人気ブログランキング | 話題のタグを見る

みことばに生かされる⑨「いよいよ深く神を知るために」

   日曜日の礼拝で牧師がお話した聖書のメッセージです。
みことばに生かされる⑨「いよいよ深く神を知るために」_f0238747_16203561.jpg
「みことばに生かされる恵み」9   2011.6.12
   「いよいよ深く神を知るために」
   ヨハネの福音書5章30‐40節、17章3節



 先日の教会懇談会では、デボーションの恵みを分かち合いました。それを通して改めて、「神様は確かに生きておられ、私たち一人一人に語って下さってるんだなあ」と思わされました。

1 聖書は、いろんな目的をもって読めるけど・・・
 以前、庄内の海でキス釣りをしていた時、あるおじさんが近づいて来て、私の釣りの仕掛けを見るなり、「それ、使い方違うよ」って言ったんです。仕掛けというのは、釣り糸や錘や針を繋いで使う小道具のことですが、私はそれまで、その仕掛けはそういうふうに使うものと思っていて、実際に釣り上げていたんです。でも、そのおじさんに言われたとおりに仕掛けを繋ぎ直してみたら、なんと、魚のアタリがよく分かって、もっと釣れちゃったんです。
 まあ、それは、「使い方を間違っていた」という恥ずかしいお話なんですが、私たちは、釣りの仕掛けじゃなくて、聖書というものを、もしかしてそんなふうに「使い方、読み方を間違って読んでいる」ことはないだろうか・・・って思うんですね。いかがでしょうか?

 皆さんは、聖書をどんなふうに読んでいますか?世の中の人たちは、聖書をいろんな読み方で読んでるんですね。たとえばある人は、「聖書の間違い探しをしてやろう!」と思って、ゴシップ探しをするみたいに聖書を読みます。それは困った読み方なんですが・・・、また他の人たちは、聖書を「思想の本」や「文学の本」として読んでいます。「なるほど!」と思う名言とか、感動的な物語を見つけるために読んでいたりするんです。また、ある人たちは、聖書を「歴史の資料」として読んで、考古学的な興味をそそるような記録を調べていたりするんです。聖書という本は、そういう読み方をしても十分に満足させてくれる本です。むしろ、そういう方面でも第一級の研究対象になり得るものが、この聖書なんです。
 ですが、そういう読み方とは別に、ある人たちは、聖書の中に「自分の救い」を探して読んでいます。また、「心の癒しや魂の救済」というものを熱心に期待しながら読んでいるんですね。どうでしょう。おそらく皆さんは、そういう読み方こそが、聖書という書物の一番相応しい、的を得た読み方だと思うんじゃないでしょうか?

 けれどもここで、立ち止まって考えてみて欲しいんです。もちろん、聖書は「救いや、心の癒しや、魂の救済」というものを与えてくれる書物に他なりません。ですが、私たちはともすると、「救いを求めて聖書を読む」という場合にも、極端な話、聖書を専らご利益的に読んでいたりはしないでしょうか?あるいは、実用主義的に読んで終わっている・・・ということは、ありませんでしょうか?本屋さんで見る『人生を何とかする方法』なんて本と同じ感覚で、「自分の人生を何とかしたい!そのための秘訣はどこにある?」という関心だけで聖書を読んじゃってる・・・ってことです。
 もちろん、そういうふうに読むことが、必ずしも悪いことではありません。本当に苦しくて救いが欲しい時に、そういう読み方から聖書を読み始めることは、極々自然のことだとさえ思います。けれども、敢えて考えてみたいと思うんですね。果たして聖書というものは、そういう読み方だけで良いものなんでしょうか・・・?


