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「特権か、許可か」

   日曜日の礼拝で牧師がお話した聖書のメッセージです。
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     「特権か、許可か」    2012.11.25
     マタイの福音書19章1‐9節



1.日光のサルの話
 日光のおサルさんの話をご存じでしょうか。サルが群れをなして観光客を襲って困っているというニュースです。日光のいろは坂で、車の窓から野生のサルに餌をやるのが流行った末に、サルが人を襲うようになったのです。
 人間からすると、食べ物を少しわけてやろうという「恵みの気持ち」から始めたことだったのですが、サルにしてみれば、人間が美味しい食い物をくれるから群がったのだし、それがエスカレートして、車の窓から餌をくれるのを待たずに、車の空いている窓からサルが中に入って行くようになったのです。そして、勝手に人間の荷物をあさって、観光客が持っているバッグをひったくり、食べ物を奪い取って行く、お土産屋さんから、お金を払わないで勝手に食べ物をかっぱらって行くということにもなったのです。そしてついに、追い払おうとする人間に噛み付いて来るようにもなってしまったのですね。このサルの出来事は、「可哀想だと思って許可されていること」と「当然の権利だということ」とを履き違えたために起こったと言えます。
 サルたちを責めても仕方のない話ですが、人間はどうでしょうか。「憐み深く許されてて許容されている」に過ぎないことを「これは私の権利だ、特権だ!」と、履き違えて失敗することがあるんじゃないでしょうか?
 今日の聖書の話はそういう話です。それが特に、「結婚、離婚」って問題を巡って教えられています。


2.結婚の奥義は、「離婚はあり得ない」と語る
 もう一度、今日の聖書箇所を振り返ってみたいと思います。ある日、パリサイ人がイエス様に、「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」と聞いて来ました。それはイエス様を試して訴える口実を見つけるための質問でした。ところがイエス様は、それを切っ掛けとして人々に「結婚、離婚を神様がどう教えておられるか」ということを教える機会とされたという話です。
 まずイエス様は、離婚より先に結婚というのはそもそもどういうものなのかを教えられました。「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。」と。
 これは創世記2章24節のみことばなのですが、教会の結婚式で必ず読み上げられる箇所です。
「一体となる」ということばを直訳すると「一つの肉の中に存在するようになる」となります。ふたりはもはや一つの家に同居している、家計が一緒になった、というだけではなく、「人生も、存在自体も二つに分けるってことは不可能だ!」というほどの間柄になったのです。だからイエス様は、「それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。」と仰せられたのです。

 当然の結論として出て来ることは、「こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」ということなのですね。これもまた、教会の結婚式で、牧師が必ず最後に威厳をもって唱えるみことばです。それに参列者全員が「アーメン!」と応えます。ここで「神が結び合わせたものを引き離す」とは、離婚を指します。
 「離婚は、当事者である夫婦であろうが、他の第三者であろうが、本来許されていることではない」とイエス様はおっしゃられました。なぜなら、結婚とは「人間が自分たちだけで勝手に結びつけた絆」ではなく「神様が結び合わせてくださった絆」だからです。
 結婚は、そもそも神様の前でなされた契約関係です。人間が勝手に一緒になった結婚であったとしても、神様の目にはそうなのです。だから離婚というのは本来あり得ないことなんですね。神様が絶対的な主権をもって結び合わせた絆なのですから。


3.離婚は、神の譲歩による「許可」に過ぎない
 このように言われたパリサイ人たちは、「モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。」と反論しました。「あなたはそんなふうにおっしゃいますが、あのモーセが、『離婚状』の話をしているじゃないですか!『離婚はダメだ』なんて言ってないじゃないですか!」と。
 確かに、旧約聖書の申命記24章に、この話があります。「人が妻をめとり夫となり、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなり、離婚状を書いてその女に渡し、彼女を家から去らせ、彼女が家を出、行って、他の人の妻となり・・・」。モーセは確かにそこで「離婚」を前提とした話をしています。ここを論拠にパリサイ人は、イエス様がおっしゃったことは、旧約聖書に書いていることと噛み合わないではないか、と反論したのです。
 これに対してイエス様は、「モーセはあなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することをあなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだったのではありません。」(8節)とおっしゃいました。

 ここで注目していただきたいことは、「離婚」は「神様が人間の頑なさのゆえに憐み深く譲歩して下さって、条件付きで許可して下さったに過ぎない」ということです。しかしパリサイ人はさらに続けて「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。」(7節)と言いました。
 しかし、旧約聖書の当該箇所をよく見ると、モーセは「離婚せよ!」と積極的に命令したわけではありません。これはパリサイ人らの勝手な解釈でした。彼らは「離婚は当然するべきこととして命令されているから、離婚するのは当然だ、それは我々の権利だ、特権だ!」と、都合のいいように考えたのです。
 それに対してイエス様は、8節で注意深く訂正なさいました。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することをあなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだったのではありません。」と。つまり、「勘違いしてはいけない、神様は『命じた』のではなくて、『許した』に過ぎないのだ、ということです。ここに、日光のサルに似た履き違えがあります。「許可」に過ぎなかったことが、いつの間にか「特権」になってしまっています。


4.「特権」と「許可」の履き違え・・・偶像崇拝の場合
 こうしたはき違えは、結婚、離婚の話に限ったことではありません。私たちは他にもいろんな事柄について、「特権」と「許可」を履き違えてしまいます。「偶像崇拝」はそれにあたるかもしれません。
 日本には「神様」と名の付く物がたくさんあり、たくさんの物に手を合わせるほど「信心深い人だねえ」と褒められます。しかし聖書では、「この天地の創り主であられる真の神様こそが、本当の唯一の神様であって、他のものは人間が勝手に作り出した偽りの神々、偶像です。」と教えています。
 神様ご自身も、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。・・・それらを拝んではならない。」とおっしゃっています。しかし人生には様々な困難があって、「真の神様のみを礼拝する」ということは容易なことではありません。職場や地域や、お家の中にもハードルがあって、神社やお寺、神棚、仏壇に手を合わせたり、天皇の写真に向かって最敬礼したりといったことが、無理強いされることが多いのです。偶像礼拝には、私たちが、神様が本来目指しておられる「聖なる高い理想」が見えなくなるということに問題があります。
 もちろんそういうことは旧約聖書の時代もありました。イスラエルの隣の国のアラムという国に、ナアマンという将軍がおりまして、その人が預言者エリシャに不治の病を治してもらったことによって真の神様を信じるようになりました。しかしナアマンは、自分の国に帰ると、王様が偶像の神々の神殿に行って礼拝するのをエスコートしなくてはなりませんでした。そこでは王様がナアマンに寄りかかって礼拝するので、ナアマンは王様と一緒に偶像の神々の前で身をかがめないといけなかったのです。
 そこで、ナアマンはエリシャに言いました。「どうか、主がこのことをお許しくださいますように」と。すると、エリシャは「安心して行きなさい(シャローム)」と言って送り出したんです。これはある意味で、神様の憐み深い「譲歩」です。もちろんナアマンが、「そういうことはできません」ってキッパリと断ることが出来たなら、それにこしたことはなかったと思いますが、ナアマンにはそれが出来ませんでした。そして神様は、そういうナアマンの弱さを厳しく断罪せず、憐み深く許してやって許容して下さったのです。
 そこでもし、ナアマンがそれを逆手に取って、「神様は、どうせ許してくれるんだから、べつに偶像を拝んだって構わないさ。クリスチャンにはそういう自由があるんだ!自由に振る舞うのはクリスチャンの特権だ!」と言い始めたとしたらどうでしょうか。それもまた、「特権」と「許可」を履き違えています。

