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「主イエスにさわる」

   日曜日の礼拝で牧師がお話した聖書のメッセージです。
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   「主イエスにさわる」     2011.6.26
   マタイの福音書14章34‐36節



 皆さんは、今日の「イエス様にさわって癒された」という話を聞いて、何か違和感みたいなものを感じたりしませんでしたか?聖書の中には、「イエス様ご自身が、病気の人に手を置き、さわって病気を癒された」って話はよく出て来ます。でも反対に人々の方が、イエス様にさわって癒されたという話は、12年間長血を患っていた女の人が、イエス様の着物のすそにさわって癒されたという話以外は、あまり出て来ないんです。
 カトリック教会では、「聖骸布」と言われる布を大切に保管しています。それは、「イエス様が十字架で死んだ後、お墓に埋葬する際にイエス様のご遺体を包んだ布だ」と言われるものなんですね。その話がどれだけ信用できるどうかは分かりませんが・・・、ある人たちは、「その布は、イエス様が身に付けてたんだから、その布自体に何か特別な力が宿っているに違いない。その布にさわると病気が嫌されるんだ!」って信じていたりするんですね。
 けれども聖書では、そんなことはどこにも教えられていないんです。むしろ、「何かにさわると癒される」という話は、この世の宗教、他のご利益信仰の方で、よく言われることです。たとえば、大阪の通天閣タワーには、「ビリケンさん」と言われる「子供の格好をした偶像」が置かれています。「足の裏をさするとご利益がある」と言われているそうです。だから、「ビリケンさん」の足の裏は、沢山の人にさすられて、つるつるテカテカになっています。
 今日の話は一見すると、イエス様が、まるでそういうものと同じになっている・・・と見えなくもないと思います。もし本当にそういう話なら、それはハッキリ言って「まじない」「魔術的信仰」です。でもイエス様がそういうことを私たちに教えてる・・・ってことは、どう考えたってあり得ない話です。それなら、今日の話は私たちに、いったいどんなことを教えているんでしょうか?
 

1 「せめて、着物のふさにでも・・・」と願ったゲネサレの人々
 今日の所を振り返ってみましょう。イエス様がガリラヤ湖を渡ってゲネサレという所に着いた場面から始まっています。ゲネサレは、ガリラヤ湖北西の湖畔地域で、当時ユダヤ人が住んでた地域としては、北の外れに近い所でした。そのゲネサレにイエス様がいらっしゃった時、そこの人たちは、イエス様だと気付くと、「付近の地域にくまなく知らせ、病人という病人をみな、みもとに連れて来た」っていうんですね。
 「病人という病人をみな」とは、「悪い所がある人はみな」ということばです。だから、病気の人はもちろん、単に病気だけじゃなく、様々な問題に苦しんでいた人たちもまた、そこに連れられて来たのでしょう。また敢えて、「みな」ということばが使われていますから、かなり大勢の人がいたに違いないんです。「イエス様に、私の人生をどうにかしてもらいたい!」という願いを持っていた、あらゆる人たちがそこにいたんです。
 それはつまり、このゲネサレの人たちが、いかにイエス様に期待していたか・・・ということの現れだと思います。「イエス様の所に行けさえすれば、何とかしていただける!」と、イエス様を深ーく信頼して、心からの望みを抱いていたということだと思います。