2 聖書とは、「神を知るための書物」なり!
 今日の所でイエス様も、ちょうどそのようなことを指摘されたと思うんです。
 「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(39-40節)
 当時のユダヤの人々は、聖書を『人生を○○する方法』なんて軽い気持ちで読むことはありませんでした。「聖書の中には、永遠のいのちがある」、すなわち「自分たちにとっての究極の救いが、ここにある」という心からの期待をもって、熱心に聖書を学んでいたんです。それをイエス様も「間違いだ」なんて決して言っていません。
 でもイエス様は、それを踏まえた上で、こう言われたんです。「その聖書が、わたしについて証言しているのです。」さらには、「それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」
 つまりイエス様は、こういう訴えをしていたんですね。
 「いいですか、聖書というものは何を隠そう、このわたしのことを知らせているんです!聖書を読むのは何のためですか?それはもちろん『永遠のいのち』を手に入れるためです。ですが、それは何よりも、このわたしを知って、神様ご自身のことをもっともっと親しく知るためなんです!そして、あなたがたが必死で求めている救いや、癒しや、解決は、その『神様を知る』ということの中にこそあるんです!『神様を知る』ことこそが、実は『永遠のいのち』そのものなんですよ!」

 どうでしょう、私たちは、聖書をそういうつもりで読んでいるでしょうか?それとも、そんなことは全然頭になくて、極端な話、「神様のことなんてどうでもいいから、とにかく救いが欲しい!とにかく私を助けてよ!」って思っているだけでしょうか?まあ、本当に苦しい時は、余裕がなくて「最短距離で救いが欲しい」と思うものですね。それは私もよく分かります。けれども、たとえ遠回りに見えたとしても、「神様を知る」ことこそ、実は私たちにとっての一番の近道なんです。「じれったい」と思っても、まずは神様を知らないと、「本当の救い」も見えて来ないんです。
 なぜでしょう?それは実は、神様を知った時こそ、それまで知らなかった全く新しい世界が見えて来るからです。神様を知ったなら、私たちは、「この世界は目に見える世界だけではない」ことを知ります。むしろ、本当の現実は、目に見えない世界の方だということを悟らされるんです。
 また、神様を知ると、「この世界には、全てを創造された創り主がおられて、その方が、今も私たちを日夜支えて生かして下さっている」ということも分かって来ます。さらに、神様を知ったなら、「この世界には『人間の相対的な価値観』とは違う『神様の絶対的な価値観』というものがあって、『本当の愛』や『絶対的な聖さや正しさ』が存在するんだ」ということを私たちは知るんです。そういうものを持っている神様に全てを委ねて生きて行くことの中にこそ、「本当の平安、自由」があって、「本物の救い」があることを、私たちは悟らされて行くんですね。

 けれども、繰り返しますが、そういう恵みというのは、神様を知らなければ、分からないものなんですね。それゆえイエス様は、ヨハネの17章でこう仰せられたんです。
 「永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」
 そして、そういう神様のことを私たちに知らせてくれるのが、「聖書」に他なりません。そのことが分かったら、きっと私たちは、聖書の読み方が変わって来るはずだと思うんですね。自分のことよりも、神様のことを知るために、聖書を読むようになって行くんです。神様のことをもっともっと深く、ますます親しく知らせてもらうためにこそ、「聖書のみことば」に聞いて行くようになって行くんです。


3 神様を「人間の枠」にはめて知ろうとするのは禁物!
 けれども、「神様を知ろうと思って聖書を読んでても、時々神様について疑問に思う・・・」ということはありませんでしょうか?「どうも自分の頭じゃ、神様について納得できないことがあるんだよなあ・・・」っていうことが、時々あるんじゃないでしょうか?
 たとえば、聖書を読んでいて、「えっ、神様はどうしてそんな厳しいことをなさるんだろう?神様は愛の方なのに、なんでそんなふうにするのか分からない!」とか。あるいは、神様が言われたことばや振る舞いが、どうも一貫していないように思えて、「これって矛盾じゃないの?おかしいんじゃない?」って感じちゃうとか。
 実は、私たちに先立って、そういうことを物凄く感じて混乱してしまった人がいるんです。それは、旧約聖書の「ヨブ記」に出て来るヨブという人です。