 私たちは、神様の理想になかなか到達できない「弱くて罪深い者」です。そして神様は私たちの弱さを受け入れて下さり、譲歩して下さっています。それはあの、イエス様の十字架を見ると分かります。十字架につけられた神の御子、こんな弱々しい神様の姿は他にはありません。神である方が、こんなに弱い姿になる必要も、本当はありませんでした。
 でも、その十字架によって私たちは、「どうにもならない弱さを抱えた私たちに、神様が憐み深く寄り添って下さっている」ということを知らされます。また「神様ご自身が、私たちの弱さと罪を、私たちに代わって背負って下さっている」ということも教えています。
 イエス様は、私たちと同じ人間となられました。だから、人間の弱さをよくご存知で、私たちが神様の基準を満たせない者だということも分かっている。そんなイエス様は、私たちが神様の教えを十分に行えなくても、私たちを杓子定規に断罪せず、むしろ、そういう私たちを広い心でもって「許して、許容して」下さる。私たちが弱さのゆえに犯してしまう罪の一切を、あの十字架上で一切肩代わりして下さったのです!
 私たちは、この神様の「譲歩」によって救われているのです!もし神様が譲歩して下さらなかったら、私たちは、あっという間に裁かれて滅びるばかりだったのですから。
 しかし私たちが、そういう神様の「譲歩」にただ単に甘えて終わるのだとしたら、私たちはイエス様のお心を全然理解してはいません。私たちは、どんなに神様が私たちの弱さを堪えて許容して下さっているかを知ったなら、それに甘えたままではいけません。そこから感謝をもって、「神様の理想」に少しでも近づいて行くことを目指して行くべきです。そして神様も、そのことを願っておられるからこその「譲歩」をなさったのであって「許容、許可」に他ならないのです。


結論
 最後に、もっとさらに大きな事柄について、「特権」と「許可」を履き違えた話をして終わりたいと思います。何年か前に、元プロのウィンド・サーフィングの選手で飯島夏樹さんという方のことを皆さんにお話したことがありました。
 飯島さんは、癌を患って38歳の若さで天に召されました。ウィンド・サーフィンのワールドカップに出場していた日本を代表する選手で、引退してからもマリンスポーツの会社を興して、そちらの方でも成功していました。ところが成功の真っ只中で癌が見つかって余命宣告を受け、一挙に「絶望のどん底」に突き落とされたんです。
 そんな中、飯島さんは、奥さんと一緒に教会に通い始めるようになり、神様を信じてクリスチャンになりました。すると、それ以来、飯島さんはすっかり変わりました。病気の方は悪くなる一方でしたが、心の中の悲壮感はすっかり消え、安らかな状態になって行ったのです。それは実は、「自分は神様によって、許されて生かされているのだ」ってことを深く悟らされたからだったのです。
 彼自身が本の中で、神様に向かってこんな告白をしています。「今までは、何とかお金を儲けて自分の力で生きて来ました。でも、全ては間違いだったと気づきました。空を飛ぶ鳥が、なぜ飢えて死なないのでしょう?なぜ、美しい花たちが、土だけであれほど美しく咲き誇るのでしょう。・・・ あなたの配慮で全てが成り立っている、鳥も花も生かされている、今ようやくそう思うのです。・・・末期患者の私は、ただただ今日も生かされてます。」この飯島さんのお話は、飯島さんが、「私たちの人生」というものについて、「特権」と「許可」を履き違えていたことに気づいたという証しです。

 私たちの「人生」というものも、実は、神様から恵みによって私たちに、「神様に感謝しつつ、神と人とに喜ばれる歩みをして行くべきもの」として許し与えられているものなのですね。さらに、もし私たちが、神様の期待に応えられずにたくさんの罪を犯して、人生を台無しにしてしまったとしても、神様は、じっと堪えて私たちを見守って下さっています。それなのに私たちは、そういう神様の姿に甘えて、自分の人生を「これは俺のものだ!」って勝手にやりたい放題生きているということは、ありませんでしょうか? そして、思い通りにならないと、他の人や神様に当たり散らして怒るということがありませんでしょうか?
 さっきの飯島夏樹さんが、本の中で、こんなことを書いています。「(最近)薬剤から何かの病気にり患した方の訴訟問題が、テレビで報じられていた。この問題についてとやかく言うつもりはない。・・・しかし、気掛かりなことが一つある。どの人も『怒りの人』になっている。『怒りの人』を見るのが、あるときからボクはとても辛くなった。なぜならば、『怒りの人』の行き着く先に希望はないからだ。たとえ何か得をしても、幸福も安らぎもないとボクは感じる。最終的に辿り着くべきなのは、受け入れること。結局そこへ行くべきではないだろうか。」と。これもまた、人生についての「特権」と「許可」を履き違えているゆえの「怒り」の話だと思います。
 日光のサルたちも、人間の荷物をひったくって、追い払われると怒って噛み付いておりました。私たちは、どうしているでしょうか。願わくは、「神様の恵みと憐みによって、許されて生きている」という事実をもう一度、再確認させていただきたいと思いますね。そのために、神様がどれだけ私たちに譲歩して下さっているか、そして、どんなに私たちのことを、期待を込めて見守っておられるか、そのことを深く覚えさせていただいて、神様がお招きになっている霊的高嶺を目指して、これからも歩み続けさせていただきたいと思います。



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by sagaech | 2012-11-30 17:14 | 礼拝メッセージ

「親が子どもに残してやれるもの」(祝児式説教)

   日曜日の礼拝で牧師がお話した聖書のメッセージです。

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祝児式説教    2012.11.18
 「親が子どもに残してやれるもの」
    創世記22章1‐14節


1 親は子どもに何を残してやるべきか・・・?
 今日は礼拝の最後に「祝児式」をして、神様の前で、子どもたちのことを特別に覚え、神様に子どもたちを祝福していただく時を持ちます。
 「児孫のために美田を買わず」という諺があります。「子孫のために美田を残さず」とも言い、中国の故事熟語から来ています。「美田」とは、「立派な田畑」、「立派な財産」。「そういう立派な田畑や財産を、子どものために残してやることはしない、それはよくないことだ」という意味です。美田を残すと子どもを甘やかしてしまい、自立できなくさせてしまうから、ということです。
 西郷隆盛は、この諺を歌に詠み、この諺を西郷家の家訓としていたそうです。昔から「親が子どもに残してやるべきものは一体何か?」ということを真剣に考えてきたんですね。

  今の世の中で、「親は子どものために何を残してやるべきか?」と尋ねたら、「家や土地、財産」という答えが返って来るんじゃないでしょうか。あるいは、「学問や、技能」との答えもあるでしょう。子どもが独り立ちできるように、そういうのをしっかり持たせてやるのが親の務めだと。
 もちろん、それも大事なことだと思います。でも実際は、親子間には結構行き違いがあったりします。子どもは都会に出て、田舎には返らないから、家や土地を残してもらっても困るとか・・・、財産を残してやるつもりが、逆に借金を残してしまうとか・・・。せっかく学校に入れてやったのに、子どもは全然違う道に進んで行き、「何のために学校に入れてやったんだ!」とガッカリすることもあるでしょう。
 私の親もそうでした。父が生きていた頃、車に乗れなくなってきたので、「おまえに車をやる」と私に言いました。その車は、凄い高級車でした。実は、私の母を亡くした後、独り暮らしの寂しさを紛らわすために、父が半ばヤケッパチで買った車でした。老後を夫婦で楽しむはずだったお金を使い、特別仕様で注文した車です。それを「遺産の一つとしてくれてやる」と言ったのですが、私は、はたと困りました。ハイオクのガソリン代は物凄いし、維持費、税金も高い。だから、「勿体ない」とは思いつつ、「やっぱり貰えないよ」と断りました。
 そのように、親が子どもに残してやろうと思うものと、子どもにとって必要なものは、必ずしもマッチしません。だったら、「いったい親は、子どものために、何を残してやるべきか?」と考えさせられてしまうんじゃないでしょうか?親が子どもに残せるものの中で、子どもにとって本当に価値ある尊いものとは、どんなことなんでしょうか・・・?


