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<   2011年 02月 ( 14 )   > この月の画像一覧

冬の足あと~春への足おと



このところの嬉しい光が、つもりつもった雪と氷を溶かしています。
裏の駐車場へ続く道は、冬と春が半分ずつ・・・
いや、春の割合が大きくなってきています。
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冬の間、除雪機でどんどん積み上げた雪の上に、
いつの間にか、針葉樹の葉や実が散らばっているのが見えます。
白以外の色が見えてくるのは、春への足音…
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近づいて、よーく見てみると…
波しぶきのような氷、花のような種(実?)、葉っぱのステッチ…
神様のミニアート「冬の足あと」が、あちこちに置かれています。
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この前までは、「やっかいな雪ばかり」「大変だ~」と思ったところにも、
神様のみわざがあるんですね。
あれっ「冬」の字に見える…?(作ってません)
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大雪と寒波の間、体調を崩していた方々、
来ることができなかった方々が、何人も礼拝に見えています。
寒河江の冬も、まもなく終わりです。

   光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。
   喜びは、心の直ぐな人のために。
   正しい者たち。主にあって喜べ。
   その聖なる御名に感謝せよ。   詩篇97:11-12

by sagaech | 2011-02-24 17:16 | 教会の日々のこと

「持てるものは、わずかでも」マタイ14:13-21

   日曜日の礼拝で牧師がお話した聖書のメッセージです。

  「持てるものは、わずかでも」   2011.2/20
f0238747_16204787.jpg  マタイの福音書14章13‐21節より


 もし今、皆さんが、五千人もの人たちが食べ物がなく困っている現場に居合わせたとしたら、どうしますか?
ある日イエス様は、弟子たちと一緒に舟に乗り、ガリラヤ湖の向こう岸の、人里離れた所へ行きました。それは、イエス様の大切な友人のバプテスマのヨハネが処刑された・・・との知らせを聞いて、寂しい所に一人で退き、静かに祈るためだったようです。ところが、「イエス様がどっかへ行こうとしてる」と気付いた群衆が、先回りして向こう岸に行き、イエス様を待っていたんです。それを目にしたイエス様は、ご自分のことはさて置き、憐れみ深く彼らを顧み、教え、病気を癒してあげました。
そうこうするうちに、日が暮れてきました。そこは、人里離れた寂しい所。ガリラヤ湖東側のベツサイダという所の野原のようですが、人々は慌ててイエス様を追い駆けて来たので、お弁当など持っていません。弟子たちは、「このままでは皆、夕ご飯に困っちゃう・・・。俺らもいい加減に疲れたし・・・」と心配し始めました。そこで、イエス様に提案します。「ここは寂しい所ですし、時刻ももう回っています。ですから群衆を解散させてください。そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください。」

1 「あなたがたで」  
 ところがイエス様は、お弟子たちにこう答えました。「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」 弟子たちは、一瞬耳を疑ったんじゃないかと思います。「えっ?今、何て言いました、イエス様?『あなたがたで』!?」そこにいた人たちは、「女と子どもを除いて、男五千人ほどであった」とありますから、女と子どもを入れると、倍はいたはず。そんな大勢に、どうやって食べ物を用意できるでしょうか? 
 ヨハネの福音書では、弟子の一人ピリポが、さっと計算してこう言います。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」二百デナリは、今なら約二百万円です。それだけのお金を、その場でポイッと出せる人っていますか?仮にお金はあったとして、どうやって五千食分ものパンを運んで来られます?だいたい、そんな辺ぴな所で、それだけのパンが手に入るでしょうか?
 考えれば考えるほど、どうしたらいいか分からない話でした。自分たちの持てる物、お金や物資や能力の乏しさを考えると、「これって、解決できるの?どうしようもないんじゃない?」と思いたくなる、まことに解決困難な問題…。そんな問題に、この時弟子たちは向き合わせられちゃったんですね。

 私たちもまた、「私にはとても手に負えません」という問題に否が応でも向き合わせられることが、人生ではいろいろあるんじゃないでしょうか?弟子たちは、イエス様から「あなたがたで・・・」と言われちゃったので、どうしてもその問題に向き合わざるを得なくなりました。けれど私たちは、そう言われなくても、問題から逃げられないことがあります。自分以外の誰かの問題かもしれないし、自分の家族や自分自身の問題だったりするかもしれません。もし自分自身の問題なら、どうあがいても、逃げ出せないんです。そのように、私たち自身が、そうした問題に否が応でも向き合わざるを得なくなった時、いったいどうしたらいいんでしょうか?


2 「五つのパンと二匹の魚」に絶望する道
 大きく分けて二つの道があります。一つは、悲嘆にくれる道です。問題解決のために、持てるものを色々数えてみた結果、非常に僅かでちっぽけなものしか見つからなくて、「これっぽっちじゃ、何にもならない、絶望だ・・・」と悲観する道です。
 この時、弟子たちは、どれくらいの食べ物があるかを調査してみました。自分たちの所持品や周りの人たちが持っているものを調べて回ったんです。すると、パンが五つと魚が二匹見つかりました。当時のパンは丸くて平たく、魚はアジの干物みたいな物でした。ヨハネの福音書によると、一人の少年がたまたま持っていたお弁当でした。
 けれども、「良かった、食べ物があった!」と思ったんでしょうか?とんでもないですね。だってそれは、精々何人かで食べたらなくなっちゃうものです。なんということか、五千人以上を前にして、弟子たちの手の中には、それしか見つからなかったんです!弟子たちは言いました。「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。」 ヨハネの福音書では、トマスが、もっとハッキリ言っています。「しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」 「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。・・・いったいそれが何になりましょう。」 

