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「魂の防災」

   日曜日の礼拝で牧師がお話した聖書のメッセージです。
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   「魂の防災」   2012.9.30
   マタイの福音書18章4‐10節



1 「私たちの魂を守るための防災」
 9月の最初は「防災の日」で、全国で防災訓練がありますが、昨年の震災もあって、熱が入るようです。消火訓練だけでなく、屋外でのご飯などの炊き出し訓練もあったりします。 
 そのような防災は、「私たちの体や命をいかにして地震や津波などの災害から守るか」という営みですが、「魂を守る防災」があるのをご存じでしょうか?それは、「体や命だけじゃなく、私たちの魂を、人生に降りかかる様々な災いの中で滅びないように守る」という防災です。それは、聖書の中で、神様が私たちに呼び掛けておられる防災なんです。
 その場合、私たちの魂に甚大な被害を及ぼす災害は、自然災害だけではありません。そういう災害がなくても、「私たちの魂を危機的状況に追いやる災い」は、いつでも起こり得ます。それを今日の所でイエス様は、「つまずき」と表現なさいました。

 7節 「つまずきを与えるこの世はわざわいだ。つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ。」
 この「つまずき」ということばは、「動物などを捕まえる時の罠」を意味することばです。「つまずかせる」とは、「罠に足を取られて、よろめき倒れさせる」イメージです。私たちの魂を罠にはめて、滅びに向かって倒れさせること。私たちが神様を信じて、神様の許で救われて生きようとするのを妨害することです。それは、大震災の津波や放射能にも劣らぬくらい深刻な災害ではないでしょうか・・・?
 そういう「深刻な魂の災害」から私たちを守るために、イエス様は物凄く強烈な警報を発しておられます。「魂の致命的な災い」をなんとか回避させようと、非常に極端な誇張表現も用いて、ショック療法的に、私たちを「つまずき」から救い出そうとしておられるんです。だから、今日の所には、非常にドギツイことばも敢えて語られています。「うわ!イエス様は、なんてことをおっしゃるの?聖書はこんな酷いことを言ってんのか・・・」と、ビックリしたんじゃないでしょうか?
 
 6節「大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。」
 8節「あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。」
 9節「もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。」  もし、これらのきつい話にばかり注目していたら、神様を誤解しちゃうと思います。「神様は、とても残虐な方だ」と。でも実は、これらは誇張表現です。私たちが文字通りそんなことをするために言われたのではなく、私たちの心の中を鋭く刺すことが目的なんです。 
 「つまずく、つまずかせる」ことが、こんなに酷くて恐ろしい災いなんだと、私たちがショックを受けることが、イエス様の狙いです。喩えるなら、私たちの覆いの掛かった心をパッと目覚めさせるための、ドギツイ防災サイレン、防災ブザーを鳴らして下さっているということです。
 あの大震災の日、各所で一斉に鳴り響いた異様な音。それは、緊急地震速報を携帯電話で知らせる警告のブザーでした。非常に耳触りの悪い音、眠っていても目を覚ますんじゃないかと思うような音、これ以上聞きたくないと思うようなドギツイ音です。
 イエス様のここでのドギツイことばは、ちょうどそのように、私たちの魂を目覚めさせるための「魂の防災ブザー」なんです。そのことをよく理解して読み、「怖い、ひどい!」という思いに捕らわれないようにしたいと思います。それは、イエス様が一番おっしゃりたい事そのものではなく、そこに注意を向けるためのブザーです。それを弁えて、イエス様が本当に伝えようとされているメッセージを聞きましょう。


2 人につまずきを与えないこと
 それでは、イエス様が教えたいと思っていたことは何でしょうか。まず一つ目は、「人につまずきを与えてはいけない」ということです。特に、「イエス様を信じる小さい者を、ひとりでもつまずかせる」ことを厳しく戒められました。
 6節 「しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。」
 「わたしを信じるこの小さい者たちのひとり」とは? 今日の話の前に、イエス様が弟子たちの前に小さな子どもを連れて来て、「この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です」と教えられた話があります。子どもは当時、全く取るに足りない弱くてちっぽけな存在だと思われていました。 
 だから、「わたしを信じるこの小さい者たちのひとり」とは、「自分は子どものように取るに足りない弱くちっぽけな者だ」と自覚し、低く謙って、イエス様に信じて頼って行こうとしている人です。
 もし、そういう人に、イエス様への誤解や不信を抱かせ、あるいはイエス様の嫌いな罪を犯させて、イエス様を信じて頼ることを邪魔して止めさせる・・・なんてことをするなら、それこそ「つまずきを与える」ことです。

 先週もお話ししましたが、アフリカのウガンダやスーダンで非常に残忍な仕業をしているLRAと呼ばれる反政府組織があります。村々を略奪し、残忍な方法で人々を拷問し、殺戮を繰り返しています。それで、人権団体から厳しく非難されていますが、特に酷いのは、子どもたちをさらって行くことです。弱くて抵抗できない子どもたちをさらっては、無理やり人殺しをさせ、新たなテロリストにするんです。従わない子どもは、他の子どもに殺させて、十代そこそこの子どもたちを、「殺人マシーン」に仕立て上げるんです。
 その組織にさらわれて、なんとか脱出したある少女の証言です。
 「基地に連れて行かれたら、そこの隊長の妻にされた。妻でもあって、召使いでもあったわ。その隊長は、捕まえた人を、私たちに殺させたの。全部で何人殺したのか思い出せないわ。ある日は4人、他の日には3人っていう感じだった。殺す人を後ろ手に縛って、それから足も縛って、うつぶせにして、そして、一本の木を渡されて、『頭を殴れ!』って言われるの・・・。」
 この子たちは元々、家族で教会に行ってたクリスチャンの子どもたちなんです。その「神様の子ども」を、弱くて抵抗できないことをいいことに「悪魔の子ども」にしようとしてるんですね。まさに、「わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与える」ことの典型じゃないでしょうか。
 
 これは非常に極端なケースですが、これよりずっと平和で穏やかなことであっても、もし誰かが、「わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与える」ことをしたなら、イエス様はおっしゃいます。「そういう者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。」
 恐ろしくゾッとすることです。でも「なんて酷いことを!」と言う前に、「神様が愛しておられる小さい者のひとりでもつまずかせることは、そういうことに値するほど酷いことなんだ」と、肝に銘じるべきなんだと思います。
 もちろんイエス様は、私たちの首に石臼をかけたいわけではないし、実際かけたりしないでしょう。これも、イエス様特有の誇張表現で、私たちの心を目覚めさせるためのドギツイ防災ブザーです。イエス様は、「神様が愛しておられる小さい者をひとりでもつまずかせちゃいけません!」と、身震いするくらいに自覚して欲しいんです。 
 

3 自分自身をも、つまずかせないこと
 二つ目にイエス様は、「他人だけじゃなく、自分自身をも、つまずかせてはいけません」と仰せられました。
 8‐9節 「もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」 「また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちに入るほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」
 ある人は、こう思うかもしれません。「片手や片足、片目でもいいなんて…、それも『切って捨てろ』だなんて、よくも言えたものだ!イエス様は俺のことはどうでもいいと思ってるんじゃないか。」
 決して、そんなことはありません。たとえば、津波が来ている時、体一つで逃げるより、家に残して来た物が気になって、戻ってしまったとしたら…。「そんなの捨てて来い!それを取りに行って津波に飲まれたらどうするんだ!私はあなたに助かって欲しいんだ!」と言うことは、その人をどうでもいいと思っていることでしょうか?その人を心から愛して心配していることではないでしょうか・・・?
 イエス様のおことばもそうです。「片手、片足、片目」とは、私たちがこの世の人生で大事に思い、これがないとどうしようもないと思っているもの、私たちの心を神様から背かせて、自分自身を災いや滅びに追いやってしまうもの、そうやって自分自身を「つまずかせて」しまっているものの象徴なんです。

