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クリスマス・コンサートのご案内

2013年もアドベント~クリスマスが近づきました。
教会では、今年も
クリスマス・チャペル・コンサートをおこないます。
小さな教会のアットホームなチャペルコンサートです。
国内外で活躍されているプロの演奏を
間近に見て、聴いて、お楽しみいただけます。
どうぞ、お気軽においでください。

 演 奏: 蜷川いづみ(ヴァイオリン)
       柳瀬佐和子(ピアノ)
      「ユーオーディア・アンサンブル」メンバー

 日 時: 2013年11月30日(土) 
       午後6時30分開演 (開場6時)
 入場料: 前売り 高校生以上 1000円
             中学生以下  500円
       当日券 高校生以上 1200円
             中学生以下  600円
  
  

★前日までにお電話を頂ければ、前売り券をご用意いたします。
  
★駐車場は、教会の前と後ろにございます。
 佐藤歯科医院様の駐車場もご利用になれます。(当日のみ)
           
★お問い合わせ: 0237-85-6255(教会)


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by sagaech | 2013-11-30 23:37 | イベント

「普通ではない救い」

   日曜日の礼拝で牧師がお話した聖書のメッセージです。


 2013.11.26
 「普通ではない救い」     
 マタイの福音書21章33‐46節



 はじめに 普通ではない話
 最近テレビや新聞で、食材偽装のニュースが話題になりました。全国の有名ホテルのレストランで、メニューに書いてる食材に嘘がありました・・・って話です。「芝エビのエビチリソース」が本当は芝エビじゃなくてバナメイエビでした、車エビのエビフライが、ブラックタイガーのエビフライでした・・・って話です。つまり、「高級なエビだ」と嘘ついて、高い値段で安いものを出していたということですね。
 しかも、「良い物を誠実に!」を売りにしてたお店がそんな感じだったんです。こういうことは「普通のこと」でしょうか?「普通じゃない」ですよね!だけど、あれから次々と、「うちもです、うちもです、申し訳ありませんでした」と、謝罪会見のオンパレードになりました。ということは、「普通じゃないこと」が、「普通のこと」になっていたんです。「なんて矛盾だ!」って思うんですが・・・、実は今日の話も「普通じゃないお話」なんです。


1 普通ではない「ぶどう園」の農夫たちとその主人 まずは、この農夫たちが普通じゃないんです。農夫たちとは小作人のことで、自分の畑がないから、雇ってもらわないと食べて行けない人です。だから、雇ってもらって「ぶどう園」で働けるというのは、恵みであって感謝するべきことです。しかも、この主人はべつに、酷い主人じゃなく、ただ、収穫の時が来たんで、自分の「ぶどう園」から自分の取り分を、普通に受け取ろうとしたんです。
 ところがこの農夫たちは、その当然主人に納めるべきものを納めなかったんです。それどころか、主人が送ったしもべたちをことごとく、「袋だたきにして、石で打って殺し」たんです。しかも、最後に主人が息子を送って来たら、「あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れよう」って、その息子を「ぶどう園に追い出して殺してしまった」んです。
 これは酷い話じゃないですか?「普通じゃない話」です。「人の道」にも、雇ってもらった恵みにも反しています。「恩を仇で返す」ような、あまりに恩知らずの態度じゃないでしょうか?

 けれども、それに輪を掛けて「普通じゃない人」がいたんです。それは、この「ぶどう園」の主人です。もしも、自分が雇った農夫がこんなことをしたら、普通は即刻クビです。ところがこの主人は、それでも彼らを雇い続けたんです。おそらく、「クビにしたら食うのに困まるだろう」と心配したんでしょう。だけど、普通は「そんなこと知ったことか!」です。でも、主人はそうは言わなかった・・・。これは、「普通だったらあり得ない憐れみ深さ」です。
 しかも、この主人は、この農夫たちが何とか悔い改めることを期待して、何度もしもべを使いに出すんです。それでも悔い改めないんで、今度は「私の息子なら、敬ってくれるだろう」と言い出して、なんと、自分のひとり息子を、こんなに酷い奴らの所に遣わしちゃうんです!
 これは、あまりにも「お人好し過ぎ」ますね。「こんな酷い奴らに、これでもまだ目を掛けて、期待してやるの?それって、あまりに『普通じゃないこと』じゃない?」と言いたくなるんじゃないでしょうか・・・。


2 「ぶどう園」の普通ではない姿は、私たちと神様のこと
 こんなふうに、この喩え話は、「普通じゃない話」で一杯です。イエス様は、この話で何を教えているんでしょうか・・・?実はイエス様は、「この『普通じゃない話』は、あなたがたのことですよ」と仰っていたんです。
 イエス様は、この話を「祭司長たちとパリサイ人たち」に語りました。その人たちに、「これは、あなたがたと神様の話だ」と言っていたんです。「つまり、あなたがたはこの農夫たちだ。この農夫たちみたいに『普通じゃないこと』を、天の主人である神様に向かってやっている!」と言ったんです。
 実は、祭司長とパリサイ人たちは、自分たちに格別な恵みを下さっている天の主人である神様に、当然納めるべきものを納めなかったんです。それは、「神様のことを心から信じて敬う生き方」でした。彼らはユダヤの宗教指導者だったのに、それが全然できていなかったんです。
 それで神様は、度々ご自分のしもべである預言者たちを遣わして「悔い改めよ」と警告しましたが、彼らは、その預言者たちを拒んで迫害したんですね。袋だたきにして、石で打って、殺したんです。それで、神様は、「最後の切り札」として、ご自分のひとり子イエス様をお遣わしになったんです。ところが彼らは一向に悔い改めないで、「このイエスとやらを、十字架につけて殺しちまえ!」と企てていたんです。これって「異常な話」、「普通じゃない話」じゃないでしょうか・・・?
 けれども、こうした姿は何も、彼らに限ったことじゃなく、今の私たちの中にもあるんじゃないでしょうないか?つまり、神様の憐れみ深い姿に背を向けて、神様が優しいことをいいことに、ますます図に乗って神様のメッセージを平気で拒み続けることです。もし、それがエスカレートするなら、神様はどうするんでしょう? 
 祭司長とパリサイ人たちは、「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、・・・別の農夫たちに貸すに違いありません」と言いました。するとイエス様も、「だから、わたしは、あなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます」と仰せられたんです。
 ここで、「ぶどう園」とは「神の国」のことだと分かって来ます。「神の国」とは「神様の支配が及んでいる世界」のことで、「永遠に続く神様の救いの世界」のことです。ところがそれが、「取り去られる」とは・・・、なんて恐ろしい話じゃないでしょうか・・・? 