 ヨブは、「彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない」と言われるくらいに非常に立派な信仰者でした。ところがそのヨブに、神様は、考えられないような試練をお与えになったんです。なんとヨブは、たった一日で、自分の財産と子供たちを、人に襲われ、災害に見舞われて、全部失っちゃうという考えられないような悲劇を体験させられたんです。さらに、ヨブ自身も体中に悪性の腫物が出来て、のた打ち回って苦しみもがくことになっちゃったんです。
 それは、ヨブにとっては、「あたかも神様が、何の理由もないのに自分を裁いて見捨ててしまってる」ように見えちゃう出来事でした。しかも、ヨブの友人たちは、「おまえが何か悪い事をしたんだろう、正直に悔い改めろ!」って、的外れな忠告をするばっかりだったんです。
 でも実は、それはサタンがヨブの信仰を試みてやろうと思って起こしたことだったんです。それを神様がお許しになったってことだったんです。そのやり取りについては聖書に詳しく書かれていますが、ヨブ自身は何も知りませんでした。そしてヨブは、だんだんと神様に対して疑いの気持ちを抱いて行くんです。そしてついに、「自分は正しい、おかしいのは神様だ!神様の方が矛盾してる、間違っている!」と神様を断罪してしまったんです。
 けれども、そこに至って神様が、長い沈黙を破ってついにヨブに語り掛けました。
 「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。」(ヨブ38:2)
 「あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか。」(40:8)
 その上で神様は、ヨブ自身が決して知り得ない神様の圧倒的な御手のわざの一旦を垣間見せて下さったんです。すると、ヨブはようやく悟らされて、最後に神様にこう申し上げました。
 「まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。 自分でも知りえない不思議を。 ・・・・・・私はあなたのうわさを耳で聞いていました。 しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。」(42:3-6)

 ヨブの話は、私たちにも非常に身近な話だと思います。これは実は、「神様を信じる者だからこそ陥りがちな過ち」の話なんです。私たちは、聖書を読んである程度神様のことを知って行くと、やがて自分の中に、自分が知り得た知識だけを基にして、一つの枠組みを作り出しちゃうんですね。「神様とはこういう方なんだ」と。そしてその「自分が作り上げた枠組み」の中に、今度は「生の現実の神様」を無理やり押し込もうとしちゃうんです。
 実は私たちは、「神様が、目に見えない世界でどういうことをなさっていて、これからどういうことをなさろうとしていて、どういう理由でそうしているのか・・・」については、ほんのちょっとしか分かりません。いや、ほとんど知らないに等しいでしょう。たぶんそれは、今の私たちには、どんなに頑張っても知り得ない領域なんですね。
 ところが私たちは、自分が知っているほんの僅かの情報だけで、しばしば神様を判断し、批評し、断罪までしちゃうんですよ。ヨブもそうでした。彼は、「試練の裏にはサタンの企みがある」ことも、「そんなサタンの企みをも超えて、神様がご計画を持っていらっしゃる」ことも全然知りませんでした。なのに彼は、自分が知っている枠組みの中だけで、「神様、おかしいじゃないですか!」と考えちゃったんですね。だから私たちは、このことを覚えておかないといけないんですね。「聖書が告げている神様を『人間の枠』にはめ込んで知ろうとすることは禁物だ」と。
 けれどもヨブは、神様から諭された時、へりくだって神様に降参しました。するとヨブは、正しく神様のことを知ることができて、その上さらに新しく、さらに深ーく神様のことを知らされて行ったんです。まさにその体験が、ヨブにとっての新たな転換点となって行ったんです。