2 アブラハムがイサクに残したもの・・・「信仰」
 今日のアブラハムとイサク親子の話から、それを深く教えられます。
 アブラハムは、パレスチナに住んでいた遊牧民で、たくさんの家畜を持っていました。家畜は財産ですから、結構裕福な人だったんです。
 その跡取り息子イサクは、当然その財産を受け継ぐわけですが、アブラハムがイサクに残してやった「最高の財産」は、実は、そういう類いの財産ではなかったんです。彼が残してあげた「最高の財産」は、「神様に対する信仰」でした。
 アブラハムは、神様に忠実に従って来た信仰者でした。子どもがなかった彼は、神様から頂いた「子どもが与えられる」という約束を、25年間も待ち望みました。その結果、ついに、奥さんのサラとの間にひとり息子イサクが与えられたんです。
 ところが、そのイサクが少年になった頃、アブラハムに大きな試練が与えられました。なんと、目の中に入れても痛くないほどのイサクを、神様のために「全焼のいけにえ」として捧げなさいと、神様ご自身から命じられたんです!それはイサクを祭壇の上で殺して焼くこと。実の親が、実の子どもにそんなことをするなど、普通はあり得ない話です。神様も、普通はそんなことをお命じになるはずもなく、あまりにも残酷なことだったんです。
 けれども彼は、命令を受けた翌朝にはもう、イサクを連れて旅立って行きました。何の愚痴も嘆きもありませんでした。いや、心の中にはあったかもしれません。でもグッと心の中で押し殺し、奥さんのサラにもイサクにも、詳しい事を伝えないまま出掛けました。
 やがて、指示された山の所に来ると、イサクにいけにえを燃やすための薪を背負わせて、二人きりで進んで行きました。そうして山の上に着くや、アブラハムは祭壇を築いて薪を並べ、その上に、自らイサクを縛って寝かせたんです。そしてついに、刀を振るってイサクを屠ろうとした・・・。
この場面だけ見ると、恐ろしい児童虐待です。でも本当は、そうじゃなく、「神様に対するアブラハムの深い信仰による行為」でした。そのことが、新約聖書へブル書11章で解説されています。
 「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、『イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる』と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。」 
 つまりアブラハムは、こういうふうに神様を信じていたんですね。「神様は、こうして私にイサクを与えて下さり、イサクから大勢の子孫が生まれ出るとの約束して下さった。だから神様は、どんなことがあってもその約束を守られる!神様は、ご自分を信頼する者を決して裏切らない!その神様がお命じになったのだから、たとえイサクをいけにえに捧げても、神様は何らかの方法で・・・、死んだイサクをよみがえらせることをもして下さって、必ずイサクを取り戻して下さるはずだ!」
 そして神様は、アブラハムに介入して下さいました。あわやという時に、直ちにアブラハムに「待った」をかけて、イサクのいのちを守って下さったんです。そうやって神様に従い通したアブラハムの信仰を、この後神様は大いに称賛して下さいました。さらに、これまで以上にアブラハムに豊かな祝福を約束して下さったんです。
そうしてアブラハムは、イサクと一緒に感謝と喜びに満たされて、平和な心で山を下りて行ったんです。

 このようなアブラハムの信仰は、「天地の主である神様を心から畏れて敬う」信仰です。「どんな試練や困難の中に置かれても、神様は、神様に信頼する者を決して裏切らない。だから、ひたすら神様の仰せに信頼してついて行く。その時こそ、本当の救いと幸いが待っている」という信仰です。
 そういう信仰を、アブラハムはここで、イサクへの何よりの相続財産として残してやったんです。というのは、イサクが大人になった姿を見ると、その信仰が確かにイサクの中にも根付いているのが見えて来るんです。
イサクも大人になった時、神様から祝福されて、たくさんの家畜を持っていました。そうしたら、イサクを妬む人たちが現れて、イサクが使っていた井戸を埋めてしまうという嫌がらせをしました。そこで、イサクは代わりの新しい井戸を掘ったんですが、新しい井戸を掘ると、その度に彼らがやって来て、井戸を奪い取る・・・という酷いことをしたんです。
 けれどもイサクは、その度、争いを避けて、苦労して掘った井戸を手放して行ったんです。そして、そういう試練の中にあっても、ひたすら神様に信頼し、神様の導きに従って行く道を選びました。その結果、イサクはますます神様から祝福されて豊かになって行ったんです。
 これは、父アブラハムが残した「信仰」という財産が、イサクの中にもしっかり受け継がれていたということだと思います。


3 「信仰」の遺産を受け継がせる鍵・・・「人格のやり取り」
 けれども、そういう「信仰」は、「我が子に何としても残してやりたい」とは思っても、実際には難しかったりするんじゃないでしょうか?そんな中で、どうしたら、親はそれを、子どもに残してやることが出来るんでしょうか・・・? 
 もう一度、アブラハムはどうしたのかを振り返ってみたいと思います。 旧約聖書の申命記に、こう書かれています。
 「私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。」
 神様はまず、「ことばで神様のことを教えなさい」と言われるんです。子どもに「信仰」という財産を残すには、まずそれが基本です。「聖書の教え、神様のみことば」を、子どもたちに熱心に教えて行くことは、どうしても欠かせません。
 ですが、今日の創世記の所を見ると、アブラハムはここで、イサクにあまりクドクドと話していないんですね。もちろんアブラハムも、普段は神様の教えを熱心にイサクに語ったと思います。ですが、それだけではなかったということです。
 じゃあ、他に何をしたんでしょう?アブラハムはここで、イサクに「神様を信じて信頼するとは、どうすることなのか」を実際に見せたんです。「神様を愛して恐れ敬う」ということを、自分自身の姿、生き様を通してイサクに教えてやったんですね。
 別な言い方をすると、アブラハムの「信仰者としての生の人格」というものに、イサクを触れさせてやったのです。「神様を信じて生きる者の血の通った生の息づかい」に触れさせてやることです。
 アブラハム自身は、そういうつもりはなかったかもしれません。ただ目の前の試練に向き合っていただけかもしれません。でも結果的に、アブラハムはイサクと一緒にいる中で、「神様を信じる信仰の何たるか」を見せていたんですね。 
 時には、無言でひとり、厳粛な空気の中で祈っていることもあったでしょう。あるいは、神様の前にひれ伏して、涙を流して呻いてることもあったかもしれません。他にも、神様のおことばを聞いて、毅然として前を向いて進んで行った後姿や、嵐のような試練の中にいるのに、穏やかに微笑みを湛えていた姿もあったかもしれません。そういう「神様を信じて生きる信仰者の生の人格」に、イサクはこの時たっぷり触れさせてもらったじゃないかと思うんです。

 今日のアブラハムとイサクの親子の会話です。イサクは子どもながらに不思議に思ったんですね。
「お父さん。」「何だ。イサク」、 「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか?」
 アブラハムは、よっぽど込み上げて来るものを感じたんじゃないかと思いますが、静かにこう答えました。
「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」
 こうして二人はなおも一緒に歩き続けました。このアブラハムのことばに秘められた「神様に対する信仰」を、イサクがここで、どれだけ理解できたかどうか分かりません。けれども、そう語って歩み続ける父アブラハムのそばで、イサクはきっと何か感じるものがあったと思うんです。
 父親が前を向いて歩き続ける後姿に、いつもと違う緊張があるのを感じたかもしれません。そして、これから行く所には、何か分からないけど只事ではないことが待っていて、それを父親が、神様に信頼して乗り越えようとしている・・・、それだけはイサクも十分感じることができたんではないでしょうか。そんな姿こそ、「神様を信じる信仰者の生の人格」だと思います。

 イギリスの有名な神学者C.S.ルイスという人が、こう言っています。「人格は、感染によって育つ。」面白いことばだなと思います。「私たちの人格」は、「誰かの、より高尚で素晴らしい人格」に触れた時にこそ、その影響があたかも病気が感染して行くみたいに私たちに移る・・・というんです。それによって「私たちの人格」は、さらなるレベルに成長させられて行くということです。
 「信仰」も「人格」です。神と人との「人格と人格のやり取り」です。そのやり取りを、子どもの前で具体的に実践して、触れさせてやる・・・ということが、神様が「親」に託しておられる何よりの務めなんですね。それこそ、「親が子どものために残してあげられる最高の財産、最大の宝物」に違いないんです。
 子どもは、親が本気で神様を第一にして畏れ敬っている姿を見る時に、「ああ、この世界には、本気で恐れ敬うに値する御方がいるんだ」と肌で実感するんです。親が本気で神様のみことばに聞き従っている姿を見る時、「ボクの人生にも、本気でその声に聞き従って行くべき御方がおられるんだ」と、頭じゃなく、心で理解するんです。
 逆に、それがないなら、大人や親がどんなに神様のことを教えても、子どもは「嘘くさいもの」を感じて反発します。でももし親が、本気で神様を畏れ敬って行くならば、そういう姿に子どもが触れて行くならば、子どもは「嘘ではないもの、本物」を敏感に感じ取ります。それこそが、その子の将来、人生にとっての、どんなものにも勝る最高の財産となります。


