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「主イエスにさわる」

   日曜日の礼拝で牧師がお話した聖書のメッセージです。
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   「主イエスにさわる」     2011.6.26
   マタイの福音書14章34‐36節



 皆さんは、今日の「イエス様にさわって癒された」という話を聞いて、何か違和感みたいなものを感じたりしませんでしたか?聖書の中には、「イエス様ご自身が、病気の人に手を置き、さわって病気を癒された」って話はよく出て来ます。でも反対に人々の方が、イエス様にさわって癒されたという話は、12年間長血を患っていた女の人が、イエス様の着物のすそにさわって癒されたという話以外は、あまり出て来ないんです。
 カトリック教会では、「聖骸布」と言われる布を大切に保管しています。それは、「イエス様が十字架で死んだ後、お墓に埋葬する際にイエス様のご遺体を包んだ布だ」と言われるものなんですね。その話がどれだけ信用できるどうかは分かりませんが・・・、ある人たちは、「その布は、イエス様が身に付けてたんだから、その布自体に何か特別な力が宿っているに違いない。その布にさわると病気が嫌されるんだ!」って信じていたりするんですね。
 けれども聖書では、そんなことはどこにも教えられていないんです。むしろ、「何かにさわると癒される」という話は、この世の宗教、他のご利益信仰の方で、よく言われることです。たとえば、大阪の通天閣タワーには、「ビリケンさん」と言われる「子供の格好をした偶像」が置かれています。「足の裏をさするとご利益がある」と言われているそうです。だから、「ビリケンさん」の足の裏は、沢山の人にさすられて、つるつるテカテカになっています。
 今日の話は一見すると、イエス様が、まるでそういうものと同じになっている・・・と見えなくもないと思います。もし本当にそういう話なら、それはハッキリ言って「まじない」「魔術的信仰」です。でもイエス様がそういうことを私たちに教えてる・・・ってことは、どう考えたってあり得ない話です。それなら、今日の話は私たちに、いったいどんなことを教えているんでしょうか?
 

1 「せめて、着物のふさにでも・・・」と願ったゲネサレの人々
 今日の所を振り返ってみましょう。イエス様がガリラヤ湖を渡ってゲネサレという所に着いた場面から始まっています。ゲネサレは、ガリラヤ湖北西の湖畔地域で、当時ユダヤ人が住んでた地域としては、北の外れに近い所でした。そのゲネサレにイエス様がいらっしゃった時、そこの人たちは、イエス様だと気付くと、「付近の地域にくまなく知らせ、病人という病人をみな、みもとに連れて来た」っていうんですね。
 「病人という病人をみな」とは、「悪い所がある人はみな」ということばです。だから、病気の人はもちろん、単に病気だけじゃなく、様々な問題に苦しんでいた人たちもまた、そこに連れられて来たのでしょう。また敢えて、「みな」ということばが使われていますから、かなり大勢の人がいたに違いないんです。「イエス様に、私の人生をどうにかしてもらいたい!」という願いを持っていた、あらゆる人たちがそこにいたんです。
 それはつまり、このゲネサレの人たちが、いかにイエス様に期待していたか・・・ということの現れだと思います。「イエス様の所に行けさえすれば、何とかしていただける!」と、イエス様を深ーく信頼して、心からの望みを抱いていたということだと思います。

 ところが、このゲネサレの人たちと全く逆のことをした人たちもいたんです。それは、ゲネサレと、ガリラヤ湖を挟んで反対側の所で、「ゲラサ」と呼ばれる土地の人々でした。そのゲラサ地方でも、イエス様はかつて癒しを行いました。沢山の悪霊につかれて墓場で喚き叫んでいた男から、悪霊をすっかり追い出して救った奇跡です。
 けれども、そのゲラサの人々は、追い出された悪霊どもが豚の群れに乗り移って、二千匹の豚が湖に落ちて死んだのを目にするや、イエス様に向かってこう言いました。「自分たちの所から離れて行ってくれ」と。つまり、イエス様を迷惑扱いして追い返しちゃった・・・ということだったんです。
 そうすると、今日のゲネサレの人たちは、なんて対照的なことかと思いませんか?この人たちは、イエス様だと知るや、隣近所にくまなく使いを送って、「イエス様がいらしたぞ!」と伝えて回ったんです。そして、「病人という病人」、「悪い所のある人たち皆」をイエス様の許へと連れて来たんです!それは、どんなに田舎の町だったとしても、物凄い人数になったんじゃないかと想像できますね。ちょうどあの、震災直後の石巻の日赤病院みたいに、至る所、担架で運ばれて来た人で一杯だったんじゃないかと思うんです。
 けれども、この人たちは、そこで考えたようです。「忙しいイエス様を、俺たちみたいな者がこんなに大勢で煩わせてしまったら申し訳ない・・・」と。そこで、彼らはイエス様に、こう申し出たんですね。
 「どうかイエス様、ここに集まった人たちに、せめてあなたのお着物のふさにでも、さわらせてやって下さいませんでしょうか?私たちにはそれだけで十分です。」
 つまり、ここでの「さわる」という行為は、何も「まじない」とか「魔術的な行為」ではなかったんですね。むしろ、「イエス様に、なんとかして繋がりたい!繋がらせていただきたい!」と願う行為だったんです。「『生ける真の神』であり、『永遠のいのち』を持っておられる主イエス様に、なんとかして結び付いて生きたい。コンタクトを持たせていただきたい!そして、そのイエス様と、生きた繋がり、血の通った関わりの中に、この私をどうか置いて下さい!」っていう、切なる願いの現れだったんです。
 
 しかし、その一方で、この人たちは、そこにある種の隔たりがあることも自覚していたんです。「着物のふさ」とは、当時のユダヤ人が「神様の戒めを思い起こすためのしるし」として上着のすそに付けていた「ふさ」のことです。なぜ、そんなのにさわるんでしょう?なぜ、イエス様ご自身の手や足にさわるんじゃなかったんでしょうか・・・?
 実は、そこにこそ、この人たちの信仰があったんです。彼らは自覚していたんですね。「自分たちには罪がある、汚れがある」と。当時のユダヤ社会では、病気は祝福の反対であって、何らかの罪を犯した罰だという考え方がありました。まあそれは、ちょっと行き過ぎた考えでしたが。けれども病気があるないに拘わらず、私たちは誰しもが、神様の前には、「生まれながらに罪人」なんですね。だから、私たちは本来、神様という「聖なるきよい御方」との間に隔たりがあるんです。そのことを、この人たちはしっかり自覚していたんですね。
 でもだからといって、神様から隔てられているままでは、どうしようもありません。「救い主」でり「本当のいのちの君」であられるイエス様から、隔てられて離れてしまっているんじゃ、元も子もないんです。
 ここに連れられて来た人たちは、たぶん、世の中のどっちを向いても希望が見えなかった人たちだったでしょう。 私たちだってそうじゃないですか? そんな私たちにとっての唯一の希望は、何でしょうか?それは他でもない、この「救い主なるイエス様」に繋がることじゃないでしょうか? 
 ここに集められてきた人たちは、この世界のどこを探しても「自分を救ってくれそうなもの」が見つからなかったんです。私たちだって、そうなんじゃないでしょうか?そんな私たちにとっての唯一の救いとは、このイエス様にひたすら結びつくことじゃないでしょうか?そして、イエス様から「本当の救いといのち」を注ぎ与えていただくこと、それに尽きるんではないでしょうか?
 そのことに、このゲネサレの人たちは気付いていたんですね。そこで、彼らは、自分たちの身の程を弁えながら、謙遜に、「せめて、着物のふさにでもさわらせてやってください」と、イエス様に申し出た・・・ということです。


2 「主イエスにさわる」・・・その生きた繋がりが必要だ!
 さあその後は、果たしてどうなったんでしょう?なんと感謝なことに、イエス様は、彼らの切なる申し出を快く聞き届けて下さったんですね。それだけではなかったんです。さらに素晴らしいことをして下さったんです。
 36節、「そして、さわった人々はみな、いやされた。」
 これは文字通り「イエス様にさわった人々が皆、例外なしに癒された」ってことに他なりません。それくらい、「イエス様にさわった」ことが、一人一人に絶大な祝福をもたらし、期待を裏切らない結果をもたらしたと、聖書は私たちに証言しているんです。
 けれども私は、この話を読んで、正直言って違和感がありました。「ただ単にイエス様にさわったというだけで、こんなに見事に癒されちゃっていいものか・・・」と。というのは、「さわって癒される」というのが「まじない的で魔術的だ」というだけでなく、「さわる」というのは非常に感覚的なことだからです。
 「イエス様にさわる」ということは、曖昧で不確かな「人間の感覚」に頼った行為じゃないの?「イエス様のことを正しい知識に基づいて知っている」というのとは対極にあることじゃないの?それなのに、さわっただけで、こうも見事に癒されちゃうなんて、こんなんでいいんだろうか・・・。」皆さんは、そうは思いませんでしたか?
 