 どうでしょう、これは私たちも普段、しばしばつぶやいていることじゃないでしょうか?大変な問題に直面すると、「自分はどんな解決策を持ってるんだろう?」と色々探します。財布の中身を覗いてみたり、通帳の残高を確認してみたり、相談できる人を捜してみたり、専門書やインターネットを使って、出来ることを探してみたり…。それでも私たちは、「これぞ!」という解決策が見つからなかったりします。すると、「自分が今持ってるものは、なんて僅かで、貧弱で、乏しいものか…」と愕然とするんじゃないでしょうか?それで私たちもまた、溜息付いて、こう呟いてしまいます。「ああ、私にも、『五つのパンと二匹の魚』しかありません。そんなので、いったい何になりましょう・・・。これじゃあ、何の希望もないじゃないですか・・・。」


3 「五つのパンと二匹の魚」を、主に差し出して生きる道
 ところがイエス様は、こう言われます。「それを、ここに持って来なさい。」五つのパンと二匹の魚を手にしてがっかりしている弟子たちに、イエス様は、そうお語りになったんです。「それを、ここに持って来なさい。」
 「ここに」というのは直訳すると、「わたしの所に」という意味です。だからイエス様は、「あなたが『こんなもので何になりましょう』とつぶやいているその『五つのパンと二匹の魚』を、このわたしの所に持って来なさい!」とおっしゃってるんですね。そうすると、いったいどうなるんでしょう・・・?
 イエス様は、「五つのパンと二匹の魚」を受け取りました。すると、人々を草むらの上に座らせて、なんと食事の準備をさせたんです。それから、「天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられ」ました。弟子たちは、それを皆に配って行きました。そうしたら、なんと、たったの「五つのパンと二匹の魚」だったのが、みるみるうちに何十人、何百人の手に渡り、気付いたら、五千人以上の人全員が満腹になった・・・というんです。しかも、食べ残しさえ出て、パン切れを集めたら、12の籠が一杯になりました。籠とは、背中に背負う大きな籠で、それが12籠も一杯になったとは、余った物すら最初より多くなっていた、ということです!
 こんなことってあるんでしょうか?普通は起こり得ない話です。ところが事実、起きたんです!イエス様の手に掛かったら、信じられない奇跡が物の見事に起こっちゃうんですね。「五つのパンと二匹の魚」は、五千人もの人々の前では無いに等しいものでした。ところが、一旦イエス様の手に差し出されたら、何千何万倍にもなって、測り知れない祝福を、大勢の人たちにもたらしたんです。

 実はこれこそ、私たちにとっての二つ目の道です。つまり、自分の貧しさや乏しさを自覚して、悲嘆に暮れて絶望するんじゃなくて、「だからこそ、私はイエス様に拠り頼む!イエス様なら、私の乏しさの中から何倍もの祝福を引き出して下さる」という希望に生きる道です。
 私は、今日の話を読むと、いつも興味津々になります。いったいイエス様は、パンを、どんなふうに増やしたんだろう?イエス様がパンを裂いて渡す瞬間に、ムクムクッと増えた?それとも、弟子たちが配ってる間に?どんな感じで増えたんでしょう?考えれば考えるほど、本当に不思議です。イエス様がなさった奇跡は聖書にたくさんありますが、これだけはぜひ、見てみたかったなあと思うんですね。聖書は残念ながら、そういうことについては詳しく書いていません。むしろ、黙っています。だから、どんなふうに、ということは、私たちには分かりません。でもそれも、私たちへのメッセージかもしれないなあ・・・と私は思います。たとえ私たちの頭では説明できなくても、何ら問題ではないということです。イエス様の手元には、人間には説明不能な方法、手段がたくさんあるんですね。
 だから私たちは「本当に大丈夫なの?」って心配になるんですが、イエス様は、「そういう疑問や疑いの一切も、全部ひっくるめて、このわたしを信じなさい」とおっしゃってるんですね。「そして、あなたの手にある五つのパンと二匹の魚を、心配しないで、このわたしの所に持って来なさい!」と招いているんです。

 青森市に、日本で一番古いハンセン氏病患者さんたちの療養所があります。明治42年設立のその療養所には、キリスト教会が併設されています。「松丘聖生会」という教会ですが、そこには、今も療養所に入所しておられるハンセン氏病患者の方々が通っています。戦後、その教会をアメリカ人宣教師が訪問して、「この教会はどうしてできたんですか?」と聞いたそうです。そうしたら、一人のハンセン氏病のクリスチャンの方が紹介されて、いろいろ話してくれたそうです。その方は、病気のせいで、髪の毛も眉毛もすっかり抜け落ち、指もすっかり無くなって、まるで切り株みたいな手をしていたといいます。歯もなく、足も引き摺っていたそうです。
 今は良い薬があって治る病気ですが、その方の話では、戦争中は薬が手に入らなくて、どんどん患者さんたちが死んで行ったそうです。当時この方は既に、ある牧師の導きによってクリスチャンになっていました。けれども、その牧師が、天皇を神として拝むことを拒否したために投獄され、迫害を受けて、牢獄で亡くなってしまいました。 恐らくホーリネス教会の辻啓蔵牧師のことだと思いますが・・・。そうしてこの方の周りでは、どんどん仲間が亡くなり、ついに精神的支柱だった牧師も亡くなってしまいました。どんなに心細さと無力さに襲われたことでしょう。
 そんな中、この方はある日、意を決して野原に出て行き、断食して、心を注ぎ出して祈り始めたそうです。「神様、どうぞ私の仲間がこれ以上、こんなふうに死んで行くことがないように助けて下さい!」すると、やがて二人のクリスチャンが加わってお祈りしてくれるようになり、それ以来、不思議なことに、どんどんクリスチャンになる方々が療養所に起こされて行ったそうです。そのようにして、教会が始まったという話です。事実、その宣教師が訪ねた時、教会は100人以上の患者さんたちで一杯だったといいます。
 その教会には、ハンセン氏病ではない方も出席していたそうです。その方はとても美しい女性で、以前「ミス青森コンテスト」で優勝したそうです。ところが、授賞式で、彼女を妬んだ人からドンブリ一杯の硫酸を顔に浴びせられ、顔半分が火傷でただれてしまい、生きる望みを失ってしまったそうです。けれどもやがて、その方は聖書のことばによって救われたんですね。そしてクリスチャンとなり、その教会に通うことになったというんです。なぜその教会かというと、そこでは誰一人、彼女の顔に違和感を持つ人がいなかった、つまり、そこは彼女にとって、世界で唯一心から安心して憩える場所だったからなんですね。