4 ベドウ路得子さんのご両親
 現在、日本を拠点に活動されているゴスペル歌手、ベドウ路得子さんのお話です。この方は、お隣の大江町で育った方で、お父さんは福沢満雄牧師です。福沢先生は、路得子さんが生まれて間もない頃、神奈川県から山形に引っ越して来たんですが、当時は非常に貧しい生活で、地元の人たち以上に貧乏だったそうです。毎日、山菜取りに出掛けては、食べられそうな物は何でも食べて食い繋いでいたといいます。
 ある日、路得子さんが冬の寒い朝に目を覚ますと、お母さんが台所の米びつに手を置いて、跪いて、祈っている姿を見たそうです。「神様、もうお米が一粒も残っていません。どう探しても食べられる物は全くありません。せめて子どもたちに何か食べる物を与えてください。」
 すると、しばらくして「郵便でーす」と一通の手紙が届き、「子どもさんたちに食べさせてあげて下さい」と、雪印チーズ券が一枚入っていたというんです。お母さんは村に一軒だけあったスーパーに走り、チーズを一つ手に入れて来て、一家5人で手を合わせて食事したそうです。
 そんなご両親の神様に向き合う本気の祈りの中で、路得子さんは育って行かれましたが、やがて中学高校となった時、いつの間にか、心に迷いを覚えて悶々とした日々を過ごすようになったそうです。「クリスチャンはこうあるべき」という理想と、そうなれない現実の間で、深い自己嫌悪を抱え、どうにもならない怒りを持て余していたと・・・。
 でも、夜遅く学校から帰るといつも、必ず目にする光景があったそうです。電気も付けずに真っ暗な部屋で、お父さんとお母さんが必死に祈っている姿です。「神様、『ちるま』をもう一度返して下さい。」「ちるま」とは、三人の子の名前の頭文字を繋げたものだそうですが、「代わりに私たちを地獄へやってもいいですから、『ちるま』を返して下さい。」と、お父さんとお母さんは、膝をつき、胸を叩き、腿を叩いて、汗と涙と鼻水でグショグショになりながら必死に祈っていました。その姿、その涙が、路得子さんの怒りを少しずつ溶かして行ったのです。
 その後、路得子さんは、ご両親と同じように神様に献身し、音楽伝道の宣教師となって働いておられます。彼女もまた、ご両親の「信仰者としての真摯な人格、生の人格」に触れる中でこそ、神様への信仰が育まれ、回復されて行ったんだなあ・・・と思います。


結論    
 私たちの子どもたちだって、そうですね。皆さんの「神様を信じる生身の姿、信仰者としての本気の生き様」が、皆さんのお子さんたちを神様の許へ、神様の救いの中へと誘って行くんです。それこそが、「私たち大人が、親が、子どもたちのために残してあげられる本当の意味での財産」に違いないんですね。
 願わくは、その大切な務めを私たちが、しっかり果たすことができますように祈りたいと思います。そのために、ぜひ皆さんで、教会という神様の家族の中で、共に祈り合い、支え合って行きたいと思います。



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by sagaech | 2012-11-28 19:15 | 礼拝メッセージ

クリスマス・チャペル・コンサートを終えました

11月24日(土)
ハープとバイオリンのコンサートを
祝福のうちに終えることができました。

2年前に続いて2度目の佐々木冬彦さん。
今回は、バイオリン奏者の奥様との共演で、
素晴らしい演奏をしてくださいました。
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小さな教会のコンサートを
毎回楽しみに来てくださる方々、
初めて来てくださった方々、
ありがとうございました。

演奏者の方々にはご不便も多いと思いますが、
お客様は、目の前でハープを見て、じっくりと
聴ける感動を味わい、喜んでくださいました。

かつて欧州で過ごされていた奥様のお話。
向こうで、歴史ある大聖堂などを見ては、
「さすが!歴史があるし、すごいなあ」と
感じたけれど・・・、
帰国してから、むしろ、地方の小さな町に来て、
「ここにも教会があるんだ!」という事実のほうに
神様がおられることを感じる、とのことでした。

う~ん、小さな教会は励ましを頂きました。
そうですね。文化じゃなく、信仰があるゆえに、
小さな町にも、神様の教会があるのですから。

まもなく、今年もアドベントに入ります。
2012年のクリスマスが
皆様にとって、恵みの時となりますように。
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「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」と
あなたがたの神は仰せられる。
旧約聖書・イザヤ書40:1

by sagaech | 2012-11-27 15:35 | イベント

クリスマス・チャペル・コンサート2012のご案内

寒河江キリスト教会
クリスマス・チャペル・コンサート2012のごあんない


今年もクリスマスシーズンが近づきました。
教会では、お二人の音楽家をお招きして
チャペル・コンサートを行います。
地域の皆さま、どうぞおいでくださいませ。



演奏者 佐々木冬彦(ハープ奏者)
     宮野陽子(バイオリン奏者)
日時  11月24日(土)
     開場18:00、開演18:30
入場料 高校生以上1000円(当日1200円)
     小中学生500円(当日600円)
駐車場 教会前側&後ろ側
      佐藤歯科医院様(当日のみ駐車可)
連絡先 寒河江キリスト教会
      0237-85-6255 
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by sagaech | 2012-11-25 22:30 | イベント

主にある交わりに生きる⑰「交わりと赦し」

   日曜日の礼拝で牧師がお話した聖書のメッセージです。
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「主にある交わりに生きる」17    2012.11.11
          「交わりと赦し」
        マタイの福音書18章21‐35節



1 「交わり」と「赦し」の切っても切れない関係

 「交わり」とは、言い替えると「他の人たちと共に生きて行く、自分以外の人たちと一緒に歩んで行く」ということです。この営みを考えた時に、どうしても欠かせないもの、それは「赦し」です。「交わり」と「赦し」、これは、切っても切れない関係です。
 たとえば皆さんが、誰かのことを「この人なら気が合う、この人となら一緒にやって行きたい」と思って「お交わり」をしたとします。でも、もしそこに「赦し」がないなら、必ずと言っていいほどその「お交わり」はダメになるでしょう。なぜなら、人間は誰もが罪人だからです。
 最初は「この人なら大丈夫」と思っていても、いつ「赦せない人」に変わってしまうか分かりません。そして「赦し」を知らないと、「赦せない人」とは、もはや一緒にやって行けなくなってしまいます。
  残念ながら、人は誰しもが何らかの「赦せない所」を持っているものです。「赦し」を捨ててしまうと、早晩私たちは、誰とも一緒にやって行けなくなってしまいます。だから、もし私たちが、誰かと一緒に安らかに暮らして行きたいと思うなら、誰もが「赦し」を知る必要があります。