 ところが、そう思ってたら、新約聖書「ヨハネの手紙第一」の1章1節に、こうあるのを思い出したんです。
 「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。」
 これは何を言っているかというと、イエス様のことを言っているんです。これを語ったヨハネという人は、イエス様の12弟子だった人で、イエス様のすぐそばで、丸々3年間ずーっと仕えて暮らした人でした。そんなヨハネは「自分たちは、イエス様という御方のことを、単なる頭の知識としてではなく、自分たちの目の前で実際に生きておられる方として、目で見て、声を聞いて、手でさわる、というようにして知ったんです!」と言ってるんですね。「手でさわる」という、まことに人間的な、血の通った触れ合いを通して、神の御子なるイエス様と、生きた関わり、いのちを通い合わせるようなお交わりを持たせていただいたんです!と。
 
 それと同じようなことが、まさに今日の所でなされていた・・・っていうことだと思うんです。もしも、そのような「生きた繋がり」が、私たちとイエス様との間にもあったとしたら、どうでしょうか?私たちもまた癒され得るんじゃないでしょうか?もしも、「いのちを通い合わせる生きた触れ合い、お交わり」が、私たちとイエス様との間にもあるなら、私たちの人生にだって「神様の奇跡」が起こったとしても、おかしくないんじゃないでしょうか。
 もちろん、「神様の奇跡」とは、「病気が癒される」ことだけじゃありません。「病気は癒されないけれど、そんなことには押し潰されない平安に不思議と満たされる」という奇跡もあるんです。
 いずれにしても、そういうものは、神様から離れた人生だったら「あり得ない話」で終わるんです。ですが、神様と繋がっている人生ならば、「十分にあり得る話」になるんじゃないでしょうか・・・?
 もしそうなら、私たちにだって、皆さんの人生にだって、「イエス様にさわる」ということが、必要不可欠ではないでしょうか?言い替えるなら、ただ単に「頭の知識としてイエス様のことを知っている」以上のことが、私たちには必要だっていうことです。
 もちろん、正しい知識は必要で、それがないとイエス様のことを誤解してしまいます。だけど、そういうふうにイエス様のことを知ってるだけじゃなく、もっと血の通ったお交わりで、人格的に体験的に知ること。いうならば「心の中でいつもイエス様にさわっている」ということ。そういう「イエス様との生きた触れ合い、繋がり」が、私たちには不可欠なんだ・・・ということなんですね。


3 どのようにして、主イエスにさわるのか?
 それならば、そういう「イエス様との生きた触れ合い、繋がり」は、どうしたら持てるものなんでしょうか?つまり、「イエス様にさわる」とは、具体的には、私たちは、どんなふうにしたら出来ることなんでしょうか・・・?
 それはやっぱり、「お祈り」を通してだと思うんです。お祈りをする時に、型通りの文句を唱えるのではなくて、イエス様に向かって個人的にお話しするように、イエス様と生きたお交わりをするように、お祈りする。イエス様のお心に「触れる、さわる」ようにしてお祈りすることです。
 そしてまた、「自分自身の切なる思いや、自分自身のありのままの姿と必要を、そのままイエス様の前に携えて行って、イエス様の前に注ぎ出すように・・・、そうしてイエス様のお心に「触れて」、「イエス様ご自身にさわる」ようにしてお祈りすることだと思うんです。

 福島県いわき市に、「いわき希望教会」があります。何年か前に、その教会の牧師の伊藤順造先生が、寒河江教会の伝道会に講師としてお出で下さいました。その伊藤順造先生が、震災後から50日間の歩みを証しにまとめられ、それを先日読ませていただきました。
 ご存じのように、いわき市は、沿岸部は津波でやられた上に、原発の放射線被曝の脅威に、今も晒され続けている街です。そんないわき市民は震災後、目に見えない「放射線という敵」に物凄く揺さぶられました。物資供給も滞る中、市民の半数以上が県外脱出するという事態になってしまいました。実際、「いわき希望教会」の周りの住宅街は、なんと9割方がいなくなったというんです。お医者さんたちも例外ではなく、地域医療が崩壊しちゃいそうになったんです。 
 そんな中、牧師であり、いわき市立病院の医者でもあられる伊藤順造先生は、何としでもいわき市内に留まって、30か所にも渡る避難所を巡回診察しながら、教会の牧会をするという非常に過酷な働きをなさって来られたんです。    
 けれども、放射線の脅威は収まらず、ついに教会の方々も大多数が避難してしまい、3月20日の礼拝は、いつもの四分の一の出席に減ってしまったというんですね。さすがに伊藤先生も、「今後のいわき市はどうなってしまうんだ?いわき希望教会は、どうなってしまうんだ?」と、非常にやり切れない思いになったそうです。
そんな中、その3月20日の礼拝説教は、震災前から準備していた「祈り」についてメッセージだったそうです。ですが、本当は「祈りというのは、どういうふうに、どんな時に、何のために祈るのか」ってことを話すつもりだったそうです。でもその時は、その全部を切り捨てて、ただ一つのことだけをお話したそうです。「祈りの本質は、『生ける神を身近に体験することです』」と。
 それを聞いて私は、「ああ、それはまさに、『生ける神様にさわる』ことじゃないだろうか!」と思わされました。
 続けて伊藤先生は、こう語っておられます。
 「『主よ。』、『イエス様』、『神様。』、その叫びで十分です。『主よ。助けてください。』、『イエス様、大丈夫だ。』、『神様助けてください。』、それで十分です。この大震災の時、誰もが目の前の神を覚えて叫んだことでしょう。それこそが祈りの本質ですと語りました。それ以外に語るべきものを持つことができなかったのです。・・・その日の午後、避難したくても動けないでいる信徒夫婦の所に出掛け、病床礼拝を持ちました。85歳になる冨士原兄は、ベッドの上での不自由な生活を強いられている中で被災しました。あの恐怖感を覚えた長い揺れの間、奥様は『神様、助けてください。』と叫び続けていたそうです。
 一方で、冨士原兄は、『イエス様、大丈夫だ。イエス様、大丈夫だ。』と語り続けていたというのです。『たとい今、地上の生涯終ろうとも、すぐさまイエス様の懐の天国に行くんだから、心配ない。大丈夫だ。』と告白していたのです。」
 私は思うんですね。「ああ、伊藤順造先生も、そしてこの冨士原さんご夫妻も、こういう祈りを通して『イエス様にさわる』ということをなさっていんだなあ・・・」と。


結論 
 私たちはもしかして、「イエス様にさわる」所まで行かないで、イエス様の周りをただ単に、付かず離れず取り巻いてるだけ・・・ということが、あったりするんじゃないでしょうか?もしもそうしているなら、私たちは、「イエス様が持っておられる永遠のいのちという救い」に、十分に与れないままで終わってしまうかもしれません。
 けれども「イエス様にさわる」とは、そういう状態から一歩、イエス様との深い関わり、生きた繋がりの中へと踏み込んで行くことに他ならないんですね。そしてイエス様は、どんな人にも、そういう「生きた繋がり」をご自分との間に持つようにと、招いて下さっているんです。
 それならば、ぜひ私たちは、心の中で、祈りの中で、イエス様に向かってひたすら、謙りながらも手を伸ばして行く・・・そういう歩みをさせていただこうではないですか。そうして、「イエス様にさわらせていただく」という人生の恵みを、もっともっとご一緒に、味わわせていただきたいと思います。
by sagaech | 2011-06-30 16:25 | 礼拝メッセージ

「一粒のサクランンボ、一匹の羊のように」(6月のお話から)

   チェリーキッズは、毎月1回土曜日の朝に行っている子ども会です。
   詳しくはこちらをご覧ください。


 「チェリーキッズ」の意味は、何回も聞いた人もいるけど、今年もまた確認しようね。
 みんなは今年「サクランボ狩り」をした?サクランボをとる時って、一つ一つ大切に、傷つけないように優しくするね。今年は「双子ちゃん」のサクランボが多いけど、とにかく一粒でとても高い果物だからね。1個くらい、なくなってもいいなんて思わないよね。
 ブドウは房ごととるから、何個かコロコロ落ちても、「まあ、いいや」って、あきらめて、捨てられたりしてしまうよ。だから、サクランボの一粒って、とっても大切にされているね。
 みんなは、誰かから、「○○ちゃんなんか、いないほうがいい」なんて、言われちゃったことある?
 そんな悲しいことば、聞きたくないよね。イエス様は、ぜったい、そんなふうには言わないよ!一人が滅びていなくなってしまうことは、天の神様のお心ではありませんって教えるために、一匹の羊をさがす羊飼いのお話をしてくれたんだ。
 「もしだれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか」って。「そして、見つけたら、この一匹のために大喜びするんですよ」って!
 今回の大震災で大変な宮城県石巻にも教会がある。そこの牧師先生のお話だよ。先生は、地震の時、隣町から教会に来ていた一人の女の子が、生きているかどうか全然かわからなかった。その町は、津波でほぼ全滅みたいになってしまった所。山を越えて車で30分かかる。でも先生は、吹雪の中を自転車で山を越えて、その女の子を捜しに行ったんだ。それから9日目、やっと女の子が見つかったって大喜びだった!まるでイエス様みたい。あの羊飼いと同じだね。
 神様は私達一人一人を、とっても大切に思っていてくださるんだ。だから、もしみんなのうちの一人がいなくなってしまったら、とても悲しんで、心配して、見つかるまで捜してくださる。そう、いなくなった一匹の羊のように、サクランボの一粒のように、とっても大切に思っていてくださるんだよ!「チェリー・キッズ」は、「サクランボみたいな子どもたち」っていう意味だよ。これからも、イエス様の愛を信じていこうね!