3 神様が用意された「普通ではない救い」
 ですが、「自分の蒔いた種」とは言っても、もし自分自身の罪のせいでそうなったとしたら、もう一巻の終わりなんでしょうか?「もはやこれまで」で、あとは「容赦なく裁かれる」運命なんでしょうか・・・?
 そこで、イエス様がお語りになったもう一つの「普通じゃない話」を見てみましょう。42節です。
 「家を建てる者たちの見捨てた石。  それが礎の石になった。
 これは主のなさったことだ。 私たちの目には、不思議なことである。」
 
 これは、大工さんが「こんなの役に立たない」と捨てた石が、気付いたら、家にとってなくてはならない土台石、「礎の石」に使われていたという話です。つまり、一旦は「必要ない」と捨てられたものを、神様は、皆の救いのために必要不可欠なものにしたということです。何とも不思議な話ですが、いったい何を言っているんでしょうか?
 実は、イエス様のことです。イエス様は、例え話の農夫たちが主人のひとり息子を殺したように、この世の人たちから「必要ない」と思われて、十字架につけられて死なれました。でも実は、イエス様は、十字架の上で私たちの罪を背負い、私たちが赦され救われるための「救いの土台」となって下さった。その結果、十字架の御わざを信じる人は、たとえどんなに大きな「普通じゃない罪」を犯しても、赦され救われる・・・ということになったんです。あるいは、どんなに大きな災難に見舞われて絶望しても、イエス様の十字架を「救いの土台」とするなら、絶望的な中からも救われる・・・ということです。つまり神様は、ご自身の物凄く「普通じゃない方法」で、「普通なら絶対考えられないような救い」を、私たちのために用意して下さったんです。

 世の中では「普通じゃない話」というのは多くの場合、「良い話」よりも、「良くない話、悪い話」です。最近、迷惑メールがたくさん来ます。英語で書いてあるその内容が「普通じゃない」。「もう、何度もメールをしてますが、これは絶対に良い話です!誰にでも誘える仕事じゃない。あなたの能力を見込んで誘っている。月200万円は稼げます!興味があったら、ぜひ連絡して下さい。」しかも、同じメールが一斉に、大勢の知らない人から来る。これって「普通じゃない」、物凄く怪しい話です。こんなふうに、「普通じゃない話」とは、大概は「簡単に信じちゃいけない話」です。
 だけど、神様は違うんです。神様は、本当の良い意味での「普通じゃない話」をなさるんです。神様だけは、本当に信じても大丈夫な「普通じゃない救い」をお与えになるんです。
 

4 駆逐艦「雷」の工藤艦長を巡る「普通じゃない救い」
 太平洋戦争の真っ最中に、インドネシアの海で、日本とイギリスの海戦がありました。日本が勝利してイギリス戦艦が沈没し、何百人ものイギリス兵が漂流しました。味方の船も助けに来なくて、生き残った兵士たちは、死を覚悟したんです。
 でもその時に一隻の船が現れた。「助かった!」と思ったら、味方ではなく日本の駆逐艦だったんです。それで、「殺される」って震え上がったそうです。なにせ、当時は「日本人は残虐だ」と専らの噂でした。誰もが「もうダメだ!」と覚悟しました…。
 ところがその駆逐艦は、イギリス兵たちに向かって救難梯子を降ろして来たんです。さらに、竹竿やクレーンや網や、使える物を全部使って救助し始め、ある日本兵は海に飛び込んで救助してくれたそうです。そして、ついに、一人も残らず救い上げてくれたというんです。しかも、救助されたイギリス兵士は丁寧な扱いを受けました。汚れた体を綺麗に洗ってもらい、水や食料をたっぷり与えてもらったんです。それから、その日本の駆逐艦の艦長が、英語でスピーチしたそうです。「あなたたちは勇敢に闘った。今や諸君は、日本海軍の名誉あるゲストです。」実はその船は、日本海軍の「雷」という名前の駆逐艦で、艦長は工藤俊作という、山形県の高畠出身の方でした。この工藤艦長の決断によって、これらの救出劇の一切が実行されたんです。
 これは当時を考えると信じられないことでした。「普通じゃあり得ない救助活動」です。当時の国際的な決まりでも、「戦争中の海では、味方であっても救助する義務はない」となっていました。それを、味方じゃなく敵なのに、助けてくれたんです。それは助ける方にとっても命掛けでした。救助中に、いつ敵の潜水艦に狙われるか分かりませんでした。さらに、「なんで敵なんか助けるんだ、大事な水や食料を敵なんかに分けてやるんだ!」と非難の声も上がったんです。それでも工藤艦長は、「敵とて人間。弱っている敵を助けないのはフェアじゃない!」と言って、救助活動を断行したというんです。 
 なぜ工藤艦長は、そういうことが出来たんでしょう・・・?それを探ってみると、キリスト教との関わりが見えて来るんです。この工藤俊作さんは、海軍兵学校で学びました。日本の海軍兵学校は、明治の創設当初から、イギリス人教師を招いてキリスト教の教えを取り入れた精神教育をして来たんです。まずは、そういう影響があったんです。
 それからもう一つ、彼は幼い頃、あるエピソードを家の人から口癖のように聞かされていたといいます。それは、昔、山形県の米沢で起きたキリスト教宣教師についての事件の話です。
 明治27年、一人の若いイギリス人女性宣教師が、米沢の上杉公園で伝道していたら、何者かに石を投げられて片目が失明する事件が起きました。当時の山形県知事が、それが原因で国際紛争になるんじゃないかと心配して、全力を挙げて犯人逮捕に乗り出したんですが・・・、その宣教師は、「犯人は捜さないで下さい」と願い出たんです。つまり、「犯人を赦してやって下さい」ってお願いしたんです。これもまた、「普通じゃ考えられないような赦し、救い」じゃないでしょうか!
 当時、山形県民は、この話に非常に感動したそうです。そして、その話に心を打たれた犯人も、自首して来たんです。それは、米沢興譲館の学生で、関才右衛門という人ですが、この人はやがてクリスチャンになりました。そして、彼もまた海軍兵学校に入学し、さっきの工藤艦長の先輩となったんです。


