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「神のものは、神に」

  日曜日の礼拝で牧師がお話した聖書のメッセージです。 
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「神のものは、神に」     2014.6.29
 マタイの福音書22章15‐22節



はじめに 嫌々ながら納める税金の話
 今年の4月、コンビニで缶コーヒーを買ったら、120円だったのが「130円です」って言われて、「うわ、高い!」と思ってしまいました。140円だったカップ麺が160円で、「うーん」と悩んだ末に、買うのをやめました。消費税が8%になり、便乗値上げもあります。「高々3%、100円なら3円のアップ」と言われても、年間じゃ何万円にもなるわけですから、気持ち良くはなくて、「嫌々ながら」って感じになりました。そのうち慣れるでしょうし、もうなれてるかもしれませんが・・・、そのうち10%になるわけで、するとまた「嫌だなあ」ってことになると思うんです。
 但し、税金というものは、本来は当然の義務です。それは、国が与えてくれる公共の利益に対して国民が支払う当然の負担だからです。もちろん、納めたものが正しく使われてるかどうかは、ちょっと不安です。でも、正しく使われているなら税金は、たとえ「嫌々ながら」であっても納めるべきなんです。
ですが、理屈はそうですが、私たちは、それでも「嫌々ながら」って気持ちに、やっぱりなるんじゃないですか?「当然払うべき」と頭じゃ分かってても、財布からお金を取り出す時は、「こんなに取るのか!」って思うんじゃないでしょうか?
 なぜでしょう? たぶん、「そのお金はそもそも俺のもの、私が稼いだ私のものなのに・・・」って思いがあるからじゃないでしょうか。今日のお話も、そう思ってた人たちのお話だったんです。


1 「納める」でなく「返す」・・・、「私のもの」でなく「神のもの」   
 ある日、イエス様に激しい敵意を燃やしたパリサイ人たちが、何とかしてイエス様を陥れようと、罠にかける質問をぶつけて、イエス様のことば尻を捕えてやろうと企てました。で、考え出したのが、「カイザルに税金を納めるべきか、どうか?」って質問をぶつけることでした。
 なぜ罠かというと、この税金は、当時ユダヤを支配していたローマ帝国に納める税金だったからです。しかも、そのローマ皇帝カイザルは…、「カイザル」とはローマ皇帝を意味する称号ですが・・・、自分を「神だ」って言ってたんです!そんなカイザルに税金を納めるなんて、「主なる神様しか、神はいない」と信じるユダヤ人にとって、もってのほか!事実、これまでも、そうした税金問題が切っ掛けで、ユダヤの国じゃ度々反乱が起こってたんです。 
 そんな中、「税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか」・・・、つまり、「そういうことは、神様に対して正しいことなんですか?」って問い詰めたんです。もし「正しい」と答えれば、民衆の気持ちを逆撫でして、石打ちにでもされるかもしれない。でも、「正しくない」と答えれば、「ローマに対する反逆だ!」と訴えられて処刑されるだろう。「どっちに転んでもイエスは終わりだ、しめしめ・・・」ってパリサイ人らは、ほくそ笑んだんです。

 ところがイエス様は、納め金の銀貨を手にして、こう切り返されたんです。「これは、だれの肖像ですか。だれの銘ですか。」
 当時、納税に使われたのはローマの銀貨でした。そこにはローマ皇帝ティベリウスの肖像と、「ティベリウス、神であるアウグストの息子」と彫られた銘が刻まれてたんです。そこで、当然彼らは、「カイザルのです」と答えます。すると、すかさずイエス様は、こう仰せられました。
 「それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」
 すると、誰もがその答えに驚いて、何の反論できず、こそこそ立ち去って行った・・・っていう、何とも痛快な話です。罠を仕掛けた奴らをギャフンと言わせて帰らせた!「さすがイエス様」ですね。