          聖書のことば

    「この小さい者たちのひとりが滅びることは、 
    天にいますあなたがたの父の御心ではありません。」 マタイ18:14

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by sagaech | 2011-06-30 11:38 | チェリーキッズ(子ども会)

サクランボの種とばし遊び(6月のチェリーキッズ)

   チェリーキッズは、毎月1回土曜日の朝に行っている子ども会です。
   詳しくはこちらをご覧ください。


こんにちは、チェリーキッズです。6月も早や終わりで、早い、早い・・・
この時期の寒河江は、赤いサクランボに染まります。
6月25日(土)。「サクランボの種飛ばし」をしました。

「サクランボ」と「チェリーキッズ」の関係は?
何回も聞いているお友だちも、また新しい気持ちでお話を聞きました。
(メッセージ記事をご覧ください)
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さて、種飛ばしですが、梅雨の大雨続きで
この日も時々ザッとふる雨が。
雨天コースは、車庫から飛ばすこんな感じ。
所々に、サクランボのマークがあって
そこに止まると、ボーナス点!
・・・って、ほとんど無理でしたが。









赤いサクランボ。今年は双子が多いらしく、
近くの産直で、あえて「双子ちゃん」を買いました。
ジャム用とか言われますが、
味も色も同じだし、割安でいい(^_-)-☆
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それに、ほら、かわいい~(*^_^*)
「あっ、美味しい~」と子どもの第一声が!
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種をツルツルにして、すぼめたくちびるから、舌で「プッ!!」
小さなレディー達は、さすがに種は1つずつ飛ばしましたが・・・
あら、飛んで着地しても双子? あっ、サクランボマーク、おしいっ!
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小さなかわいいサクランボ&小さなかわいい子どもたち。小さな…あれれ~!
誘われて?小さな珍客登場!プランターのパンジーに、珍しいハチドリが!
ブンブンというか、パタパタというか?ホバリングしてる姿をみんなでジ~ッ。

何度やってもシャッターチャンスがあわない。
 (動画にすればよかった。わざわざ変な画像をのせて、スミマセン)
「ほらほら、サクランボやらなきゃ!」 あっ、そうだった。
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遊んだ後は、ゼリータイム。オレンジゼリーを、それクラッシュ~!
あらっ!三つ子ちゃん発見(^。^)y-.。o○
色も味も爽やかなデザートで、今日もごちそうさまでした!
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 ★次回は7月23日(土)に「アイスクリームパーティ」をします!★
 小学生のお友だち、どうぞおいでくださいね!


   あなたは人の子らにまさって麗しい。
   あなたのくちびるからは優しさが流れ出る。
   神がとこしえにあなたを祝福しておられるからだ。 詩篇45:2

by sagaech | 2011-06-30 10:35 | チェリーキッズ(子ども会)

第2回わざ卓球&ワッフル(6月のジュニア)

   チェリーキッズ・ジュニアは、毎月1回日曜日の午後に行っている中高生会です。
   詳しくはこちらをご覧ください。


こんにちは、ジュニアです!
6月も下旬となり、東北も梅雨入りしましたね。大雨が心配です・・・。
遅れましたが、6月のジュニアの報告です。

梅雨入り前、そして、中体連前の6月12日(日)。
去年に続き、「第2回わざ卓球ジュニアカップ」(??)を開催しました。
現役卓球部、昔の卓球部員、今も毎週汗を流す卓球愛好家、しろうと、ギャラリー。

まずは、ミニインタビュー。「6月と言えば・・・?」
 ●「ジューンブライド!」(へえーっ 笑) 「そこ、笑うとこじゃないよ」
 ●「サクランボ!」(ですよね)
 ●「かたつむり!」(雨・・・ですか)
 ●「自分の誕生日!」(おめでとう!・・・いいなあ、若い)  などなど。

さて、大切な聖書のメッセージ、ですが・・・
なんと、スタッフKさん、せっかく用意した原稿を忘れちゃいました(>_<)
・・・それでも、ちゃんと代わりを用意して、お話できるのは、さすがです。
メッセージの後は、分かれて分かち合いとお祈りです。これがいい時間です。
 
そして、ジュニアカップ。去年と違って、ラケットはミニサイズ(おもちゃ)です。
去年は、途中で「ビシバシ!」と本当の打ち合いになったからねー。
こんな小っさいので、球に当たるかなあ・・・? 
前に遊んだ時は「スカッ!」と空振りが多かったケド。
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練習を経て、いざ本番!(と言っても、この間、取材者は長いお交わり&お祈り中)
しばらくして、取材開始すると… ラリーがかなり続いてる。
「ほぉ~!当たってるんだ! さすが、芯でとらえるのに慣れてる?」
「入った!入った!」  注)箱の穴に入れる「わざ卓球」です。
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さあ、ジュニアカップの優勝品は、やっぱカップアイスでしょ(^_-)-☆
近くのコンビニで買った2種類の期間限定品。
優勝したMちゃんに、「好きなほう選んでいいよ」と言うと・・・
「これさっき、コンビニでどっちにしようか迷ったやつだよ。」はい、視点が同じでしたね。
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試合後は、できたてワッフルを、みんなでほおばりました(^^♪ 
今回のトッピングは、バニラアイス&オレンジマーマレード、スペアミントの葉っぱ。
サークルハンズ、チェリーキッズ、とワッフル3連続の最後は、初夏らしい味でした
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早速、ゲットした賞品アイスがのっかってる!これはY君の白桃ですね。
きれいに飾ってくれて気持いいですねー(^v^)カメラパチリ。
しかし、男性スタッフ2名ってば・・・
カップアイスをゴーン!と、形のまんまのっけるしー(~_~;) カメラなし。

ジュニアでは、中高生&スタッフ&家族や大人たち。
みんなで仲良く楽しんでいます。あなたもどうぞ!
今日も、ごちそうさま&ありがとうございました(^.^)/~~~
 


  主よ。川は、声をあげました。
  川は、叫び声をあげました。
  川は、とどろく声をあげています。
  大水のとどろきにまさり、海の力強い波にもまさって、
  いと高き所にいます主は、力強くあられます。  詩篇93:3-4

by sagaech | 2011-06-23 19:17 | チェリーキッズJr(中高生会)

みことばに生かされる⑨「いよいよ深く神を知るために」

   日曜日の礼拝で牧師がお話した聖書のメッセージです。
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「みことばに生かされる恵み」9   2011.6.12
   「いよいよ深く神を知るために」
   ヨハネの福音書5章30‐40節、17章3節



 先日の教会懇談会では、デボーションの恵みを分かち合いました。それを通して改めて、「神様は確かに生きておられ、私たち一人一人に語って下さってるんだなあ」と思わされました。

1 聖書は、いろんな目的をもって読めるけど・・・
 以前、庄内の海でキス釣りをしていた時、あるおじさんが近づいて来て、私の釣りの仕掛けを見るなり、「それ、使い方違うよ」って言ったんです。仕掛けというのは、釣り糸や錘や針を繋いで使う小道具のことですが、私はそれまで、その仕掛けはそういうふうに使うものと思っていて、実際に釣り上げていたんです。でも、そのおじさんに言われたとおりに仕掛けを繋ぎ直してみたら、なんと、魚のアタリがよく分かって、もっと釣れちゃったんです。
 まあ、それは、「使い方を間違っていた」という恥ずかしいお話なんですが、私たちは、釣りの仕掛けじゃなくて、聖書というものを、もしかしてそんなふうに「使い方、読み方を間違って読んでいる」ことはないだろうか・・・って思うんですね。いかがでしょうか?

 皆さんは、聖書をどんなふうに読んでいますか?世の中の人たちは、聖書をいろんな読み方で読んでるんですね。たとえばある人は、「聖書の間違い探しをしてやろう!」と思って、ゴシップ探しをするみたいに聖書を読みます。それは困った読み方なんですが・・・、また他の人たちは、聖書を「思想の本」や「文学の本」として読んでいます。「なるほど!」と思う名言とか、感動的な物語を見つけるために読んでいたりするんです。また、ある人たちは、聖書を「歴史の資料」として読んで、考古学的な興味をそそるような記録を調べていたりするんです。聖書という本は、そういう読み方をしても十分に満足させてくれる本です。むしろ、そういう方面でも第一級の研究対象になり得るものが、この聖書なんです。
 ですが、そういう読み方とは別に、ある人たちは、聖書の中に「自分の救い」を探して読んでいます。また、「心の癒しや魂の救済」というものを熱心に期待しながら読んでいるんですね。どうでしょう。おそらく皆さんは、そういう読み方こそが、聖書という書物の一番相応しい、的を得た読み方だと思うんじゃないでしょうか?