まとめ           
 工藤艦長は、戦争中の敵に対して「普通では考えられない救い」を差し出しました。その工藤艦長の心の中にあったのは、「普通では考えられない救い」を無償で差し出した、あのイギリス人女性宣教師の姿だったんじゃないでしょうか?そして、その女性宣教師の心の中にあったのは、「普通じゃ考えられない御救い」を十字架の上から差し出して下さってるイエス様だったんじゃないでしょうか?
 だから、神様の「普通じゃない救い」は、確かにあるんです。今もそれは、この世の中に与えられていて、信じる人たちによって、しっかりと受け取られています。そして、その「普通じゃない救い」を頂いた人たちを通して、さらに活き活きと、大勢の人たちにその「救い」が伝えられ、証しされ、差し出されています。
 もしも皆さんが今、「普通ではない苦難」の中にいらっしゃるならば、ぜひ知って頂きたいと思います。あなたの「普通ではない苦難」を覆す「普通ではない救い」が、あなたのためにも天より与えられています。その「御救い」をあなたにも与えようとして、救い主がやって来たんです!
 そのことをお祝いするクリスマスが、もうすぐやって来ます。ぜひ、「普通ではない神様の救い」を、信じて受け取るクリスマスを、ご一緒に迎えさせていただきたいと思います。




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by sagaech | 2013-11-28 20:41 | 礼拝メッセージ

2013年のアドベントカレンダー作りました(11月のチェリーキッズ)

   チェリーキッズは、毎月1回土曜日の朝に行っている子ども会です。

   詳しくはこちらをご覧ください。



こんにちは、チェリーキッズです。
アドベント間近の11月末。
今年もアドベントカレンダーを作りました。

まずは、アドベントの礼拝から。
大人の礼拝用のアドベントクランツは
まだ登場しませんでした。
チェリーキッズ用キャンドルを1本灯して。
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聖書のお話は、東の博士たちの旅。
「神様は、私たちのことも導いて、
守ってくださるって、そう思う?」
「うん、思う。安心する。」

神様にひとこと応答のことばを書いて、
それぞれ、先生たちとお祈りする。
神様を思うと、安心の顔つきになるね。
暗誦聖句も、なれてきたね。

さあ、アドベントカレンダー。
2013年バージョンは、これ。
ポイントは、キャンドルが1つずつ増える写真。
今年は、12月1日がスタートです。
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日曜日は、ミニチョコ。
平日は、キャンディ。
イブ・チョコは、ナッツ入り。
クリスマスはクッキー。
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ペタペタと、はりつけて…
「あれっ?ミニチョコは、日曜日だよ!」
(平日に、ミニチョコをはっているT君)
「いいの!ぼくは、これで!」
「Tは毎日が、日曜日モードなのかな」
(ママのフォロー)

はい、今年のカレンダー完成!
1日ごとに1個ずつ食べて、
クリスマスを待ち望もうね。
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主のあわれみは尽きないからだ。
それは朝ごとに新しい。
「あなたの真実は力強い。
主こそ、私の受ける分です」と
私のたましいは言う。
それゆえ、私は主を待ち望む。(哀歌3章)




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by sagaech | 2013-11-26 21:11 | チェリーキッズ(子ども会)

モンブランのパンケーキ作りました(11月のジュニア)

   チェリーキッズ・ジュニアは、毎月1回日曜日の午後に行っている中高生会です。
   詳しくはこちらをご覧ください。


こんにちは、ジュニアです。
秋の最後の味わいを楽しんで、
11月は、初メニュー登場。
「モンブランパンケーキ」を作りました。

「この時期は、どんな気持ちになる?」
中学生のKちゃん、すぐに答えました。
「今年も早い…」(ふぅ~…)
お疲れですね。中学生は忙しいのです。

聖書のお話を聞いて、心をリフレッシュ!
忙しい毎日だけど、お祈りを忘れないで、
神様に支えていただきましょうね。

さて、デザートタイム。
色も香りもいい紅玉リンゴは
軽くキャラメリゼして、
色も形も残しましょう。
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パンケーキ係は、Kちゃん。
あの震災直後を思い出します。
物不足、ガソリン不足、自粛ムードの中、
メニュー変更して、手に入る材料で、
パンケーキで卒業祝いをした思い出…。
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あの時小学生だったKちゃんが、
パンケーキを沢山焼いてくれました。
初めてなのに、上手だったよね。
今回も、上手に焼いてくれました。