 ところが、このゲネサレの人たちと全く逆のことをした人たちもいたんです。それは、ゲネサレと、ガリラヤ湖を挟んで反対側の所で、「ゲラサ」と呼ばれる土地の人々でした。そのゲラサ地方でも、イエス様はかつて癒しを行いました。沢山の悪霊につかれて墓場で喚き叫んでいた男から、悪霊をすっかり追い出して救った奇跡です。
 けれども、そのゲラサの人々は、追い出された悪霊どもが豚の群れに乗り移って、二千匹の豚が湖に落ちて死んだのを目にするや、イエス様に向かってこう言いました。「自分たちの所から離れて行ってくれ」と。つまり、イエス様を迷惑扱いして追い返しちゃった・・・ということだったんです。
 そうすると、今日のゲネサレの人たちは、なんて対照的なことかと思いませんか?この人たちは、イエス様だと知るや、隣近所にくまなく使いを送って、「イエス様がいらしたぞ!」と伝えて回ったんです。そして、「病人という病人」、「悪い所のある人たち皆」をイエス様の許へと連れて来たんです!それは、どんなに田舎の町だったとしても、物凄い人数になったんじゃないかと想像できますね。ちょうどあの、震災直後の石巻の日赤病院みたいに、至る所、担架で運ばれて来た人で一杯だったんじゃないかと思うんです。
 けれども、この人たちは、そこで考えたようです。「忙しいイエス様を、俺たちみたいな者がこんなに大勢で煩わせてしまったら申し訳ない・・・」と。そこで、彼らはイエス様に、こう申し出たんですね。
 「どうかイエス様、ここに集まった人たちに、せめてあなたのお着物のふさにでも、さわらせてやって下さいませんでしょうか?私たちにはそれだけで十分です。」
 つまり、ここでの「さわる」という行為は、何も「まじない」とか「魔術的な行為」ではなかったんですね。むしろ、「イエス様に、なんとかして繋がりたい!繋がらせていただきたい!」と願う行為だったんです。「『生ける真の神』であり、『永遠のいのち』を持っておられる主イエス様に、なんとかして結び付いて生きたい。コンタクトを持たせていただきたい!そして、そのイエス様と、生きた繋がり、血の通った関わりの中に、この私をどうか置いて下さい!」っていう、切なる願いの現れだったんです。
 
 しかし、その一方で、この人たちは、そこにある種の隔たりがあることも自覚していたんです。「着物のふさ」とは、当時のユダヤ人が「神様の戒めを思い起こすためのしるし」として上着のすそに付けていた「ふさ」のことです。なぜ、そんなのにさわるんでしょう?なぜ、イエス様ご自身の手や足にさわるんじゃなかったんでしょうか・・・?
 実は、そこにこそ、この人たちの信仰があったんです。彼らは自覚していたんですね。「自分たちには罪がある、汚れがある」と。当時のユダヤ社会では、病気は祝福の反対であって、何らかの罪を犯した罰だという考え方がありました。まあそれは、ちょっと行き過ぎた考えでしたが。けれども病気があるないに拘わらず、私たちは誰しもが、神様の前には、「生まれながらに罪人」なんですね。だから、私たちは本来、神様という「聖なるきよい御方」との間に隔たりがあるんです。そのことを、この人たちはしっかり自覚していたんですね。
 でもだからといって、神様から隔てられているままでは、どうしようもありません。「救い主」でり「本当のいのちの君」であられるイエス様から、隔てられて離れてしまっているんじゃ、元も子もないんです。
 ここに連れられて来た人たちは、たぶん、世の中のどっちを向いても希望が見えなかった人たちだったでしょう。 私たちだってそうじゃないですか? そんな私たちにとっての唯一の希望は、何でしょうか?それは他でもない、この「救い主なるイエス様」に繋がることじゃないでしょうか? 
 ここに集められてきた人たちは、この世界のどこを探しても「自分を救ってくれそうなもの」が見つからなかったんです。私たちだって、そうなんじゃないでしょうか?そんな私たちにとっての唯一の救いとは、このイエス様にひたすら結びつくことじゃないでしょうか?そして、イエス様から「本当の救いといのち」を注ぎ与えていただくこと、それに尽きるんではないでしょうか?
 そのことに、このゲネサレの人たちは気付いていたんですね。そこで、彼らは、自分たちの身の程を弁えながら、謙遜に、「せめて、着物のふさにでもさわらせてやってください」と、イエス様に申し出た・・・ということです。