 けれどもここで、立ち止まって考えてみて欲しいんです。もちろん、聖書は「救いや、心の癒しや、魂の救済」というものを与えてくれる書物に他なりません。ですが、私たちはともすると、「救いを求めて聖書を読む」という場合にも、極端な話、聖書を専らご利益的に読んでいたりはしないでしょうか?あるいは、実用主義的に読んで終わっている・・・ということは、ありませんでしょうか?本屋さんで見る『人生を何とかする方法』なんて本と同じ感覚で、「自分の人生を何とかしたい!そのための秘訣はどこにある?」という関心だけで聖書を読んじゃってる・・・ってことです。
 もちろん、そういうふうに読むことが、必ずしも悪いことではありません。本当に苦しくて救いが欲しい時に、そういう読み方から聖書を読み始めることは、極々自然のことだとさえ思います。けれども、敢えて考えてみたいと思うんですね。果たして聖書というものは、そういう読み方だけで良いものなんでしょうか・・・?


2 聖書とは、「神を知るための書物」なり!
 今日の所でイエス様も、ちょうどそのようなことを指摘されたと思うんです。
 「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(39-40節)
 当時のユダヤの人々は、聖書を『人生を○○する方法』なんて軽い気持ちで読むことはありませんでした。「聖書の中には、永遠のいのちがある」、すなわち「自分たちにとっての究極の救いが、ここにある」という心からの期待をもって、熱心に聖書を学んでいたんです。それをイエス様も「間違いだ」なんて決して言っていません。
 でもイエス様は、それを踏まえた上で、こう言われたんです。「その聖書が、わたしについて証言しているのです。」さらには、「それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」
 つまりイエス様は、こういう訴えをしていたんですね。
 「いいですか、聖書というものは何を隠そう、このわたしのことを知らせているんです!聖書を読むのは何のためですか?それはもちろん『永遠のいのち』を手に入れるためです。ですが、それは何よりも、このわたしを知って、神様ご自身のことをもっともっと親しく知るためなんです!そして、あなたがたが必死で求めている救いや、癒しや、解決は、その『神様を知る』ということの中にこそあるんです!『神様を知る』ことこそが、実は『永遠のいのち』そのものなんですよ!」

 どうでしょう、私たちは、聖書をそういうつもりで読んでいるでしょうか?それとも、そんなことは全然頭になくて、極端な話、「神様のことなんてどうでもいいから、とにかく救いが欲しい!とにかく私を助けてよ!」って思っているだけでしょうか?まあ、本当に苦しい時は、余裕がなくて「最短距離で救いが欲しい」と思うものですね。それは私もよく分かります。けれども、たとえ遠回りに見えたとしても、「神様を知る」ことこそ、実は私たちにとっての一番の近道なんです。「じれったい」と思っても、まずは神様を知らないと、「本当の救い」も見えて来ないんです。
 なぜでしょう?それは実は、神様を知った時こそ、それまで知らなかった全く新しい世界が見えて来るからです。神様を知ったなら、私たちは、「この世界は目に見える世界だけではない」ことを知ります。むしろ、本当の現実は、目に見えない世界の方だということを悟らされるんです。
 また、神様を知ると、「この世界には、全てを創造された創り主がおられて、その方が、今も私たちを日夜支えて生かして下さっている」ということも分かって来ます。さらに、神様を知ったなら、「この世界には『人間の相対的な価値観』とは違う『神様の絶対的な価値観』というものがあって、『本当の愛』や『絶対的な聖さや正しさ』が存在するんだ」ということを私たちは知るんです。そういうものを持っている神様に全てを委ねて生きて行くことの中にこそ、「本当の平安、自由」があって、「本物の救い」があることを、私たちは悟らされて行くんですね。

 けれども、繰り返しますが、そういう恵みというのは、神様を知らなければ、分からないものなんですね。それゆえイエス様は、ヨハネの17章でこう仰せられたんです。
 「永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」
 そして、そういう神様のことを私たちに知らせてくれるのが、「聖書」に他なりません。そのことが分かったら、きっと私たちは、聖書の読み方が変わって来るはずだと思うんですね。自分のことよりも、神様のことを知るために、聖書を読むようになって行くんです。神様のことをもっともっと深く、ますます親しく知らせてもらうためにこそ、「聖書のみことば」に聞いて行くようになって行くんです。


3 神様を「人間の枠」にはめて知ろうとするのは禁物!
 けれども、「神様を知ろうと思って聖書を読んでても、時々神様について疑問に思う・・・」ということはありませんでしょうか?「どうも自分の頭じゃ、神様について納得できないことがあるんだよなあ・・・」っていうことが、時々あるんじゃないでしょうか?
 たとえば、聖書を読んでいて、「えっ、神様はどうしてそんな厳しいことをなさるんだろう?神様は愛の方なのに、なんでそんなふうにするのか分からない!」とか。あるいは、神様が言われたことばや振る舞いが、どうも一貫していないように思えて、「これって矛盾じゃないの?おかしいんじゃない?」って感じちゃうとか。
 実は、私たちに先立って、そういうことを物凄く感じて混乱してしまった人がいるんです。それは、旧約聖書の「ヨブ記」に出て来るヨブという人です。

 ヨブは、「彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない」と言われるくらいに非常に立派な信仰者でした。ところがそのヨブに、神様は、考えられないような試練をお与えになったんです。なんとヨブは、たった一日で、自分の財産と子供たちを、人に襲われ、災害に見舞われて、全部失っちゃうという考えられないような悲劇を体験させられたんです。さらに、ヨブ自身も体中に悪性の腫物が出来て、のた打ち回って苦しみもがくことになっちゃったんです。
 それは、ヨブにとっては、「あたかも神様が、何の理由もないのに自分を裁いて見捨ててしまってる」ように見えちゃう出来事でした。しかも、ヨブの友人たちは、「おまえが何か悪い事をしたんだろう、正直に悔い改めろ!」って、的外れな忠告をするばっかりだったんです。
 でも実は、それはサタンがヨブの信仰を試みてやろうと思って起こしたことだったんです。それを神様がお許しになったってことだったんです。そのやり取りについては聖書に詳しく書かれていますが、ヨブ自身は何も知りませんでした。そしてヨブは、だんだんと神様に対して疑いの気持ちを抱いて行くんです。そしてついに、「自分は正しい、おかしいのは神様だ!神様の方が矛盾してる、間違っている!」と神様を断罪してしまったんです。
 けれども、そこに至って神様が、長い沈黙を破ってついにヨブに語り掛けました。
 「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。」(ヨブ38:2)
 「あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか。」(40:8)
 その上で神様は、ヨブ自身が決して知り得ない神様の圧倒的な御手のわざの一旦を垣間見せて下さったんです。すると、ヨブはようやく悟らされて、最後に神様にこう申し上げました。
 「まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。 自分でも知りえない不思議を。 ・・・・・・私はあなたのうわさを耳で聞いていました。 しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。」(42:3-6)

 ヨブの話は、私たちにも非常に身近な話だと思います。これは実は、「神様を信じる者だからこそ陥りがちな過ち」の話なんです。私たちは、聖書を読んである程度神様のことを知って行くと、やがて自分の中に、自分が知り得た知識だけを基にして、一つの枠組みを作り出しちゃうんですね。「神様とはこういう方なんだ」と。そしてその「自分が作り上げた枠組み」の中に、今度は「生の現実の神様」を無理やり押し込もうとしちゃうんです。
 実は私たちは、「神様が、目に見えない世界でどういうことをなさっていて、これからどういうことをなさろうとしていて、どういう理由でそうしているのか・・・」については、ほんのちょっとしか分かりません。いや、ほとんど知らないに等しいでしょう。たぶんそれは、今の私たちには、どんなに頑張っても知り得ない領域なんですね。
 ところが私たちは、自分が知っているほんの僅かの情報だけで、しばしば神様を判断し、批評し、断罪までしちゃうんですよ。ヨブもそうでした。彼は、「試練の裏にはサタンの企みがある」ことも、「そんなサタンの企みをも超えて、神様がご計画を持っていらっしゃる」ことも全然知りませんでした。なのに彼は、自分が知っている枠組みの中だけで、「神様、おかしいじゃないですか!」と考えちゃったんですね。だから私たちは、このことを覚えておかないといけないんですね。「聖書が告げている神様を『人間の枠』にはめ込んで知ろうとすることは禁物だ」と。
 けれどもヨブは、神様から諭された時、へりくだって神様に降参しました。するとヨブは、正しく神様のことを知ることができて、その上さらに新しく、さらに深ーく神様のことを知らされて行ったんです。まさにその体験が、ヨブにとっての新たな転換点となって行ったんです。