 沖縄で、薬物依存になった青少年たちの更正施設で働く山城さんというクリスチャンの方がおられます。この方は以前、15歳から13年間も麻薬漬けになっていたのですが、そのどん底から、教会に行ってイエス様を信じたことによって救い出された方です。
 ですが、そうなるまでには長い闘いがあったといいます。山城さんは、麻薬を買うために強盗も働いて、刑務所に2回入ったことがあるといいますが、そんな彼を、教会の方々はとても温かく迎えてくれたそうです。
 それで山城さんは、「こんな自分も相手にしてくれる人たちがいる」ってことが嬉しくて、欠かさず礼拝に行くようになったそうです。それでも、一日たりとも麻薬なしでは暮らせなかったというんです。そしてなんと、教会の方の財布からお金を抜き取って、麻薬を買いに行くこともしばしばだったというんですね。
 そんな彼を、それでも教会の方々は忍耐強く祈ってくれたそうです。彼にとっては、「麻薬」が「片手、片足、片目」だったんですね。「俺には何よりこれが大事!これがないと生きて行けない」というもの…。でもそれは明らかに「彼の人生を滅ぼし尽くして、つまずかせてしまうもの」だったんです。
 イエス様は、厳しく聞こえるかもしれませんが、「それを、あなたの人生から切って捨てなさい!」と仰せられます。「そうじゃないと、あなた自身が滅びてしまう。わたしは、あなたに助かって欲しいんだ!」と叫んでいらっしゃるんです。 


結論    
 最後に覚えたいことがあります。それは、私たちが、イエス様のせっかくの警告・忠告にも拘らず、やっぱり誰かをつまずかせ、やっぱり自分自身をもつまずかせちゃったとしても、イエス様は、そういう中からも、私たちを救い出すことができ、立ち直らせて下さるということです。
 事実イエス様は、ご自分の弟子たちに対しても、そうして下さいました。イエス様が十字架につけられた時、恐れと失望で「つまずいて」、イエス様を見捨てて逃げてしまった弟子たち。イエス様を三度も知らないと言って裏切ったペテロの「つまずき」も、イエス様は憐み深く赦して下さいました。そして、もう一度、イエス様に従って行く人生に立ち直らせて下さったんです。
 何よりイエス様は、たとえ何度私たちが「つまずいたり、つまずかせちゃったり」しても、何度でも赦されて立ち直ることができるためにこそ、あの十字架に架かって下さったんです。あの十字架で、イエス様は、私たちの「人をつまずかせた罪」も「自分自身をつまずかせた罪」も、私たちに代わって一切背負い尽くして下さったんです。 
 そんなイエス様を信じて受け入れた人は、いくらでも「つまずきという災害」の中から救出されるんです。あの山城さんもそうでした。そして、アフリカで子どもたちをさらって行ったテロリストたちだって、そうなんです。

 だからと言って、「それなら、いくらでもつまずいてもいいし、つまずかせてもいい」ってことには絶対になりません。なぜなら、「自分自身がつまずく」ことも、「他の誰かをつまずかせる」ことも、私たちにとって非常に辛く苦しいことで、心に非常に大きな痛みを負うことだからです。それをご覧になる神様も、私たち以上に辛く悲しい思いをされるからです。
 だからこそ、イエス様は今も、「他の人をも、自分自身をもつまずかせてはいけません」と、ドギツイ防災ブザーを鳴らし続けて下さってるんですね。
 願わくは、そのことをしっかり心に留めて、「嫌な顔をして」ではなく、「感謝の心」をもって、イエス様の警告に耳を傾けたいと思います。そうして私たちも、「魂の防災」のために、万全の備えをして行くことができますように、神様のお助けをお祈りしたいと思います。 


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by sagaech | 2012-09-30 21:15 | 礼拝メッセージ

芋煮会をしました(9月のチェリーキッズ)

   チェリーキッズは、毎月1回土曜日の朝に行っている子ども会です。
   詳しくはこちらをご覧ください。



こんにちは、チェリーキッズです。
9月最後の土曜日、芋煮会をしました。
初めて来てくれた3人のお友だち。ようこそ!
福島県から避難しているご家族たちです。

礼拝のお話は、「子どもを愛するイエス様」。
イエス様のところに来た子供たち。
一番小さなお友だちも、
とても真剣にお話を聞いてくれました。

クラスでは、聖書にふれてみました。
けっこう重いね。ページがいっぱい。
ほら、ページ番号がついているよ。
開いて、読んでみようか。

初めての暗誦聖句にも挑戦。
ドキドキ・・・みんな言えた!
マイカードにシールを貼って
やった!できたね!

いよいよ、芋煮タイムです。
外の駐車場へ行くと、
朝にいっしょに準備した材料が、
おいしい芋煮になっていました。
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さあ、いっしょに食べよう。
お祈りしてからね。
牛肉とお醤油で、山形の味だよ。
里芋も、おいしいでしょ。
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ちょっと暑さが戻ったこの日。
暑くたって、虫がいたって、
やっぱり、外で遊べるのは嬉しいね。
夏のなごり、セミのぬけがらとか、
ほら、カマキリだって見つけちゃうしね。
2両だけのJRが、
目の前を走っていったよ。







「子どもたちをわたしのところに来させなさい。
止めてはいけません。
神の国は、このような者たちのものです。」
マルコ10:14









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by sagaech | 2012-09-29 17:22 | チェリーキッズ(子ども会)

「この小さい者のひとりでも」

   日曜日の礼拝で牧師がお話した聖書のメッセージです。
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 「この小さい者のひとりでも」    2012.9.23
   マタイの福音書18章10‐14節



 私は、「柿の種」が大好きで、コーヒーのお供に食べていますが、よく買う亀田製菓の袋の裏に、ちょっと面白い漫画があるんです。「けなげ組」という名付けられたイラストとコメントです。世の中で自分の役目や働きを「けなげ」に果たしているのに、注目されることも、大事に思われることもない、むしろ、どうでもいいみたいに思われているものを、身の周りのいろんな所から紹介しているんです。
 たとえば、「けなげ組」会員番号21「時計の秒針」。「ボクは働き者。だって一時間に60回も文字盤の上を回るんだ。合計3600秒分!!ところが短針の奴は、たったの5秒分しか動かない。ボクの方が720倍も頑張っているのに、注目されるのは精々カップラーメンを作る時くらいなんだ・・・。」 会員番号23番「三文判」は…。「何ちゅうバカにしたネーミングじゃ!宅配便や書留の受け取りにと、ハンコの中じゃ一番忙しく働いとるのに!! 実印の奴なんか、注目されるのは登記の時くらいじゃねえか!」
 こういうのが100種類くらいあって、私は笑いながら食べています。これらは、「世の中で、非常に取るに足りない、ほとんど何の価値もない」と思われている物の寄せ集めです。今日の聖書のことばで言うなら、イエス様が「この小さい者たちのひとり」とおっしゃったものに当たるかなあ・・・と思うんです。

 でも、それが「人間」の話ならどうでしょう?「どこかの誰か」、あるいは、自分自身だったら、さすがに笑えない、と思いませんか?一生懸命「けなげ」に頑張っている。でも、いつも日陰の人生で、人から評価されることもないし、スポットライトを浴びるなんて一度もない。逆に、人生どこかで迷ってしまい、忘れられ、寂しく世の中から消えて行く・・・。「それは自分のことだ。」そういう場合はもはや、笑っている場合じゃないですね。でも残念ながら、そういう方が現実だったりするんじゃないでしょうか・・・?
 けれどもイエス様は、そんな私たちのために、特別にメッセージをお語り下さいました。「この世で小さい者のひとりに数えられちゃう私たち」が、神様からの慰めに与って、天よりの励ましを頂いて生きて行けるようになるためのメッセージを。