モンブランクリームは、北海道の栗を
ペーストにして作ったけど、ゆるすぎ…
しまりないモンブランになっちゃいました。
アクセントに、栗の渋皮煮を。
今日も、ありがとうございました。
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若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、
鷲のように翼をかって上ることができる。
走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
イザヤ40:30-31





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by sagaech | 2013-11-23 20:20 | チェリーキッズJr(中高生会)

「神様に、真の親の姿を見よ」(祝児式礼拝)

   日曜日の礼拝で牧師がお話した聖書のメッセージです。
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祝児式説教     2013.11.17
  「神様に、真の親の姿を見よ」
  イザヤ書49章14-16節



1 最高の愛であるはずの「親の愛」が崩壊したら・・・
 「親の愛」は、世の中では最高の愛だと言われます。それは最も純粋な愛で、他のどんな愛より献身的で無償の愛だと。特に、母親が自分のお腹を痛めた子どもを思う愛は並大抵じゃないですね。震災の時も、お母さんが幼い子を抱いたまま亡くなっていたという話を何度か聞きました。そんなふうに、母親というものは、自分の体を盾にしてでも我が子を守ろうとします。そんな話を聞くと、「やっぱり親が子どもを愛する愛は偉大なあ」と思います。
 その一方で、正反対の現実もあります。我が子への児童虐待です。子供を虐待する大人の6割が実の母で、続いて多いのが、実の父親で、これも四分の一もあるんです。お母さんに虐待が多いのは、子どもと一緒にいる時間が多いからだと思います。お父さんは仕事で、祖父ちゃん祖母ちゃんは一緒に住んでいない、おまけに近所付き合いもほとんどない。子育ての大変さを一人で抱えるストレスが溜まって子どもに八つ当たりし、思わず虐待しちゃう・・・。でも、そういう理由だけではないケースも、色々あるようです。
 
 ある精神病院の院長が、患者さんから聞いた虐待被害の実態をインターネットで公開しています。赤城高原ホスピタルの先生ですが、もちろん患者さんの同意の下になさっています。先生のお話では、そうした虐待を受けた人たちの悲鳴は、ほとんど知られず闇に葬られているそうです。そんな悲鳴を公開することで、少しでも虐待の歯止めにつながって欲しいと願っておられるのだと・・・。
 実際、そこには信じられないような虐待の話が沢山報告されています。注目すべきは、親から虐待を受けた子どもたちが、非常に重い症状にずっと悩まされ、人生がメチャメチャになっていることです。
 ある18歳の女性の体験です。
 「小学2年生の頃だったと思います。算数の点数が悪くて60点でした。私が土下座して謝ったけど、お母さんは私の頭をスリッパのまま足で踏みつけました。何度も何度も。『産まなきゃよかった、死んでしまえ!』と怒鳴りながら・・・。でも、悪いのは私、悪い事をして罰を受けるのは当たり前です。お母さんは悪くありません。」この方は今、解離性精神障害を患っておられ、自傷行為もあるそうです。
 別の方のお話です。
 「父は・・・、酒は飲まないけれど、短気で切れやすく、一旦怒り出すと手が付けられなくなる暴力男でした。2歳年下の妹は・・・、いつも被害を受けていました。妹が3、4歳の頃には綱で縛り上げ、手の甲に電気ショックを与えていました。24歳の今でも、その傷が両手の甲に残っています。そんな暴力で、妹が泣きわめくと包丁を顔の近くに投げつけたりしてました。・・・妹が20歳代に自殺未遂を繰り返すようになったのは、そのことが関係していると思います。」
 その妹さんは、摂食障害と薬物依存とアルコール依存症、解離性障害も患っておられるそうです。ここでは紹介しませんが、もっと酷い話、特に、性的虐待の話が沢山あります。報告されている話は氷山の一角なんですね。平和に見える日本の家庭にも、信じられないような事が、どれほど起こっているのでしょうか・・・。

 なぜ、こんなことが起きるんでしょう?
 聖書は言います。「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。・・・」つまり、「普通なら母親は、自分のお腹を痛めた子どものことは忘れない、憐れまないではいられないものだ」と言うんです。ところが、それが通用しない、しかも、そういう親は特別だ・・・ということでもないようです。子どもを可愛がっていた母親が、離婚して、再婚した途端に人が変わったようになり、突然、我が子を虐待し始めることもあります。
 残念ですが、それほどに、「人間の愛」というものは、たとえ「親の愛」でも不確かで、弱さがあって、もろいんですね。自分のお腹を痛めた子でも、場合によっては「産まなきゃよかった」と思う、思うだけじゃなく、実際に生まれなかったことにもしちゃうんです・・・。
 

2 親子問題の解決は、神様の「真の親の姿」を知ること
 そういう問題を解決するには、どうしたらいいんでしょうか?人生相談に尋ねると、いろんな知恵を教えてくれるでしょう。でも、真の解決は、人間的な知恵で何とかなるのでしょうか・・・? 
 聖書は、こういう解決の道を与えています。「親とは本来どうあるべきか」を、「本当の親」と言える方から教えてもらうことです。でもいったい誰が、教えてくれるんでしょう?歪んだ「人間の親」には期待できません。
聖書は「それは神様だ」と言います。神様が、「本当の親のあるべき姿」を示してくれる・・・。なぜでしょう?それは、神様こそは、私たち人間にとっての「本当の親」だから、あらゆる人々の「天にまします究極の父」だからです。
 
 イザヤ書49章にこうあります。
 「しかし、シオンは言った。『主は私を見捨てた。主は私を忘れた。』と。 『女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。
見よ。わたしは手のひらに あなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。』」