 私はとても感動しました。戦時中、ただでさえ酷い差別を受けていたハンセン氏病患者さんたちが、薬も供給されず放って置かれた絶望状況の只中で、魂の救済場所が設けられたんです。そこでたくさんの患者さんたちが救われ、ついには患者ではない方も、魂の憩いを見出して行ったんです。それは、あの時代に、この国の片隅でなされた神様の奇跡だと思いますが、その切っ掛けは、「五つのパンと二匹の魚」だったんだなあ・・・と思うんですね。
 すなわち、「神様、どうぞ私の仲間がこれ以上、こんなふうに死んで行くことがないように助けて下さい!」と祈られた祈りです。そのお祈りは、あのハンセン氏病のクリスチャンの方にとって、唯一手の中にあった「五つのパンと二匹の魚」だったのではないでしょうか。それを、意を決してイエス様の所に持って行かれたのです。


結論
 この世の常識は、私たちに、こう囁きかけて来ます。「あなたの持ってるものが、ほんの僅かでしかないならば、希望なんて全然持てないよ。」自分の人生どうにかやって行こうとする時も、誰かのために何ができる?と考える時も、持ってるものが僅かしかないならば、この世は「絶望だ」と叫びます。
 けれども、聖書の常識は、それとは正反対です。「あなたの持ってるものが、ほんの僅かしかない時は、実は、希望の時なんです!神様の奇跡を見るための絶好のチャンスです!だから、あなたの持つ五つのパンと二匹の魚を、イエス様の所に持って行きなさい!それを思い切ってイエス様の手に差し出してごらんなさい!そうすれば、あなたは信じられないような神様の奇跡の人生を歩いて行くんですよ!」
 では、私たちの「五つのパンと二匹の魚」は何でしょう?皆さんには、どんな「五つのパンと二匹の魚」がありますか?神様は、何も無い所からどんなものでも作り出せる御方です。でも敢えて、私たちの持っているものを用いようとされます。そもそも、私たちの持っているものなんて、たかが知れていますね。お金でも、能力にしても、奉仕や賜物、お祈りにしても、神様から見たら僅かなものです。でもそれが、私たちの「五つのパンと二匹の魚」じゃないでしょうか?
 「五つのパンと二匹の魚」は、私たちの手中にあるうちは、何も起こりません。でも、イエス様の手の中に握られたら、測り知れない奇跡が起こります。クリスチャン人生は、その奇跡を目撃する人生に他ならないんです。願わくは、神様の奇跡の目撃者とならせていただく人生に、思い切って踏み出させていただきたいと思います。
by sagaech | 2011-02-23 16:03 | 礼拝メッセージ

苦難の中で いのちの光を

この冬の雪と寒さの苦難にめげず(めげても?)、生きている植物たち。

教会裏の杉の枝は、ちゃんと剪定されず、びょんびょん伸びて、
そこに湿った雪が沢山つもったものだから、わりと太い枝が初めて折れました。
でも、木はちゃんと生きています。除雪機から、雪をバシバシ吹き付けられた冬の中も。
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晩秋に植えるパンジーやビオラ。
いつもの冬は、雪の下で根を強め、じ~っと耐えに耐えて、春を待ち、
やがて春の陽光をあびながら、元気に花を開かせていきますが…。どうでしょう。
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玄関組はラッキーでした。
雪にあたらず、つぶされず、冬を過ごせました。
朝日もよく当たるし、人も見てくれる。春にはもっと美しくなるでしょう。
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屋外組は、寒さと、雪と、日当たりの少なさ。ケアする人もサボってしまい…
すっかりしょげて、ついに絶えてしまったかな… と思っていたら、
冬も終わりの 少しあたたかい光を受けて、何だか復活してきた様子。
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光のさすほうへ向かって、花が息を吹き返してきました。
光と水があれば。根が生きていれば。
新しい息吹が、また始まる。
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年末礼拝に活けられた葉ボタンは、さすが寒波に強く、
2月半ばすぎて、なお切り花として元気です。
ふと見ると、斜めに活けられた器の端から、すっくと真っすぐ上に、伸びていました!
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切られて久しいのに、冷水を吸い、痛んでいく外側をはがされながら、
わずかな暖気と光を感じて、今や内側から、上に向かっています。
  「斜めじゃ、いやだ!まっすぐ生きたい」・・・って?

神様が造られた植物たちは、
無言で励ましてくれているようです。
いのちの光を、いのちの水を。ちゃんと求めて、新しい息吹をいただこう。


       待ち望め。主を。
       雄々しくあれ。心を強くせよ。
       待ち望め。主を。      詩篇27:14

by sagaech | 2011-02-20 17:17 | 教会の日々のこと

教会とは何か18「聖霊の宮なる教会」

   日曜日の礼拝で牧師がお話した聖書のメッセージです。

 「教会とは何か」シリーズ18      2011.2/13
f0238747_16115811.jpg   「聖霊の宮なる教会」
   使徒の働き5章1‐11節、Ⅰコリント6章19‐20節より