1 「小さい者」には、神様にとりなす御使いがいる
 まずイエス様は、「神様の価値観、神様の考え方」を教えて下さいました。「あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。」(10節)
 世の中では、口ではいいことを言っても、腹の中では、弱く小さい者を見下げていることが、普通になされていたりします。
 私が小学生の時、友達が作文で表彰されましたが、それはこんな内容でした。「いつもの学校への通学路、ある人が、街角に立ってタスキをかけて、マイクを手にして選挙運動の真っ最中でした。その前を通り過ぎようとしたら、たまたまその人とぶつかって転んでしまいました。だけどその人は、『ごめんなさい』のことば一つなく、何もなかったみたいに素知らぬ顔をしてマイクで演説していました。」
 つまり、「『どうせ相手は小さい子どもだから』と見下しているんじゃないか!」と訴えている作文だったんです。この作文のおかげでこの人が落選したかどうかは分かりません。でももし、人からどう見られているかを少しでも考えたら、もうちょっと賢く振る舞ったんじゃないかと思います。
 ですがイエス様は、「人からどう見られるか」を問題にして、言われたのではないんです。そうじゃなく、「天の神様の絶対的な価値観、考え方」として、「この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい」とおっしゃられたんです。

 イエス様は続けて仰せられました。「まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。」
 「天におられる父の御顔をいつも見ている」とは、天の父なる神様に絶えず執り成しをしているということです。つまり、「小さい者」は、味方も弁護人もいないように見えるけど、実はそうではない、むしろ、「小さい者」のためには、神様は、御使いたちを付きっ切りで侍らせて、執り成し助けるようにさせているのだというんですね。
 聖書では、「御使い、天使」は、人間に仕える存在だと教えています。ですが、地上の全ての人に、必ず御使いが守護霊みたいにくっ付いているとは言っていないんですね。では、重要人物だと思われている人には、御使いが四六時中ついてるんでしょうか?そうも言われていません。
 ところが、「小さい者」のためには、絶えず御使いが付いている。そして、天の神様に彼らのことを執り成していると、イエス様は教えられたんです。それ程までに天の神様は、「小さい者たち」のことを心配されて、とても大切な存在だと思っていらっしゃる、ということなんですね。
 それなら私たちは、この世で「あいつは小さい取るに足りない奴だ」と見なされていても、失望する必要はなく、むしろ、そう思われてることは幸いなんです。そういう人には神様の特別な顧みがあるからです。


2 「小さい者」の一人をも、捜して救う羊飼い
 12-13節でイエス様は、有名な「迷子の羊の話」をされました。
 「あなたはどう思いますか? もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。 そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。」
 世の中では、「沢山のもの」や、「より大きい者」を大事にしようと考えやすいものです。すると、「どうして九十九匹を残して行くの?そっちに万が一のことでもあったらどうする?九十九匹と、迷子になった一匹を、天秤に掛けたらどっちが重いと思ってんだ?」という意見が出ます。
 「迷子になる」ということは、もともと弱さがあるということです。迷子の一匹は、百匹の中ではおそらく「最も弱くて小さい者」だったんです。「そりゃもちろん、そういう小さい者だって大事だよ。でもそれは、皆に迷惑が掛からない範囲の話だ。もし小さい者に構って、もっと沢山の大きな者をなおざりにしたら、それは果たして良いことなのか?いや、道理に合わんだろう!」これが、「人間の考える善」です。それは結局、「弱くて小さい者たち」に犠牲を無理強いしちゃうんですね。

 けれども、神様の考え方は、全く違います。「昔の羊飼い」は、迷いなく九十九匹を山に残して迷子の一匹を捜しに行ったといいます。それは、迷わなかった九十九匹は「強い者」だから、残していっても大丈夫・・・と信頼していたからだそうです。それより今、「迷子になっていて、黙っていると狼などの餌食になっちゃう弱くて小さい一匹の羊がいる」、そう思ったら、羊飼いは何の躊躇もなく、その一匹を捜しに行くそうです。神様もそうなんです。
 神様は、「最も弱く小さい一匹」だからこそ、格別に憐れんで大切になさる。たった一人で呻き苦しんでいるからこそ、殊更に心配なさって顧みられるんです。神様は、「小さい者」のためには、そうせずにはおられない方なんです。

 今年の春、ちょっと変わった映画が公開されました。『マシンガン・プリィーチャー』という映画で、「マシンガンを持って戦っている牧師」の話です。「そんな牧師がいるの?」と思うかもしれませんが、実はこの映画、現在アフリカのスーダンで活躍しているサム・チルダーズという牧師の実話なんです。「その牧師、マシンガンなんか持って、何やってるの?」と言いますと、彼は、そうやって現地の子どもたちを、テロリストたちの攻撃から守っているんです。
 実は彼は、元々アメリカのギャングで、以前は麻薬の密売など、散々悪いことを平気でやっていたんです。それがある日、奥さんがクリスチャンになり、奥さんの祈りによって彼自身も悔い改めて、神様を信じてクリスチャンになったんです。
 その後、仕事でアフリカに行った時、彼の人生を変えた決定的な事件に遭遇しました。アフリカのウガンダやスーダンで、非常に残忍なことをして恐れられているLRA、「神の抵抗軍」というテロリストグループがあるんですが、彼らが、地元の人たちに極悪非道の仕業をしているのを目の当たりにしたんです。
 村々を襲撃しては略奪し、人を殺し、耳や鼻や唇を切り取っては拷問をする。特に、子どもたちをさらって行きます。なぜ、「弱くて小さい者たち」をわざわざ狙うのかというと、自分たちの命令に従うテロリストに養成するためです。弱くて抵抗できない子どもたちに無理やり人殺しをさせて「殺人マシーン」に仕立て上げる。従わない子は、他の子どもたちに殺させる。女の子たちは、こき使われて、性的虐待の道具にさせられます。
 そんなことがなされているのに、現地の人たちには止める力がなく、ただ彼らが襲って来るのを怯えている…。そんなあまりに悲惨な現実を知った彼は、心の中に燃える思いを感じたんですね。「子どもたちを救え!どれだけの犠牲を払おうとも!!」
 彼は、奥さんと共にスーダンに移り住み、子どもたちを守るための孤児院を建てて、何百人もの子どもたちを守り養っているんです。でも、そこにもテロリストたちが襲って来て、子どもたちをさらって行こうとする。それで彼は、自らマシンガンを手にして、体を張って「弱くて小さい子どもたち」を守っているんです。
まあ、「牧師がマシンガンを放つってことは、いかがなものか?」という批判は当然あります。ですが、彼は言うんです。「私は決して暴力を容認しているわけじゃない。私は暴力を信じているわけじゃない。だけど、同時に私は、『弱くて小さな子どもたち』が、虐待されたり、殺されたり、鼻や耳を切り取られたりしてもいいものだとも信じていないんだ。」
 私は、マシンガンはともかく、このサム・チルダーズさんの中に、イエス様がおっしゃった「羊飼い」の姿を見る思いがしました。一匹の迷子になった「弱くて小さな羊」を、「どうでもいい」と放って置くことの決してできない「羊飼い」の姿です。
 「弱くて小さい者」を見たら、それがたった一人でも、決して黙って見ていることのできない「羊飼い」の姿、それは取りも直さず「神様ご自身」の姿に他なりません。なぜなら、14節でイエス様がこうおっしゃっているからです。「このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。」
 もちろん、彼のような人は、どこにでもいるわけじゃありません。でも、神様はどこにでもいらっしゃいます。「弱くて小さい者」である私たちのことは、神様が、いつでも、熱心な愛をもって、天より見守って下さっています。なんと大きな慰め、大きな励ましでしょうか。