 ところでこの時、パリサイ人は「納める」と言いました。税金の話なので「納める」だったんですね。ところがよく見ると、イエス様は、「納める」を、「返す」ってことばに切り替えたんです。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」 どういうわけか、「納める話」が「返す話」に変えられました。
 実はこれは、意図的なチェンジだったんです。イエス様はこれをもって、「カイザルの税金の話」だけじゃなく、「そもそも私たちは、この人生をどう生きるべきなのか?」という、もっと突っ込んだ問題についても教えて下さろうとしたんです。
 「納める」とは、どういうことでしょう? このことばは、ギリシャ語聖書じゃ元々「与える」っていうことばです。それは、「本当は自分の持ち物だった自分のものを、敢えて、他の誰かのものにする」ってことです。しかも、「強制力が働いて、強いられてそうする」ってニュアンスです。だから、「嫌だなあ」とか、「しょうがないなあ・・・」って気持ちが働くわけです。「納める」とは、「そもそも自分のものだ!」ってことが出発点なんです。
 だけど、「返す」とは、そうではない。「そもそもは自分のものではなく、他の誰かのものだった」ってことが出発点なんですね。「それを知ってか知らずか使わせてもらっていたのを、本来の持ち主に戻す」ことなんです。
だから、この二つは全く違います。イエス様が、「納める話」から「返す話」に切り替えたのも、私たちに、大切なことを気付かせるためだったんです。「いいですか、あなたは自分の人生についての考え方を、根本的に変えなきゃいけませんよ!」って仰ってるんです。
 世の中では「人生とは、生まれた時からいろんな努力をして、いろんなものを、自分のものにして行く営みだ」って、普通は思われています。「だけど、そうしてせっかく自分のものにしたものを、しばしば、この世の強い奴らが『納めろ』と言っては剥ぎ取って行く・・・。だから、自分のものを出来るだけ奪われないように、必死に抵抗しながら生きて行く。人生とはそういうものだ・・・」って思われてるんですよ。
 ですが、イエス様は、「本当はそうではない!むしろ、あなたがたの人生は、生まれた時から、自分では何の苦労もしてないうちから、いろんなものを備え与えられてるんです!」って言うんです。「最初から、たくさんのものがあなたのために、貸し与えられているんです!あなたの人生は、本当はそういうものなんです」って。
 そのことを端的に教えたのが、この「返す」ってことばだったんです。そもそも「貸し与えられてるもの」なら、「納める」じゃなく、「返す」なんです・・・。

 当時、カイザルへの税金は、デナリ銀貨と呼ばれる特別なコインが使われていました。その銀貨には、「カイザルの肖像」が彫られてたんです。それは、事実上、「その銀貨を世界中に流通させて安定したビジネスを保証し、安定した経済活動を世界中の人々に貸し与えているのはカイザルだ」ってことを示していたんです。そしてまた、「その銀貨が広まってる世界に強力な支配を及ぼして、世界中の人々が安心して生活できる、そうした世界平和を貸し与えてる・・・、それもカイザルだ」ってことを示していたんです。
 だからその「カイザルが貸し与える恩恵」に対して「税金」って形で「カイザルに納める」、いや「カイザルに返す」のは、ある意味当然のことだったんです。
 
それと同じことは、神様に対しても言えるんじゃないでしょうか?でも私たちは、どうして「神様に返すべき」なんでしょう? 実は、その理由、その根拠は、「デナリ銀貨に」じゃなく、「私たち自身の中に」刻まれている「神の肖像」なんですね!
 「肖像」と訳されてることばは、本来「かたち」っていうことばです。当時のユダヤ人は、「カイザルの肖像、カイザルのかたち」ってことばを聞いた時、聖書に書いてある「神のかたち」を思い出したでしょう。その「神のかたち」とは、神様が最初に人間を創造された時に私たちの中に刻み込まれた「神様の麗しいご性質」のことです。それは、目に見えない「神様の肖像」なんです!それは、天の神様が、カイザル以上の権威をもって私たちに貸し与えて下さってるものを、私たちに思い起こさせてくれているんです・・・。
 私たちは、考えれば分かるはずです。自分の体も、いのちも、自分の才能も、自分の人生の時間も環境も、この世で巡り合った家族や友だちなども全て・・・、私たちが自分で頑張って手に入れたものではないんですね。むしろ、私たちが自分の力で勝ち取ったものなど、ほとんどないんです!  よく考えると、私たちが手にしているものは、「ただで貸し与えられてるもの」ばかりです。
 誰が貸し与えたんでしょう?それは、神様です。だから私たちは、「それらを神様にお返しして行く」という「神のものは神に返す」生き方を、して行くべきなんですね。


