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「親が子どもに残してやれるもの」(祝児式説教)

   日曜日の礼拝で牧師がお話した聖書のメッセージです。

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祝児式説教    2012.11.18
 「親が子どもに残してやれるもの」
    創世記22章1‐14節


1 親は子どもに何を残してやるべきか・・・?
 今日は礼拝の最後に「祝児式」をして、神様の前で、子どもたちのことを特別に覚え、神様に子どもたちを祝福していただく時を持ちます。
 「児孫のために美田を買わず」という諺があります。「子孫のために美田を残さず」とも言い、中国の故事熟語から来ています。「美田」とは、「立派な田畑」、「立派な財産」。「そういう立派な田畑や財産を、子どものために残してやることはしない、それはよくないことだ」という意味です。美田を残すと子どもを甘やかしてしまい、自立できなくさせてしまうから、ということです。
 西郷隆盛は、この諺を歌に詠み、この諺を西郷家の家訓としていたそうです。昔から「親が子どもに残してやるべきものは一体何か?」ということを真剣に考えてきたんですね。

  今の世の中で、「親は子どものために何を残してやるべきか?」と尋ねたら、「家や土地、財産」という答えが返って来るんじゃないでしょうか。あるいは、「学問や、技能」との答えもあるでしょう。子どもが独り立ちできるように、そういうのをしっかり持たせてやるのが親の務めだと。
 もちろん、それも大事なことだと思います。でも実際は、親子間には結構行き違いがあったりします。子どもは都会に出て、田舎には返らないから、家や土地を残してもらっても困るとか・・・、財産を残してやるつもりが、逆に借金を残してしまうとか・・・。せっかく学校に入れてやったのに、子どもは全然違う道に進んで行き、「何のために学校に入れてやったんだ!」とガッカリすることもあるでしょう。
 私の親もそうでした。父が生きていた頃、車に乗れなくなってきたので、「おまえに車をやる」と私に言いました。その車は、凄い高級車でした。実は、私の母を亡くした後、独り暮らしの寂しさを紛らわすために、父が半ばヤケッパチで買った車でした。老後を夫婦で楽しむはずだったお金を使い、特別仕様で注文した車です。それを「遺産の一つとしてくれてやる」と言ったのですが、私は、はたと困りました。ハイオクのガソリン代は物凄いし、維持費、税金も高い。だから、「勿体ない」とは思いつつ、「やっぱり貰えないよ」と断りました。
 そのように、親が子どもに残してやろうと思うものと、子どもにとって必要なものは、必ずしもマッチしません。だったら、「いったい親は、子どものために、何を残してやるべきか?」と考えさせられてしまうんじゃないでしょうか?親が子どもに残せるものの中で、子どもにとって本当に価値ある尊いものとは、どんなことなんでしょうか・・・?


2 アブラハムがイサクに残したもの・・・「信仰」
 今日のアブラハムとイサク親子の話から、それを深く教えられます。
 アブラハムは、パレスチナに住んでいた遊牧民で、たくさんの家畜を持っていました。家畜は財産ですから、結構裕福な人だったんです。
 その跡取り息子イサクは、当然その財産を受け継ぐわけですが、アブラハムがイサクに残してやった「最高の財産」は、実は、そういう類いの財産ではなかったんです。彼が残してあげた「最高の財産」は、「神様に対する信仰」でした。
 アブラハムは、神様に忠実に従って来た信仰者でした。子どもがなかった彼は、神様から頂いた「子どもが与えられる」という約束を、25年間も待ち望みました。その結果、ついに、奥さんのサラとの間にひとり息子イサクが与えられたんです。
 ところが、そのイサクが少年になった頃、アブラハムに大きな試練が与えられました。なんと、目の中に入れても痛くないほどのイサクを、神様のために「全焼のいけにえ」として捧げなさいと、神様ご自身から命じられたんです!それはイサクを祭壇の上で殺して焼くこと。実の親が、実の子どもにそんなことをするなど、普通はあり得ない話です。神様も、普通はそんなことをお命じになるはずもなく、あまりにも残酷なことだったんです。
 けれども彼は、命令を受けた翌朝にはもう、イサクを連れて旅立って行きました。何の愚痴も嘆きもありませんでした。いや、心の中にはあったかもしれません。でもグッと心の中で押し殺し、奥さんのサラにもイサクにも、詳しい事を伝えないまま出掛けました。
 やがて、指示された山の所に来ると、イサクにいけにえを燃やすための薪を背負わせて、二人きりで進んで行きました。そうして山の上に着くや、アブラハムは祭壇を築いて薪を並べ、その上に、自らイサクを縛って寝かせたんです。そしてついに、刀を振るってイサクを屠ろうとした・・・。
この場面だけ見ると、恐ろしい児童虐待です。でも本当は、そうじゃなく、「神様に対するアブラハムの深い信仰による行為」でした。そのことが、新約聖書へブル書11章で解説されています。
 「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、『イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる』と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。」 
 つまりアブラハムは、こういうふうに神様を信じていたんですね。「神様は、こうして私にイサクを与えて下さり、イサクから大勢の子孫が生まれ出るとの約束して下さった。だから神様は、どんなことがあってもその約束を守られる!神様は、ご自分を信頼する者を決して裏切らない!その神様がお命じになったのだから、たとえイサクをいけにえに捧げても、神様は何らかの方法で・・・、死んだイサクをよみがえらせることをもして下さって、必ずイサクを取り戻して下さるはずだ!」
 そして神様は、アブラハムに介入して下さいました。あわやという時に、直ちにアブラハムに「待った」をかけて、イサクのいのちを守って下さったんです。そうやって神様に従い通したアブラハムの信仰を、この後神様は大いに称賛して下さいました。さらに、これまで以上にアブラハムに豊かな祝福を約束して下さったんです。
そうしてアブラハムは、イサクと一緒に感謝と喜びに満たされて、平和な心で山を下りて行ったんです。

