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イースター説教「復活を信じる者の幸い」

  日曜日の礼拝で牧師がお話した聖書のメッセージです。 
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2014年 イースター説教
「復活を信じる者の幸い」 2013.4.20
ヨハネの福音書20章19‐29節


はじめに         
 今日は、イエス・キリストが十字架で死なれたあとに、三日目に復活されたその日、イースターの礼拝です。
 イエス様は、私たちを罪から聖めて救うため、また永遠のいのちに生かして下さるために、私たちの罪を背負って十字架に架かって死んで下さいました。でも、それで終わったわけではないんですね。イエス様は、人となられた神でした。だから、死んだままでは終わらなかったんです。
 イエス様は、「死」を打ち破って、「新しいいのちと体」に復活されたんです!今日は、このイースターの日に、「イエス様の復活」って出来事の恵みと幸いについて今一度、ご一緒に覚えさせていただきたいと思います。

1 「不老長寿、不老不死」vs「復活」
 この前、「NHKスペシャル」ってテレビ番組で、『人体ミクロの大冒険』って話をシリーズでやっていました。あのips細胞でノーベル賞を取った山中教授が、人間の体の細胞についての最先端の研究を分かりやすく紹介してくれる番組だったんですが、その最終回の番組で、「老いと細胞」ってテーマの話があって、とっても興味深くて面白かったんです。
 私は今まで、「老い」というのは、体の細胞が老化するから起こるんだ・・・と思っておりました。ですが、単にそういうことではないというんです。むしろ、私たちの体の中の免疫細胞が異常をきたして暴走する・・・、それが老化が起きる大きな原因なんだって最近の研究で分かって来た・・・って話だったんです。
 免疫細胞というのは本来、私たちの体を外から入って来る悪い物から守ってくれる細胞です。だけど、それが正常に働かなくなって暴走することが、年を取ると起こるんだそうです。すると、その「暴走した免疫細胞」が、間違って自分の体の正常な細胞をどんどん攻撃し始めて、それによって体が老化しちゃうって話です。
 そこで、その免疫細胞の暴走を、もし食い止められるなら、逆に「老いる」こと自体を抑えられるんじゃないだろうか・・・、そんなふうに考えて、研究がなされているそうす。そこで活躍するのが、あの山中教授のips細胞で、それを使って人工的に「正常な免疫細胞」を作って体の中に入れるというんです。すると、体は「正常な免疫細胞」によって守られて、「老いる」ってことに歯止めがかかるって、「年を取っても体は老化しないで、ずーっと若いまんまで暮らせるかも・・・」って話だったんです!
 「凄い!目からウロコ!」って思いました。もしそんなことが出来たら、どんなに高齢化社会になってももう安心です。年を取っても中身は若いままなら、何にも問題ないですもんね!
 けれどもその後で、ふと私は、思いました。「この話は詰まるところ、現代の科学によって『不老長寿』や『不老不死』ってものを手に入れよう!って話なのかもなあ・・・」って。
 人間にとって、「不老長寿や不老不死」は、遠い昔からの究極の夢でした。「いつまでも老いることなく長生き出来る」、「いつまでも老いないで死ぬこともない」ってことです。お金も権力もあった昔の人は、その「不老不死」のために良い薬がないものか・・・って世界中を捜し回って、学者を集めて研究をさせました。ですが、「そんなことはやっぱり無理だった・・・」って諦められていたんです。
 ところが、最近の科学によってもう一度、そういう夢みたいなことが真面目に研究されるようになって来たんです。ですが、「不老長寿や不老不死」というのは結局のところ、こういうことに他ならないと思うんです。「私たちが今持ってるこの『不完全ないのちと体』に、どこまでもずーっと拘り続けよう」ってことですよ・・・。

 一方、聖書は私たちに、もっと別の、もっと他の夢と希望を教えてくれてるんですね。どんな夢と希望でしょう? それは他でもない、「復活」って夢と希望なんですよ!!私たちは今、この地上で様々な不自由を抱えた「いのちと体」を持って生きてます。たとえ「老い」って問題が解決されても、他にもたくさん問題を、この「いのちと体」は抱えてるんですね。
 ですが、「復活」っていうことは、私たちのこの不自由な「いのちと体」を遥かに超えた、「新しいいのちと体」を与えてもらう・・・ってことなんです。しかも、それはいわば、私たちの「生まれながらのいのちと体」を脱ぎ捨てて、「天からの永遠のいのちと体」に着替えさせてもらう・・・ってことなんですよ!
 だとしたら、これこそは、「この世のあらゆる束縛から解放された本当の究極の幸い」に他ならなんじゃないでしょうか?そしてあの日、その「復活」を、神の御子なるイエス様が、この世界で始めて実現して下さったんです!そして今、私たちをもその「復活」って恵みの中に招いて下さってるんです。