2 「赦し」に限界を設けてしまう私たち
 口では簡単に言えますが、実際に「人を赦す」ということは、並大抵のことじゃないと思います。それは、相手から受けた被害の程度にもよるでしょう。町を歩いていて、足を踏まれた程度なら、一瞬ムッとしても、すぐに赦せるんじゃないでしょうか?でも、もっとひどい事をされたら、「赦す」ことは大変なことになると思います。例えば、誰かにナイフで刺されて重い障害を負ったら「赦す」のは至難のわざです。あるいは、ちょっとした事でも、嫌なことをずっと繰り返されたら、さすがに参ってしまい、赦せなくなるのです。
 ある人が、こんな話をしていました。「アパートの上の部屋の人が、夜になるとわめく。最初は我慢してたけど、毎晩続くうちに、こっちがおかしくなって来て、とうとう怒鳴り込んで、それでもやめないから訴訟を起こした」と。
 このように私たちは、この世の中で、様々な被害を受けます。誰かと一緒にいる限り、様々な形で被害者になり得ます。そんな中で誰かを赦すという決断をするのは、並大抵のことではありません。
 たとえ「赦し」を考えたとしても、「どのくらいまでなら赦せるか、どの程度までなら赦してやれそうか」と考えます。「赦しはやっぱり必要だ。どのくらいにしておこうか?」という具合です。まるで、赤い羽根の募金箱の前で、『募金は必要だ。どれくらいなら寄付できるか?』と考えていることと似ています。

 今日のペテロもそうでした。「主よ。兄弟が私に罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか」(21節)とイエス様に尋ねました。
 当時の常識からすると、優等生的な発言です。日本にも「仏の顔も三度まで」という諺がありますが、ユダヤの国でも、赦しは普通、三度までで十分とされていました。ところが彼は「七度まで」と、限度を二倍以上も引き上げました。「七」という数字は、ユダヤでは完全数。だから「七度まで赦す」というのは、「考えられ得る最高の赦しの限度」でした。ペテロは、これ以上ないというほどの寛容さで「赦し」を考えたつもりでした。
 それでも、「七度まで」ということばの中には、ペテロの心の中のストレスやジレンマが隠されていたのではないかと思います。彼はこう考えていたのでしょう。「赦しとは英雄的な行為だ、悪いのは向こうの方なのに、こちらが大きな犠牲を払うことなのだから」と。
 すると、「こっちは無理して赦す努力をしているのだから、赦しには、限度や際限があるのが当然」という理解が出て来ます。それが「七度まででしょうか」ということばの中に秘められています。そういう考え方は、私たちにとって常識的ではないでしょうか。


3 「無限の赦し」が求められている理由
 しかしイエス様は、そんな常識を打ち破りました。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います」と。これは「7×70で、490回まで」ということではありません。「七」はユダヤの完全数です。さらに、完全数の「七」の倍数を掛け合わせるということは、「無限大」を意味します。イエス様は、「無限に赦しなさい」とおっしゃられたのです。
 ペテロはたぶんこれを聞いて、目を丸くして呆気にとられたことでしょう。なぜイエス様は、そんな途方もないことをおっしゃったのでしょう。それについてイエス様は、喩え話で説明して下さいました。
 あるしもべが、自分の主人である王様に、一万タラントの借金を抱えていました。「一万タラント」は今のお金で言うと、ざっと6千億円にもなります。どんなに働いても、一生かけても返せないほどの大金です。そこで王様は、「お前も、おまえの妻も子供も全部売り払って返済せよ」と命じたのですが、このしもべはひれ伏して「どうか待って下さい。そしたら全部お返しします」といいました。
 一万タラントもの借金。返せるわけがありません。それを見た王様は、しもべを可哀相に思って、なんと、借金を全部免除して、すっかり赦してやりました。
 このしもべは、どんなに喜んだでしょうか。ところが彼は外に出ると、自分に借金している仲間を見つけ、「借金返せ!」と首を絞めたというのです。「もう少し待ってくれ。そしたら返すから」と彼も言ったのですが、全然取り合わず、有無を言わせず牢に投げ入れてしまったという話です。
 その噂を聞いた王様が、そのしもべを呼んでこう言いました。「悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。」そして、今度はそのしもべが、牢に投げ入れられてしまったという喩え話です。
 最後にイエス様は、私たちに向かってこう教えられました。「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」
 この喩え話の「王様」は天の神様で、「一万タラントの借金があったしもべ」とは、私たちのことです。イエス様が教えて下さったのは、「私たちには、どんな被害を受けていても、人を赦すべき理由がある」ということです。
 それは、私たちが絶対償えなかった「神様に対する罪」という借金を、神様から一切帳消しにしてもらっているという恵みの中に、私たち自身が置かれているからです。それは、神の御子の十字架の御わざによるもの。あの十字架でイエス様は、値も付けられないほど尊いご自身のいのちを、私たちの「罪の負債」を償う代価として下さったのです。私たちが赦してもらった借金の重さは、この世で私たちが誰かから被った被害の重さとは、比べようもないものだったのです。
 この喩え話で、一万タラントの借金があったしもべは、他の仲間には百デナリの貸しがありました。百デナリとは、100日分の日当で、約100万円です。確かに少なくはありません。同じように、私たちも、この世にあっては、決して少なくない被害を受けます。でも、一万タラントと比べたら少ない金額です。
 そのことを心に刻むことができたら、「他の人を赦すべき理由」は、否が応でも見えて来るのではないでしょうか。そして「私も、あの人この人を赦してやらなければ」という思いが、湧き上がって来るのではないでしょうか。


4 「赦すこと」と「赦されること」は切り離せない
 ここで問題になるのは、「私たちにはそれがよく見えていない」ということです。「自分にも本当は、赦してもらわないといけないものがあった」ということが、どうも私たちは見えていないのです。
 最初に私は、「人は誰しもが『赦し』を必要としている」と申しました。それは、「私が誰かを赦す」ことだけじゃなく、「私自身が赦される」ことについても、そうなのです。その両方の「赦し」を、誰もが必要としてるのです。
 しかし、多くの人はその一方しか、頭にありません。大抵は「自分が被害を受けたこと」を考えます。「被害を受けたこっちの方が、誰かを赦さないといけない」という状況ばかり考えやすいのです。つまり、頭の中ではいつも「赦される必要があるのは、他の人」です。そして「どうして私があの人を赦さないといけないのか」というストレスで一杯になっています。でも実は、「何より私自身が赦してもらう必要のある者だ」ということが、どれだけ私たちの頭にあるでしょうか。

 昔、ジョン・ウェスレーという有名な大伝道者がいました。彼に、ある人がこんなふうに言ったそうです。ジョージア州の州知事で、軍隊の将軍でもあった誇り高いその人は、「私は決して人を赦さない」と言いました。すると、ジョン・ウェスレーは答えました。「では、あなたも、決して罪を犯さないようにするとよろしゅうございますね。」つまり、「それならあなた自身も『誰かから赦してもらわないといけない事態にならないように、決して罪を犯さないようにしたらいいですね」と皮肉ったのです。ウェスレーが言いたかったのは、「あなただって罪を犯すでしょ」ということです。「あなたも他の人から赦してもらわないと生きて行けない人間です。それなのに、『私は決して人を赦さない』などと、どうして言えるんです?」
 なんだか私たちにも言われているような話ではないでしょうか。「赦すこと」と「赦されること」、これは、決して切り離して考えられる事じゃないんですね。いつでも、ぴったりと表裏一体、結び付いています。
 だから、誰かから苦しめられて被害を受けた時、もちろんその加害者の人は、神様から罪を問われる必要があるでしょう。しかし私たち自身は、苦しめられた痛みを堪えつつも、「自分自身も赦されないといけない者だ」という事実をもう一度、見つめ直してみる必要があるのです。