3 あなたにとっての「小さい者のひとり」とは・・・?
 今日の話は、私たち自身が「弱くて小さい者のひとりだ」と思って聞くには、嬉しく有り難い話です。でも、「弱くて小さい者」は、私たちだけではないですね。むしろ、私たち以上に「弱くて小さい者」の立場におられる方が、世の中にも、教会にも、たくさんいらっしゃるんじゃないでしょうか? 
 「小さな子どもたち」だけではなく、「お年寄りの方」も、「病気や障害を抱えている方」も、そうかもしれません。「健康そうな大人の人」だって、「弱くて小さい者のひとり」に数えられる場合があるかもしれません。
 そういう方々に、果たして私たちは、どんなふうに接して、どんなふうに向き合って、どんなふうにお交わりをしているんでしょうか?私たちは、自分自身が「見下げられる」ことについては非常に敏感です。でも反対に自分が「弱くて小さい誰か」を見下げていることについては、かなり鈍感なんじゃないかと思います。
 ちょうど、先程の友だちの作文に出て来た「選挙の候補者」みたいに、思わぬ時に、ふとした振る舞いから、「弱くて小さい人のことを平気で見下している」ことがバレます。でも自分自身では、そんなことをしているという意識すらなかったりする。そんなことが、私たちにもあるんじゃないでしょうか・・・?
 イエス様がわざわざ私たちに、「あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい」と警告なさった意味を、よく考えたいと思います。私たちは、「見下げる」ことと反対のことをして行かないといけないんじゃないでしょうか。それは、迷子の一匹の羊を、「どうでもいい」とは思わず、「決して滅びちゃいけない」と捜しに行った羊飼いのように、「小さい者のひとり」に向き合うことです。
 なぜなら、イエス様も、私たちのためにそうして下さったからです。イエス様は、「神様の許から迷い出て、滅びるばかりになっていた私たち」、「弱くて、ちっぽけで、『あいつ一人なんかどうでもいいよ』と思われてもしょうがなかったような、『この世界で最も小さい者のひとり』だった私たち」のことを、諦めないで捜し出し下さいました。そして、そんな私たちを「決して滅びちゃならない」と愛して下さったゆえに、十字架に架かって下さったんです。
 そのことを知ったら、どうして私たち自身がイエス様からしていただいたのと同じことを、他の「小さい者のひとり」のためにもしてあげないでいられるでしょうか・・・?


結論    
 アメリカのスラム街で、自らスクールバスを運転し、街を放浪しているストリートチルドレンを見つけては、バスに乗せて教会に連れて行っているビル・ウィルソンという牧師がおられます。
 この方は、子どもたちを教会に連れて行っては、聖書と神様の愛を伝えて、子どもたちに「神様から愛されている」ことを体験させてあげているんですね。なぜそういうことをしているのか・・・?それは、この方自身が、子どもの時にある人からそうしてもらって、人生を救われたからです。彼は、13歳の時、母親に「ここで待っていなさい」と言われて町はずれの配水管の上に座らされ、そのまま置いてきぼりにされて、孤児になったんです。
 ところが、そんなビル少年を見かねたあるクリスチャンが、彼に思い切って声をかけ、教会に連れて行ったんです。そのおかげでこの方は、教会の皆から愛され支えられて、希望をもって大人になって行くことが出来ました。だから今、自分がしてもらったと同じことを、かつての自分のような「弱くて小さい者たち」のために、一生懸命してあげているんですね。
 彼は言います。「私がバスを運転しながら乗せているのは、誰だか分かりますか? それは私自身です。あのクリスチャンの男性が私にしてくれたように、私も子どもたちを救いたい! ただそれだけの思いでバスを運転しているんです。」

 願わくは、私たちもそんなふうに、神様のために、この世の中の、教会の中の「小さい者のひとり」のために、仕えさせていただきたい。そのために、私たちの周りにおられる「小さい者のひとり」である方に、いつも敏感に思い遣って配慮する心、神様のお心を、もっと豊かに持たせていただく者とならせていただきたいと思います。


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by sagaech | 2012-09-28 18:48 | 礼拝メッセージ

敬老愛餐会を楽しみました

9月16日(日)。毎年恒例の
秋の敬老愛餐会を行いました。
秋、と言っても、
まだまだ真夏のようでしたが…

女性たちの良き協力のもと、
今年も、手作りお弁当ができました。
まあ一部、「近くて便利」な物も
利用しましたけど。
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讃美と、お食事と、お交わりと。
恒例のマジックタイムは、
今年は、ほんわか親子マジックと、
ベテラン大人マジックでした。
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お祝いのカードとプレゼントは、
寒河江のぶどう園の写真とみことば。
そして復興支援を兼ねて、大船渡市の
「かもめの玉子」の紅白と黄金を。
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体調が難しくなっている方々も増え、
やっと出席できた方々や、
当日になって欠席になった方も。
毎年恒例でも、毎年違います。
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頑張ろう、東北。
頑張ろう、みんな。
がんば…らなくても、いいっけね。
みんなで、仲良くすごしていられれば。

みんなの心が、信仰が、
元気でいられるように。
神様の教会の家族として
ひとつひとつ、大事にすごしましょう。


神よ。あなたは、私の若いころから、
私を教えてくださいました。
私は今もなお、
あなたの奇しいわざを告げ知らせています。
詩篇71:17

by sagaech | 2012-09-19 11:03 | 神の家族たち

「老いるほどに新しく」

   日曜日の礼拝で牧師がお話した聖書のメッセージです。
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敬老会説教           2012.9.16
    「老いるほどに新しく」
   詩篇71篇4‐9、15‐18節  Ⅱコリント4章16節


 昨年の秋、養子縁組によって私の養父となった叔父が、75歳で天に召されました。今の日本で75 歳と言えば、まだまだ若いと思います。でも、元々体が弱くて病気がちだった叔父は、召された時は年齢以上に老いた感じでした。肝炎がある上に癌を患って、一年間でガダガダと弱って行きました。
 昨年5月に会った時は車椅子になっていましたが、まだしっかり食事もして、普通に会話もできました。それで、「最後のチャンスかも」と思って、皆で車で出かけたりしたんです。
 でも夏を過ぎると、ほとんど寝たきりになり、食も細くなって、ことばもなかなか出せなくなりました。そして、年齢的にもこれ以上の治療は難しいということで、自宅に介護ベッドを入れて、最期の時を過ごすことにしたんです。 
 それを私の養母である叔母が、付きっ切りで世話しました。食事、トイレ、薬を飲むこと、何から何まで介助が必要でしたから、小さな叔母には体にこたえたようです。最新式の電動ベッドといっても、自由が利かない叔父の体をちょっと摺り上げたり、向きを変えたりするだけで重労働です。
 私たちは、遠く山形にいて、何の助けもしてやれずに心苦しかったのですが・・・、そんなふうに年老いて、病を抱えて、どんどん弱って行く叔父の姿を見ていたら、「老いることは、本当に大変なことだ・・・」と、つくづく思いました。
 父の時もそう思いましたが、でも父の場合は、弱ったと言っても最期まで、独りでお風呂に入れました。でも叔父は、「毎日生きる、生活する」こと自体が一苦労で、まさに、「老いるという生々しい現実」を突き付けられている感じでした。
 そんなふうに、私たちは悲しいことに、人生のピークを過ぎたら、あとは、どんどん衰える…という厳しい現実を背負って生きる者です。それが人間です。だとしたら、「年を取る」ことは、虚しくはかないことで、ただただ否定的で、消極的な意味しかないのでしょうか・・・?