ご本尊はないけれど・・・
 以前、ある方が教会に来られて、こんなふうに聞いて来られました。「キリスト教の神様を拝みたいんだけど、どごさ向かって手を合わせればいいんだべ? ご本尊様は、どごさあるんだが・・・?」私はこうお答えさせていただきました。「あのー、申しわけございませんが、教会には、ご本尊様はないんです。聖書が教える神様は、どこかに安置されているとか、どこかの決まった場所にしかない・・・って神様じゃないんです。私たちの信じる神様は、目には見えませんけども、どこにでもいらっしゃる神様なんです。だから、どっちを向かきゃいけないってこともないですし、どっちを向いても礼拝できるんですよ。」そうしたら、「んだのが・・・」って、ちょっと怪訝な顔をされておられました。
 ですが私は、何か新鮮な感じがしました。「ああ、そうか、世の中の方にとっては教会も『社(やしろ)』であって『宮』なんだ。だから、当然そこには、手を合わせて拝む神様がいる・・・っていう、『畏れ多い気持ち』を抱いておられるんだなあ」と。その一方で、こうも考えさせられました。「それなら、私たちはどうなんだろう?当たり前に教会に来ている私たちクリスチャンは、果たして、そういう畏れ多い気持ちをどれだけ持っているんだろう・・・?」


1 教会は「聖霊の宮」である
 私たちクリスチャンは、教会には、人間が木や石で作った神々ではなくて、天地を造られた神様がいらっしゃる、その方こそ本当に礼拝するべき神様だ、と信じています。世の方々は、「その神様ってどこにいるの?どこにも見えないじゃん!」と思われるかもしれません。確かに、私たちの信じる神様は、目に見えません。なにせ、天におられる神様だからです。この世に来られた神の御子イエス様も、十字架の死の後、復活されて天に帰られました。
 イエス様は、天に帰られたら、「もう一人の助け主」を私たちに送って下さると約束して下さいました。その「助け主」が、今すでに、教会の中にいらっしゃるんですね。それは「聖霊」と呼ばれる御方です。この方は、「三位一体の神」のお一方で、霊的な存在です。だから、この聖霊の神様も、私たちの目には見えません。ですが、聖霊様は、確かに今ここにいらっしゃるし、全世界のキリスト教会にも、お住まいになっているんです。
 この聖霊なる神様が豊かにご臨在され、住まわれる教会を、聖書は「聖霊の宮」と言っています。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮であり・・・」(第1コリント6:19)

 今日は、この「聖霊の宮」ということばに注目したいと思います。実は、「聖霊の宮」とは、神様を信じるクリスチャン一人一人のことを指しています。ですが同時に、教会全体のことも指してるんですね。つまり、「聖霊の宮」とは、教会の別名なんです。「宮」ということばは、昔のエルサレムにあった神殿を意味しています、特に、神殿の一番奥にあった「至聖所」と呼ばれる所を指しています。「至聖所」は、神様ご自身が臨在を現された場所!だから、地上で最も畏れ多い聖なる場所だったんです。
 そのように、聖霊なる神様が、目には見えなくとも確かにお住まいになっていて、昔の至聖所にも匹敵するような、地上で最も聖なる畏れ多い所、それが教会です、と聖書は言っています。けれども、聖霊様は、繰り返しますが、目に見えません。それゆえに、畏れ多い気持ちがつい忘れられてしまい、いつの間にか、畏れを欠いた行為や振る舞いが、教会でなされているような現実が、ありはしないだろうか・・・?と思わされます。

 今日の個所で、パウロがコリント教会に対して語った理由も、どうやらそこにあったらしいんです。
  「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、  もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」
 パウロがこう言った時、コリントの人たちは、神様に対する畏れ多い気持ちを忘れてしまっていたんです。その結果、クリスチャンでありながら、不品行なことをしたり、「貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者」になっていました。だから、パウロは、彼らを一喝しているんです。「あなたがたは知らないのですか?忘れてしまったんですか?あなたがたの中には、目には見えないけれど、聖霊なる神様が、確かにお住まいになっているんですよ!あなたがたは、畏れ多くも『聖霊の宮』とされてる者たちなんです!」


2 アナニヤ・サッピラ事件の悲劇
 今日のもう一つの話も、「教会は聖霊の宮」という事実に深く関係していることです。アナニヤとサッピラという夫婦が登場します。この夫婦は、いわゆる献金をしようとしてたんです。当時の教会では、資産を持つ人たちが、それを売ったお金を献金し、貧しい人たちと一緒に分かち合って助け合っていました。アナニヤとサッピラも、そうしようとしていました。ですが二人は、土地を売った代金の一部を自分たちに残しておいて、残りのお金を教会に持って行きました。そして、あたかもそれが全額だという振る舞いをしました。それは内緒にしてたんですが、ペテロには分かっちゃったんですね。それで、ペテロは夫のアナニヤを問い詰めました。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
 すると、恐ろしいことが起きました。アナニヤは、突然倒れて死んでしまったのです。その後、それを知らない妻のサッピラがやって来て、再びペテロが、「あなたがたは地所をこの値段で売ったのですか。私に言いなさい。」と聞くと、彼女も「はい、その値段です。」と言いました。それで、ペテロは言いました。「どうしてあなたがたは心を合わせて、主の御霊を試みたのですか。」すると、サッピラもまたその場に倒れて息絶えてしまった・・・というんです。このことによって、「教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた」と聖書は語っています。

 まことに厳しいお話です。正直、「どうしてそこまで厳しいことが…?」と思わされる話です。だけど、いったい、何が問題だったのでしょうか?自分たちのためにお金の一部を残しておき、全部を奉げなかったことでしょうか?いいえ、そのお金は元々二人のものだから、彼らの自由にして良かったのです。「売ってからもあなたの自由になったではないか。」とペテロも言ってます。では、献金額を偽ったことが悪いんでしょうか?もちろん、それも悪いでしょう。だけど、ペテロは数字を誤魔化したことだけを問題にしたわけじゃないと思うんです。では何か・・・?