 「城壁」とありますが、神様はこれを、「シオン」と呼ばれるエルサレムの人々に語られました。エルサレムは昔、城壁で囲まれていました。その街が敵の軍勢に滅ぼされた時、人々は、「神様は私たちを忘れているんだ・・・」と絶望しました。でも神様は、「いいや、そんなことはない!」と仰せられました。「わたしは今も、あなたがたの住むエルサレムの城壁をしっかり見つめている。わたしは、あなたがたを絶対に見捨てず、忘れない!」と。
 なぜでしょう? それは神様が、彼らにとっての父であられたからです。そして私たちにとっても、究極の「天におられる父親」なのです。

 私たちは、そんなふうに意識してないかもしれません。「父」と言えば肉親の父のことで、「天の父」と言っても、父親にちょっと似た点があるくらいの意味だろうと・・・。だけど、本当はその逆です。私たちの「本当の親」は、実は、この神様なんです。私たちの存在を造られ、この世界に送り出された、全ての人にとっての「魂の父」は、天の神様です。だから、「本当の親の姿」は、神様の中にあるんです。「この世の親」はむしろ、「本当の親である神様の代理人」です。神様から「神様の子どもたち」を預かって育てる務めを任された者。だから、「この世の親」は、そもそも完璧ではなく、当然いろんな欠点があるんです。

 では、「本当の親」の姿を、神様はどう教えているんでしょう?
 16節を見ましょう。「見よ。わたしは手のひらに あなたを刻んだ。」
 「手のひらに刻む」とは、「絶対に忘れない」ということです。時々、手のひらにメモを書くのは、大事なことを忘れないためですね。私は、石鹸で手を洗って、手のひらに書いたメモを消しちゃったことがありました。でも、「刻み込んだ」ら消えません。そんなふうに、自分の子どものことを何があっても忘れず覚えている。しかも、単に「記憶している」という意味ではなく、いつでも心に留め、心配し、祈って思いやる。それが「本当の親」だと、神様は仰っているんです。
 また、「手のひらに刻む」とは、「とても大切なものとして握り締める」ことも意味します。手の甲は握り締められないけれど、手のひらにあるものは、いつでも握り締めて、大事に守っていられる。しかも、「刻む」とは、非常に痛い思いをすること。つまり、どんな痛みや犠牲も厭わず、命懸けでしっかり握り締めて守ろうとすることです。その痛みには、体の痛みもあれば、心の痛みもあるでしょう。時には、「自分の中の『親』としてのエゴと葛藤する」痛みもあるでしょう。でも、「本当の親は、そういう辛い痛みも乗り越えて、子どもの最善を願い、子どもを守る。他人には出来ないことだ」と神様は仰ってるんですね。

 果たして、人間の親に、そこまでのことが出来るでしょうか?ちょっと無理なこと、神様しか十分果たせない「究極の理想像」に過ぎないんじゃないでしょうか? 
 そうかもしれません。でも、それでもいいんじゃないでしょうか?私たちはむしろ、「自分は、親の務めを十分には果たせないかもしれない。だけど、本当の親である神様は、私の子どものことも『手のひらに刻んで』下さっている!」そう思えばいいんじゃないでしょうか。そうやって、「真の親なる神様」に励まされながら、「親の務め」に勤しんで行けばいいんじゃないでしょうか。


3 神様の「真の親の愛」を受けた時、子どもも癒される
 今まで親の立場を話してきましたが、最後に子どもの立場の話もしたいと思います。実は、「神様の中に本当の親の姿を見る」ということは、子どもにとっても非常に大きな恵みとなります。先程、親から虐待された子どもたちの話をしましたが、その方々は、いろんな形で情緒不安定になっておられました。それは、「自分の親から本来受けることが出来るはずものを、受けられなかったから」ではないかと思うんです。
 私たちは、親から大切に愛されることによって、心に「安らぎ」が湧いて来ます。「自分に対する健全な自信」とか「自分は生きる価値のある者だ」という安心感も培われます。そういうものは、親が与えてくれることに意味があります。親は子どもにとって、特別な存在だからです。親は、子どもにとって、「自分の存在の源」。自分をこの世に送り出してくれた人であり、共通の遺伝子を持つ自分の一部みたいな存在です。そこに居るだけで、理屈抜きで安心感と存在意味を与えてくれる相手です。
 つまり、親の他に「おまえなんか産まなきゃよかった」と言える人はいないように、誰一人親に代わって「おまえを産んで本当によかった」と言ってやれる人もいない・・・ということです。もし親からそう言ってもらえたら、他には誰も自分を認めてくれる人がいなくても、「お父さん、お母さんが認めてくれているからそれでいい!」と、子どもは安心できるんじゃないでしょうか?だからこそ、その「安心」を親から受けられなかった時、子どもは物凄く不安になります。情緒が不安定、心が栄養失調みたいになってしまうんです・・・。
 けれども、たとえ、そういう子でも、神様に出会って、神様から深く愛されていることが分かったら、変わります!癒されて行くんです。それは、神様こそが「全ての人にとっての究極の親」だからです。「人間の親」が十分に与えることが出来なかったものも、「天の真の親」が、代わりに溢れるほど満たし与えて下さることが出来るからです。