1 老いてなお、新しく成熟させられるものがある
 聖書は、「いや、そうじゃない」と教えています。第二コリント4章16節「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」
 聖書はなんと、こう教えているんです。「私たちは、たとえ年をとって衰えても、むしろ新しくされて行き、老いるほどに、逆に活き活きとされて行くことを期待できるんです」と。
 「私たちの外なる人」とは、私たちの外側の部分、肉体的な領域を言います。それが衰えて弱くなることが、「外なる人が衰える」こと。それが最も顕著に表れるのは、年老いた時です。
 でも、老いていくと、内側も衰えるんじゃないですか?気力や知力や精神力という「心や頭の方面」だって、体と一緒に衰えるんじゃないでしょうか?年をとると覇気が無くなり、ボケたりします。だから、やっぱり、「心や頭や精神」といった領域だって衰えて来るんです。
 それでも、聖書はなおも言います。「内なる人は日々新たにされています。」いったい、どういう意味でしょう?何のことについて言っているんでしょうか?

 それは単なる「心や頭や精神」を超えたもののことを言っているんです。つまり、私たちの内側の最も奥深い所にある「霊」、「魂」と言われるものです。そういうものは、たとえ「外なる人」がどんどん衰えても、反比例するかのように、「年をとるほど新しくなり、老いるほどに活き活きしていく」ことが期待できるものなんです。
 「新たにされる」ということばは、「新しくされたその上に、よりいっそう新しくされて行く」というニュアンスです。つまり、「成長、成熟する」ことを意味しているんです。
 何よりも、「内なる人」が意味する「霊」「魂」というのは、いわば、私たち自身の存在の根本、一番重要な核となる部分です。その部分は、たとえ年老いて、体は衰え果てたとしても、むしろ日々新しくされて行く、成長、成熟して行くことが期待できるんだと、聖書は教えているんです。
 それは、「老い」と共にあらゆる事が下り坂になるような私たちにとって、非常に大きな励ましじゃないでしょうか?非常に大きな希望が教えられているんじゃないでしょうか・・・?


2 「内なる人が新たにされる」具体的な姿とは・・・?
 では、「内なる人が日々新たにされて行く」ということは、具体的には、どういうふうになることなんでしょうか?外側はどんどん衰えて行っても、魂は、なおも新しくされて行き、成長、成熟までさせられる…とは、いったいどんなふうになることを意味しているんでしょうか・・・? 
 今日の詩篇71篇。これは、ダビデという昔の王様が、神様に自分の心の思いを打ち明けている祈りですが、この時ダビデは、もはや若者ではありませんでした。人生の晩年を迎え、「年老いて、老人となってしまったゆえに味わわされている辛くて苦しい現実」を、神様に赤裸々に申し上げているんです。
 何があったのか、詳しい事は分かりません。ですが、ダビデは言います。
  「年老いた時も、私を見放さないでください。
  私の力の衰え果てたとき、私を見捨てないでください。
  私の敵が私のことを話し合い、私のいのちをつけねらう者どもが
  共にたくらんでいるからです。」
 老いてヨロヨロしたダビデは、「敵」と呼んでいる相手にいのちを狙われ、切羽詰まった状態です。おそらくこれは、彼が老年になった時、実の息子アブシャロムが謀反を起こして攻めて来たため、命からがら都を追われ、今にも討ち滅ぼされそうになった・・・という事件が背景になっていると思います。
 若くて勢いがあった頃は、決してそういうことは起きませんでした。でも、年を取って衰えが出て来ると、「神は彼を見捨てたのだ」と見くびられ、大勢の人が「ダビデももうお仕舞だ」と、手の平を返すように離れて行きました。それもまた、「老い」がもたらす苦しみだと思います。
 そんな中、ダビデは神様に向かって切々と、自分の心の呻きを絞り出すようにして、祈り申し上げています。

 けれども、この詩をよく見ると、結局ダビデは、そういうふうにする中で、だんだん励まされているんですね。撓えた心が、いつしか力づけられ、勇気づけられて行ってるんです。たとえば14‐15節。
 「しかし、私自身は絶えずあなたを待ち望み、いよいよ切に、あなたを賛美しましょう。私の口一日中、あなたの義と、あなたの救いを語り告げましょう。・・・」
 「目に見える世界はまことに厳しい現実ばかりだが、それでも私は、あなたの許には救いがあると信じて、ひたすらあなたを賛美して待ち望みます」と、前向きな姿になっています。
 また17節では、「神よ。あなたは、私の若いころから、私を教えてくださいました」と言いつつ、神様が、若い頃からずっと変わりなく、真実を尽くし続けて下さったことを思い返しています。そして18節で、再び語ります。
 「年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。
私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます。」
もはや、ダビデの心は、不安や恐れに駆られてはいません。それよりも、安らかな平安に満たされているんです。
 「神様は、私が年老いて、しらがになったとしても、決して私のことをお見捨てになったりはしない!そういう神様の真実を、私は後の世代の人たちにも告げ知らせます!」と、積極的な希望を告白しています。

 ダビデは老人になって、「外なる人」は衰えていたはずです。そのせいで、「目に見える世界」はどんどん望みのない状態になり、心もすっかり萎えていたはず…。ところが、彼の「内なる人」は、どういうわけか再び活き活きと輝き出しているんです! 
 それは、彼の「魂」が、神様の許で「新しい、より大きな希望」を見出し、「今までよりも、いっそう深みのある心の平安」を新発見していたからです。それこそが、聖書の言う「外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」ということの具体的な姿なんです。


3 どうしたら、「内なる人」が新たにされるのか?
 いったいどうしたらそんなふうになれるんでしょうか?年を取ったら、誰でも自動的になれるんでしょうか?いいえ、そうではないですね。人は、年を取っても必ずしも「内なる人」が新たにされるとは限りません。事実、聖書にも、「外なる人」が衰えたら、「内なる人」も衰えました・・・という人の話が出て来ます。
 では、「外なる人」が衰えても「内なる人」は新しくなるという鍵は、何でしょうか?「体」は衰えても、「魂」はまだまだ新しく成長させられて行く秘訣とは・・・?
 それは何よりも、私たちが神様と向き合って、神様ご自身と親しく対話し、神様ご自身と親しくお交わりをする営みを重ねて行くことに尽きます。 ダビデもそうでした。彼がなぜ、「内なる人」が新しくされたのか?それは、自分のことを生まれた時から支えて下さっている神様と、親しく語り合う交わりをしていたから、しかも、それを常日頃の習慣としていたからじゃないでしょうか?
 神様は、人間を超えた霊的な存在です。この天地のあらゆる「霊」や「魂」と言われるものの生みの親、創り主です。だから、そういう神様と親しく繋がってお交わりをして行くなら、私たち自身の「魂」も、神様の天来の息吹によって、活き活きと刷新されて行くんです。
 それは、私たちの体が「老い」と共にすっかり衰えたとしても関係ないんです。まあ、全く関係ないとは言いません。「私たちの魂」は、この世にあっては、「肉の体」があってのものだからです。ですが、「内なる魂の刷新」は、「外なる体の衰え」とは違う次元で起こることで、そういう意味では関係ないんです。