 ペテロが問題にしたのは、彼のことばで言うなら、「聖霊を欺く」ことでした。「人を欺いたのではなく、神を欺いた」ことです。アナニヤとサッピラは、無理をして、土地代を全部献金しなくてもよかったんです。でも二人は、自分たちのことを「犠牲を厭わず献身的に奉げ物をする立派な信仰者」と思われたかったんですね。そこで、「どうせ、分からないさ・・・」と教会を欺き、全部を奉げたふりをしようと考えたんです。
 それは、単に人を欺いたのではなく、「神様を、聖霊を欺いた」とペテロは言います。なぜなら、教会は単なる人の集まりではないからです。教会は、聖霊なる神様が臨在される所です。だから、教会でなされる欺きは、「聖霊に対する欺き」になるのです。それは「自分たちが何をしても、聖霊は大したことはできやしない・・・」と侮ること。あるいは、教会には聖霊がいらっしゃらないかのように振る舞うことです。そして、教会の主である畏れ多い御方を正しく敬うことを蔑ろにし、ひいては教会全体に、そういう態度を伝染させてしまうことだったんです。

 私は、アナニヤとサッピラの問題は、聖霊なる神様に、相応しい居場所を与えなかったことだと思うんですね。その代わりに、自分の居場所を主張することに躍起になっていたんじゃないでしょうか・・・?
 私たちはこれまで、教会は、どんな人をも迎え入れて、居場所を与えてくれる所だと学んできました。確かにそうです。イエス様が教会を始められたのは、この世で居場所を失った人たちを迎え入れて、罪の赦しと聖めと共に、「永遠の居場所」を与えて下さるためでした。そして、そういう所は、またとないんです。
 ですが、ふと思うのです。私たちはもしかして、時々その恵みを履き違えてしまい、「自己中心で我がまま一杯、プライド一杯の自分のエゴが、勝手気ままに羽を伸ばせる」というための自分の居場所を、教会に求めてはいないだろうか・・・?例えば、教会を自己実現の場にしようとしたり、皆から褒めそやされることを求めたり、周りの人を自分の思い通りに動かそうとしたり、他の人を自分勝手な思いで裁いたり・・・などなど。その結果、私たちは、そういう意味での自分の居場所探しに躍起になり、教会の中で、本当の主であられる聖霊様に相応しい居場所を与えることを忘れていないだろうか?いや、居場所を奪ってることすらないだろうか?と…。そういうことは、神様を意識しているなら出来ないはずですが…。
 アナニヤとサッピラに起こった「聖霊を欺いた」ことも、そういうことではなかったかと思うんです。けれども神様は、教会の中で、そういうことが大手を振って闊歩するのを許さなかったのです。だから、私たちもまた、教会の交わりが、そのように堕ちてしまわないようにと思うのです。なぜならば、教会とは「聖霊の宮」だからです。


3 「聖霊の宮」であることの祝福とは?
 けれども、「教会が聖霊の宮である」ということは、単に、私たちの姿を厳しく点検させられて、神様の聖さに相応しく悔い改めさせられる、という意味だけではないんですね。もう一つ、ここには私たちにとっての、大きな励ましのメッセージが含まれているんです。最後に、そのことを覚えさせていただきたいのです。
 アナニヤとサッピラの話から教えられる、もう一つのことは、こういうことだと思います。聖霊というお方は、人間の中に生きて働きかけられる方だということです。この方は、イエス様が私たちのためにと天より送って下さった「もう一人の助け主」です。だから、「教会が聖霊の宮である」とは、「教会とは、目に見えないけれど生きておられ、私たちを本当の救いに導くために力強く働かれる助け主が、確かにおられる所だ」ということです。

 フィリピンの山奥に、昔、首狩り族だった方々が住んでいる地域があります。バランガオというその小さなグループのために、1982年に、彼らのことばに翻訳された新約聖書が完成しました。それまでは、彼らには自分たちのことばで読める聖書がありませんでした。ウィクリフという宣教団体のジョー・シェトラーという女性宣教師が、20年間に渡って彼らの中で生活し、彼らのことばを覚えて、聖書を翻訳しました。同時に、彼らに聖書を教えて、そこに教会が出来ていきました。
 バランガオの方々は、元々、悪霊に生け贄を奉げるという、おどろおどろしい悪霊崇拝信仰に染まっていました。しかも、その悪霊崇拝が、彼らの生活をがんじがらめに苦しめていたんです。例えば、誰かが病気をすると、「その人の家族がどこかで悪霊に祟られるようなことをしたから、悪霊の機嫌を損ねた」と思うんです。それで、その度に豚や鶏を、悪霊に生け贄として奉げていたんです。また、「夜に不吉な夢を見た時は、水牛を生け贄にしないと子供が必ず死ぬ」と信じられていました。でも、彼らにとって水牛は大変高価で、それを買うために、親戚中を回ってお金を集めないといけなかったんです。また、空に虹が出るのは不吉なしるしでした。家を建ててる時に虹が出たら、どんなに完成間近でも、全部壊して、まっさらにしないといけなかったといいます。そして、そういう話は、単なる迷信でもなく、実際に、悪霊につかれてバタバタ痙攣を起こして苦しんでる人たちを沢山見たそうです。

 そんな中、「悪霊にがんじがらめにされるのはもうコリゴリだ、本当の神様を知りたい」と願う女性がいました。この女性は思い切って、悪霊に生け贄を奉げるのをやめました。そうしたら、酷い病気にかかって死にそうになり、しかも、どこに逃げても悪霊が追い駆けて来るのが見えてしまう。「ダメだ、やっぱり悪霊に従わないと・・・」と観念しそうになっていた。ちょうどそんな時、この女性はシェトラー宣教師に出会って聖書の神様の話を聞きました。そして、聖書の教える本当の神様を信じて、教会の最初のメンバーとなり、神様に必死に助けを求めて祈るようになりました。すると間もなく、彼女は悪霊の影響から見事に解放され、喜びのあまり、こう叫んだそうです。「今までとは全然違う! 神様は私を守って下さった! 悪霊なんかよりもずっと強い!」
 これを切っ掛けに、真の神様を信じる人たちがだんだん増えて、教会が成長して行きました。何年か経って、バンガラオのクリスチャンたちは、となりの部族のクリスチャンたちを、自分たちの所に招いてお交わりをしました。 実はその人たちは、以前お互いに首を狩って殺し合った敵同士でした。ところが彼らは、そういう自分たち自身が、同じ神様を信じているだけで、一緒に食事までしている現実に驚いて言ったそうです。「皆、奇跡を見たかい?神様の力が見たいかい?それならよーく見てくれ。あの連中は、ずっと敵の領分を歩いて来たのに、かすり傷一つ負ってない!こんなことが、今まであったか?首狩り以外の目的で顔を合わせたことのない我々が、今こうやって互いに会っているってことは、神様のわざ以外にゃ考えられない! 俺たちゃ皆、奇跡の証人だ!!」