2 「神のものは神に返す」・・・どんな生き方か?
 けれども「神のものは神に返す」とは、いったいどうして行くことで、どんなふうにしたら、そうなるんでしょう・・・?私たちに貸し出されたもの、すなわち、私たちのいのちや体や能力、この世で出会わせてもらった人々を、貸し出し期限が来たら神様にお返しする・・・ってことなんでしょうか? 
 もちろん、それもありますね。そして、やがてはそういう時が来るんです。でも、それだけではなく、もっと深いことを教えてるんですよ。

 「カイザルのものはカイザルに返す」場合・・・、カイザルに返すのは、「カイザルのかたち」が刻まれてるデナリ銀貨でした。それなら「神のものは神に返す」場合も、「神のかたち」が刻まれたものを返せばいいんじゃないでしょうか?
 そうなんです。実は「神のかたち」が刻まれてるもの・・・、すなわち「私たち自身」を神様に返すんです!但し、「この世の罪にまみれた私たちを、そのままお返しする」こととも違うんです。
 「神のかたち、神様の麗しいご性質」が刻まれた私たちが、それに相応しく、「神のかたち」が映し出された者となっていくこと・・・。また、「神のかたち」に相応しい実りを実らせて、私たちの中に「神のかたち」を刻んでもらった意味を果たして行くこと・・・。「そういう私たちをお返しする」ってことなんです!
 また、もしも、そういう生き方から外れた生き方をしていたら、もう一度、「神のかたち」が映し出された歩みが出来るようになるために、悔い改めて、自分自身を神様の御手の中にお返しすることなんです・・・。