 ハワイの日系人教会で、日系一世として暮らしたクリスチャンのご婦人、山口さんという方がおられました。ご主人を先に天に送られてから90歳を超えるまで、住み慣れた家で独り暮らしを楽しんでおられました。
 だけど、それは本当は、「独り暮らし」じゃなかったというんです。実は、いつでもイエス様と一緒の「二人暮らし」だったと。いつでもイエス様に向かってどんなことでも語り掛けて、いつでもイエス様と対話して、いつでもイエス様とお交わりをしながら暮らしていたそうです。
 たとえば、山口さんは手芸が好きで、90歳を超えても針を握ったのですが、若い時みたいに針に糸が通らない。すると、こんなふうにイエス様とやり取りしたそうです。「イエス様、私は忙しいのです。いつまでもこれに掛かってはいられません。この糸さえ通れば、本当に助かります。助けてくださいな。」・・・、「するとね、すぐに糸が通るんです。不思議なくらい!やっぱりイエス様は、いつも共にいてくださいますのよ。だから、『有難うございます、イエス様』ってお礼を申し上げるの。」
 夕食も独り寂しく・・・じゃなかったそうです。イエス様と語らいながら楽しい夕ご飯だったんです。「イエス様、今夜も美味しいお食事ですよ。でもイエス様の住んでおられたイスラエルじゃ、梅干しやお豆腐なんかはなかったでしょ。おいしいですよ。召しあがりますか?」
 そんな山口さんは、ある日、転んで腰骨を折ってしまい、もはや独り暮らしが出来なくなったそうです。そこで、クリスマスに、教会の青年たちがお宅に訪ねて行って、讃美歌を歌ってあげたそうです。そしたら山口さんは、こんなふうにお礼を言ったというんですね。「私にも、あなたたちのような時があったのよ。おてんばでね。木登りも上手だったわよ。もう年を取ったけど、今もイエス様はいつも一緒にいてくださるのよ。だから、心配ないわ。」
 その時はもう、100歳を超えていたそうです。そんな超ご高齢のお婆ちゃんが、骨折して独りじゃやって行けなくなったのに、「心配ないわ」と笑顔で微笑む姿に、皆が感動した・・・といいます。
 これはまさに「たとえ・・・外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」通りの姿ですね。その秘訣は、やっぱり「イエス様といつでもお交わりして暮らす」ことだったんじゃないでしょうか・・・?

 年を取ると、耳や目が不自由になってきて、文字を読む、人のことばを聞くことが大変になって来ます。他の人とコミュニケーションをすること自体が難しくなっちゃいます。その後私たちは、どうなるんでしょう?
 もし神様を知らなかったら、私たちは、「周りから断絶された独りぼっちの世界」に置き去りにされてしまうでしょう。「精々自分自身と向き合うだけの世界」に取り残されてしまうでしょう。それは、人としては、耐え難いことじゃないでしょうか?
 でももし「この世界には、私のことを生まれる前から愛して支えて下さってる神様がいる」と知っていたら、たとえ他の人とはコミュニケーションが出来なくても、神様とは出来るんです。イエス様と親しく対話しながらお交わりする世界で、「心配ないわ」と、笑顔で暮らして行くことができるんです。
 それは、「私たちの魂」にとっては非常に有り難い営みだと思います。「私たちの体」は、必須の栄養素としてビタミンを欲します。でも「私たちの魂」は、必須の栄養素として、「神様とのお交わり」に飢え渇くんです。それこそが、私たちの「霊的な部分」なんです。
 そして、そういう「霊的な部分」は、体が衰え果てて、肉体的なものや物質的なものには頼ることが出来なくなった時にこそ、最も研ぎ澄まされて来て、最も輝きを増して来るんです。 
 そういう意味では、「老い」というのは、私たちにとっての絶好のチャンスなんだと思います。若い者がそんなふうに言うのはおこがましいと思いますが、敢えて言わせていただきますと・・・、「老い」というのは私たち人間が、「人としての最も価値ある成熟」を成し遂げて、最も麗しく輝いて行くために、神様が与えて下さった「人生最大のチャンス」に違いないと思うんです。


結論
先程の叔父が天に召される三日前のこと、体の痛みや精神的な心細さのためか、叔父は、叔母や親しい兄弟たちの名前を呼んで、どうしようもなく唸ることがありました。その日私は、叔父と二人きりでいる機会を与えられたので、叔父の大好きな『驚くばかりの』という讃美歌を心を込めて歌ってあげました。
 その後、「やがて天国に行ったら神様にお会いして、もはや痛みも涙もない世界で、永遠に神様と一緒に暮らすようになる」という希望について、今一度、叔父の前で説明してあげました。するとその時、叔父は、目を空中に向けたんです。私は驚いて、叔父の視線の先に何かあるのかなあ?・・・と思って辿ってみましたが、何もありません。そう、叔父は、天を見上げていたんです。そうして目に見えない何かを見つめていたんです。
 ふと見ると、叔父の両目は涙で潤んでいました。それは、私にとっては、まことに厳粛な一時でした。それはほんの一時でしたが、その時、私は叔父の顔に「神々しいとも言うべき輝き」を見たように感じたんですね。
 叔父はその時、心の中でしばし、神様に向き合っていたんだと思います。それはきっと、「神様と、地上において最も厳粛なお交わりをしていた一時」だったと思います。その時、叔父の極限まで衰え果てた「外なる人」の中から、なんと、「内なる人」がなおも新しく輝きを放った!そう、私には思わされたんです。

 願わくは、そうした驚くべき「恵み」の中に、私たちも確かに与らせていただきたいと思います。そのために私達も、「日々神様と、毎日イエス様と、祈りの中で親しく語り合う」お交わりを、これからも大切にさせていただき、そのお交わりをますます楽しませていただきたいと思います。
 





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by sagaech | 2012-09-16 20:55 | 礼拝メッセージ

枝豆入りのハンバーグ(9月のサークルハンズ)

   女性のための集会は2つあります。
   「サークルハンズ」は、楽しみながら集まる趣味の会です。(月1回)
   「オリーブ会」は、聖書の学び、分かち合い、お祈りを共にする会です。(月2回)

こんにちは、サークルハンズです。
9月も中旬ですが、
寒河江も残暑が厳しいです。

13日(木)、旬の枝豆を使った
ハンバーグ作りをしました。
メンバーさんの畑から朝もぎの枝豆で。

材料は、はんぺん、合い挽き肉、枝豆。
実は、メンバーのお一人が、
先日テレビのお料理番組で見たというもの。

はんぺんをみじん切りにして、
挽肉と混ぜて、枝豆を混ぜて、
炒め玉ねぎを少し入れました。
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ふんわり軽い食感で、緑色がきれい。
マヨネーズと粗挽きコショウだけの
味付けですが、美味。そして、簡単。
食べながらの交わりも盛り上がりました。
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<主な材料:一人分>
はんべん:大1枚、合挽き肉:50g、
ゆでた枝豆:少々、炒め玉ねぎ:少々、
マヨネーズ:小さじ1と少し。


この日の聖書のお話は、
詩篇23篇より、「死の陰の谷を歩くとも」。
人生には、死、陰、谷、敵、危険…がある。

罪と苦難の多い人生を送ったダビデをも、
赦し、助け、常に導き、
恵みを溢れさせて下さった神様。

ダビデの三千年後を生きる私たちにも、
悩みや危険や苦しみがあります。
どうか、弱い羊たちを、守り支えてください。


たとい、死の陰の谷を歩くことがあても、
私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。 詩篇23:4



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by sagaech | 2012-09-15 17:51 | 女性の集会

夏の終わり、秋のはじまり

この夏、寒河江も35度超えが続きました。
まだ日中は34度くらいにもなりますが、
朝夕は、やはり「秋」です。
夏が遠くなる前に、記録しておきます。

この夏、東松島で英語キャンプがありました。
蔵王教会が、コロラドチームを迎えて
「ファミリー・イングリッシュ教室」を開催。
大人と子供、日本人とアメリカ人の交流をしました。

まずは、コロラドチームの皆さんと、
東松島の被災数カ所の現場視察。
Tさんが具体的に説明すると(通訳つき)、
皆さんは、現場を肌で感じておられました。
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午後は、何か所か分かれて、大人と子供の英語クラス。
子どもたちは、汗いっぱいで遊んで楽しみました。
大人たちも、カード遊びをしたり、
サムライと聖書や、陶芸の話題に盛り上がったり。
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一方、夕食のバーベキューに向けて
猛暑の中で延々と働いていたスタッフたちも。
食材調達、火起こしと管理、会場準備…
こちらも、汗いっぱいでした。

真夏のバーベキューは暑くて熱かったけど、
沢山の方々が来てくださいました。
夕方には、涼しい浜風がふいて来て、
「この風が内陸の山形にもほしいね!」
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夏の思い出、花火の光の中で
寒河江組は日帰りで戻りました。
宿泊所での交わりも楽しかったそうです。
蔵王&コロラドの皆さんお疲れ様でした!

