラエルは、民族・国家的に一大試練の中に置かれてたんですね。当時の世界を支配していたローマ帝国の属国にされて、自分たちの主権や独立や自由が惨めにも奪われていたんです! そして、ローマの駐留軍が我が物顔で闊歩して、ローマ兵に勝手にこき使われて、ローマに税金を巻き上げられる。その上、それに楯突くと、直ちに逮捕されて処刑される…。なんとも屈辱的な仕打ちを受けていたんです。

 ただし、そういう悲惨なことは、今に始まった事ではありませんでした。ローマに支配される前はセレウコス朝のギリシャに支配され…、その前はバビロンやアッシリアに滅ぼされて亡国の民となる…、そういう暗黒の時代を通って来たんです。だから、イスラエルは相当に長い間、「自由と平和を奪われる」って非常に惨めな歩みを強いられていたんです。

 まあ、今は、立場が逆転しちゃって、隣のパレスチナ人の自由と平和を平気で奪ってるんですが…、ただ、そんなふうになった原因はイスラエルの「罪」にありました。主なる神様を裏切って他の神々を慕い求め…、弱い者を踏み躙り、暴虐の限りを尽くしていた…、そういう「罪」を何百年と平気で続けて来ていた結果だったんですよ。

 きっとシメオンは、そうした事を全部振り返った上で、ただただ神様を「待ち望んでいた」んですね。「自業自得の自分たち…、それでも神様の憐れみにすがって赦していただく他はない!」…、そういう意味で「慰められること」を、ひたすら「待ち望んでた」んです! だとしたら、それは「とっても切実な呻きをもった待ち望み」だったに違いないんです。

 だけど、それだけではありません。敬虔なシメオンは、さらに深い神様の御心も知っておりました。「神様の御心は、自分たちイスラエルを通して全世界のあらゆる人を祝福し、救いを執り成すことなんだ!」って…。だからシメオンは、31節からの所で、こうお祈りしたんです。「あなたが万民の前に備えられた救いを。異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。」 だとしたら、それは「ますます切実な呻きをもった待ち望み」だったんです。だって、当時も今も、この世界は非常に悲惨な現実に満ちてるからですよ!

 この世界には、あらゆる所に人間の悪が蔓延し、必ず最も弱い者が苦しめられています。私たちの人生も、必ずと言っていいほど思わぬ試練に見舞われて、生きる希望を揺さぶられてます。「何にもない」ってことはありはしない! すべての人が「赦され、癒され、救われる必要」があるんですよ!

 そこで、そのためにシメオンが「切なる呻きをもって待ち望んだ」もの…、それは26節にある通り「主のキリスト」だったんです! なぜなら、この「救い主」こそは「この世界のすべての人の、あらゆる救いの望み」だったからなんです!! それゆえシメオンは、この「救い主」を、心の底からの深い呻きをもって「待ち望んでいた」んです。

 でも、どうやって? おそらくシメオンは、毎日毎日エルサレムの神殿に足を運んでいたんです。そうすればそこに、律法の掟に従って生後約1か月間の初子の男の子が、親に抱かれて全国各地からやって集まるからでした。その大勢の赤ちゃんの中にシメオンは、神様が送って下さるはずの「救い主」を、毎日毎日、信仰の目を凝らして探していたんです。

 そうして、この日シメオンは、ついにその「救い主」にお会い出来たんです!! それは、ヨセフとマリアに抱かれた「幼子イエス」様でありました。「この赤ちゃんこそが救い主だ!」と御霊に教えてもらったシメオンは、どんなに感無量だったことでしょう!!

 この日が来るまで何十年「待ち望んだ」のかは分かりません。ですが、シメオンの「とっても切実な忍耐強い待ち望み」の末に、ついに時が満ちて「救い主」が天よりお生まれ下さったんです!

 そうするとです。クリスマスとはいわば、「待ち望みの賜物」なんですよ! あの日、降誕された「救い主」は、シメオンのような人たちが「切実な呻きをもって待ち望んだ」その結果、ついに神様が天よりお与え下さった「恵みの賜物」だったんですよ!!