 このようなアブラハムの信仰は、「天地の主である神様を心から畏れて敬う」信仰です。「どんな試練や困難の中に置かれても、神様は、神様に信頼する者を決して裏切らない。だから、ひたすら神様の仰せに信頼してついて行く。その時こそ、本当の救いと幸いが待っている」という信仰です。
 そういう信仰を、アブラハムはここで、イサクへの何よりの相続財産として残してやったんです。というのは、イサクが大人になった姿を見ると、その信仰が確かにイサクの中にも根付いているのが見えて来るんです。
イサクも大人になった時、神様から祝福されて、たくさんの家畜を持っていました。そうしたら、イサクを妬む人たちが現れて、イサクが使っていた井戸を埋めてしまうという嫌がらせをしました。そこで、イサクは代わりの新しい井戸を掘ったんですが、新しい井戸を掘ると、その度に彼らがやって来て、井戸を奪い取る・・・という酷いことをしたんです。
 けれどもイサクは、その度、争いを避けて、苦労して掘った井戸を手放して行ったんです。そして、そういう試練の中にあっても、ひたすら神様に信頼し、神様の導きに従って行く道を選びました。その結果、イサクはますます神様から祝福されて豊かになって行ったんです。
 これは、父アブラハムが残した「信仰」という財産が、イサクの中にもしっかり受け継がれていたということだと思います。


3 「信仰」の遺産を受け継がせる鍵・・・「人格のやり取り」
 けれども、そういう「信仰」は、「我が子に何としても残してやりたい」とは思っても、実際には難しかったりするんじゃないでしょうか?そんな中で、どうしたら、親はそれを、子どもに残してやることが出来るんでしょうか・・・? 
 もう一度、アブラハムはどうしたのかを振り返ってみたいと思います。 旧約聖書の申命記に、こう書かれています。
 「私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。」
 神様はまず、「ことばで神様のことを教えなさい」と言われるんです。子どもに「信仰」という財産を残すには、まずそれが基本です。「聖書の教え、神様のみことば」を、子どもたちに熱心に教えて行くことは、どうしても欠かせません。
 ですが、今日の創世記の所を見ると、アブラハムはここで、イサクにあまりクドクドと話していないんですね。もちろんアブラハムも、普段は神様の教えを熱心にイサクに語ったと思います。ですが、それだけではなかったということです。
 じゃあ、他に何をしたんでしょう?アブラハムはここで、イサクに「神様を信じて信頼するとは、どうすることなのか」を実際に見せたんです。「神様を愛して恐れ敬う」ということを、自分自身の姿、生き様を通してイサクに教えてやったんですね。
 別な言い方をすると、アブラハムの「信仰者としての生の人格」というものに、イサクを触れさせてやったのです。「神様を信じて生きる者の血の通った生の息づかい」に触れさせてやることです。
 アブラハム自身は、そういうつもりはなかったかもしれません。ただ目の前の試練に向き合っていただけかもしれません。でも結果的に、アブラハムはイサクと一緒にいる中で、「神様を信じる信仰の何たるか」を見せていたんですね。 
 時には、無言でひとり、厳粛な空気の中で祈っていることもあったでしょう。あるいは、神様の前にひれ伏して、涙を流して呻いてることもあったかもしれません。他にも、神様のおことばを聞いて、毅然として前を向いて進んで行った後姿や、嵐のような試練の中にいるのに、穏やかに微笑みを湛えていた姿もあったかもしれません。そういう「神様を信じて生きる信仰者の生の人格」に、イサクはこの時たっぷり触れさせてもらったじゃないかと思うんです。

 今日のアブラハムとイサクの親子の会話です。イサクは子どもながらに不思議に思ったんですね。
「お父さん。」「何だ。イサク」、 「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか?」
 アブラハムは、よっぽど込み上げて来るものを感じたんじゃないかと思いますが、静かにこう答えました。
「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」
 こうして二人はなおも一緒に歩き続けました。このアブラハムのことばに秘められた「神様に対する信仰」を、イサクがここで、どれだけ理解できたかどうか分かりません。けれども、そう語って歩み続ける父アブラハムのそばで、イサクはきっと何か感じるものがあったと思うんです。
 父親が前を向いて歩き続ける後姿に、いつもと違う緊張があるのを感じたかもしれません。そして、これから行く所には、何か分からないけど只事ではないことが待っていて、それを父親が、神様に信頼して乗り越えようとしている・・・、それだけはイサクも十分感じることができたんではないでしょうか。そんな姿こそ、「神様を信じる信仰者の生の人格」だと思います。