久しぶりにお話した現地リーダーのお一人。
一見元気に見える様子のかげで、
難しい重荷が課せられていることを
明かしてくださいました。

「仮設生活の半分が過ぎるのに、
何も進まない。先が見えない。
仮設を出たらどうするか・・・。
家を建てるにも、場所も決まらないし。」

震災から1年半。
終わったもの、まだ残るもの、
新しく進む道、新たな課題…
みんなそれぞれ、状況や心境が違います。

一番暑い夏が終わっても、
まだまだ残暑が続くように、
一番厳しい時を過ぎても、
まだまだ終わらないものがあります。

生活支援やイベントを先導したり、
陰で支えたりという奉仕を続けてきた
リーダーの方々も、心身の疲労が出てきます。
これからの道を求め、祈りつつ・・・。


あなたがたの愛が
真の知識とあらゆる識別力によって、
いよいよ豊かになり、
あなたがたが、真にすぐれたものを
見分けることができるようになりますように。
ピリピ1:9-10

by sagaech | 2012-09-11 21:20 | 神の家族(震災編)

主にある交わりに生きる⑬「格付け欲求からの解放」

   日曜日の礼拝で牧師がお話した聖書のメッセージです。

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「主にある交わりに生きる」13   2012.9.2
   「格付け欲求からの解放」
   マタイの福音書18章1‐5節



1 人間の中にある潜在的な欲求・・・「人より偉くなりたい」
山形には、有名な米沢牛がありますが、一口に米沢牛と言っても、質による「格付け」があります。格付けが上の肉は、とろけるような美味ですが、格付けが下のものは、まるで違います。「格付け、ランク付け」は他にもあり、お米も、一等米もあれば、二等米もある。果物も「秀、優、良」などランク付けがあり、糖度何%という甘さのランクもあります。
 でも食べ物ならまだいいですが、人間に対する一人一人の「格付け、ランク付け」だったら、どうでしょう?実は、そういう「格付け、ランク付け」が、この世の中では様々になされているんじゃないでしょうか。
たとえば子どもたちは、学校などで「ランク付け」に晒されています。テストの点数や順番が出されるシビアな「ランク付け」を、子どもたちは、中学、高校時代から体験させられて行きます。
社会に出ると、もっとシビアな「ランク付け」が待っています。ランクが、給料に跳ね返って来たりします。だから、「誰が出世するか」と気をもんだり、順調に昇進する人を羨んだり、自分に落胆したり…。職場以外でも、親族同士や同窓会の席などで、仕事や肩書や生活ぶりの話が非常に気になったり…。
最高ランクの米沢牛は、時々桐の箱に入れられています。でも、普通レベルの肉は、ランク表示もないし、切り落としやパック詰めにされて、タイムセールで投げ売りにされたりします。もし、同じことが人間に対してもあるとしたら、なんてシビアな話じゃないですか?

ですが、私たち人間には、そういうランク付け的な「比較競争の欲求」が、どうやら生まれながらに染みついているんじゃないかと思います。実は誰もが、そういう「ランク付け競争」の中に身を置いて、なんとかして人の上に立って偉くなりたい、「偉い人」だと思われたい・・・という欲求を、密かに抱いているんじゃないかと思うんです。
イエス様の弟子たちも例外ではありませんでした。今日の1節で、弟子たちはわざわざイエス様の所に来て、「天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか」と尋ねました。しかも、同じことをこのお弟子たちは、少なくとも三回繰り返しています。その三度目は、イエス様が明日は十字架に架かって死ぬ・・・という最後の晩餐の席でした。
 男同士だから、よけいそういう話になったと思いますが、これが、「生まれながらの人間の現実」だと思います。この世の名誉や富を投げ捨てて、イエス様の近くでひたすら弟子として仕える立場になっても、そういう仲間の間で「誰が一番偉いのか?」という「ランク付け」が気になってしまった…。
 人間というものは、心底「自尊心の塊」なんですね。「人より上に立つ」ことによって、安心と満足を持ちたがる・・・、私たちはそういう存在なんだなあ・・・と、つくづく思わされます。


2 「一番偉い人」の理解の大転換・・・「低き者こそ、偉い!」
そんな質問をしたお弟子たちに、イエス様は誰も思い付かなかった答えをされました。2‐4節です。
「そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、言われた。 『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して御国には、入れません。だから、この子どもたちのように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。』」
弟子たちは、「天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか?」と聞きました。するとイエス様は、「天の御国でだれが一番偉いかを論ずる前に、あなたがたに言っておく。天の御国とは、そもそも、この子どもたちのようにならない限り、入れない所なんです」と言われたのです。
 
「子どもたちのように」とは、どういうことでしょう?「子ども」は、素直で純粋無垢な所があります。「誰かを信頼する」姿には、大人が見習うべきものがあると思います。ですが、イエス様がここで言われたのは、そういうこととは少し違うようです。
 イエス様は4節で、「この子どもたちのように、自分を低くする者が、・・・」とおっしゃいました。当時ユダヤでは、子どもは、「無力で、何も出来ない無価値な存在」だと思われるのが普通でした。子どもは当然、政治でも、ビジネスでも、戦争でも、ほとんど戦力にならないからです。だから、「子どものようになる」ということは、「誰からも重要だとは思われない、取るに足りないちっぽけな存在として、自らを低くする」ことなんです。
 「天の御国で一番偉い」のは、自分はそんなふうに、取るに足りない、ちっぽけな存在だと深く自覚し、とことん身を低くして、神と人との前でへりくだる人だ。そのように、イエス様は教えて下さったんですね。これは、「最も小さい人ほど最も大きく、最も低い人ほど、最も高い」と言っているようなもので、大いなる逆説です。おそらく、この世の常識に浸りきった頭では、思いつかないような話ですね。

学生たちにとって、就職活動はシビアな話です。それは、「天の御国」じゃなく、「この世の企業」に入る話ですが、もし皆さんが、会社の中で「一番偉くなりたい」と思ったら、どうしますか?「自分が他の人よりどんなに優秀で、どんなに優れた人材かを、頑張ってアピールしないと!」と思うでしょうか?
 でも、入るのが「天の御国」なら、どうでしょう。そこで「一番偉い人になりたい」と思ったら、「自分がどんなに優秀か」をアピールしても何の役にも立たちません。それどころか、自慢して自分を大きく見せようとすることは、「天の御国」では、目を背けられます。むしろ、「自分を子どものように低くして謙る」ことこそ、最も注目される、麗しく尊いことなんです。
大事なことは、イエス様はそれを、社会をうまく乗り切って行くための「知恵」や「方便」として教えられたわけではない、ということです。世の中でも「へりくだること」は教えられます。新入社員は、「お客様へのお辞儀、ことば遣い、応対のしかた」などを叩き込まれますね。それは「へりくだった振る舞い方」の教育です。コンビニでも、レジの研修生が、「お釣りを渡す時は、ちゃんとお客様の手の中に、両手を添えて渡す」と指導されたりします。「そこまでするのは世界中でも日本人くらい?」と思ったりしますが、その「謙り(へりくだり)」は、イエス様が教えられた「謙り」とは、少し違います。
日本社会での「謙り」は、お互い平和にやって行くための、ある種の「処世術」みたいな部分があると思うんです。そうすることによって、人から好ましく思われ、結局は自分が得をするという「方策、方便」でもあったりする。でも実は、内心無理があって、「謙っているふりをしている」だけで、帰宅後に、「くそー、なんで俺が、あんな奴に頭を下げなきゃならないんだ?」と爆発したりする…。

