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アドベント1「約束された救い主」

  日曜日の礼拝で牧師がお話した聖書のメッセージです


アドベント1   2016.11.27

「約束された救い主」

イザヤ書8章17節~9章7節



はじめに

今日から今年のアドベント、「待降節」が始まりました。

アドベントとは、クリスマスまでの4週間のことですが、アドベントということばは、「到来する、やって来る」という意味です。何がやって来るんでしょう? キリストがやって来るんです。遠い昔から待ち望まれていた「神の御子なる救い主」が、ついにやって来るんです!そして、その「救い主」と一緒に「神様の救いの良き知らせ、福音」がやって来る。そういう、とても有難い恵みを厳かに思い巡らしてクリスマスを待ち望む…、それがアドベントなんです。

 そうやってアドベントを過ごしてクリスマスになったら、「救い主が確かにお生まれになった」という喜びを、全世界の人々と一緒に分かち合うんです。そんな4週間を、これから私たちは一緒に歩んで行くわけです。


 クリスマス…、それは、「神様の真実」の証しだった

NHKに『鶴瓶の家族に乾杯』という番組がありますね。笑福亭鶴瓶という有名人が、もう一人のタレントさんと一緒に、毎回どこかの町を訪問して、地元の人と出会いを求めて、ぶらっと旅して回る…という奴ですね。ちょっと前には、女優の斉藤由貴さんが、鶴瓶さんと一緒に山形市に来ていました。「どんどん焼き」のお店に行ったり、銅町の鋳物屋さんを訪ねたり、山形大学の近くの「鶴福亭」という食堂で、学生たちと一緒にランチを食べたりしていました。

あれは、全くアポ無しの突撃訪問だ…というんですね。だから、皆、「ええーっ!」という目を丸くしてビックリするんです。ある人はハイになって、「よく来てくれた!」と握手したり、「来るって知ってたら、お化粧してたのに…」と恥ずかしがったりするんです。

 もし、「やらせ」だったら、凄い演技だと思いますね。でも、さすがに、それはないでしょう。ということは、鶴瓶さんの訪問は、やっぱり何の前触れもなしの、全くのアポ無しなんだ…と思うんです。 そういうのも、面白くていいかもしれませんね。来てもらった方は、全くのサプライズをビックリしながら楽しめるんです。

けれども、クリスマスは、全く違った出来事だったんです。実は、クリスマスも、鶴瓶さんのように…、いや鶴瓶さんより遥かに有名な方が、この世界にやって来られた…という出来事だったんです。 その方はもちろん、イエス・キリストだったんです。

 ところがイエス様は、しっかりアポを取って、来られたんです。 「やがて、わたしはそっちに行きますよ。全世界の人々を救う神の御子が、あなたがたの所を訪問します。だから、待っていて下さいね」とお知らせした上で、「時熟せり」とやってこられた、それがクリスマスだったんです。

 そして「あなたがたの救い主が、この世界に来られます」という「お知らせ」を、聖書は「預言」と呼んでるわけです。繰り返しますが、クリスマスは、「お知らせ」無しに、「ある日突然、何の前触れもなく起きました」という出来事だったんじゃないんですね。予め「預言」されていたんです。「預言者」たちが繰り返し、「救い主が来られます!」とお知らせして来たんです。

今日のイザヤ書も、その「救い主が来られます」という「預言」でした。6節からの所に、こう書かれてあります。

 「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。

  ひとりの男の子が、私たちに与えられる。

  主権はその肩にあり、

  その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と 

  呼ばれる。」

「ひとりのみどりご、ひとりの男の子」が、私たちのために生れます…とあります。その子は普通の人とは違って、非常に特別な者となる、というんですね。「その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」とは、そういうことです。それはまさに、「神、救い主としてのお姿」です。

 つまり、この「ひとりのみどりご」は、イエス様のことだったんです。その誕生をこの個所は、なんとイエス様が生まれる700年も前から「預言」して、「お知らせ」してたんです…。

ただし、「預言」は、「予告」や「予報」とは違うんですね。気象庁は、「天気予報」と言う、天気についての「予報」をしています。それは、観察した結果、「黙っていたらこうなります」と分かったことを「前もって知らせている」というだけです。

 だけど、聖書の「預言」は、そうではないんです。世界を観察した結果「黙っていたら、そのうちこうなります」と判明した…という話ではないんです。天の神様が「わたしはこうします」という、強い意志をもって、固い決意でお決めになった、約束されました…という話なんです。つまり「神様ご自身のお約束」なんですね。