 だとしたら…、もしも皆さんが今「何らかの切実な呻きをもって神様の救いを待ち望んでいる」としたら、それは皆さんも「クリスマスに向かって、アドベントの歩みをしてる」んです!

アドベントとは「救い主がやって来るのを待ち望む営み」です。だから、もしも私たちが、そういう「アドベントの歩み」をして行くならば、私たちも必ずや「ついに、待ちに待った救い主が、私たちのためにお出で下さった!」ってクリスマスに導かれる…、そういうことなんです!!

 教会のチェリーキッズという子ども会では、今年も皆で「アドベントカレンダー作り」をしました。その「アドベントカレンダー」は、クリスマスを毎日毎日待ち望んで行くためのカレンダーなんですね。一日過ごす度に、お菓子が貰えます…って嬉しいものなんですが、必ずそれは1225日のゴールまで続いてます。「今年は1220日で終わっちゃおう」って「アドベントカレンダー」は一つも無いんです!

 だから、「アドベントの待ち望み」を続けてる人は、必ずクリスマスを迎えます! そして、そのクリスマスとは、今日のシメオンのことばを借りると「私の目があなたの御救いを見る」ってことが文字通りに現実となる…、そういう時なんですよ。


 アドベントの待ち望みは、「待ちぼうけ」にはならないのか?

 けれども、その「待ち望み」とは、果たして必ず報われるものなんでしょうか? というのは私たちは、「何かを『待ち望んで』みたけど、残念ながら空振りで終わりました」って現実を、嫌と言うほど体験しているのではないかと思うんです。なのに、どうして「『アドベントの待ち望み』は必ず報われるんだ」と言えるんでしょう…? そこで、こんなことを考えてみたいんです。

 昔の古い童謡に「待ちぼうけ」という歌がありました。

  「待ちぼうけ、待ちぼうけ

ある日せっせと 野良稼ぎ

そこに兎がとんで出て

ころりころげた 木の根っこ」

 作詞は北原白秋なんですが、これは中国の故事が基になっています。

 「その昔、ある人が畑仕事をしてたら、切り株に兎が走って来てぶつかって、首を折って死にました。その人は『ラッキー』と思って、その兎を持ち帰り、ご馳走にして食べました。すると、それに味をしめたその人は、次の日からは畑仕事も放り出し、ずーっとその切り株で、再び兎が来るのを待っておりました。だけど、待てど暮らせど兎は二度と来なくて、とうとう『待ちぼうけ』で終わりました」ってお話なんですよ。

 この「待ちぼうけ」の話は、とっても笑える話です。だけど、私たちの人生は、そういう事だらけなんですね。それゆえ「神様の救いを待ち望んでも、どうせ『待ちぼうけ』で終わるんだ」って疑ってしまうんです。

ところが聖書は「そんなことはないんだよ」って言うんです。むしろ、「『神様の救いを待ち望む人』は、決して『待ちぼうけ』では終わりません!」と教えてるんですよ。

 じゃあ、それはいったい、なぜなのか? そのわけは「神様の救いを待ち望む」ということは、待ちぼうけ」のような「いい加減な待ち望み」ではないからなんです。

 「待ちぼうけ」の失敗には理由があるんですね。それは「何の確かな根拠もないのに、こちらの一方的な期待だけで待ち望んでしまうから」なんです。

 ちょうど今、「年末ジャンボ宝くじ」が売られてて、テレビのCMじゃ、10億円が当たったら、買えるかもしれない車に乗って、行けるかもしれない旅行に行って…」と「雲を掴むような期待」を煽ってますが、それと同じです。

 仮にもし、そういうものを「熱心に待ち望む」なら、(「宝くじを買われた人」には悪いですが)、そりゃあ空しいことですよ! だけど、「神様の救いを待ち望む」のは、それとは違って「待ち望むべき確かな理由」があるんです。それは他でもない「神様ご自身が語られた確かな約束がある」ってことなんです!