2 「主イエスにさわる」・・・その生きた繋がりが必要だ!
 さあその後は、果たしてどうなったんでしょう?なんと感謝なことに、イエス様は、彼らの切なる申し出を快く聞き届けて下さったんですね。それだけではなかったんです。さらに素晴らしいことをして下さったんです。
 36節、「そして、さわった人々はみな、いやされた。」
 これは文字通り「イエス様にさわった人々が皆、例外なしに癒された」ってことに他なりません。それくらい、「イエス様にさわった」ことが、一人一人に絶大な祝福をもたらし、期待を裏切らない結果をもたらしたと、聖書は私たちに証言しているんです。
 けれども私は、この話を読んで、正直言って違和感がありました。「ただ単にイエス様にさわったというだけで、こんなに見事に癒されちゃっていいものか・・・」と。というのは、「さわって癒される」というのが「まじない的で魔術的だ」というだけでなく、「さわる」というのは非常に感覚的なことだからです。
 「イエス様にさわる」ということは、曖昧で不確かな「人間の感覚」に頼った行為じゃないの?「イエス様のことを正しい知識に基づいて知っている」というのとは対極にあることじゃないの?それなのに、さわっただけで、こうも見事に癒されちゃうなんて、こんなんでいいんだろうか・・・。」皆さんは、そうは思いませんでしたか?
 
 ところが、そう思ってたら、新約聖書「ヨハネの手紙第一」の1章1節に、こうあるのを思い出したんです。
 「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。」
 これは何を言っているかというと、イエス様のことを言っているんです。これを語ったヨハネという人は、イエス様の12弟子だった人で、イエス様のすぐそばで、丸々3年間ずーっと仕えて暮らした人でした。そんなヨハネは「自分たちは、イエス様という御方のことを、単なる頭の知識としてではなく、自分たちの目の前で実際に生きておられる方として、目で見て、声を聞いて、手でさわる、というようにして知ったんです!」と言ってるんですね。「手でさわる」という、まことに人間的な、血の通った触れ合いを通して、神の御子なるイエス様と、生きた関わり、いのちを通い合わせるようなお交わりを持たせていただいたんです!と。
 
 それと同じようなことが、まさに今日の所でなされていた・・・っていうことだと思うんです。もしも、そのような「生きた繋がり」が、私たちとイエス様との間にもあったとしたら、どうでしょうか?私たちもまた癒され得るんじゃないでしょうか?もしも、「いのちを通い合わせる生きた触れ合い、お交わり」が、私たちとイエス様との間にもあるなら、私たちの人生にだって「神様の奇跡」が起こったとしても、おかしくないんじゃないでしょうか。
 もちろん、「神様の奇跡」とは、「病気が癒される」ことだけじゃありません。「病気は癒されないけれど、そんなことには押し潰されない平安に不思議と満たされる」という奇跡もあるんです。
 いずれにしても、そういうものは、神様から離れた人生だったら「あり得ない話」で終わるんです。ですが、神様と繋がっている人生ならば、「十分にあり得る話」になるんじゃないでしょうか・・・?
 もしそうなら、私たちにだって、皆さんの人生にだって、「イエス様にさわる」ということが、必要不可欠ではないでしょうか?言い替えるなら、ただ単に「頭の知識としてイエス様のことを知っている」以上のことが、私たちには必要だっていうことです。
 もちろん、正しい知識は必要で、それがないとイエス様のことを誤解してしまいます。だけど、そういうふうにイエス様のことを知ってるだけじゃなく、もっと血の通ったお交わりで、人格的に体験的に知ること。いうならば「心の中でいつもイエス様にさわっている」ということ。そういう「イエス様との生きた触れ合い、繋がり」が、私たちには不可欠なんだ・・・ということなんですね。


3 どのようにして、主イエスにさわるのか?
 それならば、そういう「イエス様との生きた触れ合い、繋がり」は、どうしたら持てるものなんでしょうか?つまり、「イエス様にさわる」とは、具体的には、私たちは、どんなふうにしたら出来ることなんでしょうか・・・?
 それはやっぱり、「お祈り」を通してだと思うんです。お祈りをする時に、型通りの文句を唱えるのではなくて、イエス様に向かって個人的にお話しするように、イエス様と生きたお交わりをするように、お祈りする。イエス様のお心に「触れる、さわる」ようにしてお祈りすることです。
 そしてまた、「自分自身の切なる思いや、自分自身のありのままの姿と必要を、そのままイエス様の前に携えて行って、イエス様の前に注ぎ出すように・・・、そうしてイエス様のお心に「触れて」、「イエス様ご自身にさわる」ようにしてお祈りすることだと思うんです。