結論
 前にも話しましたが、アフリカのウガンダ、スーダンで、20年くらい前から反政府テロ組織が活動しています。その集団は、村々を襲って殺人、略奪を繰り返し、子供をさらっては奴隷のように使い、子どもたちに無理やり人殺しをさせ、新たなテロリストに仕立て上げています。
 そのテロ集団の標的になった町がありました。スーダンとの国境に近く、1万人にも上る子どもたちが、連れ去られて行方不明になったというのです。そこでは夜になるとテロリストが襲って来るので、子どもたちは夜な夜な避難して、安全な所で寝泊まりする生活を続けています。そんな状況を、市民も政府も何ともできず、ただただ、苦しめられては、家族も社会もズタズタにされて行きました。
 そんな時、町の幾つかのキリスト教会が団結し「子どもたちの未来のために何とかしないと!」と立ち上がりました。なんと、テロリストたちとの対話を始めたのです。そして、和解に応じてテロリストを辞めた人たちに対し、彼らの悪事を全部赦してやった上で、自分たちの町に迎え入れて一緒に暮らすことを始めました。というのも、テロリストたちも、かつては同じ町の住人だったりしたんですね。
 それは、「自分たちのコミュニティーが、一旦は引き裂かれてしまった自分たちの共同体の交わりが、もう一度回復され、癒され、和解されて行く」ための壮大なプロジェクトだったのです。
 もちろん、簡単ではありませんでした。でも、その試みは着実に実を結んでいます。元テロリストが、一人また一人と戻って来ては、皆と一緒に過ごし始めているんですね。その町の教会の牧師たちが、こんなふうに言っています。
 「ここでは誘拐された人は、かつて自分を誘拐した人たちを知っています。拷問された人は、自分を拷問した人たちのことをよく知っています。だから、あなたがたは、彼らがお互いに敵対し合うと思うでしょう。ですが、全ての村では、かつてテロリストだった人たちが皆に迎え入れられて一緒に暮らしています。それを見て、『ここには本当の赦しが存在するんだ』と、私も教えられました。
 赦すことは、私たちの文化なのです。普遍的な共生のためには、それがどうしても必要だと考えます。
私たちは元の生活に戻って、私たちに罪を犯して痛みを与えた人たちを赦さないといけません。もしも私たちが、自分たちの共同体を癒したいと思うなら、赦しは絶対に不可欠です。もし、赦しを与えなければ、その共同体には未来がありません。赦しがなくては未来がないのです!」

 この話は、心にズシンと来るものがありました。この方々は、何より「自分たちの共同体の交わり」の行く末を心配したのですね。個人的には「赦しなど、どうして考えられるか?」という気持ちはあったでしょう。実際、この和解プロジェクトを始めた牧師の一人は、テロリストに奥さんと娘を殺されていました。
 しかし「このままでは『自分たちの共同体の交わり』は永遠にズタズタになってしまう。子供たちの交わりに未来がなくなってしまう」と憂慮して、気持ちや感情を乗り越えて、「赦し」という聖なる冒険に果敢にチャレンジして行ったのです。
 では、私たちはどうでしょう?「与えられている交わり」を何とかしたいと思いませんか。そしてそのために、「赦し」という冒険に、思い切って打って出たいとは思いませんか。
 願わくは今一度、十字架のイエス様を仰がせていただきたいと思います。そしてあの十字架によって私たちに、共に生きる交わりのための「赦し」という土台を築いて下さったイエス様に、ぜひご一緒に、ついて行かせていただきたいと思います。



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by sagaech | 2012-11-17 20:16 | 礼拝メッセージ

主にある交わりに生きる⑯「兄弟を得るために」

   日曜日の礼拝で牧師がお話した聖書のメッセージです。

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「主にある交わりに生きる」16   2012.11.4
    「兄弟を得るために」
   マタイの福音書18章15‐20節


1 「兄弟を得るため」の戦い
 今日の個所は非常に厳しく感じられたんじゃないでしょうか?罪を犯した誰かを責めるという話だからです。ここで「兄弟」と言われているのは、教会という「神の家族」の一員のこと、天の神様を「お父さん」と仰ぐ「神の子どもたち」、兄弟姉妹のことです。
 今日の話は、そんな親しい関係の中での話ですが、勘違いしないでいただきたいことがあります。イエス様は、誰かを、「神の家族の交わり」から切り捨てる話をしているわけではないんです。教会の交わりから、困った誰かをいかにして追い出すか…という教えではありません。 
 それとは全く逆の教えで、「追い出す」話じゃなく「取り戻す」話です。15節に「あなたは兄弟を得たのです」とある通り、「兄弟を得る」話をなさったんです。つまり、「教会の交わり」から離れて迷い出そうになっている誰かを、いかにして繋ぎ止めることができるか、いかにしてその兄弟を神の家族の交わりの中に取り戻せるか・・・」という話をなさったんですね。
 私たちを「教会の交わり」から迷い出させ、交わりを裂く原因となるものは、往々にして、私たち自身の罪です。それが「交わり」を引き裂いてしまうんです。そこでイエス様は、「交わりを台無しにする罪を取り去り、交わりを聖く健全なものに保ちなさい」と教えられました。だから、取り除こうとしているのは「人」ではなく、「罪」です。

 私は以前、障害者施設に勤めて、養鶏をしていました。鶏小屋に行き、鶏に餌をやり、卵を集めて来るのが日課でした。私たちの養鶏は、鶏小屋の中での放し飼いで、健康で栄養豊富な卵が自慢でした。鶏はいろんな所に卵を産むので、ある卵は、あまり綺麗じゃない所に転がっていて、土や藁や鶏の糞などが、殻にこびり付いていたりします。どうするかといいますと、まず、全部の卵を拾って箱の中に集めます。その中に、ひどい汚れの卵があったら、片っ端から取り除いて捨てる・・・じゃなく、一つ一つ手作業で、丁寧に汚れを落とすんです。その後、箱の中にもう一度戻していたんです。
 イエス様がここで教えられたことは、それに似ていると思います。私たちは、神様によってこの世の中から拾い集められた「卵」のようなもので、「罪」というひどい汚れがこびり付いていたりします。それを神様は、「これは汚れがひどいから捨ててしまえ」とはなさらず、むしろ、汚れを丁寧に取り除いて綺麗にし、なんとかもう一度「卵たちの交わり」の中に戻そうとなさるんです。
 その時、どうしても必要なことがあります。特に、交わりの当事者である私たちに期待されていることです。それをイエス様が、今日の所で具体的に教えて下さっていたんです。

 
2 「兄弟を得るため」のやり取り
 「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。」(15節)
 ここでイエス様は、「罪を責める」ことを教えられました。その意味は、「おまえ何やってんだ!」と厳しく非難することではなく、「これは罪です」と、ハッキリ示してあげて、罪を罪だと悟らせることです。
 それは、「相手を断罪して切り捨てるため」ではなく、その人が悔い改めて、神様に喜ばれる姿となり、今一度、「神の家族の交わり」の中に回復されて行くためにするんです。
 誤解してならないのは、私たちが罪赦されて、汚れが聖められるのは、私たち自身が頑張って悔い改めるからではありません。ただイエス様の十字架の御わざのおかげです。神の御子が十字架の上で、私たちの身代わりとなって尊いいのちを捨てられた・・・、その犠牲のおかげで、初めて私たちは、罪を赦され聖められるのです。
 ですが、その赦しと聖めを頂くためには、まず私たち自身が、自分の罪を認めて神様に心を開くことが不可欠です。それが聖書の言う「悔い改め」で、それがないと、せっかくの「赦しと聖め」も私たちの手には入りません。そこで、「悔い改め」を促し合うことを、イエス様は教えられたんです。「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい」と。
 わざわざ、「ふたりだけのところで」と言われているのは、「兄弟を得る」ための配慮です。単に「断罪して切り捨てるため」なら、そうする必要はなく、皆の前で罪を責めればいい。でも、その人ができるだけ悔い改めやすく、交わりに戻りやすいようにするために、まず「ふたりだけでプライベートに話しなさい」と勧められているんです。

 それを聞き入れなければ、「ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい」と言われました。「二人か三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです」と。二人だけなら、力関係によっては全然話が聞き入れられないこともあるでしょう。反対にやり込められて終わってしまうかもしれません。それで、一対一でダメな場合は、他の兄弟姉妹と一緒に行って、二人か三人で悔い改めを促しなさいと教えられたんです。
 これもまた配慮です。罪を犯している人が、たとえどんなに心を固く閉ざしていても、なんとか罪を聖められて、「交わり」の中に回復されて行くように願っているんですね。だからこそ、二、三人体制で「悔い改め」を促しに行くんです。
 「それでもなお、言うことを聞きいれようとしない」場合は、「教会に告げなさい」です。それは、公けに知らされることで相当シビアですね。それでもこれは、やっぱり配慮です。「二、三人でもダメなら、教会の皆に知らせて、その人が真剣に悔い改めるチャンスを与えなさい」ということです。これもまた、「切り捨てるため」ではなく、「その人を交わりの中に取り戻すため」のギリギリのやり取りなんです。