 「神様の約束」は、「宝くじが当たるかも」って曖昧な話とは全然違うものなんですね。それは非常に確かなものであって、一旦約束されたら神様ご自身が、ご自分の名誉にかけて、何があっても失敗させない絶対に確かなものなんです! だから、それを「待ち望む」のは、決して空しくはないんですね。むしろ、「確信をもって待ち望め!」と私たちは励まされてるんですよ!

 今日のシメオンも、そうやって「待ち望んだ」結果、「私の目があなたの御救いを見た!」と言うことが出来ました。その「御救い」とは、シメオンが腕に抱いた「救い主」、イエス様のことだったんです。そうしてそれは、神様が全人類のために「ご自身の絶対的なみことば」をもって語られた「約束」だったんです。また、シメオン自身にとってもそれは「主のキリストを見るまでは決して死を見ることはない」と約束された「約束」だったんです! だからこの日、その約束通りの「御救い」が、ついに時満ちて、間違いなく成就したんですよ!!

 ここでちょっと、「待ち望む」と訳されてる聖書のことばを深掘りしてみます。実は聖書には、「待ち望む」と訳されることばがたくさんあって、それぞれ微妙にニュアンスが違うんです。たとえば、「くよくよ心配しながら待ち望む」ってことばもあれば、「積極的に待ち望む」ってことばもあるんです。

 そんな中、今日の「待ち望む」「プロスデホマイ」ってギリシャ語の訳なんですが、これにはもう一つ「(誰かを)出迎える、歓迎する」という意味があるんです。そうするとこれは、「何の当てもないのに、ただボーっと待つ」とか、「『どうせ待っても釣れないさ』と諦めながら待つ」こととは違うんだ…ってことなんです。

むしろ、「何かが確実に自分の所にやって来るのを分かってて、その約束を信じて、今か今かと待っている」…、そういう「待ち望み」です。だから「歓迎する」とも訳されるわけなんです。

 先日のコンサートの日、私は出演者の柳瀬さんご夫妻を山形駅まで迎えに行きました。その時私は、柳瀬さんご夫妻が「土曜日の午後144分に新幹線に乗って山形駅に着く」と分かって、改札口で待っておりました。ところが、あの日は猛吹雪になって新幹線が遅れたらしく、144分になっても現れなかったんです。それで、慌てて家内に電話して、到着時間を確かめたんですが…、それでも私は「二人は必ず来る」と信じて待ちました。もしも来ないと大変なことになりますもん! その結果、3分位は遅れたけれど、無事にお二人を改札口で出迎えることが出来ました。そういう、とっても確かな「待ち望み」…。それがシメオンの「待ち望み」であって、私たちにも神様が励まして下さってる「待ち望み」なんですよ。


 「二番煎じの待ち望み」に招かれている私たち

 それに、もう一つ皆さんに覚えて欲しいことがあるんです。それは、「私たちは今『一番最初の待ち望み』がしっかり実現した後の『二番煎じの待ち望み』をしてるんだ」ってことなんです! だから私たちは、ますますもって確かな「待ち望み」が出来るんです。

 私たちも今、シメオンと同じように「御救いを見るまで待ち望め」と教えられています。 ただし、私たちはもう既に、クリスマスに「救い主のご降誕」という「最初の御救い」が約束通りに実現したことを見せてもらってるんですね。その上で、イエス様からさらに、こういう約束を頂てるんですよ。「わたしは、必ず再びこの世界に戻って来ます! その時には天の父が計画されてる『御救い』が最終的にパーフェクトに完成します! だから、あなたがたは、なおもその『パーフェクトな御救いの完成』を待ち望みなさい!」って…。

 だから私たちは、「最初の待ち望み」がしっかり報われた後の「二番煎じの待ち望み」をしてるんです。それゆえ私たちは今「これ以上はない」ってくらいの確かな根拠を頂いて「神様の救い」を待ち望ませてもらっているんです!