神様が遠い昔から、「あなたがたに、必ず救い主を送るからね」と私たちに約束して下さった…。クリスマスはまさに、「神様のお約束」が、その通り成就しました!…という出来事だったんです。

 

そんなクリスマスという出来事は、私たちにどんなことを教えているんでしょうか…? それは、こういうことだと思います。

「神様という御方は、まことに誠実で、真実でいらっしゃる」ということです。特に、「私たちの救い」に関しては、とりわけ真実でいらっしゃる。必ず、救いを成し遂げると、神様は固い決意をもって約束して下さった。その「お約束」を、神様は決していい加減にしないで、必ず果たして下さる!…、そういうことを、クリスマスの出来事は教えてくれていた。クリスマスは、「たまたま偶然起こったサプライズ」だったんじゃなく、神様の並々ならぬ真実が、ついに実を結んだという出来事だったんです。

それが分かった私たちは、こんなふうに励まされ、促されるんじゃないかと思うんです。 「この真実な神様に、私たちもまた精一杯の真実をもってお応えしよう! 神様はこんなにも真実に、私たちのために救いの約束を果たして下さった。私たちも、精一杯の真実を尽くしてお従いして行かないと!」… そう思わされるんじゃないでしょうか…。


 「神の真実」に対して、あまりに酷い「私たちの不真実」

けれども、「私たちの真実」は、どの程度のものなんでしょう?それは「非常に心もとないもの」…、「人の真実」など口先ばかりで、ほとんど無いに等しいんじゃないでしょうか…?

確かに、そうだと思いますね。 残念ながら私たちは、「真実」どころか「不真実な者」でしかありません。「神様の溢れるような真実」をどんなに「有難い」と思っても、私たち自身は、同じような「真実」をもってお応え出来ない者です。

先週、東北地方で震度5弱の地震が起きて、久しぶりに津波が来ました。あの朝テレビでは、NHKアナウンサーが必死になって避難を呼びかけました。「今すぐ逃げて下さい!」「できるだけ高い所、出来るだけ遠くに、直ちに避難して下さい! 津波はすぐに来ます! 皆さん、東日本大震災を思い出して下さい! 命を守るため、すぐに逃げて下さい!!という、非常に切迫感をもった悲痛な叫びを連呼したといいます。それを聞いて、家内は5年前が思い出されて、泣けてきた…というんです。アナウンサーの方も、実際どのくらいの津波が来るのか分からなかった時で、「とにかく逃げて欲しい!一人も犠牲にならないで救われて欲しい!!」と、熱心に真剣に呼び掛け続けたと思うんです。

 ところが実際は、それを聞いてすぐ逃げた人も大勢おられた一方で、そういう声を聞いても全然逃げなかったという人も結構いた…というんです。「このくらいの地震なら大丈夫」と考えた…ということです。仙台港には1m40cmの津波が押し寄せて、近くの砂押川を相当な勢いで津波が遡って行きました。その様子を私もテレビで見たんですが…、津波が遡っている川のそばを、普通に犬を連れて散歩してる人が何人も映っていたんです。「何やってんの!」と、叫びたくなってしまいました。

今回は津波で亡くなった人はいなかったんで、「大丈夫」という判断が甘かった…とは言えないかもしれません。だけど、NHKのアナウンサーの必死な叫びを思ったら、これって何だろう…と、正直思わされてしまいました。

ですが、同じような構図が実は、神様と私たちの間にもあるんじゃないか…って、ふと思わされたんです。神様が、必死に私たちに向かって叫んでおられる。私たちを何としても救いたくて、「わたしはここだ!こっちにおいで!!」と、声を枯らして呼んでいる…。 ところが、そんなお姿に、見向きもしないで無頓着…。そんな神様の「熱心な真実なお声」を聞いても、「何をそんなに熱くなってんの?」とそっぽを向く…。そういう姿が、私たちの中にだって、あるんじゃないだろうか?…、そんなふうに思わされました。

だとしたら、私たちはどうなるんでしょう? 神様からガッカリされて、呆れられてしまうんでしょうか? 「こんなにも真実を尽くしてやったのに、もう勝手にしろ!」と見捨てられてしまうんでしょうか?