 『百万人の福音』という雑誌に、戸崎真知子さんという方のお証しがありました。最愛のご主人を癌で亡くした後の心の葛藤についての証しです。
 戸崎さんのご主人は、10年前に54歳で肝臓癌で亡くなられたそうです。クリスチャンではなかったけれど、戸崎さんの信仰をよく理解してくれて、家族思いの本当にいいご主人だったそうです。それなのに、最後は体中に癌が転移し、激しい痛みと壮絶な闘いをしながら、「もう終わりにしてくれ!」と言って、亡くなって行ったそうです。
 そんなご主人の死を看取った戸崎さんは、それから10年間、ずっと神様に、こう尋ね続けて来たといいます。
 「神様、主人の幸せは、いったいどこにあったのですか?苦しくても自分のことは一切言わずに、家族の心配ばかりしていた主人の犠牲は、いったい何だったのですか?」
 ところが、そうやって問い続けて来たある日、戸崎さんは、ふと、あることに気付かされたそうです。
 「どれくらいたった頃でしょうか。ふっと、『ああ、神様の領域というのがあるのではないだろうか、そこまで私たちが踏み込んではいけないのではないだろうか』、と気づかされたのです。」
 それを切っ掛けに、今までのいろんな事を思い返してみると、ご主人が元気だった頃に一緒に教会の行事に参加してくれたこと、具合が悪くなってからも「礼拝に出てみたいけど、じっとしていられないから遠慮するよ」って言ったこと、礼拝のお祈りの時に「アーメン」と言ってくれたこと・・・、そういうことが思い出されて来て、「そうしたことが全部神様の恵みの中にあることだったんだ」と気付かされたというんですね。戸崎さんは言われます。
 「『わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。』 マルコ9章40節 いつもこのみことばを思ってます。クリスチャンではなかった主人、でも反対はしなかった・・・、主イエスに『あなたも味方ですよ』と言ってもらってる主人を思ってます。今私は、イエス・キリストと共にあることにとても感謝しつつ、聖書のことばに大きな慰めと励ましを貰っています。」

 この戸崎さんもまた、「試練の中で神様を『人間の枠』にはめ込もう」とする誘惑に晒されて来たんだなあ・・・って思いました。けれども、戸崎さんもまた、神様の諭しに心を開いて行った時、正しく、またより深く、神様のことを新しく知ることが出来たんですね。まさにそのことが、戸崎さんにとっての救いとなって行ったんですね。


3 鍵は、主イエスを見つめることにあり
 「神様を知る」ということは、「神様の全てを100%知り尽くす」ことではありません。それは絶対無理ですし、神様じゃなく、相手が人間だってそうです。だから、「神様を知る」ということは、「たとえ知り得ないことがあったとしても、それも含めて神様を全人格的に信頼する」ことなんです。
 けれども、聖書を開いて「みことば」を前にする時、私たちは、どんなふうにしたら、そう出来るんでしょうか?
ヨハネの福音書に戻りますが、その鍵はやはり、イエス様にあると思います。イエス様は言われました。
「また、わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません。」(ヨハネ5:37)
 つまり、「このわたしだけは、父なる神様の御声を直に聞き、その御姿を直に見ているんだ。だから、神様を知りたいと思ったら、このわたしを知りなさい。天の父と一つであるこのわたしを人格的に知りなさい」とおっしゃっているんですね。
 だからぜひ、「神様がよく分からない」と思ったら、父なる神を証しするために世に来られた神の御子のお姿を、聖書の中で見つめてまいりましょう。そうすれば、「人のことば」じゃ矛盾と思えた神の御姿も、イエス様という生きたご人格の中で、しっかりと結びついて調和している姿が見えて来るんじゃないかと思います。そのイエス様を、まずは心から信頼いたしましょう!その時こそ私たちは、いよいよ深く神様が分かって来るのです。
 願わくは、そういう聖書の読み方を、ご一緒に学ばせていただきたいと思います。
by sagaech | 2011-06-15 16:19 | 礼拝メッセージ

みことばに生かされる⑧「みことばはあなたを変える」

   日曜日の礼拝で牧師がお話した聖書のメッセージです。
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「みことばに生かされる恵み」8    2011.6.5
       「みことばは、あなたを変える」
        列王記第一19章1‐18節より


 今日の礼拝後に教会懇談会を行いますが、その中でデボーションの恵みを分かち合いたいと思っています。「日頃の聖書と祈りの時間、神様とのお交わりを通してどんな恵みを頂いているか、特に『聖書のみことば』から、どのようなことを教えられているかについて、お互いの証しを分かち合いましょう」ということです。それが、これからデボーションを始めて行こうとされている方や、忙しい中でも何とかデボーションを頑張っている方々に、何らかの励ましになるようにと思っています。

1 毎朝のデボーションが私たちを変える
 明治時代の有名なキリスト教会の牧師に高倉徳太郎という人がいますが、その方が、こんな言葉を残しています。「今朝の15分また30分は、今日一日を変える不思議な力を持っている。」これは、私たちが「デボーション」と呼ぶ「毎日の聖書とお祈りの時間」のことです。このことばに深く心を探られ、「そうだこれだ!日毎に聖書のみことばに心を澄まして向き合うことが鍵。それこそ、私たちを変える力だ!」と教えられたのが、あの「ちいろば先生」こと榎本保郎先生でした。皆さんは、このことばに「アーメン、本当にそうだ」と頷けますでしょうか・・・?
 もちろん、「私たちが変わる」と言っても、何がどう変わるのか・・・っていうのは、色々だと思います。だんだん神様に喜ばれる者となって行くという変化もあれば、真っ暗闇の心の中に光が灯って来るという変化もあるでしょう。不安と恐れで一杯だったのが、平安な心に変えられる、という変化もあるでしょう。人間関係のトラブルが解消されて、毎日の生活に必要なものが、不思議な導きによって備え与えられて来る、という変化もあるんじゃないかと思います。
 でも、それがどんなものであっても、その変化は、私たちの内側の目に見えない霊的な所から始まるんですね。聖書は、こう言っています。
 「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。」(コリント第二3:18)
 私たちは皆、イエス様の十字架の救いを頂いたなら、罪や汚れを聖められ、神様の栄光溢れる姿を映し出して行く者に変えられて行くんだ・・・ということです。これは、生まれながらに罪人である私たちにとっては、信じられないような変化じゃないかと思いますね。
 但し、そういう変化は、黙っていても自動的なる・・・ということではありません。聖書は、さっきのみことばの前に、「人が主に向くなら、・・・」と但し書きを付けているんです。つまり、「私たちが神様の方を向いて、神様と親しくお交わりをして行くならば・・・」ということなんですね。具体的には、毎週の礼拝はもちろん、日毎の聖書とお祈りの営みを続けて行く時にこそ、そうなって行ける、ということす。

 
2 「みことば」に変えられたエリヤ・・・「起きて、食べよ」
 そうは言っても、「聖書のみことば、神様のおことば」は、いったいどんなふうに私たちを変えるんでしょうか?もちろん、人によってそれぞれだと思いますが、典型的な例を一つ、見てみたいと思います。先週も登場した預言者エリヤの話です。
 エリヤは、飢饉の中でカラスとやもめの女に養われる体験をした後、神様の命令によって、ついにアハブ王の前に立ちました。そして、王のお抱え預言者たち、バアルという偶像の神の預言者たちと全面対決したんです。それは、カルメル山の山頂で、エリヤと、バアルの預言者たちが各々に祭壇を築き、各々自分たちの神に呼ばわって、自分たちの祭壇の上に天から火を降すことが出来た神こそが、本物の神様だ、という対決でした。
 もちろんそれは、「負ければ命はない」命懸けの対決だったんですが、バアルの預言者たちは、自分たちの体を傷つけることまでして熱心に叫び求めました。なのに、何も起こりませんでした。ところが、エリヤが神様に叫び求めるや、あっという間に天から火が降って来て、祭壇の上の生け贄をすっかり焼き尽くしちゃったんですね!
 そのことは、18章に書かれていますが、そうやってエリヤは、バアルの預言者たちに大勝利を収め、命がけの大仕事を成功させたんです。「さあこれで、この国は再び主なる神様のもとへ立ち返るだろう」と、エリヤは思ったんじゃないでしょうか。
 ところがその後、思わぬ反撃が起こります。バアル崇拝の黒幕だった王妃イゼベルが、「絶対お前を殺してやる!」とエリヤを激しく脅して来たんです。そうしたら、緊張の糸がプツンと切れたのか、あの勇敢な姿はどこへ?・・・という感じで、エリヤはすっかり怯えてしまい、一目散に逃げ去ってしまったんです。それが今日のお話です。
 