2 「復活」は、「死」から逃げずに、乗り越える
 けれども私たちは、それでもやっぱり、こんなふうにも思わされたりするんじゃないでしょうか?「でもなあ、それでもやっぱり『不老長寿や不老不死』の方が、まだ、いいんじゃないの? だって、そっちの方は、『死』ってものを避けて通れるみたいだもん! 『死』を、見ないで済むみたいだもん!」
 確かに「不老長寿や不老不死」は、「死っていうものを出来るだけ遠ざけよう、回避しよう」って考え方だと思います。「老い」の先には「死」が待っている・・・、その「死」が怖いから・・・、それが究極的な絶望だから、そこから何とかして逃げ出したい!それが「不老長寿や不老不死」の正体なんだと思うんです。
 でも、どうでしょうか?それは「死」から逃げてるだけじゃなく、「この世の現実」からも逃げてるんじゃないでしょうか? 残念なことに、どんなにips細胞を使っても、この世界から「死」というもの自体をなくしちゃう・・・ってことは出来ないでしょう。「死」を、ちょっぴり先延ばしに出来るだけでしょう。それに私たちは、「肉体の死」以外にも、この地上の世界じゃ、たくさんの「死の体験」を経験します。 
 たとえば、人生で厳しい試練に遭って、自分の心がボロボロにされちゃって、「死んだような苦しみ」を味わわせられる・・・。あるいは自分の生活が、人間関係や、お金の問題や、心の病などのせいで、「死んだも同然になる」ってことが起こるんじゃないでしょうか? どんなに「不老不死」を願っても、そういう「死の体験」はどうにもならない形で私たちに付いて来ちゃうんです! だとしたら、いったいどこに希望があるんでしょう? どこに、救いを見つけられるんでしょうか?  
 それはやっぱり「復活」っていうことの中にこそ、見つけられるんではないでしょうか・・・? なぜならば、「復活」は、「死」を避けたりはしないからです。むしろ「復活」は、「死」というものに真っ向から立ち向かうんです! そして、「死」を飲み込んで、打ち破って、乗り越えて行っちゃうからです。 普通なら、「死」が、この世の全てを飲み込みます。だから最も恐れられるんです。ですが、「復活」が本当なら、それは、「死」さえも飲み込んじゃうんです!「死」がもたらす絶望も、「復活」はすっかり覆しちゃうんですよ!!
 だとしたら、あの日イエス様が成し遂げて下さった「復活」は、なんて大きな希望と御救いを私たちに、与えて下さったんではないでしょうか!!

 今日の聖書の箇所は、十字架に架かって亡くなって、一旦はお墓に葬られたイエス様が、三日目に復活なさってお弟子たちの前に再び姿を現された場面です。その時イエス様は、「平安があなたがたにあるように」と言いながら、ご自分の「手とわき腹を彼らに示された」っていうんです。
 イエス様は、十字架につけられた時、両手を釘で打ち抜かれ、わき腹を槍で貫かれました。「手とわき腹を彼らに示された」ってことは、その時に負われた傷跡を敢えてお弟子たちに見せられた・・・ってことなんですね。
 なんで、そんなことをしたんでしょう?というのも、イエス様の復活なさったお体は、そういう傷跡はすっかり消えていても良かったはずです。 「復活」は、単に「死ぬ前の体で生き返ること」ではありません。聖書の「復活」は、単に「元に戻ること」ではなくて、「新しいいのちと体に再創造されること」です。だから、復活したら、病気や怪我で損った体の一部がすっかり回復されて、傷跡も消えている・・・、そうなってても良かったはずなんです。
 なのに、イエス様の復活の体には敢えて「十字架の傷跡」がクッキリ残っていました。それはまさに、イエス様があの十字架で、どれほどの死の苦しみを偲び通されたのか・・・ってことを物語っている「受難のしるし」に他ならなかったと思うんです。たぶん、「受難のしるし」がイエス様の体に残ってたのは、一つには、「お弟子たちが見てるのは、幽霊なんかじゃない。
 十字架に架かった正真正銘のイエス様だ」ってことを確認させるためだったんだと思いますね。
 ですが、もう一つ、目的があったんじゃないかと思うんです。それは、「イエス様の復活」が、「この世の死の体験」というものを、逃げるんでも避けるんでもなくて、むしろ真正面から受け止めて、その上で、それを克服して乗り越えた・・・、そういう出来事だった・・・っていうことを、私たちに深ーく覚えさせるためだったんじゃないでしょうか?
 そして、「イエス様の復活」を信じる人もまた、そういうふうに「死の体験」を乗り越えられるんだ・・・ってことを、私たちに確信させるためだったんじゃないかと思うんです。
 つまり、イエス様は、こう仰ってるんですね。
「わたしは、あの十字架で、こんなに酷い苦しみを真正面から味わった。十字架の上では、そういう『死の体験』からは逃れられなかった! だけど、わたしは今や、それらにすっかり勝利した!それらを全部乗り越えて、『新しいいのち』に生きてるんだ!わたしが、あなたがたにも約束してる『復活』とは、そういうものなんですよ!!」