 イギリスの有名な神学者C.S.ルイスという人が、こう言っています。「人格は、感染によって育つ。」面白いことばだなと思います。「私たちの人格」は、「誰かの、より高尚で素晴らしい人格」に触れた時にこそ、その影響があたかも病気が感染して行くみたいに私たちに移る・・・というんです。それによって「私たちの人格」は、さらなるレベルに成長させられて行くということです。
 「信仰」も「人格」です。神と人との「人格と人格のやり取り」です。そのやり取りを、子どもの前で具体的に実践して、触れさせてやる・・・ということが、神様が「親」に託しておられる何よりの務めなんですね。それこそ、「親が子どものために残してあげられる最高の財産、最大の宝物」に違いないんです。
 子どもは、親が本気で神様を第一にして畏れ敬っている姿を見る時に、「ああ、この世界には、本気で恐れ敬うに値する御方がいるんだ」と肌で実感するんです。親が本気で神様のみことばに聞き従っている姿を見る時、「ボクの人生にも、本気でその声に聞き従って行くべき御方がおられるんだ」と、頭じゃなく、心で理解するんです。
 逆に、それがないなら、大人や親がどんなに神様のことを教えても、子どもは「嘘くさいもの」を感じて反発します。でももし親が、本気で神様を畏れ敬って行くならば、そういう姿に子どもが触れて行くならば、子どもは「嘘ではないもの、本物」を敏感に感じ取ります。それこそが、その子の将来、人生にとっての、どんなものにも勝る最高の財産となります。


4 ベドウ路得子さんのご両親
 現在、日本を拠点に活動されているゴスペル歌手、ベドウ路得子さんのお話です。この方は、お隣の大江町で育った方で、お父さんは福沢満雄牧師です。福沢先生は、路得子さんが生まれて間もない頃、神奈川県から山形に引っ越して来たんですが、当時は非常に貧しい生活で、地元の人たち以上に貧乏だったそうです。毎日、山菜取りに出掛けては、食べられそうな物は何でも食べて食い繋いでいたといいます。
 ある日、路得子さんが冬の寒い朝に目を覚ますと、お母さんが台所の米びつに手を置いて、跪いて、祈っている姿を見たそうです。「神様、もうお米が一粒も残っていません。どう探しても食べられる物は全くありません。せめて子どもたちに何か食べる物を与えてください。」
 すると、しばらくして「郵便でーす」と一通の手紙が届き、「子どもさんたちに食べさせてあげて下さい」と、雪印チーズ券が一枚入っていたというんです。お母さんは村に一軒だけあったスーパーに走り、チーズを一つ手に入れて来て、一家5人で手を合わせて食事したそうです。
 そんなご両親の神様に向き合う本気の祈りの中で、路得子さんは育って行かれましたが、やがて中学高校となった時、いつの間にか、心に迷いを覚えて悶々とした日々を過ごすようになったそうです。「クリスチャンはこうあるべき」という理想と、そうなれない現実の間で、深い自己嫌悪を抱え、どうにもならない怒りを持て余していたと・・・。
 でも、夜遅く学校から帰るといつも、必ず目にする光景があったそうです。電気も付けずに真っ暗な部屋で、お父さんとお母さんが必死に祈っている姿です。「神様、『ちるま』をもう一度返して下さい。」「ちるま」とは、三人の子の名前の頭文字を繋げたものだそうですが、「代わりに私たちを地獄へやってもいいですから、『ちるま』を返して下さい。」と、お父さんとお母さんは、膝をつき、胸を叩き、腿を叩いて、汗と涙と鼻水でグショグショになりながら必死に祈っていました。その姿、その涙が、路得子さんの怒りを少しずつ溶かして行ったのです。
 その後、路得子さんは、ご両親と同じように神様に献身し、音楽伝道の宣教師となって働いておられます。彼女もまた、ご両親の「信仰者としての真摯な人格、生の人格」に触れる中でこそ、神様への信仰が育まれ、回復されて行ったんだなあ・・・と思います。


結論    
 私たちの子どもたちだって、そうですね。皆さんの「神様を信じる生身の姿、信仰者としての本気の生き様」が、皆さんのお子さんたちを神様の許へ、神様の救いの中へと誘って行くんです。それこそが、「私たち大人が、親が、子どもたちのために残してあげられる本当の意味での財産」に違いないんですね。
 願わくは、その大切な務めを私たちが、しっかり果たすことができますように祈りたいと思います。そのために、ぜひ皆さんで、教会という神様の家族の中で、共に祈り合い、支え合って行きたいと思います。



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by sagaech | 2012-11-28 19:15 | 礼拝メッセージ
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