 エリヤの状態は深刻でした。自暴自棄になってしまい、「自ら死を願う」ほどになりました。かなりの鬱状態です。 無理もないですね。あんなに犠牲を払って働いたのに、人々は神様の許に立ち返って来なかった・・・、むしろ、彼に対して、ますます敵意を露わにし、牙を剥いて来たんですから。これじゃあ、「俺の苦労は何だったんだ・・・」って落ち込んでしまってもおかしくないです。そんな時、人は気力を失い、気持ちが挫け、絶望しちゃいます。
 ところが、こうした「どん底状態」からも、なんとエリヤは立ち直って、変えられて行ったんです。どうしてなのか?と言いますと、一言で言うなら、それはやはりデボーションのおかげだったんです。
 エリヤは単に、一人でグチって喚き散らしてただけではなかったんですね。ここで、そんなふうにしながらも、神様の前へと進み出ていたんです。神様と一対一で向き合い、「神様のみことば」を求めていたんです。
 エリヤは、神様に向かって祈りつつ、悩み疲れて、いつしか眠り込んでしまいました。この姿を見る時、私は、「ああ、自分もかつて、こんな感じだったなあ・・・」と思い出します。私も学生時代、アパートの一室で、一人悩みを持て余しては、神様に向かって祈り叫んでいたものです。そして、悩み疲れては、ベッドの上で眠り込んでいたんです。
 けれども、そんな私たちの声を、神様はちゃんと聞いて下さっているんだと、私はこのエリヤの話から、何度も確認させられました。というのは、神様は、エリヤに御使いを送って水とパン菓子をお与えになってるんですね。そして、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから」って繰り返し語り掛けて下さっているんです。
 私たちの疲れた心と体には、休息と栄養がどうしても必要です。神様も、そのことはよーく分かっておられて、エリヤのために、甲斐甲斐しいくらいのお世話をして下さいました。見て下さい。「焼け石で焼いたパン菓子」ですよ。おそらく、焼きたてのホカホカです。それと、つぼに入ったお水を、エリヤが起きたらすぐ手に取れるように、頭のすぐそばに置いてて下さったんです。それを、エリヤが十分元気を回復するまで続けて下さったんです。その結果、エリヤはようやく起き上がることが出来ました。そして、もう一度立ち直るための手掛かり、切っ掛けをつかんで行ったんです。

 けれども、エリヤが立ち上がれたのは、単に「休息と食べ物を与えられたから」なんでしょうか?いいや、そうではないと思います。だって、それだけだったら、何も神様に向き合わなくたって出来ることですから。むしろ、ここでエリヤは神様から「みことば」を頂いたんですね。
 「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから。」(7節)
 実は、「神様のみことば」こそが、エリヤを立ち上がらせた大きな力だった、と思います。その「みことば」は、苦しくて生きる意味を見失い、「もう死にたい」と思っていたエリヤに対し、「わたしは、あなたの苦しみを分かっているよ。あなたの苦労も知っている。そして、わたしはそんなあなたを評価し、なおもあなたに期待しているんだよ」というメッセージに他ならなかったんです。
 エリヤはこの「みことば」を通して、「自分には、こんな自分を、こんなどん底の中でも支えて生かして下さっている絶対者であられる方がいらっしゃるんだ!」ということを、深く実感させられたんですね。こういうメッセージを神様が、「『聖書のみことば』を通してこの私のために、個人的に語り掛けて下さっている」と感じた時に、人は変えられるんじゃないでしょうか・・・?


3 「みことば」に変えられたエリヤ・・・かすかな細い声
 けれどもそれはまだ、エリヤにとっては、本当の意味で立ち直るための「きっかけ」に過ぎませんでした。というのは、彼には、まだまだ納得できないことがあったからです。そこで、彼は、神様からのさらなる深いお取り扱いを求めて、神の山ホレブ山へと進んで行ったんです。
 神の山ホレブとは、かつて、モーセが神様と一対一でお会いした所、あの「十戒の石の板」を授かった山です。「その同じ山に行って、自分もまた、神様ご自身のことをもっと力強く体験させていただいて、自分が納得してないことを神様からもっとハッキリと教えていただこう」と思ったんじゃないでしょうか。その結果、ついにエリヤは立ち直り、以前にも増して深い霊的洞察を与えられた預言者に変えられて行ったんです。そして、もう一度、自分の現場に戻って行くことが出来たんですね。

 では、エリヤはこの山で、いったいどういうお取り扱いを頂いたんでしょうか?・・・やはり、エリヤは「主のことば」を頂いたんです。
 「エリヤよ。ここで何をしているのか。」(9節)
 それは、「エリヤ、こんな所で何やってるんだ!」というお叱りのことばではありませんでした。むしろ、エリヤに今一度、自問させることばだったんです。「あなたはここに、どういう答えを求めてやって来たのか?」
 そして神様は、エリヤを連れ出します。「山々を砕くような激しい大風」や、「地震」や「火」という恐ろしくもダイナミックな自然現象、人間の五感にビンビン響いて来る「天変地異」の現象を次々と体験させたんです。けれども、驚いたことに、それらのダイナミックな現象の中には、どこにも「主はおられなかった」というんです。
 そういうものの後に、ちょっと間違うと聞き逃すかも・・・っていうような「かすかな細い声があった」といいます。それは、「大風、地震、火」とは違って、体に全然ビンビンとは響いて来ない、全くの静けさの中でようやくキャッチできるか・・・という程度の、まことに弱々しい声でしかありませんでした。ところが、まさにその中にこそ、神様はいらっしゃいました。そしてエリヤに、「エリヤよ。ここで何をしているのか」と再び語り掛けて来たんです。

 さて、この不思議な体験が、いったいどういうわけで、エリヤを立ち直らせたんでしょうか?
 神様は「みことば」を語り続けます。今日の最後の所で神様は、エリヤに対し、これからご自分が成そうとしている計画を教え、彼の知らない「七千人」の味方がいることも明らかにされました。それは、エリヤにとっては少なからず、希望や励ましとなったと思います。
 ですが、ここで神様がお語りになった一連の「みことば」は、たぶん、エリヤにとっては結局、彼自身が聞きたかった事柄についての直接の答えには、なっていなかったと思います。彼の心には、もっともっと「なんで?どうして?」という疑問が渦巻いていたはずです。「なんで、私の命懸けの苦労が報われなかったんですか?なんで私が、こんな目に遭わなきゃならないんですか?どうして神様は、この世の悪い奴らをあんなふうに放っておくんですか?・・・」
 それについての直接の答えは、与えられませんでした。けれども、エリヤはここでの「みことば体験」によって、十分立ち直らされました。なぜでしょう? それは、エリヤがこの時、「みことば」を通して「全知全能の絶対者であられる神様のご臨在」に、たっぷり触れることが出来たからだと思うんです。その「神様のご臨在」は、「かすかな細い声」の中にこそありました。つまり、「全知全能の絶対者である神様の現実」に比べたら、思い掛けないくらいに貧弱に見える「声、みことば」というものの中にこそ、神様はいらっしゃる。このことを知ったんですね。

 「この世の目に見える現実」は、時として、私たちを飲み込み、打ち倒し、焼き尽くしてしまいそうに見える、非常に圧倒的なものです。それと比べると、「聖書のみことば」は、たかだか「文字」であり、非常に心細く見えます。「こんなもんで何になる?」って思いたくなるような「かすかな細い声」でしかない…。
 けれども神様は、ご自分の臨在をむしろ、「みことば」という方法、手段によってこそ、私たちに知らせようとしておられるんですね。私は思います。この「みことば」というものの中に、この世のどんな圧倒的な現実によっても掻き消されない「神様のご臨在」を実感させられた時、人は変わるのだ!と。たとえそれが、自分の疑問に対する直接の答えじゃなかったとしても、です。きっと神様は、「私たちの問いに直接答えるべき時」を心得ておられるんですね。あるいは既に、語って下さっているのに、ただ私たちが気付いてないだけかもしれません。
 いずれにしても、「みことば」を聞く時に私たちは、「あらゆる問いに答えを持つ絶対者である方」が、この私に個人的に語り掛けて下さっている、ということを知るんです。そして、「心配しないで、一切をこのわたしに委ねなさい!」と招いて下さっている御声を聞くんです。

 何度か礼拝の中で、仙台にお住いの中澤利江さんの話を紹介してまいりました。『百万人の福音』という雑誌に証しを連載されている筋ジストロフィーを患っているクリスチャンの方ですが、この方はいつも、「聖書のみことば」から教えられているんですね。今日も一つ、そんな彼女の証しを端折りながら紹介したいと思います。