ですが、イエス様は、「謙り」をそんなふうに教えられたわけではないんですね。「自分を低くした方が、うまくやって行けるし、あなたの得にもなる。だから、謙ったふりでもしていなさい」というわけではないんです。「自分を子どものように低くする」ということは、損得勘定抜きであり、何より神様ご自身がお喜びになること。天地の絶対者であられる方が「そういう人こそ一番偉い」と、心底尊ばれることなんです。そのように謙ることに、神様は「永遠の価値」を認めておられる。だからこそ、イエス様は、そうしなさいとおっしゃっているんですね。


3 「格付け欲求」から解放された交わり
もし、そのイエス様の教えを「本当だ」と納得できたら、私たちは、素晴らしい自由と解放を手にすることが出来ます。それは「ランク付け社会」からの自由、また、私たちの心にムクムク起こって来る「格付け欲求」からの解放です。
最初にお話した通り、この世の中で私たちは、「誰が上で、誰が下か? 誰が、より偉い人間か?」という比較競争の中に、否が応でもさらされています。そんな中で、「自分を人より上にランク付けさせないと」という考え方に巻き込まれ、それができないと心配になって、「俺の人生ダメになる、負け組になってしまう」という強迫観念に追い立てられたりもします。
けれどもイエス様は、そういう「ランク付け社会の格付け地獄」から私たちを救い出し、解放しようとされています。それでまず、「この天地の創り主である神様、すなわち、何が一番偉いかを判定できる方が、『一番偉いのは、一番上にランク付けされた人ではなく、自分を子どものように低くして謙っている人だ』と、ご覧になっています」と教えられました。

さらにイエス様ご自身が、まさに、「究極の謙りの姿」を、あの十字架で見せて下さったんです。本当は、謙る必要など全くないイエス様が、罪深くて無に等しくて、どんなに身を低くしても足りない私たちのために、この世で最も惨めな最低の死に方をして、とことん自らを低くして下さった。そのイエス様の徹底的な「謙り」のゆえにこそ、私たちは罪赦され、救われたんです。
 そのような「神の御子の謙り」は、なんと麗しい姿でしょう。それは私たち人類が、地上で目にした最も偉大で尊いお姿じゃないでしょうか?だから、そのようなイエス様の「謙り」を知った人は、この世の空しい「ランク付け」から自由にされ、自分の中に湧き起こる「格付け欲求」からも解放されて行くんです。
そのことを一人一人が教えられ、「格付け欲求」から自由にされた者たちの「交わり」こそ、「教会の交わり」です。それは、この世の中では「奇跡的な交わり」と言えるものです。というのは、「人の上に立つのではなく、子どものように低くなるのが一番偉い」ということを、単なる方便や処世術ではなく、真理として本気で信じる交わりは、世の中広しと言えども、「教会の交わり」だけだと思うからです。

クリスチャンのクラリネット奏者として有名な柳瀬洋さんは、私たちの教会にもコンサートに何度か来ていただいた方です。この方は、芸大大学院を出て、ドイツに留学して音楽大学を首席で卒業した非常に優秀な方ですが、このようにお証しをされています。 
「私は音楽を、自分の栄光のために、名誉欲のためにやっていた。目の前の試験や、コンクールだけに捕らわれて、がむしゃらにライバルとの競争にしのぎを削って、点数、順番、勝った負けた、賞を取った、落選した・・・って世界の中に生きていた。人に負けないように、一番になるってことを目指して音楽をやっていた・・・。」
 まさに、ひたすら、ランク付け人生を歩んで来られたんですね。そんな中で柳瀬さんは、「自分をさらに磨くため、クラリネットの世界的な第一人者である憧れの先生の許で勉強したい」との夢を抱いて、意気揚々とドイツに渡られました。
ある日、その先生にお会いして、「一曲吹いてごらん」と言われ、早速演奏を披露しました。ところがその時、柳瀬さんはその先生からこう言われたのです。「あなたの演奏は、なんだか機械のようだね。器用で難しい曲もその通りに吹けるけど、いのちや心が通ってない。それだけだったら単なる音のお遊びだ。音楽は機械じゃない。音楽とは、その人の中から湧き上がって来るものだ。」
 その帰り道、柳瀬さんは、憧れの先生から突き付けられたことばに物凄いショックを受けたそうです。心が張り裂けるようなショックを…。
 「自分は今まで、人に負けたくない一心で勝ち抜いて来た。でもそれが何だったんだろう・・・?」という空しさ…。そして、「自分は結局、一番大切なものをどこかに置き忘れて来たのでは・・・」と思うと、音楽だけでなく、自分の生き方そのものも、深い絶望感に恐れわれたそうです。
 そんな時、日本から留学していたクリスチャンの先輩から、「俺の下宿で聖書の研究会をやってるから、来てみない?」と誘われ、行ってみたそうです。そこではクリスチャンの学生たちが、聖書に基づいて、神様の教えの前に謙り、人生の様々なことを語り合い学び合い、お互いのために祈り合うという「交わり」をしていたんですね。
 柳瀬さんは、そこで初めて「人との競争、ランク付けではない世界」を味わったそうです。そして、様々な愚かさ、弱さ、醜さ、罪深さを抱えたありのまま自分を、遠慮なくさらけ出せる喜びを味わったそうです。
 そうしたら、その交わりに出かけて行くのが、とても嬉しく楽しくなり、やがて、自分のために十字架に架かって下さったイエス様の前に、深く謙らされ…、ついにある日、イエス様を「私の神様、救い主」として信じる決心をされたのです。
その時から、柳瀬さんの人生も音楽も、ガラッと変わってしまったといいます。それまでは、クラリネットは「人に勝つための戦いの武器」でした。でもそれ以来、クラリネットは神様への感謝を表すためのものとなり、心からの喜びをもって、クラリネットを吹かずにはいられなくなったそうです。
すると、憧れのあの先生から食事に招待され、こう言われたそうです。「あなたもやっと分かったみたいだね。」


結論 
私たちは、柳瀬さんのような才能はないかもしれません。でも私たちも、柳瀬さんと同じように「格付け、ランク付けの欲求」に翻弄された生き方をしていたんじゃないでしょうか?でも柳瀬さんは、「ランク付け人生から解放された人たちの交わり」に導かれました。その中で、「人の上に立つ」よりも、「神様の前に己のちっぽけさを思い知らされ、子どものように謙る」ことこそ、本当に尊く幸いなこと、と気付かされたのです。
 では皆さんは、そういう「交わり」を知っているでしょうか?持っているでしょうか?また私たちの「教会の交わり」は、そういう「交わり」の姿を、この世の方々、ここに来られる方々に提供しているでしょうか・・・?
 願わくは、世の中で今も「格付け、ランク付け人生」に翻弄されている大勢の方々ために、私たちの「教会の交わり」が、「奇跡的な交わり」を提供し続けることが出来るように、祈りたいと思います。そしてそのために、神様の前に、ますます「子どものように謙る」歩みを、ぜひ皆さんで励まし合ってまいりたいと思います。



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by sagaech | 2012-09-08 17:20 | 礼拝メッセージ