 振り返ると、私自身、そういう恵みを体験させてもらったと思います。 私は別に、親から虐待されたわけじゃありません。だけど、親との関係が良かったか・・・というと、ある時期までは、そうではありませんでした。よくある話ですが、父との間にシコリがありました。
 父は無口で、家族と笑って話をすることが滅多にない人でした。だから、父とは心の距離があったんです。そんな父は、私がクリスチャンになる時に猛反対しました。高校時代には、聖書を読んでいるのが見つかると、父から取り上げられて殴られました。大学時代に私が鬱になって退学しなきゃいけなくなった時は、父から物凄く叱られました。まあ、何年分もの仕送りを無駄にしたんで当然ですが、父は、「おまえがキリスト教にかぶれているから、こうなったんだ!」と、怒鳴りつけたんです。本当は、鬱になるほどの悩みがあったので、キリスト教に救いを求めたんです。だけど、そういうことを全然分かってくれませんでした。
 そんな父は、私にとっては正直、苛立たしい存在でした。父は父なりに、私を心配したんでしょう。でも、何とも的外れだった…。一番分かって欲しい事を分かってくれず、そればかりか、私が一番大事にしているものを攻撃して来るような親でした・・・。
 けれども、聖書を読み、神様を知るにつれて、私も「天におられる本当の親」を知りました。その天の親は、この世の親が全然私を理解してくれなくても、私を誰よりも理解し、私自身のどうにもならない弱さもそのまま受け止めて下さり、私を永遠の愛で愛して下さっているんだ・・・と知りました。
 そうしたら、私の中に、「この世の親子関係では満たされなかったものを十分に満たしていただいた」という満足感、充足感が湧いて来たんです。 同時に私は、不思議と父のことも、それまでとは違ったふうに見られるようになったんです。たぶん、父のことを、「天の真の父」の視点で見られるようになったんですね。「父も、私と同じように『天の神様』の子どもであり、いろんな欠点を抱えながらも、この地上で、なんとか私のために、親の務めを頑張って来てくれたんだ・・・」と。そうしたら、苛立ちよりも、感謝と尊敬と慈しみの気持ちが湧いて来たんですね。「父だって大変だったんだ。なのに、問題だらけの息子で申し訳なかったなあ・・・」と思えるようになったんです。
 その父が年を取って足元がふら付くようになってから、親子で岩手県の温泉に行きました。露天風呂に一緒に入ったんですが、歩く所が平らじゃないので、父はフラフラ危なくて…。私はそんな父の手を引いて、ゆっくりゆっくり歩き、次はこっち、次はこっち・・・と露天風呂巡りをしたんです。当然のことをしただけですが、後で他のお客さんから「親孝行だねえ」って誉められたんです。私は、初めてそんなこと言われて照れまくりでしたが、ふと思いました。「もし、天の本当の父である方を知らなかったら、とてもあんなふうに出来なかっただろうなあ・・・」って。


まとめ    
 私たちは、「血が繋がっているから」というだけで、幸せな親子になれるわけではありません。神様という「真の天の父」を知ることにこそ、本当の幸せな親子関係の秘訣があるんです。「皆、天のお父様から命がけで愛されている子どもなんだ」と分かる時、親は本当の親になり、子どもは親を健全に敬うようになるんです。だから、全ては「神様の中に、本当の親の姿を見出すこと」から始まります。
 願わくは、皆さんのご家庭で、この「天の真の親である神様」を皆で一緒に仰いで生きるという営みが、末永く、ご家族のライフスタイルとなりますように、心からお祈りしたいと思います。





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by sagaech | 2013-11-23 19:11 | 礼拝メッセージ

ラフランスとリンゴのスィーツ(11月のサークルハンズ)

   女性のための集会は2つあります。
   「サークルハンズ」は、楽しみながら集まる趣味の会です。(月1回)
   「オリーブ会」は、聖書の学び、分かち合い、お祈りを共にする会です。(月2回)


こんにちは、サークルハンズです。
山形はラフランスとリンゴが美味しい季節。
11月は、旬の果物のスィーツ作りでした。
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ラフランスは特大サイズを頂きました。
「頂き物」というところが、すごいですね。
果物の豊かな里は、神様の恵み、
また農家さんの労苦の賜物です。
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去年も作って好評だったクラムケーキ。
今年初参加の方々にも好評でした。
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ケーキを焼いている間に、もう2品。
ライ麦粉とヨーグルト入りのパンケーキと、
紅玉とラフランスのコンフィチュール。
甘さ控えめ、食感と香りを残して。
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じっくり焼いて
ラフランスのクラムケーキ完成。
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食卓には、手作りの浅漬けも並びました。
これが、スィーツとあうんですね。
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聖書のメッセージは、エデンの園のお話。
様々な果樹や木の実が豊かにあった
神様作のプレミアム・ガーデン。
神様と人の交わりが育まれていくはずの…。


神である主は人を取り、エデンの園に置き、
そこを耕させ、またそこを守らせた。
「あなたは、園のどの木からでも思いのまま
食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは
取って食べてはならない。それを取って食べるとき、
あなたは必ず死ぬ。」 創世記2章より






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by sagaech | 2013-11-22 18:33 | 女性の集会

交わりを建て上げる⑰「神の子らに与えられた自由とは」

   日曜日の礼拝で牧師がお話した聖書のメッセージです。
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「交わりを建て上げる」17    2013.11.3
 「神の子らに与えられた自由とは」
  コリント人への手紙第一6章9‐20節



1 私たちは、人類史上最大の自由に召されている
 どんな「交わり」にとっても大切なことが一つあります。それは、健全な「交わり」のためには、交わりに属する一人一人の中に、同じ価値観や考え方が共有されてることがです。とはいえ全部が型にはまったように同じだというのも不自然です。しかし、どうしても一致して理解されていないといけない価値観もあります。それが食い違ってたら、その「交わり」は混乱してしまいます。それは「教会の交わり」においてもそうなんです。
 今日のテーマに掲げた「自由」のについての理解も、「教会の交わり」の中では皆が同じように理解してないといけないとっても大切な事柄です。