 これは、物凄い恵みです! さっきの「待ちぼうけ」の話で言うと、「二匹目が必ずそっちに行くから待っててね」との「約束」を貰った上で「待ち望んでる」んですよ!

 ただし…、その「二匹目」は、私たちが期待していたものとは、ちょっと違うかもしれません。「兎が来るかと思ったら、イノシシでした」ってこともあるかもしれないんです。けれども神様は、それでも私たちにとっての一番最善の「御救い」を送って下さる…、そのことだけは変わらないんですよ!

 だとしたら、そんな私たちにとって大切な事とは何なんでしょう? それは、「神様がお語り下さってる『約束のみことば』を、どれだけしっかりと聞いてるかどうか」ということなんです。シメオンは、その点も立派な人でした。おそらくはシメオンも、「神様の約束」を疑わせる雑音をたくさん耳にしてたと思うんです。「おいおい、今日もシメオンが救い主探しに来てるぞ。やーい、待ちぼうけのシメオンさん!」と嘲笑う声が響いていたことでしょう。けれどもシメオンは、御霊が告げた「約束のみことば」に毎日毎日、心の耳を集中させていたんです! だから、挫けなかったんです…。

 先日のコンサートが無事に終わった後で、私は出演者の柳瀬さんに、こんな話をいたしました。「私はコンサート中に、すぐそばを走ってる列車の音が、相当うるさいんじゃないかと心配してたんですが、そういえば、全然聞こえなかったですね」って…。

そしたら柳瀬さんが、こう言ったんです。「列車の音は聞こえていましたよ。だけど、人の耳は聞きたい音の方を聞こうとするので、コンサート中は列車の音は聞こえなくなるんです」って…。「なるほどねえ!」って思いました。

そして、私はこんなふうに思わされたんです。「…ということは、私たちが、どれだけ『神様のみことば』を聞きたいと思ってるか、その意思が問われているんだなあ。その意思さえあれば、余計な雑音は気にならなくなって心安らかに『神様の救いの約束』を待ち望めるんだなあ」って…。


 「救われている」からこそ、安心して「待ち望む」!

 けれども、私たちはさらに、とっても大事なことを最後に覚えたいと思うんです。それは、ちょっと矛盾に聞こえるかもしれませんが、「『神様の救いを待ち望んでる人』は、もう既に救われている」ってことなんです。

 私たちはたぶん、「待ち望んでいる人は『未だ救われていない人』なんだ」と考えやすいと思います。「待ち望んでいるのは『救いがまだ手に入っていないから』なんだ」と思うからなんです。ですが、本当にそうなんでしょうか?

 実は、そうではないと聖書は教えています。むしろ、「もしもあなたが『神様の救いを熱心に待ち望んでいる』のなら、それはもう既に、あなたが『救われている』からなんです」って教えてるんですよ。

 というのも、今日のシメオンはまさに、そういう人だったんです。シメオンは「救い主」を「切実に待ち望んで」おりました。そんなシメオンは「まだ救われていなかった」と思います? いいや、シメオンは「もう既に救われていた」んです!

 なぜかと言うと、へブル書1113節で、こう言われているからなんです。「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました」って…。

 「これらの人たち」とは、アブラハムや、モーセやダビデなんかの名立たる聖徒たちです。その人たちはもう既に、神様を信じて救われておりました。だけど、彼らも必死になって「待ち望んでいた」んですよ! …というのは、「はるか遠くにそれを見て喜び迎え」「喜び迎え」「プロスデホマイ」ってギリシャ語で、本当はこれも「待ち望んでいた」って意味なんです。

 つまり、「神様の御救いを本当の意味で待ち望める人」というのは実は、「救われた人」なんです! そのわけは、聖書が教える「救い」は「神の国」と同じで、「既に今、与えられているもの」もあるが、「まだ与えられていない、もっと素晴らしいもの」もあるからなんですよ! そして、「神様を信じて救われた人」こそが、そのことを最も理解できるんです。だから、「救われた人」こそが「最も待ち望む」んです!