 「私は、自分が分からないこと、割り切れない感情そのままを神様に向けて、納得のいく回答を聖書から得ようともがいておりました。しかし聖書とは、人の事情や疑問に答えるためのものではなく、他からは何の影響も受けず、どんな条件づけもされない神様の絶対的普遍的なことばなのでした。・・・
 (クリスチャンになって)分からないこと、悲しく思うことがなくなったわけではありませんが、それらを抱えつつも神様を信じ、主への信頼は深まって行きました。(すると)心に光がさしたことにより、高校生の時に諦めていた『幸せ』への思いがよみがえって来ました。
 その当時私は、幸せとは心が豊かなことだと思っていましたが、不自由な体がいやでたまらず、心には悲しみ、苦しみ、怒り、羨望が溢れていたので、病気が治らない限り心が豊かになんかならず、一生幸せにはなれないと決めつけていたのです。
 (けれども)神様の愛をまっすぐ信じられるようになって来た私は、惜しみなく愛して下さる神様が、私を幸せへ導いて下さらないことはないのではないか、と考えるようになったのです。
 でも、具体的にどうすれば豊かな心になれるのか分からなかったので、祈りの中で問い続けました。
 『神様、あなたが私に与えて下さっているこのいのち、この人生を、感謝して幸せに生きるためにはどうすればいいですか?』 すると、神様からの答えはこうでした。
 『わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。』(ヨハネの福音書10章10節)
 (すなわち)イエス様は罪人にいのちを与え、そのいのちを今もこれから後も豊かに保って下さるために、私たちの許に来られたのだ、と教えて下さったのです。(だから)幸せになりたかったら、豊かな心になりたかったら、イエス様を信頼してついて行けさえすればいいのだと、自分の進むべき方向にさらなる確信が与えられました。
 今後、主は、どのように私の心を豊かにして下さるのか、どんな幸せへと導いて下さるのかと思うと、期待で胸が膨らみます。」

 中澤さんは、エリヤみたいな預言者ではありません。ですが、今日のエリヤの姿と重なって見えて来ます。問題は違いますが、彼女もまた、筋ジストロフィーという病を抱えながら、納得の行く回答を得ようと、神様の前で、もがきました。しかし、その中で教えられたのは、必ずしも神様は、自分の疑問に、自分の事情に合わせては直接お答えなさらない・・・ということだったんです。 
 それでも中澤さんは、そんな神様が聖書を通して語っておられる「みことば」の中に、「自分に対する個人的な語り掛け」を聞いていらっしゃるんですね。そしてその「みことば」の中に、「神様の臨在、イエス様のプライベートな導き、伴い」を、ひしひしと実感しておられる。それこそが、この方を、ここまで変えたものだったと思うのです。「一生幸せになれない」という絶望が、「イエス様は、どんな幸せに導いて下さるんだろう」って期待へと変えられて行ったんです。


結論
 さあ、私たちもまた、「みことば」を尋ね求め、「みことば」に聞いて、「神様のみことば」に生かされて行こうじゃないですか。そして、「みことば」に耳を傾ける時と場所も、なんとしてでも、忙しい毎日の中に、取り分け、選び取らせていただこうじゃないですか。その時、どんな声が、どんな「ことば」が聞こえて来るか・・・、「みことば」によってどんなふうに変えられて行くのか・・・、そのことを、ぜひ皆さんで、主にあって期待したいと思います。
by sagaech | 2011-06-10 14:33 | 礼拝メッセージ

みことばに生かされる⑦「いのちのことばに生かされる」

   日曜日の礼拝で牧師がお話した聖書のメッセージです。
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「みことばに生かされる恵み」7    2011.5.29
    「いのちのことばに生かされる」
    列王記第一17章1‐16節より



 来週の礼拝後、教会懇談会を行いますが、その時は、今年度の重点目標に沿って、デボーションの恵みを分かち合うことにしています。日頃私たちが、聖書とお祈り、神様とのお交わりの時間を通してどんな恵みを頂いているか、特に「聖書のみことば」から、どのようなことを教えられているかについて、お互いの証しを分かち合いましょうということです。それが、これから新しくデボーションを始めて行こうとされている方や、忙しい中でも何とかデボーションを頑張っている方々にとって、何らかの励ましになるようにと、願っています。そこで、今日もまた、「聖書のみことばに日毎に教えられて生きる」恵みについて、ご一緒に学ばせていただきたいと思います。 


1 「主のみことば」のとおりにしたエリヤとやもめ
 私たちは、毎日聖書を開いて、神様にお祈りする営みを、「デボーション」と呼んでいますが、それを通して私たちは、いったい何をやっているんでしょうか?この間はそれを、「神様とのお交わり」だと申し上げました。最初の人間アダムが、エデンの園で持っていた「神様とのまことに麗しいお交わり」。ところが、人間の背きの罪によって悲しくも損なわれてしまったお交わりです。それを、イエス様が、十字架によって私たちのために回復して下さったんです。だから今、私たちは、毎日聖書を開いて神様にお祈りする度に、その交わりを体験させていただくことが出来るんです。それが、デボーションです。
 ですが、さらに踏み込んでみたいと思うのですが、それなら私たちは、その「神様とのお交わり」の中で、さらに、どんなことをしているんでしょうか・・・?先週も、ちらっとお話ししたんですが、実は私たちは、このデボーションの営みを通して「いのちを頂いている」んですね。つまり、この「毎日の聖書とお祈りの時間」というものは、私たちが、目に見えない神様から「いのちの供給」をしていただいてる時なんですよ。

 今日の個所は、旧約時代の有名なエリヤという預言者の話です。当時、イスラエルの国は、歴史上、最も酷い世の中になっていました。当時の王様だったアハブ王が、王妃イゼベルに操られて、それまでのどの王様よりも平気で悪事を働いていたからです。特に、バアルと呼ばれる偽りの神々を持ち込んで、国を挙げての偶像崇拝を推し進めちゃっていたんです。そのせいで、真の神様に仕えていた「主の預言者」たちは、どんどん迫害されて殺されてしまいました。今や、エリヤだけが残っている、という状態になっていたんです。
 そこで神様は、エリヤをアハブ王の許に遣わして、悔い改めを迫り、こんなふうに語らせました。
「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」 
 これは、日照りになって飢饉が起きるという御告げだったのですが、間もなく、本当にその通りになりました。エリヤ自身も、日照りと飢饉の中に置かれ、その上、アハブ王から命を狙われる身となってしまったんです。
けれども神様は、そんなエリヤのために「みことば」をお語り下さったんですね。当時は、今のようには聖書がなかったので、エリヤは直接神様から「みことば」を頂いたんですが、まず、こんな「みことば」があったんです。
 「それから、彼に次のような主のことばがあった。『ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。そして、その川の水を飲まなければならない。 わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。』」 
 ケリテ川のほとりに隠れて、川の水を飲めという話は分かりますよね。だけど、その後のことばはどうでしょう?「わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた」と仰せられたんです。犬ならともかくです。そこらのカァーカァー鳴いてる烏が、人間のために毎日ご飯の宅配サービスをしてくれる・・・って、「本当ですか?」と言いたくなる話じゃないでしょうか? 
 けれども、エリヤはどうしたんでしょう?「それで、彼は行って、主のことばのとおりにした。」とあります。非常にあっさり書いています。これは「烏を信頼した」というより、「神様を信頼した」ということだと思います。そう、「神様がおっしゃることばを信頼した」ということなんです。そうしたら、なんと、本当に「幾羽かの烏が、朝になると彼のところにパンと肉を運び、また、夕方になるとパンと肉とを運んで来た」んです。もちろん、たったの一日だけの話じゃありません。それ以来、毎日ずーっとそうだった・・・ということなんです。

 でもやがて、日照りで川の水も枯れました。すると神様は、またエリヤに「みことば」を語って下さいました。
「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」(9節)
 今度は「烏」じゃないから安心・・・と思いきや、実はシドンのツァレファテという町は、大変な所でした。アハブの王妃イゼベルの出身地、そして、バアル崇拝の中心地だったんです。だから、もし「こいつは主の預言者だ」とバレたら、命の保証はない・・・という所だったんです。
 ですが、エリヤはそれでもやっぱり「主のみことば」通りに出掛けて行きました。すると、ちょうどそこで、一人のやもめの女に会ったので、「少しでいいから、水とパンを下さい」とお願いしたんですね。そうしたら、エリヤは思い掛けない話を聞かされたんです。
 「彼女は答えた。『あなたの神、主は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。』」(12節)
 大変深刻な話でした。いつもの貧しさが、日照りと飢饉によってギリギリの状態に追い詰められていたんです。もはや、明日を生きる希望が見出せない・・・という有様だったんです。
 けれども、神様は、エリヤだけじゃなく、このやもめに対しても「みことば」をお語り下さったんです。エリヤを通して神様は、このやもめに仰せられました。 
 「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子供のために作りなさい。イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」(13-14節)
 先程の烏が食事を運んで来るというのも凄い話でした。だけどこの「かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならない」というのも、それに負けないくらい、「ほんとですか?」と言いたくなるような凄い話じゃないですか?粉は「一握り」、油も「ほんの少し」しかないんですよ。それなのに、どんなに使ってもそれがなくならないっていうんです。「そんなうまい話、どうして信じられるか!詐欺じゃないの?」と思ったら、自分たちの大切なパンを、どこの馬の骨とも分からん人のために、分けてやれなかったと思いますね。けれども、このやもめは、「行って、エリヤのことばのとおりにした」(15節)んです。そうしたら、この親子は、どうなったのでしょうか?
 「彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。」(15-16節)