 いいや、決して、そうではないんです。なんと、それでも私たちは大丈夫なんです。というのは、神様は、「私たちはそういう者だ」ということを、初めから、よくご存じだからです。

その上で、こういうふうに教えて下さっているんです。

 「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。」(第二テモテ2章13節)

「彼」とは、イエス様です。つまり、神様は、私たち人間がどんなに不真実であっても、それに関わらず、常に、ご自身の真実を貫き通して下さるんです。

今日のイザヤ書を見ると、「救い主がお生まれになる」という「預言」が、どういう経緯で語られたのかが、見えてきます。当時、イスラエルは危機的な状況にありました。イスラエルは、ソロモン王のあと、北南に分裂して、喧嘩して争い合っていたんです。

イザヤという預言者は、エルサレムの都を抱える南ユダ王国で活躍したんです。南ユダは、北イスラエルよりは、信仰的にはまだマシだったんですが、その南ユダ王国にある日、北イスラエルが隣国アラムと一緒に攻めて来る…という絶体絶命の危機が起きました。

 恐れおののく南ユダのアハズ王に、イザヤは神様のことばを告げました。「大丈夫だ! あなたが恐れる敵を、このわたしがアッシリヤの大軍勢を使って追い散らす! 他の国がどんなにあなたを攻めても成功しない。わたしがあなたがたと共にいるからだ!」

 ところが、アハズ王は、そんな神様の憐み深く真実なことばを信じるより、人間的な知恵によって切り抜けようとしたんです。当時の超大国アッシリヤに貢物をして、「北イスラエルとアラムを打ち負かして下さい」とお願いしたんです。すると、アッシリヤは、「よし分かった」と攻めて来て、あっという間に北イスラエルとアラムを滅ぼしました。見た目には、「神様に頼るよりも、人間的な知恵によって成功した」かのようでした…。

 ところが、やがてそのアッシリヤは、南ユダとの同盟をあっさり裏切って、南ユダまで滅ぼそうと攻めて来ました。そして南ユダは、アッシリヤの大軍勢に包囲され、風前の灯火みたいになって行くんです…。ですが、その絶体絶命の危機の中、神様は、超自然的な奇跡でアッシリヤを打ち負かして、なおも真実を尽くして南ユダを救い出して下さるんです…。

その出来事は、この時点ではまだ将来の話でしたが…、そんなふうに神様は、繰り返してご自分の民を、真実を尽くして救い出すんです。ご自分に背を向け続ける「不真実な彼ら」に対して…。

ところが彼らは、そこまで「神様の真実」を体験させてもらったのに、さらに酷いことをして行きました。

 今日のイザヤ書8章19‐22節は、そうした彼らの「神様に対する不真実な姿」をえぐり出している個所です。なんと、彼らは、自分たちを真実に救って下さった神様を捨てて、「霊媒や口寄せに尋ねた」っていうんです。つまり、偶像を拝むだけでも飽き足らず、「死人に伺いを立てる」ことまでやっていたんです。

 「生きている者のために、死人に伺いを立てなければならないのか!」と、神様も呆れ返ったわけですが…、その結果この人たちは、「自分たちの不真実」を自業自得のように刈り取ることになるんです。

 「彼は、迫害され、飢えて、国を歩き回り、飢えて、怒りに身をゆだねる。上を仰いでは自分の王と神をのろう。

地を見ると、見よ、苦難とやみ、苦悩と暗やみ、暗黒、追放された者」

 つまり、そんなことをしても何の救いも見つけられなくて、ますます暗闇に沈んで行くんです。そうして歴史的には南ユダも、ついにバビロン帝国によって滅ぼされ、「バビロン捕囚」となって亡国の憂き目を見る…ということになって行くんです…。


 「人の不真実」を突き破る「神の真実」の成就…クリスマス

けれども、イスラエルの人たちが、そうやって最低最悪の「不真実な姿」を晒していたその真っ只中で、神様は「救い主」の預言を与えられたのです。

 9章1節。「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。」

「ゼブルンの地とナフタリの地」とは、北イスラエルに属する地域で、「ガリラヤ」地方と呼ばれた所ですが、そこは、アッシリヤに滅ぼされた後に最も悲惨な目に遭いました。そんな最暗黒の「ガリラヤ」で、やがてイエス様が、救い主として働き出すんです。

 その結果、9章2節にあるとおり、「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に、光が照った!!という救いがもたらされて行くんです。