 今から3年前に私は、今日と同じ聖書箇所から礼拝でメッセージしたことがありました。説教タイトルは『神からのレンタル』でした。その時に、紫園香さんというフルート演奏家のお話を紹介させていただきました。
 この方は、東京芸大の大学院を首席で卒業した後、ヨーロッパの国際コンクールで入賞されたという超エリートの方です。だけど、その一方で、親御さんの会社が倒産したために、生きて行くのがやっという暮らしを経験し、生活には大変苦労されたんです。その上ご自身も、フルート奏者にとっては致命的な病気にかかって、音楽家生命が断たれるかも・・・っていう試練に見舞われたり、散々な人生を送って来られたんですね。
 そんな中、「自分が今まで、自分のものだと思っていた能力も財産も健康も、何一つ確かなものはないんだ。全ては神様から貸し与えられてるレンタルだったんだ」と悟らされ、彼女はクリスチャンになったんです。
 その紫園香さんがこの前、ある雑誌に、最近の証しを書いておられました。2年前の夏、これまで経験したことのないような酷いめまいに襲われて、病院に担ぎ込まれたというんですね。またもや 思わぬ病に倒れてしまったんです。検査の結果、過労のために耳石が剥がれ落ちたせいだと分かった・・・っていうんです。世界がグルグル回って真っ直ぐ立っていられない、激しい嘔吐を繰り返す・・・って感じだったと。それで、コンサートどころじゃなくなって、ただただ体を休めるしかなくなっちゃったんです。
 当然、コンサートの予定がびっしりだったんで、気持ちは焦って不安になられました。でも、そんな自分をどうにもコントロールできなくて、止めどなく涙が込み上げて来たというんですね。そうして呻きつつ、神様の前にひざまずいたら、思わずこういう祈り・・・、「悔い改めの祈り」を祈らされたというんです。
 「神様、私は有名になりたかったんです。 誰よりも才能があると認められたかったんです。 三十年前、父の会社の倒産で何もかもなくなって、父と母のためにも私が頑張らなくては・・・と思ってやってきました。 クリスチャンなんか、チャペルコンサートなんかと馬鹿にしたクラシック界の人たちのことも、見返してやりたかったんです。・・・ 神様、ごめんなさい! ずっとあなたに感謝と讃美を捧げたくて、フルートを吹いて来たつもりでしたが、いつの間にか、私はあなたを利用していたのかもしれません。 本当に、ごめんなさい!この私の傲慢さ、汚さ、愛のなさ、見せかけることの上手さ、競争心、人をさばく心・・・、すべてを砕いてペチャンコにして下さい!」
 その後、頭がクラクラして来てベッドに倒れ込んだら、ふと携帯が鳴って、友だちからメールが来たとそうです。そこには聖書のみことばと、こんなメッセージが書かれあったというんです。
 「『わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。』(ヨハネ13章7節)
 僕たちも、紫園さんが一日も早く良くなられますよう、涙をもって祈って行きます。お大事になさってください。
 パスカルの祈りを転送します。
 『主よ、今から、あなたの御用のために、あなたと共に、また、あなたにおいて役立てる以外には、私が健康や長寿をいたずらに願うことがありませんように。 あなたお一人が、私にとって何が最善であるかをご存知です。 ですから、あなたがご覧になって、最も良いと思われることをなさってください。
みこころのままに私に与え、また取り去ってください。・・・』」
 紫園さんは、このメールを神様からのメッセージと受けとめたというんですね。それからしばらくして、紫園さんは、感謝なことに、復帰第一回目のコンサートを開くことが出来たんです。でも、その時は、「霊肉ともにゼロに戻った状態」だったというんですね。ただただ、全てを神様のみこころに委ねてコンサートを捧げ、自分自身も癒していただく・・・、そんな感じだったそうです。
 そのことを通して改めて、こんなふうに教えられましたと、綴っておられるんです。 
 「洗礼を受けた時、『すべては神様からのレンタル』と思い至り、感謝をもって賛美を捧げて来たつもりだったが、今回、本当に全てのことが神様からの贈り物だということを、この出来事を通して改めて思い知らされた。感謝。」

 いかがでしょう。「神のものは神に返す」とは、こういう生き方なんだと思います。紫園香さんは、「すべては神様からのレンタルだ」と悟らされました。「神様から貸し与えられた人生を生きている」ってことですね。 でも、そのレンタルは、この世のレンタルとは違って、「借りる方が好き勝手に使うレンタル」ではないんですね。むしろ、「貸して下さる方の思い、みこころを果たして行くためのレンタル」だったんです。貸し与えた御方が私たちに刻まれた「神のかたち」が、私たちを通して現されて行くためのレンタルです。


3 どうしたら、「神に返す」という生き方が出来るのか?
 けれども、そういう生き方が、スムーズに出来ればいいですが、そうは簡単には行かないんじゃないでしょうか?私たちにとっては、かなり難しいことじゃないですか?だから、「神のものは神に返しなさい」ってイエス様が仰った時も、皆、イエス様の前から逃げて行ったんじゃないでしょうか・・・?
 ある意味、確かにそうだと思います。これはやっぱり難しいことですよ。それよりは、「カイザルにカイザルのものを返す」方が楽・・・、日本政府に20%の消費税を納める方が簡単かもしれません。
 それで、「とてもじゃないけど、神のものは神に返すなんて、私には無理。そんな私が神様に申し訳ないし、惨めで辛くなる」・・・、そう思わされるだけかもしれません。 
 でも、その一方で、私はこうも思うんです。確かに難しいけれど、私たちにとって、無理なことではないはずだ。たぶん、私たちが思ってるよりは、本当はもっと簡単なことじゃないだろうか・・・って。
 というのは、このことは、「納めること」ではないからです!「返すこと」だからです!繰り返しますが、「納めること」は、「そもそも自分のものだったものを他人のものにすること」なんで、難しいのは当然です。だけど、「返す」とは、「そもそも自分のものではなかったものを、本来の持ち主に、ただ戻す」こと!だとしたら、それは、私たちが感じているよりは、意外と易しいことなんじゃないでしょうか・・・?