2 生きていて、私たちにいのちを与える「みことば」
 このように、エリヤとやもめの女にはそれぞれに、「神様のみことば」が与えられました。けれども、この二人はいったい、そうした「神様のみことば」から、何を頂いたんでしょうか?「命令」?「指図」?あるいは、「案内」や「良いアドバイス」でしょうか?もちろん、それらもありました。ですが、それだけではありません。「神様のみことば」とは単に、「何らかの教えや情報を伝えている」だけの「ことば」ではなかったんです。
 では、「みことば」とは、どういうことばなんでしょう・・・?それは、「いのちを与えることば」です。そう、「このことばに素直に耳を傾けて聞く人に、いのちを与えてくれることば」なんです。「心を開いて、思い切ってこのことばに聞き従おうとする人に、命令や指図やアドバイスだけじゃなくて、実際の『いのち』を与えてくれて、その人を、実際に生かして救って下さることば」なんです! 
 その「いのち」とは、イエス様が、あの十字架の上から注ぎ与えて下さった「神様のいのち」であり、私たちを本当の意味で生かして救うことの出来る「永遠のいのち」と呼ばれる「いのち」に他なりません。それゆえ、聖書は「みことば」のことを、「いのちのことば」と呼んでいるんですね。「いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。」(ピリピ2:6)とある通りです。
 「いのちのことば」という意味は、一つには、「その中に、いのちを持っていることば」ということです。ですが、もう一つの大切な意味は、「それ自体が生きていることば」だ、ということです。「えっ、聖書の文字は生きてるの?」って、そういう話じゃありません。だけど、この「聖書のみことば」は、これを真正面から受け止める人の心の中に、まるでそれ自体が「いのちを持っている生き物」のように、実際に力をもって働き掛けて来るんです。そういう意味でこれは、「生けることば」なんです。
 事実イエス様は、ご自分の「みことば」について、ヨハネの福音書でこう教えられました。「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」まさに、「生きている」ということです。何よりも、目には見えませんが、聖霊なる神様が、みことばの中に臨在されているんです。
 
 いかがでしょう。そういう「おことば」こそ、「聖書のみことば」なんです。私たちは、そういう「みことば」に、毎日のデボーションを通して向き合わせて頂いてるんですね。だとしたら、私たちだって、この「聖書のみことば」の中から、「神様のいのち」を頂いて行くことが出来るんじゃないでしょうか・・・?
 ただし、そのためには私たちの方も、この「みことば」を、そういう「ことば」として聞かないといけません。 つまり、「みことば」が、たとえ信じ難くて、レベルが高くて、自分の能力を遥かに超えたチャレンジだと思ったとしても、「これは、単なることばじゃない。神様のみことばだ」と思い起こすことです。そして、「謙ってこれに聞き従うなら、みことばは、私に力をもって働き掛けて下さり、人生に私の理解を超えたことを成し遂げてくれる。私を『神のいのち』で生かしてくれるんだ」と信じて受け止めることです。エリヤも、やもめの女も、そんなふうに「みことば」を聞いたと思います。
 仮に、私が皆さんに、「わたしは烏に、あなたを養うように命じた」なんて言っても、誰も相手にしないでしょう。当然です。私のことばには「いのち」はないからです。でも、「神様が言われたことば」なら、その「ことば」は生きていて、「いのち」があるんです!ちょうど、何かの「種」のように、信じて心の畑に植えるなら、やがて芽を出して、平和で幸いな実を実らせてくれるんです。私たちが聖書を開いて目にする「みことば」というのは、そういう「ことば」に他ならないんですね。

 昔、日本の教会に「アシュラム運動」というのを広めておられた榎本保郎という牧師がおられました。「ちいろば先生」とも呼ばれて慕われた先生ですが、「アシュラム運動」とは、「聖書のみことばへの徹底した聴従を実践する」という運動、つまり、「デボーション運動」でした。けれども、その「アシュラム運動」を広げて行こうと志した時、榎本先生は持病の肝炎が悪化して、教会の仕事と「アシュラム運動」の両方はやって行けない状態だったんです。
 そこで榎本先生は、残りの人生を「アシュラム運動」に捧げようと決心し、牧師を辞職することにしました。それを聞いた奥様の和子さんは、とってもショックだったそうです。それまでも、ご夫妻はとっても貧しい生活に耐えて来たんです。その上、夫が病を抱え、将来が不安になって、「教会ならまだしも、運動だなんてよく分からないものに専念するなんて・・・」と、深く失望してしまったというんですね。
 ところがある日、和子さんが聖書を開いた時、あるみことばが目に入って来たそうです。ヨハネの6章6節の、五千人給食の話です。「イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。」 これを読んだ時、「ああイエス様は、ピリポ、いや私をためしていらっしゃる。たとえ私が行く所を知らずとも、神様は、全てを知っていて下さるんだ」と思わされ、力が湧いて来たそうです。
 けれどもやがて、榎本先生は海外に行っていた時に倒れ、海の向こうで天に召されてしまいました。52歳の若さで…。その時、奥様は、頭がフラフラして、布団の中から出ることも出来なくなりました。和子さんは言われます。「それまでの私は、やはり夫に頼り切っておりました。いきなり頑丈な盾と杖を失って、床に臥せってしまいました。」そして、深い孤独の中で、聖書を読む気にもならなくなってしまったそうです。
 ところが、一週間ほど経った時、「取りて、読め」という神様のことばが、心の中に聴こえて来たというんです。そこで、重い頭を持ち上げ、続けて読んでいた聖書の箇所を、再び読み始めました。すると、こういうみことばが与えられました。
 「イスラエルよ、今からとこしえに主によって望みをいだけ。」(口語訳 詩篇131篇3節)
 その時、和子さんは、こう示されたそうです。「望みを置くべきなのは夫にではなくて、主なる神様なんだ。そうすれば、その望みは決して消えることはなんだ」と。
 どうでしょう、まさにこのようなことが、神様のみことばからいのちを頂き、いのちのみことばに生かされる、ということではないでしょうか・・・。


3 恵みは日ごとにいただく     
 最後にもう一度、「かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった」というみことばに注目したいと思います。これはちょうど、私たちがデボーションで頂く「神様のみことば」のことを暗示しているのかなと思うんです。
 「かめの粉」と「つぼの油」は、最初、一握りのほんの一日分しかありませんでした。その後も、「かめ」と「つぼ」の中にはやっぱり、「一握りの粉」と「ほんの少しの油」だけしかなかったんじゃないかと思うんです。つまり、「かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった」とは、「粉と油が、かめとつぼの中からどんどん湧いて来て、家中に溢れ出た」ということではなかったと思うんです。
 けれどもこの奇跡は、「粉と油」が、毎日使った分だけ、必ずいつも過不足なく供給されていたということです。言い替えるなら、その日その日に必要な分だけは、使えど使えど与えられて来た、ということです。だから、人によると、心細いかもしれません。「今日の分は確かに与えられた。でも、かめとつぼの中にはこれっぽっちしかない。なのに、明日も本当に与えられるのか?」と。でも神様は確かに、「その日その日の分だけは、使えど使えど与えられる」というようにして、この家族を養い続けて下さいました。
 
 「神様のみことば」もそうです。最初から、「これが、あなたの一生分のみことばです」と、一度にドサッと与えられるわけではないんですね。もちろん神様は、将来のためにも「みことば」を与えて下さいますし、今年一年、今週一週間分の「みことば」も与えて下さいます。
 けれども、基本的には、私たちが人生を安らかに暮して行くために、その日その日に必要な、人生の一歩一歩に十分な「みことば」を、過不足なく与えて下さっているんですね。エリヤもそうでした。最初に「ケリテ川に行け」との「みことば」を貰った時、その後のことは分かりませんでした。けれども神様は、時が来たら、「シドンのツァレファテに行け」と、次の一歩の「みことば」も、しっかりと与えて下さったんです。
 私たちもそうです。これから先、どうなって行くのか全然分かりません。けれども私たちは、「たとえ自分は分からなくても、神様は次の一歩を教えて下さる。今日一日を神様は、『みことば』をもって生かして下さる」と信頼しながら、神様に聞いて行くんです。「神様のいのち」とは、そのように与えられて来るものなんです。


結論 
 最後に、覚えておきたいことがあります。もし「かめの粉」と「つぼの油」を、何も使わなかったとしたら、たぶん、減りもしない代わりに、新しく与えられて来ることもなかった・・・ということです。「かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった」という恵みを体験したければ、粉と油を使わないといけません。
 「いのちのみことば」が日毎に与えられて生かされるという恵みを味わいたいのなら、聖書を開いて「神様のみことば」をどんどん味わわないといけません。そうでないと、あなたの聖書から与えられて来るはずの「いのち」は、事実上、供給がストップされたままになってしいます。
 願わくは、そうならないためにも、「毎日聖書に向き合うデボーション」の習慣を、皆で励まし合って行こうではありませんか。そして、「いのちのことばに生かされる」恵みがどういうものであるのか、さらに新しく発見させていただく歩みを、ぜひ皆さんで、分かち合わせていただきたいと思います。
by sagaech | 2011-06-08 12:35 | 礼拝メッセージ