 それでもダメだったら・・・、最後にイエス様は言われました。「その場合は最後の手段として、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい」と。これは、当時のユダヤ社会じゃ非常に厳しいことです。
 「異邦人」とは、ユダヤ人にとっては「自分たちの交わりの外にいる人たち」で、「神様との交わりから締め出されている人たち」でした。「取税人」は、ユダヤ人ですが、ユダヤを支配していたローマのために、同胞から税金を巻き上げる仕事をして、陰で、ピンはねして不正な儲けをしていた人たちで、とても嫌われ、「交わりの中から実質的に締め出されていた人たち」でした。
 だから、「異邦人か取税人のように扱う」とは、「辱めを与えて、戒める」という意味です。それでも、単に「辱める」ことが目的ではありません。「異邦人や取税人」は、当時のユダヤ人にとっては「辱められ切り捨てられるべき人」でしたが、イエス様は違いました。イエス様は、「異邦人や取税人」の中に進んで入って行き、親しくお交わりをしました。それは、彼らを「悔い改め」に導き、「神様の許での幸いな交わり」の中に回復してあげるためだったんです。
 だから、この最後の手段さえも、目指していたのは「切り捨て」じゃなく、「回復」「取戻し」です。あの「放蕩息子」のように、辱められ戒められたことを通して、我に返って悔い改め、「天のお父さんとの交わり」の中にもう一度戻る・・・、それをイエス様は願っていらっしゃったんです。


3 「兄弟を得る」という使命の重大さ
 このようにイエス様は、「いかにして兄弟を得るか」、「いかにして、迷い出そうになっている魂を、『神様の交わり』の中に取り戻すか」を教えて下さいました。そしてその働きを、私たち教会にこそ期待なさっている、ということです。それがいかに重大で尊い任務であるかを教えるために、イエス様は言われました。
 「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」
 「つなぐ」とは、「綱や縄で牢屋などに繋いでおく」ことで、「赦さない」という意味です。一方、「解く」のは反対で、「縛っていた縄を解いて放免する」、つまり、「赦す」ことです。
 もちろん、「誰かを赦すか赦さないか」という重大な決定は、人間にできることではなく、神様にしかできない領域、権限です。ですが、イエス様の十字架の赦しを与えられた私たち教会は、この世にあって神様の代理人として「赦しを宣言する」務めを委ねられているんです。
 それは、とても重大な務めです。今日の話に当てはめるなら、私たちは、「罪を犯した誰かを赦さずに、交わりから切り捨ててしまうのか・・・、それとも、赦しをもって交わりの中に取り戻すのか・・・、その務め、責任が委ねられている」ということです。
 しかも、私たちが「地上の交わり」で誰かに対して行う赦しは、「天の御国の交わり」においても、そのまま反映されるとは、なんと厳粛な話でしょうか。そんな重大な働きが、私たち教会に委ねられ、期待されていると、イエス様は仰せられます。ならば、私たちはこの働きに、どれだけ熱心に、心砕いて勤しまないといけないことでしょうか。 

 以前、こんな話がありました。東京で、ある宣教師が責任をもっていた教会に、「将来は宣教師となって働きたい」という思いを温めていたクリスチャンの姉妹がいました。
 その方が、ある日突然、宣教師にこう言い出したというのです。「結婚してイランに行きます。」相手はイラン人男性で、イスラム教信者だというのです。宣教師の先生はビックリして非常に心配しました。イスラム教国で、宣教師も命懸けでないと暮らせない所へ行き、伴侶も周りもイスラムの方々。教会に行くなど不可能で、クリスチャンとして信仰を守って行けるのか…。信仰を失って、非常に辛い思いをするだろう…。事実上、その女性は既に、信仰も、教会の交わりも、心の中で捨ててしまっている状態でした。
 宣教師の先生は、なんとか彼女が思い直すように、一生懸命説得を試みました。一対一で長い時間をかけて話をしました。イエス様が、「行って、ふたりだけのところで責めなさい」と言われた通りにしたんです。しばらく経って、説得から戻った宣教師は、首を振り、目を涙で潤ませ「ダメでした・・・」と。それっきり、女性はあっという間に姿を消して、旅立ってしまいました。
 何か月か後に、イランからの便りがありました。案の定、「厳しい現実の中で、教会にも行けず、他のクリスチャンと交わるチャンスすらなくて、魂が飢え渇いて苦しんでいます、助けてください・・・」という内容です。それで、礼拝のメッセージテープなどを送ったりしたものの・・・、これは非常に残念なケースです。
 この話から教えられることは、教会とは「単に皆で集まる所」ではなく、「兄弟を得るため」に、「兄弟姉妹を神様の交わりの中に繋ぎ止めて取り戻すため」に、心を砕いて必死に、共に労する所だということです。


結論
 「そういう大切さは分かるけど、私なんかに出来ない、無理です」と、思われるかもしれません。けれども、だからこそイエス様は、そんな私たちのために「祈る」ことを教えて下さったんです。
 「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちのふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
 私たちは、自分の問題のためには熱心に神様に祈ります。でも、ここでは特に、「同じ交わりにいる誰かのために祈り合う」ことが言われています。 「兄弟を得る」ためにこそ、共に祈るのです。私たちの中の誰かが、様々な試練によって希望を失い、神様の幸いな交わりから迷い出てしまうことがないように、祈る。この世の悪しき誘惑に惑わされ、神様の祝福あふれる交わりから一人も離れ去ることがないように、祈る。迷い出た人がもう一度、幸いな「交わり」の中に戻って来るように、一緒に祈るんです。
 それこそ、「教会の交わり」が、「この世の交わり」と決定的に違う点です。私たちは、「神の家族」である「教会の交わり」の中に、不思議な導きによって招き入れられました。そこで、いろんな方から大切に覚えていただいて、祈ってもらうようになりました。
 いつも誰かから祈られる、それによって毎日見えない所で支えてもらって暮らす、そういう恵みを知りました。この世の嵐が激しく吹きつけて来る時も、私たちが「幸いな神様の交わり」の中にしっかり留まり続けるように、誰かによって一生懸命、真実に、時には涙をもって、祈ってもらっているんです。私たちは、そんな類い稀なる幸いな「神の家族の交わり」の中に、招き入れていただいています。なんという恵みでしょう。
 では、皆さんは今、「神の家族の交わり」の中にしっかり繋がっておられますか?また、皆さんの周りには、「この兄弟を得るために」と、一緒に心を合わせ、とりなし祈るべき誰かがおられませんか・・・?
 願わくは、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」と言われたイエス様を信じ、共に祈って労する「交わり」を、ぜひご一緒に営ませていただきたいと思います。そして、「あなたは兄弟を得たのです」とのおことばを、感謝をもって分かち合う・・・、そういう歩みをして行くことができますよう、心からお祈りしたいと思います。




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by sagaech | 2012-11-16 18:55 | 礼拝メッセージ

イエス様の母になったマリヤ(11月のお話から)