 『百万人の福音』という雑誌に、戸崎真知子さんという方のお証しがありました。最愛のご主人を癌で亡くした後の心の葛藤についての証しです。
 戸崎さんのご主人は、10年前に54歳で肝臓癌で亡くなられたそうです。クリスチャンではなかったけれど、戸崎さんの信仰をよく理解してくれて、家族思いの本当にいいご主人だったそうです。それなのに、最後は体中に癌が転移し、激しい痛みと壮絶な闘いをしながら、「もう終わりにしてくれ!」と言って、亡くなって行ったそうです。
 そんなご主人の死を看取った戸崎さんは、それから10年間、ずっと神様に、こう尋ね続けて来たといいます。
 「神様、主人の幸せは、いったいどこにあったのですか?苦しくても自分のことは一切言わずに、家族の心配ばかりしていた主人の犠牲は、いったい何だったのですか?」
 ところが、そうやって問い続けて来たある日、戸崎さんは、ふと、あることに気付かされたそうです。
 「どれくらいたった頃でしょうか。ふっと、『ああ、神様の領域というのがあるのではないだろうか、そこまで私たちが踏み込んではいけないのではないだろうか』、と気づかされたのです。」
 それを切っ掛けに、今までのいろんな事を思い返してみると、ご主人が元気だった頃に一緒に教会の行事に参加してくれたこと、具合が悪くなってからも「礼拝に出てみたいけど、じっとしていられないから遠慮するよ」って言ったこと、礼拝のお祈りの時に「アーメン」と言ってくれたこと・・・、そういうことが思い出されて来て、「そうしたことが全部神様の恵みの中にあることだったんだ」と気付かされたというんですね。戸崎さんは言われます。
 「『わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。』 マルコ9章40節 いつもこのみことばを思ってます。クリスチャンではなかった主人、でも反対はしなかった・・・、主イエスに『あなたも味方ですよ』と言ってもらってる主人を思ってます。今私は、イエス・キリストと共にあることにとても感謝しつつ、聖書のことばに大きな慰めと励ましを貰っています。」

 この戸崎さんもまた、「試練の中で神様を『人間の枠』にはめ込もう」とする誘惑に晒されて来たんだなあ・・・って思いました。けれども、戸崎さんもまた、神様の諭しに心を開いて行った時、正しく、またより深く、神様のことを新しく知ることが出来たんですね。まさにそのことが、戸崎さんにとっての救いとなって行ったんですね。


3 鍵は、主イエスを見つめることにあり
 「神様を知る」ということは、「神様の全てを100%知り尽くす」ことではありません。それは絶対無理ですし、神様じゃなく、相手が人間だってそうです。だから、「神様を知る」ということは、「たとえ知り得ないことがあったとしても、それも含めて神様を全人格的に信頼する」ことなんです。
 けれども、聖書を開いて「みことば」を前にする時、私たちは、どんなふうにしたら、そう出来るんでしょうか?
ヨハネの福音書に戻りますが、その鍵はやはり、イエス様にあると思います。イエス様は言われました。
「また、わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません。」(ヨハネ5:37)
 つまり、「このわたしだけは、父なる神様の御声を直に聞き、その御姿を直に見ているんだ。だから、神様を知りたいと思ったら、このわたしを知りなさい。天の父と一つであるこのわたしを人格的に知りなさい」とおっしゃっているんですね。
 だからぜひ、「神様がよく分からない」と思ったら、父なる神を証しするために世に来られた神の御子のお姿を、聖書の中で見つめてまいりましょう。そうすれば、「人のことば」じゃ矛盾と思えた神の御姿も、イエス様という生きたご人格の中で、しっかりと結びついて調和している姿が見えて来るんじゃないかと思います。そのイエス様を、まずは心から信頼いたしましょう!その時こそ私たちは、いよいよ深く神様が分かって来るのです。
 願わくは、そういう聖書の読み方を、ご一緒に学ばせていただきたいと思います。
by sagaech | 2011-06-15 16:19 | 礼拝メッセージ
<< 第2回わざ卓球&ワッフル(6月... みことばに生かされる⑧「みこと... >>