 福島県いわき市に、「いわき希望教会」があります。何年か前に、その教会の牧師の伊藤順造先生が、寒河江教会の伝道会に講師としてお出で下さいました。その伊藤順造先生が、震災後から50日間の歩みを証しにまとめられ、それを先日読ませていただきました。
 ご存じのように、いわき市は、沿岸部は津波でやられた上に、原発の放射線被曝の脅威に、今も晒され続けている街です。そんないわき市民は震災後、目に見えない「放射線という敵」に物凄く揺さぶられました。物資供給も滞る中、市民の半数以上が県外脱出するという事態になってしまいました。実際、「いわき希望教会」の周りの住宅街は、なんと9割方がいなくなったというんです。お医者さんたちも例外ではなく、地域医療が崩壊しちゃいそうになったんです。 
 そんな中、牧師であり、いわき市立病院の医者でもあられる伊藤順造先生は、何としでもいわき市内に留まって、30か所にも渡る避難所を巡回診察しながら、教会の牧会をするという非常に過酷な働きをなさって来られたんです。    
 けれども、放射線の脅威は収まらず、ついに教会の方々も大多数が避難してしまい、3月20日の礼拝は、いつもの四分の一の出席に減ってしまったというんですね。さすがに伊藤先生も、「今後のいわき市はどうなってしまうんだ?いわき希望教会は、どうなってしまうんだ?」と、非常にやり切れない思いになったそうです。
そんな中、その3月20日の礼拝説教は、震災前から準備していた「祈り」についてメッセージだったそうです。ですが、本当は「祈りというのは、どういうふうに、どんな時に、何のために祈るのか」ってことを話すつもりだったそうです。でもその時は、その全部を切り捨てて、ただ一つのことだけをお話したそうです。「祈りの本質は、『生ける神を身近に体験することです』」と。
 それを聞いて私は、「ああ、それはまさに、『生ける神様にさわる』ことじゃないだろうか!」と思わされました。
 続けて伊藤先生は、こう語っておられます。
 「『主よ。』、『イエス様』、『神様。』、その叫びで十分です。『主よ。助けてください。』、『イエス様、大丈夫だ。』、『神様助けてください。』、それで十分です。この大震災の時、誰もが目の前の神を覚えて叫んだことでしょう。それこそが祈りの本質ですと語りました。それ以外に語るべきものを持つことができなかったのです。・・・その日の午後、避難したくても動けないでいる信徒夫婦の所に出掛け、病床礼拝を持ちました。85歳になる冨士原兄は、ベッドの上での不自由な生活を強いられている中で被災しました。あの恐怖感を覚えた長い揺れの間、奥様は『神様、助けてください。』と叫び続けていたそうです。
 一方で、冨士原兄は、『イエス様、大丈夫だ。イエス様、大丈夫だ。』と語り続けていたというのです。『たとい今、地上の生涯終ろうとも、すぐさまイエス様の懐の天国に行くんだから、心配ない。大丈夫だ。』と告白していたのです。」
 私は思うんですね。「ああ、伊藤順造先生も、そしてこの冨士原さんご夫妻も、こういう祈りを通して『イエス様にさわる』ということをなさっていんだなあ・・・」と。


結論 
 私たちはもしかして、「イエス様にさわる」所まで行かないで、イエス様の周りをただ単に、付かず離れず取り巻いてるだけ・・・ということが、あったりするんじゃないでしょうか?もしもそうしているなら、私たちは、「イエス様が持っておられる永遠のいのちという救い」に、十分に与れないままで終わってしまうかもしれません。
 けれども「イエス様にさわる」とは、そういう状態から一歩、イエス様との深い関わり、生きた繋がりの中へと踏み込んで行くことに他ならないんですね。そしてイエス様は、どんな人にも、そういう「生きた繋がり」をご自分との間に持つようにと、招いて下さっているんです。
 それならば、ぜひ私たちは、心の中で、祈りの中で、イエス様に向かってひたすら、謙りながらも手を伸ばして行く・・・そういう歩みをさせていただこうではないですか。そうして、「イエス様にさわらせていただく」という人生の恵みを、もっともっとご一緒に、味わわせていただきたいと思います。
by sagaech | 2011-06-30 16:25 | 礼拝メッセージ
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