   チェリーキッズは、毎月1回土曜日の朝に行っている子ども会です。

   詳しくはこちらをご覧ください。


この記事は、集会のお話をまとめてお便りに掲載した子ども向けメッセージです


イエス様の母になったマリヤさん  
ルカ1:26-38


イエス様のお母さんは、マリヤさんだったね。
どんなふうに、神の子イエス様の母になったのかな?
マリヤが、まだ14、15歳の若い女の子だった時。
マリヤには、ヨセフという婚約者がいて、二人は神様の前で、
正しくきよく過ごしていた。マリヤは、きよらかな乙女だった。
そんなマリヤの所に、ある日、天使が現れた!マリヤは、ビックリ。
天使はマリヤに言った。
「おめでとう、恵まれた方。神様があなたと一緒におられます。」
マリヤは、驚いて、「これは、いったい何なの?」と考えた。
天使:「あなたに、まもなく赤ちゃんができて、男の子を産みます。
名前をイエスとつけなさい。その子は、すばらしい人になり、
天の神様の子と呼ばれ、永遠の国の王様になります。」
マリヤ:「どうして、そんなことがあるでしょう?
私はまだ、結婚していない、男の人を知らない乙女です。」
天使:「神の聖霊があなたのもとに来て、神様の大きな力が、
あなたを覆うのです。生まれる子は、聖なる神様の子です。
神様にとって、不可能なことは、一つもありません。」
マリヤは、神様の力を思った。「ああ、私たちの神様は、昔からずっと、
不思議な奇跡や力で、私たちを導いて下さった。
神様にできないことはないって、本当だわ。
私には、なんだかわからないけど、天使が目の前にいるんだもの。
神様が、なにか特別なことをなさろうとしているんだわ。」
そしてマリヤは、天使に言った。
「本当に、私は、神様にお仕えする、小さなしもべです。
どうぞ、あなたのおことば通り、この私の身になりますように。」
 こうして、天使ガブリエルは、マリヤから離れていった。
そして、神様のことばの通り、まもなく、マリヤのお腹に赤ちゃんが宿った。
やがてマリヤは、お腹に宿った神様の子を産む…。それが、イエス様だ。

マリヤは、こんな不思議な方法で、イエス様のお母さんになったんだね。
きよらかな乙女が、突然、お腹に赤ちゃんを宿して、男の子を産むって、
人間が考えたら、わからない不思議なこと…。
普通、赤ちゃんのいのちは、お父さんとお母さんからもらうけど、
マリヤは、たった一人で赤ちゃんを宿した。
じゃあ、その赤ちゃんのいのちは、いったい、どこから来たの? 
それは、神様のもとから!そう、神様にできないことなんて、何もない。
神様は、何でもできるから神様だし、世界のすべてを造った方。
いのちは、すべて、神様から来たんだもの。だったら、神様の子が、
人間のところにきて、赤ちゃんになることだって、できるでしょう。
マリヤは、そのことを信じて、受け入れたんだね。
 
みんななら、どうかな?神様の子を産むことはないけれど、
「自分には、無理~」とか、「そんなの、ありえない」っていう時、
「でも、神様にはできるんだ!」って、信じることができるかな?
マリヤように、神様の力を、素直に信じることができる人は、
辛いときも、大変なときも、負けることはないよ。
神様の特別な力で、いつも支えられていくからね。
自分は弱くても、神様が助けてくださるよ。
神様は、信じる人を、絶対に見捨てたりしない。
みんなも、マリヤのように、神様の大きな力を信じていこうね。

  聖書のことば
「神にとって不可能なことは一つもありません。」 ルカ1:37




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by sagaech | 2012-11-10 20:06 | チェリーキッズ(子ども会)

クリスマス・クッキー作りをしました(11月のチェリーキッズ)

   チェリーキッズは、毎月1回土曜日の朝に行っている子ども会です。

   詳しくはこちらをご覧ください。



こんにちは、チェリーキッズです。
クリスマスも近い11月の集会は、
クリスマス・クッキー作りをしました。

礼拝前に、みんなでせっせとクッキー作り。
予定では、クリスマスツリーとベルの
かわいい型ぬきクッキーでしたが…

ちょっと、生地がうまくいかなくて、
まるいクッキーに、それぞれ自由に
飾りつけをしてもらいました。
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クッキー作りが好きなYちゃんが
可愛い型ぬきを楽しみに見ていました。
 先生:「ごめんね、今度がんばるから…」
 Yちゃん:「うん」
失敗した時の子どもの気持ちがわかった感じです。

でも、子供たちの自由な発想は、楽しくて可愛い!
クリスマスっぽいもの、いろんな顔、
「これ宇宙人だよ」とか、
女の子っぽく優しい色合いとか、
切り込みを入れてみたりとか…
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礼拝とクラスをしているうちに、
どんどん焼きあがりました。
「わあ~、いっぱいできた!」
つかれも、とんでいったね。
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聖書のお話は、マリヤさんのこと。
どんなふうに、イエス様のお母さんになったの?
(メッセージ記事をごらんください)

突然、赤ちゃんを宿すと言われたマリヤのように
「どうして?私は・・・なのに」って思うこと、あるよね。
「そんなの、ありえない」って思うことも。

大事なことは、「神様にとって」
できないことは何もない、ということ。
「私たちにとって」、じゃないんだね。


みんなで作ったクッキー、
自分で飾ったクッキー、おいしいね。
自由に作って、よかったみたいです。
素朴な、やさしい味わいでした。
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子供たちのユニークなクッキーで、
ママも先生たちも、元気をもらいました。
今日も、ありがとうございました。
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来月は、12月1日(土)に、
アドベントカレンダーと
ケーキデコレーションのダブルです。


わが子よ。もし、あなたの心に知恵があれば、
私の心も喜び、
あなたのくちびるが正しいことを語るなら、
私の心はおどる。
旧約聖書 箴言23:15-16



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by sagaech | 2012-11-10 19:44 | チェリーキッズ(子ども会)

ラフランスたっぷりのクラムケーキ(11月のサークルハンズ)

   女性のための集会は2つあります。
   「サークルハンズ」は、楽しみながら集まる趣味の会です。(月1回)
   「オリーブ会」は、聖書の学び、分かち合い、お祈りを共にする会です。(月2回)


こんにちは、サークルハンズです。
今月は、旬のフルーツを使った
焼き菓子を2つ作りました。

紅玉と、ラフランス。
どちらも香り良く、ケーキにピッタリ。
赤と緑と白…クリスマスを思う色です。

ラフランスのクラムケーキは、
前にジュニアの集会で作ったけれど、
今回はラム酒を加えて、大人の香りに。

出初めのラフランスを贅沢に、てんこ盛り。
「山形で良かったね!」って。
表面こんがりと、焼きあがり。
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もう一つ、パイシートでアップルパイ。
クランベリーの赤がアクセントです。
山形産のハックルベリーのジャムも。

生ラフランスたっぷりケーキは
切ったら崩れちゃいましたが、
焼いてトロトロに甘ーいラフランスに感動。
f0238747_2030347.jpg


「聖書のお話を聞けて、美味しいお菓子食べて、
幸せだね。」 「クリスチャンじゃないのに、
ここに混ぜてもらって(うれしい)。」
交わりも深まって、感謝いっぱいでした。

今日のお話は、詩篇90篇から。
永遠の神様の前で、短い私たちの一生ですが、
与えられた一日を感謝して過ごしましょう。

それゆえ、私たちに
自分の日を正しく数えることを教えてください。
そうして私たちに
知恵の心を得させてください。詩篇90:12





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by sagaech | 2012-11-08 20:35 | 女性の集会

紅葉遠足を楽しみました

   女性のための集会は2つあります。
   「サークルハンズ」は、楽しみながら集まる趣味の会です。(月1回)
   「オリーブ会」は、聖書の学び、分かち合い、お祈りを共にする会です。(月2回)


こんにちは、オリーブ会です。
秋も深まる11月1日、
紅葉遠足に行きました。

山形市の山寺風雅の国へ。
雷雨の予報の中でしたが、
不思議と晴れ間がどんどん広がって感謝!

紅葉のベストには、あと一歩でしたが、
散策したり、買い物したり、
ランチやお茶をしたり。

周囲の散策道に沿って、
俳句石がずっと並んでいました。
芭蕉さんにちなんだ所ですから。

やっぱり、「命」とか「祈り」とかいう
ことばがふと目に留まります。
あっ、「聖書」を詠んでいる句が!
思いがけず、嬉しい発見でした。
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オリーブ会の秋の遠足は、何年ぶり…?
先の行事で奉仕に励んだメンバーや、
病気と闘っている方々も集い、
この日はリラックスして、秋の日を楽しみました。

今年の教会テーマ「主にある交わりに生きる」。
秋のやわらかな光の中で、
その恵みを実感した一日でした。
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私たちの主イエス・キリストの父なる神が
ほめたたえられますように。
神はキリストにあって、
天にあるすべての霊的祝福をもって
私たちを祝福してくださいました。
エペソ1:3





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by sagaech | 2012-11-07 14:27 | 女性の集会