 だから、「もしも皆さんが、どんなに長くてしんどい『待ち望み』に導かれたとしても、どうか、めげないでください! むしろ、『もう既に神様の救いの中にある』という事実に安心しながら『さらなる御救いを見るまで待ち望み』ましょう!」…、そう、私は皆さんにエールを送りたいと思うんです。


まとめ 

 最近、隣のお家で飼ってるワンちゃんが、礼拝前の鐘の音に「ウォーン」って反応するようになりました。そのワンちゃんは、飼い主のご主人様が大好きなんですね。毎朝、ご主人が散歩に連れて行ってくれるのを、ご主人がやって来る方向に顔を向けてジーッと待ってるんですね。たまに、私がそばを通ると、ふっと私の方を振り向くんですが、「なんだ、隣の牧師か」って顔をして、ご主人が来る方向にまたジーっと顔を向けるんです。

 そんなふうにしてこのワンちゃんは、毎朝毎朝、大好きなご主人様がやって来るのを今か今かと「待ち望んで」暮らしてるんですよ。それはまさに「アドベント・ドッグ」だなあと思うんですが…、そんなこの「いつも待ち望んでばかりのワンちゃん」をどう思います?

「救われていない可愛そうなワンちゃんだ」と思います? 逆でしょう! 「こいつは、とっても幸いな救いの真只中で暮らしてるワンちゃんだ!」って思うんじゃないでしょうか…。 

 クリスチャンとは「救われた人」です。でも、その「救われた」とは、「もはや何にも待ち望まなくてもよくなった」ってことではありません。むしろ「さらなる待ち望みに召された」ってことなんです!

そして、毎年やって来る「アドベント」はそのことを、私たちに繰り返し思い出させてくれる、とっても幸いな時なんです。

 だから私たちも、そのことをしっかりと心に刻ませていただいて、「御救いを見るまで待ち望む」…、そういう人生をご一緒に、励まし合わせていただきたいと思います。

 

                                                   


# by sagaech | 2023-12-03 14:25 | 礼拝メッセージ

教会のご案内

歓 迎 
ようこそ寒河江キリスト教会へ
教会のご案内_f0238747_17083737.jpg

保守バプテスト同盟 
  寒河江キリスト教会
(2022年度、
山形第一聖書バプテスト教会から
自立しました) 

牧師: 津嶋 理道 (つしま まさみち)

住所:〒991-0043 
山形県寒河江市大字島字島東72
TEL:0237-85-6255
FAX:0237-85-0335
教会や聖書に関心のある方は、
上記まで直接ご連絡ください。

主日礼拝
 毎週(日)午前10:45-11:45
どうぞおいでください


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集会のご案内
礼拝メッセージ
日曜日に礼拝で牧師が語る聖書のお話

チェリーキッズ(小学生以下の子ども会)
毎月1回土曜午前に行われる小さな子どもたちの会

チェリーキッズJr. (中学生・高校生の会)
毎月1回日曜日の午後に行われる中学生・高校生の会

サンデーキッズ(教会学校)
毎週日曜日の朝に行われる子ども会

その他にもいろいろな集会を行っております。
くわしくはこちらをご覧ください。
*集会は変更もありますので、
 ご一報ください。




# by sagaech | 2023-12-01 16:56 | 歓迎

献堂記念&クリスマス・コンサートをします

昨年の11月3日、献堂式を行いました。
それから1年間、
たくさんの恵みを頂いて歩んできました。
今年、
献堂1周年とクリスマスの恵みに感謝して
4年ぶりのチャペルコンサートをします。

かつて、
旧会堂で初めて行ったコンサートにご出演し
ずっと励まして下さった
柳瀬洋&佐和子ご夫妻の讃美演奏です。
ぜひ、お越しください。

11月25日(土) 午後6時30分開演
前売券 1000円(小中学生500円)
当日券 1200円(同   600円)
*教会にご一報ください。
*駐車場は、十字架塔の場所です。
(お間違いのないよう、お願い致します)

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# by sagaech | 2023-11-10 10:16 | イベント