3 黒田官兵衛が体験した「死と復活」
 今年のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』を、私も毎週観てるんですが、黒田官兵衛は、戦国時代の有名な天才軍師です。信長に仕えたあとに、秀吉の天下取りのために大活躍をした人ですね。ですが、黒田官兵衛にはもう一つの顔がありました。それはキリシタン大名だった・・・って顔なんです。
 でも、彼が、いつ頃、どういう理由でキリスト教を求めるようになったかは、ほとんど分かっていません。ただ、当時日本にいたルイス・フロイス宣教師が、「官兵衛は、高山右近たちに導かれて1585年に洗礼を受けた」と記録しています。ですが、それ以前の若い頃から官兵衛はキリスト教に触れていて、その教えを学んで知っていたんじゃないか・・・って考えられてるんですね。
 そんな官兵衛は、洗礼を受ける数年前に、彼にとっての「人生最大の試練」と言い得ることを体験しました。当時、官兵衛が住んでた播磨の国は、東は信長、西は毛利に挟まれていて、官兵衛は信長側に付いてたんですね。 ところが、同じ信長側だった荒木村重って大名が、突然、信長を裏切って毛利の方に寝返っちゃったんです。 
 そこで官兵衛は、たった一人で荒木村重に会いに行き、信長側に連れ戻そうと説得しようとしました。ですが、官兵衛は、かえって有無を言わせず捕えられ、荒木村重の城の牢屋に放り込まれてしまったんです。しかも、そのまま丸一年間、ずーっと、ほったらかしにされてしまったんです。
 官兵衛は、汚く狭い牢屋にいるうちに、重い皮膚病に掛かって足も悪くして、それ以来、ずっと足を引き摺るようになってしまいました。ようやく助け出された時は、見るも無残な姿になっていた・・・っていうんです。 でも、それだけではなかったんです。官兵衛が牢屋にいた間、彼がなかなか戻って来ないんで、信長は官兵衛も裏切って敵側に寝返ったと思ってしまったんです。それで、人質に取ってた官兵衛の一人息子の長寿丸を「殺せ」って命令したんです。官兵衛もたぶん、「そういうことになってしまうのでは・・・」って気が気でなかっただろうと思います。だから彼は、この時、二重の意味で「死の体験」を通らせられていたんです。
 この時、官兵衛がどんなことを思っていたか、詳しい事は分かりません。ですが、その時の事として伝えられてるこんな逸話があるんですね。
 
 官兵衛が牢屋の中で絶望していた時、一本の蔓が、窓の上から降りて来て、それに綺麗な紫色の花を咲かせた・・・っていうんですね。藤の花でした。 その花を見て、彼は「生きる希望」を握り締めた・・・って言われています。そのことを、小説家たちがいろいろ想像力を働かせて本に描いてます。ですが、彼がこの時既にキリスト教に触れていたとしたら、その時見つけた希望は、「復活の希望」だったんじゃないか・・・って私は思うんです。
 牢屋の中での生活は、官兵衛にとって「十字架の死の体験」だったに違いないと思います。けれども、その真っ只中に、天から降りて来るようにして藤の花が咲いた・・・、その時、その花のいのちは、「十字架の死の真っ只中に注がれた、復活のいのちだ!」って見えたんじゃないでしょうか!そういう所にさえも、神様は共にいらして下さって、「この復活のいのちを信じて生きよ!」って励まして下さった・・・、そういうことじゃないだろうか・・・。
 こうして彼は、普通なら半年ももたずに死んでもおかしくなかった牢屋の中で、丸々一年持ちこたえ、ついに味方の軍勢によって助け出されることが出来ました。しかも、その上さらに、「殺せ」と命じられてた一人息子の長寿丸が、なんと無事に生きて帰って来たんです!実は、竹中半兵衛って人が、信長の命令に背いてまでも、その子を匿ってくれてたんですね。
 神様は、そんなふうにして官兵衛に「二重の死の体験」を無事に通り抜けさせて下さいました。そして、どちらの方にも憐れみ深く「復活」を、見せて下さっていたんです・・・。もし「復活」が本当にあるなら、たとえ今、どんなに悲惨な「死の体験」を味わわされていても、私たちは、こういう人生を生きることが出来るんです!
 