 私はこの話から、「使徒の働き」のみことばを思い出しました。
  「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこ  み、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。」(使徒9:31)
 いかがでしょう、教会とはこういう所です。人の力では到底不可能な事柄が、力強い救いの御わざが、恵みの御わざが、起こる所です。教会とは「聖霊の宮」だからです。生きて働く力強い神様、私たちの助け主なる聖霊様が、目には見えなくても、豊かにお住まいになっている所だからなんです。


結論 
 だからこそ、私たちは、教会で聖霊なる神様をしっかり意識しなくてはいけません。この方を畏れ敬う心を忘れてはいけないんですね。教会はともすると、そこにおられる神様が目に見えないだけに、いつの間にか、人間同士が集まってるだけの意識になってしまいます。すると教会は、単に自分の居場所を主張し合うような甘えが行き交う場ともなり得ます。その結果、聖霊の宮とされた者たちの中に、聖霊の居場所がないことになれば、悲劇ではないでしょうか。
 願わくは、私たちの教会に、決してそのようなことがないようにと思います。そして、聖霊の宮の名に恥じない聖さと祝福が満ち溢れる、本当の教会とならせていただくよう、ぜひご一緒に、祈り求めていきたいと思います。
by sagaech | 2011-02-19 16:26 | 礼拝メッセージ

チョコフォンデュをしました(2月のジュニア)

   チェリーキッズ・ジュニアは、毎月1回日曜日の午後に行っている中高生会です。
   詳しくはこちらをご覧ください。


こんにちは。チェリーキッズ・ジュニアです。
2月は、ちまたにチョコがあふれていますね。
そういうわけであるような、ないような? 2月13日(日)チョコフォンデユをしました。

開始前のこと。買ったチョコでは、ちょ(こ)っと足りない!
慌ててコンビニへ買いに行くハメになったのは、牧師先生でした。
「いやあ、こんな日にスーツ男が一人で板チョコ4枚買うのって、変だったよ~」(そうでした…)

ミニミニインタビューで「好きなチョコは?」の質問に、
ホワイトチョコ 、ガー○チョコ、チョコレートドリンク、ホワイト生チョコ …楽しく並ぶ中、
「甘い物は苦手…」という人が!「人生を損してる」と言わんばかりの人も。人はいろいろです。

メッセージは、フィルターの話でした。
掃除機、空気清浄機、エアコン、ヒーター…家電には色々なフィルターがついています。
フィルターと私たちの関係は…?(メッセージ記事をご覧ください)

さて、みんなでスィーツの準備をしました。
リンゴは薄―くスライスね。オレンジをきれいに切るのは難しいけど、がんばって。
イチゴ、クッキー、ポテチ、レーズン、ナッツ、柿ピー…色々並べてみましょう。
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チョコは2種類。今年は、ホワイトチョコが登場しました。
小さく割って、湯せんしながら、ウニウニ…となめらかになるまで混ぜます。
色んな物があるけど、今年の変わった味は、何かな?
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ひとしきり食べると、「う~ん、もう甘すぎ…」「え~まだまだいける!」やっぱり人はいろいろ。
最後に、本日の「マイ・ベスト2」を投票しました。
チョコ(黒)と、ホワイトと、具の組み合わせや、いかに?
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 第2位は、「チョコイチゴ」。これは定番ですね。
 第1位は、初登場の「ホワイトリンゴ」!さっぱりして、意外な美味しさでした。
 (終了後の画像には、実在しなかった物まで書き加えられてる…)f0238747_20224524.jpg
  



 今日も、ありがとうございました! 

★3月は卒業お祝い会をします。



 


   私はあなたの定めから離れませんでした。
   それは、あなたが私を教えられたからです。
   あなたのみことばは、
   私の上あごに、なんと甘いことでしょう。
   蜜よりも私の口に甘いのです。
        詩篇119:102-103

by sagaech | 2011-02-17 20:30 | チェリーキッズJr(中高生会)

「永遠効力のフィルター」(ジュニアのメッセージ)

   チェリーキッズ・ジュニアは、毎月1回日曜日の午後に行っている中高生会です。
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  この記事は集会のお話をまとめてニュースレターに掲載した中高生向けメッセージです
     


   「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」
                   ヘブル人への手紙10:14