これはもう、「驚くべき神様の真実」ではないでしょうか?人間の側の「驚くべき不真実」にも関わらず、なんと憐み深く熱心に、神様は「ご自身の真実」を貫き通して下さることでしょう。

 もちろん神様は、「私たちの不真実」を悲しまれますし、私たちが「不真実」なままでいて良いとは、思っておられません。私たちが少しでも「神様のような真実な姿」に変えられて行くのを願っておられます。

 けれども神様は、私たちのどんな「不真実」にも挫けず、私たちに約束して下さった「救いの約束」を、必ず果たして下さるんです。クリスマスとは、そのことを神様が、歴史的に証明して下さった出来事だったんです。


まとめ      

今日の7節に、「今より、とこしえまで、万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」とあります。まさに、「神様の真実なお姿」そのものです! この「熱心」ということばは「妬み」とも訳されるんですが、以前、特別講演会にお迎えした高橋秀典先生が、「この『熱心』というのは、『神様の燃えるような愛』のことだ」と解説されています。

私たちのあまりに酷い不真実、それゆえの真っ暗な姿…。でも、その真っ暗闇を突き破るように、「神様の燃えるような愛」が、「真実」が、私たちに「救い主」をお送り下さったんです。では、私たちは、どうするべきでしょう?

 イザヤ書8章17節に、そのことが教えられています。

 「私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。

  私はこの方に、望みをかける。」

 これはつまり、「アドベントの信仰」です。どうしようもない不真実の暗闇の中から、なおも、「神様の真実」に、「燃えるような愛」に、望みをかけて、救い主を、神の救いを待ち望む。そういう信仰です。

二週間前の礼拝で、クリスチャンの作家の三浦綾子さんのことを話しましたが、三浦綾子さんは、戦後の価値観の変化の中で、どうしようもない空しさに苦しんで、ヤケクソになった人でした。そうして心も体も荒む中、二人の男性と同時に婚約するという「不真実な生き方」をして…、そうするうちに、当時「死の病」だった肺結核と脊椎カリエスを患うという、真っ暗闇の闘病生活を余儀なくされた人でした。

 ところが、そんな綾子さんの許に、「神様の真実」を絵に描いたようなクリスチャンの前川正さんという幼馴染みが現れます。彼は、まさに「燃えるような愛」で、綾子さんを、その真っ暗闇の中から救い出そうとしてくれました。

 だけど、綾子さんは、そんな前川さんに激しく反発したんですね。 綾子さんが療養中の体で、ヤケになってお酒やタバコを飲んでることを彼がたしなめると、「だから、クリスチャンって大嫌いなのよ。何よ君子ぶって…。クリスチャンなんて偽善でしょ。…私たちを何と憐れな人間だろうと、高い所から見下ろしているんじゃないの」と散々悪態をついて食って掛かった…というんです。

 けれども前川さんは、何と言われようと、綾子さんをお見舞いし続け、諦めないで「神様にある望み」を伝え続けたんです。そうしてある日、この前も紹介したようなことが起きました。前川さんは、綾子さんの前で、石を拾って、自分の足をゴツンゴツンと打ち始め、こう言いました。

 「綾ちゃん、ぼくは今まで、綾ちゃんが元気で生き続けてくれるようにと、どんなに激しく祈ってきたかわかりません。……けれども信仰のうすいぼくには、あなたを救う力のないことを思い知らされたのです。だから、不甲斐ない自分を罰するために、こうして自分を打ち付けてやるのです。」

 これは、「燃えるような愛」じゃないですか。「神様の真実」の現れではないでしょうか…。これを境に、綾子さんは変わりました。やがて、神様を素直に信じるクリスチャンとなり、「死の病」も乗り越えて、執筆活動を通して大勢の人たちに、「神様にある望み」を伝える人となって行ったんです。

 この三浦綾子さんもまた、「望みを持って待つことを投げ捨てた人生」から、「私は主を待つ。…この方に、望みをかける」という人生に変えられたんだ…と思います。そして願わくは、私たちも、そういう人生を送らせていただきたいと思います。私たちの不真実をものともしない「神様の燃えるような愛、真実」を頼りに、神様にこそ、望みをかけて待つ…、その歩みを今一度、このアドベントに取り戻させていただきたいと思います。


by sagaech | 2016-11-27 19:05 | 礼拝メッセージ
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