4 「復活」は、信じないと意味がない
 最後にもう一つお話ししたいと思います。イエス様は、確かに「復活」を、私たちにも約束して下さいました。でもそのことは、これがないと意味がないんですね。「信じる」ことです。
 「復活」は、それを信じてこそ、私たちにとっての大きな希望となるんです! 反対に信じないなら「イエス様の復活」は、私たちにとって「宝の持ち腐れ」に終わります。だからイエス様も、「復活を信じなさい」と熱心に教え諭してるんですね。
 今日の所に出て来る12弟子の一人、トマスは、どういうわけか、イエス様が復活して弟子たちに会いに来た時に、その場に居合わせなかったんです。たぶん、皆と一緒にいるのが嫌になるくらい、イエス様が十字架で死なれたことに強いショックを受けていたんでしょう。
 そんなトマスは、他の皆が「イエス様は復活したよ!」と言っても、「そんな馬鹿な話があるもんか!」って感じだったんです。「俺は、イエス様が十字架で受けた傷の跡を見ない限り、それが本当のイエス様だなんて絶対信じねえ!」って頑張ったんです。
 そんなトマスのために、一週間後にもう一度イエス様が現れて下さったんです。そして、「復活」を疑うトマスに、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい」ってまで仰って、「信じないものにならないで、信じる者になりなさい」って教え諭されたんです。

 先日ある方から、あるニュースを聞きました。私はその方に、去年ニンニクをプレゼントしたんです。青森産の立派なニンニクでした。でもその方は、それを食べてしまわないで、種イモ代わりに畑に植えたんです。それが今、ようやく芽を出しました・・・ってニュースだったんです。
 本当は、去年の内に芽が出るかと期待したんですね。でも去年は何も出て来ませんでした。だから、「青森産の元気なニンニクも、山形の土には合わなかったのか・・・」と思ってたらしいんです。ところが今になって、「やっぱり生きてた、大丈夫だった!」って分かったんです。青森のニンニクは、ブランド物の立派な奴で、今後の収穫が楽しみですが、その話を聞いて私は、「ああこれは、小さな復活だ」って思いました。
 考えてみると農業は、「地に落ちて死んだ種の復活」を信じるからこそ成り立ってるんですね。もし、それを信じられないと、誰も苦労して「種」なんか蒔かないし、「種イモ」なんか植えないでしょう。
 それと同じように、私たちの人生も、「復活」を信じるからこそ、やって行けるんです。「復活」を信じられないと、この世で一旦「死の体験」に出会ったら、もう「人生終わりだ」ってなるんです。でも、「復活」を信じるならば、どんなに「死の体験」にぶち当たっても、「必ず乗り越えられる」ってやって行けて、事実イエス様はそうして下さるんです!


まとめ     
 黒田官兵衛の話ですが、彼はあの試練の後も同じように、「調略」と言って、「敵陣に一人で出かけて行って相手を説得する」働きを続けて行きました。普通だったらトラウマに襲われて、「とてもじゃないけど、もう御免です」ってなりますよ。ところが彼は、その後も、平然と続けて行ったというんです。
 なぜでしょう?きっと、あの体験を通していよいよ「復活の恵み」を信じるようになったんじゃないでしょうか? キリストを信じる者には確かに「復活」が約束されている・・・、そのことを、ますます信じて生きて行ったんじゃないでしょうか・・・。
 「復活なんかない」って心を閉ざす時、私たちは、自分で自身を「希望のない世界」に置き去りにしちゃいます。 本当は「復活」はあるのに、その「復活」に、自分で目を瞑ってしまうんです。それで、本当にいいんでしょうか? 皆さんは、皆さんの人生にも「復活」を見たいと思いませんか? 皆さんの人生が「死の状態」で終わらないようにしたいと思いませんでしょうか? 
 それならば、神の御子が、あなたのために成し遂げられた「復活」を、あなたの人生においても信じていきましょう! そして、いつの日か、今味わっている「人生の苦しみ」が、「過去の過ぎ去った日々の傷跡」となってる日が来ることを、ぜひご一緒に確信していただきたいと思います。
by sagaech | 2014-04-25 16:24 | 礼拝メッセージ
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