 12節で、二回同じような事が繰り返されておりました。
 「すべてのことが私には許されたことです。」「私にはすべてのことが許されています。」
 この「許されている」とは、「法律的に許可されている」とい意味です。この世の法律じゃなくて、神様の法律ということです。パウロはこう言います。
 「私は、神様の前ではどんなことでも法律的に許可されています。そのような自由を、私は天の神様から与えられている」。
 実はパウロはここで「クリスチャンの救われた姿」について教えています。この世の宗教は、大概にして「救われるためにはこれを守りなさい」と、掟や規則を私たちに要求します。例えばイスラム教では、「一日に5回メッカの方角に向かってひれ伏して礼拝せよ」といいますし、「ラマダン」と呼ばれる断食の期間を守らなければなりません。他の宗教では「肉を食べてはならない」、「コーヒーやコーラのような黒い色の飲み物は飲んではならない」という戒律があり、それを守ることが、救われるための条件のように教えられています。
 けれども、キリスト教は違います。もちろんクリスチャンも、明らかに「悪い」ものは出来るだけ避けます。例えばお酒について、酔って他人に迷惑をかけて証しにならないことをすることを避けるために、飲まないようにとか、たしなみ程度にとどめておくということは、大勢のクリスチャンが実践していますが、規則ではありません。私たちは「何かをする、しない」ということには関係なく、ただ神様の恵みによってのみ救っていただいたのです。
 人はむしろ、自分の努力という面では絶望的です。「神様への背きの罪」は、努力で赦される程度のものではありません。ゆえに、神の御子なるキリストが、私たちに代わって私たちには不可能だった事をして下さいました。十字架の上で私たちの身代わりとなり、私たちの一切の罪の罰を引き受けられ、償いを完璧に成し遂げて下さいました。私たちには出来なかった「本当の正しい生き方」を全うして下さったのです。だから私たちは、このイエス様の十字架の御業を信じれば、この世の一切の事柄に、完璧な赦しを頂きます。だから私たちは規則や戒律には縛られません。飲み食い、断食は自由です。パウロが言う通り、「すべてのことが許されて」います。クリスチャンとは、人類史上最大の自由の中に、神様によって招き入れてもらった人なのです。

 第二次世界大戦が始まったヨーロッパのリトアニアで、杉原地畝という日本人クリスチャンが日本領事館で働いていました。バルト海に面した小さな国で、まもなく旧ソビエト連邦に合併されることになっていました。それで杉原地畝も領事館を閉めて退去することになりました。そんなある日、領事館の前に大勢の難民が集まって来たんです。ナチス・ドイツの迫害から逃げて来たユダヤ人でした。彼らは杉原に、「日本のビザを発給して、自分たちを安全な国に逃がして欲しい」と頼みました。杉原はなんとかしてあげたいと悩みました。というのは、当時の日本はドイツの同盟国で、外務省がユダヤ人にビザを出すのを許さなかったのです。そこで杉原は、ある朝、同じクリスチャンの奥さんに、こう言ったというんですね。「ボクは、外務省の命令に背いてでも、ビザを出すことにする。いいだろう。」って。すると奥さんも、「はい。あとで、私たちがどうなるか、分かりませんけど、そうしてあげてください。」と答えたのだそうです。
 その結果、六千人ものユダヤ人の方々が、ナチスの迫害を逃れることが出来ました。この杉原の勇気ある行動は、「すべてのことが許されている、日本政府が許さなかったとしても、神様は喜んで許してくださっている」、そのことを知ってる「クリスチャンでなければ持てない自由」に裏付けられていたんだなあと思います。そういう驚くべき自由を与えられているのが、クリスチャンなのです。


2 自由を誤用すると「罪の奴隷」となる
 けれども、ただ単にそれだけだったとしたら、クリスチャンとしては実は、片手落ちです。「すべてのことが許されている」という恵みに浸ってるだけでは終わりません。
 12節で、パウロは「すべてのことが私には赦されている」と言いました。でも、そのすぐ後に、あることを付け足してることに注目して欲しいと思います。「すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません。」
 パウロはここで、「私たちが神様から与えられている自由ってものについて、勘違いをしないように」と釘を刺しています。 私たちは、「すべてが許されている」からといって、自由に何をしてもいいのではありません。なぜなら、自由に何かをしたとしても、全てが良い結果を生み出すわけではないからです。
 たとえば、タバコを吸うことは、禁止されているわけではありません。しかしタバコを吸うことは害になります。私たちは、自由を履き違えると、またもや何かに支配されて束縛されて自由を奪われる羽目になります。だから、パウロは、「私はそうならないように気を付けています」という意味で、「しかし、私はどんなことにも支配されはしません」と言ったのです。
 何に支配されないと言っているのでしょう。それは、規則や決まりではありません。「私たちが『許されている自由』を履き違えて行う罪」によってなんですね。つまり、「与えられている自由」を使い間違うと、自分は自由を楽しんでいると思っていても、実は、自分がのめり込んでいるその罪の奴隷になってしまうということなんです。
 パウロはそのことを、13節から所で「不品行」という罪を具体例に挙げて説明しています。「不品行」とは不倫や売春などの性的な罪を指しています。まずパウロは、こんなことばを紹介するんですね。「食物は腹のためにあり、腹は食物のためにあります。」どうやら当時の諺のようで、「食べることは、人の体にとっては極々自然な行為です」という意味だったようです。ところがコリント教会の人たちは、それをもじって「不品行は体のためにあり、体は不品行のためにある」と言いました。「不品行ってことだって、食べることと同じだ。体にとっては極々自然な行為で、体が自然に要求していることだ。だから、何が悪いのか!」と。
 このように「すべてのことが許されてる」という恵みを捻じ曲げて、不品行を行うことを正当化しようとしたんです。それくらい、彼らは「不品行」って罪の中にのめり込んで、自分自身でも気が付かないうちに「不品行の奴隷」になっていました。