 
 日本のフィルター技術は世界トップレベルです。我が家にも良いフィルター付き家電があって助かりますが、あることに気づきました。汚れの一部は、フィルター(F)の間を巡回しているのです。ヒーターのFにたまったホコリ→掃除機のFへ→空気清浄機のFへ→それを掃除機で吸い取る→また空気清浄機へ…。10年交換不要のフィルターも、毎月水洗いが必要。汚れの処理は大変です。
 でも厄介なのは、心の汚れです。イライラ、怒り、不満は、世の中を巡回しています。上司のイライラ→部下にあたる→妻にあたる→子供にあたる→親にあたる→部下へ…。どこかで、このサイクルの外で処理されなければ、罪のサイクルはずっと続くのです。悲しい世の中です…。
 罪を取り除くなど、神様しかできないこと。ですから、古代には動物のいけにえを神様に捧げて、「赦して下さい。きよめて下さい」と祈りました。でも、動物の血は、罪の赦しという重い問題の前で、完全ではありませんでした。いけにえを捧げるたびに、罪が思い出され、またいけにえを繰り返すしかなかったのです。動物のいけにえは、やがて来る「本物」の「影」にすぎないものでした。
 イエス様は、本物のいけにえとなるために、この世に来られました。罪のサイクルの外、天から来られたのです。ただ一人罪のないこの方の血が、罪を取り除くためのいけにえとして、十字架の上で神様に捧げられました。このいけにえこそ、ただ一度で永遠の効力を持つ完全なものだったのです。イエス様というフィルタ―によって、罪だらけの者が神様の前できよいと認めていただけるのです。
 単なる製品ではなく、いのちと心を持つイエス様は、自分から十字架に向かわれました。その手足が十字架にくぎ付けられた時、汚れに満ちた世界に、永遠のフィルターがしっかりセットされました。イエス様は両手を広げて言われます。「もう大丈夫だよ。私が罪を完全に取り除いたのだから。」
 ぜひこの方を、救い主としてお迎えし、自分のフィルターとなっていただきましょう。イエス様をしっかりと心に据えること、そして、決して取り外さないことです。
 「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」ヘブル10:17
(スタッフS)
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by sagaech | 2011-02-17 20:03 | チェリーキッズJr(中高生会)

明日への箴言「正しい道を捨てる者には…」

   チェリーキッズ・ジュニアは、毎月1回日曜日の午後に行っている中高生会です。
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 この記事はスタッフが発行しているニュースレターに掲載した中高生向けメッセージです

    「正しい道を捨てる者にはきびしい懲らしめがあり、
    叱責を憎むものは死にいたる。」 箴言15章10節
 


 私の学生時代のことです。東京の明大前にある教会に私は通っていましたが、その教会から
 ブラジルのマナウスに、当時は中田宣教師ファミリーが派遣されていました。その中田先生か
 ら聞いた話です。
 マナウスというところはあの広大なブラジルのさらに奥地にあります。したがって、目的地に着く
 までは、河を船でわたり、時には空を飛んでいくことになります。その地で出会ったパイロットに、
 体中やけどの痕(あと)ある人がいました。中田先生が「どうしたのですか」と尋ねると、その人は
 「飛行機が墜落しました、しかも日曜日でした」と答えたそうです。しかし、その現地のパイロット
 は微笑みをたたえて続けたそうです。
 「私は確かに肉体に傷を負いましたが、そのお陰でたましいを救われたのです。私は日曜日も
 教会に来ないクリスチャンでした。」と答えたそうです。    
(スタッフK)
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  雪の重さで折れた枝
by sagaech | 2011-02-12 21:31 | チェリーキッズJr(中高生会)

「あなたの人生の焙煎士」(ジュニアのメッセージ)

   チェリーキッズ・ジュニアは、毎月1回日曜日の午後に行っている中高生会です。
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 この記事は集会のお話をまとめてニュースレターに掲載した中高生向けメッセージです

     
 「私が、『主よ。私はどうしたらよいのでしょうか。』と尋ねると、主は私に、『起きて、ダマスコに行き
 なさい。あなたがするように決められていることはみな、そこで告げられる。』と言われました。」
        使徒の働き22:10


 私は珈琲好きが高じて、最近自分で焙煎するようになりました。珈琲豆は、煎り方次第で本来の持ち味を活かしも殺しもします。先日思いがけずベストポイントに仕上がりましたが、同じ味を再現できないのです。やっぱりプロの焙煎士は違う…。この話は、私たちにも置き換えられると思います。私たちに潜在的に与えられている持ち味を最大限に引き出してくれる存在は、やっぱりイエス様です。
 キリスト教の歴史上、超有名な「使徒パウロ」は、新約聖書のほとんどを書いたという、素晴らしい業績を残しました。当時の最高教育を受け、宗教、哲学、語学に秀でていました。ところが、始めは、その良さがうまく発揮されるどころか、悪い方向に発揮されていました。彼は、優れた才能を、キリスト教会迫害と、クリスチャンの処罰に傾けていたんです。
 そんな彼はある日、ダマスコという町への途上で、突然天からのまばゆい光に照らされて、イエスの声を聞きました。「サウロ*、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」と。パウロにとっては、衝撃的なイエス様との出会いでした。この後イエス様は、パウロを新しい人間に作り変えられました。彼は、それまでの罪を悔い改め、今度はイエス様を世界中に宣べ伝えて行く働きを始めたんです。その時こそ、彼の優れた知識や才能が最大限に引き出され、本当の価値を放ちました。イエス様との出会いによって。
 どんな上等な珈琲豆でも、その持ち味が十分発揮されるには「優れた焙煎士」が必要です。そして、イエス様は、本来の持ち味や良さを最大限に引き出す「プロの焙煎士」です。もしも皆さんが、自分の持ち味を最善、最大限に生かす人生を送りたいと思うなら、イエス様に人生の焙煎士となっていただくことです。なぜならイエス様は、真の神様、私たちの造り主で、私たち一人一人に秘められた本当の良さも、その引き出し方も、誰よりも良くご存知だからです。ぜひ、イエス様にしっかりと出会い、その手の中で「ベスト焙煎」していただいて欲しいと願っています。    (*使徒パウロの以前の名前は「サウロ」でした)
(スタッフM)

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by sagaech | 2011-02-12 21:17 | チェリーキッズJr(中高生会)

「コーヒー焙煎」にチャレンジ!(2月のサークルハンズ)

   女性のための集会は2つあります。
   「サークルハンズ」は、楽しみながら集まる趣味の会です。(月1回)
   「オリーブ会」は、聖書の学び、分かち合い、お祈りを共にする会です。(月2回)

こんにちは!サークル・ハンズです。今年もよろしくお願いします。
2011年最初の会は、初企画の「コーヒー焙煎」。珍しく速報です。
最近これにハマっている津嶋牧師と一緒にチャレンジ!さて、どうなるでしょうか・・・

焙煎用の網は、ホームセンターで千円くらいで見つけたゴマ炒り網。
フタ付き、ちょうどいい大きさで、重宝です。
牧師宅の茶色かったやかんは、重層で磨いたらピカピカに!
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実は教会の建物は、かつて喫茶付きのお菓子屋さんでした。
カウンターには、サイフォン用のバーナーも生きているのです。
今日は、いつにもまして、芳醇な香りが満ちるはず…

テーマソング「御手の中で」を讃美して始めました。
今日は、津嶋牧師によるコーヒー焙煎にちなんだメッセージでした。
豆の焙煎と私たちの人生の関係は…? (メッセージ記事をご覧ください)
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豆は「コロンビア・アンデスコンドル」。いつもお世話になっている姫路のお店から。
香りが翼を広げて飛んでいくでしょうか…?
熱せられた豆がはじける「1ハゼ」を待ちながら、シャカシャカシャカシャカ…
緊張して、けっこう疲れます。交代しながら…(コンロの間の物体は高さの目安用)
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パチッ、パチッ!来たっ!「1ハゼ」で少し休み、「2ハゼ」を目指してシャカシャカ…
完成したアツアツの豆を食べてみて「美味しいっ!」と、参加者の目がキラッ。
さっそく淹れてみる。豆が良くふくらみ、香りは翼を広げて、教会の外へ…
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初トライにして、まずまずの出来栄えに、皆さん満足です。
2組に分かれたので、少し焙煎の度合いを変えてみました。
新鮮な香りと味わいに、心やすらいでいました。
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一服すると、「違う豆でもう1回!」と張り切って2回目に挑戦。
今度は「ニカラグア」。大きい豆で最初より大変ですが、
だんだん慣れて力が抜けるようになり・・・完成。(ちょっとムラになるも経験のうち)
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スイーツは、素敵で美味しい寒河江のお菓子屋さんから♪
モチモチ生地の「ルーロ」。フランス語で「ロールケーキ」のことだそうです!
(なんとか切れました。パテシェさんありがとう!)
米粉のクッキーも、ホロホロとけて…(「ホロホロ」って言わないという意見が…)
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お帰りには、「ニカラグア」と、頂き物の高級チョコのお土産つき。
コーヒー値上げのニュースの流れる中、
とても嬉しいサークルハンズでした♪
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残念ながら、出席したくても、ご都合がつかなかった皆様。
好評につき、いつか第2回目をすることになりました。
  「今度は湧き水を汲んでこようか」
  「コーヒー染めもいいね」
  「それでポーチを作ろう」・・・と、夢がふくらむサークル・ハンズです。

コーヒー農園で働く方々は、貧しい方々も多いです。
そのような方々のことも心にとめながら
2月のサークル・ハンズを終えました…


       主はその高殿から山々に水を注ぎ、
       地はあなたのみわざの実によって満ち足りています。
       主は家畜のために草を、また、人に役立つ植物を生えさせられます。
       人が地から食物を得るために。  詩篇104:13-14

by sagaech | 2011-02-10 18:03 | 女性の集会

「神様の手による焙煎を」(サークルハンズのメッセージ)

   女性のための集会は2つあります。
   「サークルハンズ」は、楽しみながら集まる趣味の会です。(月1回)
   「オリーブ会」は、聖書の学び、分かち合い、お祈りを共にする会です。(月2回)


「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、
世の悲しみは死をもたらします。」    
     コリント人への手紙第二7章10節
 

 
●人生は、「焙煎(試練)」によって味わい豊かになる
珈琲豆は、焙煎して初めて、芳醇な香りで美味しくなります。早い話、火にかけて焼くわけです。
珈琲豆にとっては、熱くて、辛くて、大変なこと。ある種の「試練」です。 
そういう試練を抜けた時こそ、珈琲豆は本来与えられている香りと旨みが、十分に引き出されるのです。
それは私たちの人生に似ているのでは・・・?
私たち一人一人にも、神様が備え与えて下さっている「芳醇な香りと旨み」があります。
それが引き出されるには、焙煎が必要です。
焙煎とは、人生における様々な試練、つまり、悲しみです。

●「焙煎」と「焦がすこと」は紙一重
焙煎に慣れないと、火加減が分からず、ムラになったり、時には、真っ黒に焦がしてしまったり…。
そうなると、芳醇な香りどころじゃなく、焦げくさくて苦いだけです。
ただ火にかけているだけでは、焙煎ではありません。火加減を間違えば、燃やしてるだけです。
「焦がす」のと「焙煎する」のとは、紙一重!だから、プロの「焙煎士」がいるんです。
同じように、私たちは、ただ単に、試練を経験すればいいわけではありません。
下手をすると、試練が人生を真っ黒焦げにして終わってしまうこともあるんです。
「世の悲しみは死をもたらします」とは、そういうことです。

●人生を「プロの焙煎士(神様)」に預けて!
大事なことは、私たちの人生を「プロの焙煎士」である神様に任せることです。
私たちの「試練や悲しみ」を、神様に預けてお任せすること!
「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせます。」
神様に焙煎してもらうと、「救いに至る悔い改め」という「芳醇な香りと旨み」が引き出されて来るのです。
同じ「試練」を経験するのなら、単に自分で抱え込んで、人生を真っ黒焦げにしてしまうのでなく、
神様に「試練」を預けてみようじゃありませんか。
神様の手にある試練は、皆さんの人生を真っ黒焦げにはしません。
むしろ、皆さんの人生は、神様の絶妙な「焙煎」によって、
やがて素晴らしい香りと旨みを醸し出されていけるのです。

 
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by sagaech | 2011-02-10 17:45 | 女性の集会