3 主は私たちを「ご自身のもの」として贖われた
 パウロは、これは自由の乱用だ、と言いました。13節で「からだは不品行のためにあるのではなく、主のためであり、主はからだのためです。」と反論しています。「イエス様が、あの十字架の上で尊いいのちをお捨てになって復活されて、私たちの体を聖めて下さったのだ。だから、私たちの体はもはや、『不品行の欲望を満足させるための道具』ではなくなったのだ、主のため、神様のためにお役に立てるためにあるのだとパウロは説明したのです。
 17節で、「主と交われば、一つの霊となるのです。」とあります。この「交わる」ってことばは「糊でくっ付ける」という意味です。それくらい非常に密接な繋がりを、私たちは、イエス様との間に持たせていただいているのです。それなのに、私たちが「何をやっても自由だから」といって平気で不品行の罪を犯すなら、とんでもないことをしたことになります。「キリストが、血の代価を払ってご自分のからだの一部として下さったものを、遊女のからだと同じにする」のです。それは、考えるのもおぞましいことです。「あなたがたは、そんなことをしちゃいかん!」って、パウロは叫んでいるのです。
 さらにパウロは驚くべき事を教えています。15節、「あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。」
 私たちの教会の今年度の目標聖句も同じことを言っています。「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」ここの「キリストのからだ」とは、「イエス様がこの地上で持っていた肉の体」のことよりも、「霊的で人格的な存在としてのキリストご自身の」のことを指しています。つまり、私たちは、なんと畏れ多くも「神の御子なるイエス様と、人格的にも霊的にもその一部分とされるくらい、切っても切れない絆で結びつけられている」とパウロは言います。
 
 さらに、19節でも驚くべき真理を語っています。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」なんと、私たちの体は今や「自分の魂が住んでいる」だけでなく、「聖霊なる神様がお住まいになってる神殿、聖霊の宮」だというのです。だから私たちは、自分の心も体も魂も、その所有者ではありません。なんと、神様が私たちの本当のオーナーになってくださったのです。この話を何度も聞いてる人は、もう聞き慣れて驚かないかもしれませんが、最初に聞いた当時の人々は、もうビックリしたと思います。
 なぜそのようになったのでしょうか。パウロは20節で「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。」と説明しています。イエス様があの十字架で、ご自分の尊いいのちを私たちの身代金として支払って下さり、私たちを、滅びるばかりの「罪の奴隷」の運命からイエス様の許に贖い出して下さいました。その時に、私たちは「罪の奴隷」から「神の奴隷」となったのです。
 昔は、奴隷の売り買いが、よくなされていました。借金を抱えて破産した人が、借金をしている相手に自分自身を身売りして奴隷になったのです。その時、自分のために身代金を払ってくれる人がいたら、その人は今度は自分のために身代金を払ってくれた人の奴隷となりました。「実は、私たちも、そうなんだ」とパウロは言うんですね。 
 私たちは「罪にのめり込んで魂が破産していた者」でした。それを、イエス様があの十字架で、いのちの代価を払ってご自分のものとして下さいました。そして、私たちの新しい主人となって下さったイエス様は、私たちのことを束縛するのではなく「完璧な自由」を与えて下さったのです。


4 与えられた自由を、どう用いるべきか?
 ならば、私たちは、「イエス様が血の代価を払って与えて下さった自由」を使って、どのように生きていけばいいのでしょうか。パウロはそのことを20節で「ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい」と締めくくっています。「神様から与えられた自由をこの世の罪に耽って楽しむためにではなくて、神様のために、イエス様の尊いご目的のために捧げて生きなさい!」ということです。
 昔、アフリカのコンゴという国で、ジョン・アレクサンダー・クラークという宣教師が働いていました。彼はある日、一人のアフリカ人がライオンに襲われて引き摺って行かれる所を見つけました。彼はライオンを銃で撃ってそのアフリカ人を助け出してやったんですが、その人は命が危ない状態でした。それで、宣教師は何週間もそばに置いて看護し、命を取りとめたんで、そのアフリカ人は自分の家に帰って行きました。
 それから数か月が過ぎたある日、その宣教師の許に、一群の人々が森の中からやって来ました。先頭を歩いてたのは、以前ライオンから助け出してやった人でした。その後には、その人の家族と見られる人たちと、牛や豚などの家畜がついて来ていました。
 その人は、宣教師に最高の礼を尽くして跪いて言いました。「先生、人がライオンに襲われ、命を助けてもらった時には、その人はもはや、自分のものではないというのが、私の部族の慣わしです。その人は、助けてくれた人の奴隷になるのです。ライオンは私を噛み殺そうとし、あなたは私を助け出してくれました。だから私は今ここにいます。私と私が持ってるものは、全部あなたのものです。私の妻たちはあなたのもので、私の子どもたちはあなたのもので、わたしの持ち物もあなたのものです。そして、私はあなたの奴隷です。」
 このアフリカ人は、ライオンの牙から救い出された時に、九死に一生を得るような思いで「自由」を与えられましたが、自由をただ自分のために使いませんでした。その「自由」をもって、自分を救い出してくれた方に、自分の持ってるものを捧げて生きる生き方を選んで行ったのです!
 私たちもまた、このアフリカ人がしたのと同じことを、私たちを救い出して下さった御方、神様、イエス様のために、なすべきではないでしょうか。


まとめ
 この世の中は、私たちを、様々なものを使って束縛し、「奴隷」にしようとします。「飴と鞭」ということばがありますが、「鞭」を使って束縛して来ることもありますし、甘い罪の誘惑という「飴」を使って束縛して来ることもあります。しかし私たちは、主イエス様にあって、本当の「自由」を与えられました。そして、その「自由」を、本当の意味での正しい尊い用い方が出来るようにされているのです。
 私たちは、その恵みを決して見失わないようにしましょう。そして、その恵みを知ってる同じ「神の家族の交わり」の中にしっかり結び付きながら、「自分のからだをもって、神の栄光を現す」人生を、共に励まし合って行きましょう。





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by sagaech | 2013-11-05 14:45 | 礼拝メッセージ