 さきほどの紫園香さんは、悔い改めの祈りをした時に、神様にこうお祈りしたそうです。「クリスマスまでの20件のコンサート、全てあなたにお返しします。どうかお受け取り下さい。 そしてもし、あなたが私を、あなたご自身のフルートとしてお使い下さるなら、どうか新たに私をお遣わし下さい。 もし、お遣わしいただけなくても、あなたの愛のご計画を信じます。」つまり、「全部白紙に戻してキャンセルしてもいい」ということですね。
 音楽家にとって「自分のコンサート」とは、単なる仕事以上の「自分の存在意味」みたいなものですね。それを全部手放しちゃうのは簡単じゃない、普通は出来ないことですよ。けれどもこの時、紫園香さんは、あっさりと、そう祈れちゃったんです!「自分でもビックリした」と言われる程です。 なぜでしょう?それはきっと、「納めること」ではなくて、「返すこと」だったからです。


まとめ 
 私たちが神様に背を向けているうちは、私たちの「神のかたち」には覆いが掛かってるんだと思います。だから「返す」のは簡単じゃないんです。
 けれども、私たちが思い切って神様の方を向いた途端、私たちの中に刻まれた「神のかたち」にスイッチが入って、覆いが取り除かれるんじゃないでしょうか? そうして、私たち自身の思いとは別に、私たちに刻まれた「神のかたち」自体が、神様の許に返ろうとするんじゃないでしょうか?
 それはもちろん、私たちの内に住まれる「神の御霊」の働きです。すなわち、私たちとは別の人格、別の御方が、「神のものは、神に」っていう姿を、私たちの中に新しく創造し始めるんですね!
 だから、「思い切って神様の方に心を向けて行く」・・・、そのことに勤しんでまいりましょう。その時に、神様が私たちの中に始めて下さる御わざにこそ、期待させていただきたいと思います。
by sagaech | 2014-06-30 17:42 | 礼拝メッセージ

楽しいチェリータイム(6月のチェリーキッズ)

   チェリーキッズは、毎月1回土曜日の朝に行っている子ども会です。    詳しくはこちらをご覧ください。


こんにちは、チェリーキッズです。
6月のチェリーキッズは、
恒例「サクランボの種とばし」でした。

いつものように、
一粒のサクランボと私たちの関係の
お話を礼拝で聞きました。
とっても大切に育てられているんだよね。

クラスで学びを深めて、
お祈りして、
みことばを覚えました。

そして、外で種とばし!
今年も、こんなコースができました。
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サクランボ・マークが3つ。
入ったら、サクランボをゲット!
(まあ、みんな食べるんですけど)
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今年も美味しいサクランボ。
タネをつるつるにするため
口をもぐもぐして…
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サクランボマークをねらって、
「プッ!」と何回目かの挑戦で、
惜しい!惜しい!
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沢山飛ばして遊んだ後は、
クッキーを食べたり、
サクランボ当てゲームも♪
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目をつぶって、食べたサクランボの
品種がわかるかな?
佐藤錦・ナポレオン・南陽。
甘いの・酸味があるの・大きいの。

ちょっとひねり考えたYちゃん。
先生に大きな佐藤錦を食べさせたら
「南陽!」って、ひっかかった~(笑
今年も、楽しいチェリータイムでした。


この小さい者たちのひとりが滅びることは、
天にいますあなたがたの父の
みこころではありません。 マタイ18:14

by sagaech | 2014-06-29 18:51 | チェリーキッズ(子ども会)

冷たい肉そばに目がキラリン(6月のジュニア)

   チェリーキッズ・ジュニアは、毎月1回日曜日の午後に行っている中高生会です。    詳しくはこちらをご覧ください。

こんにちは、ジュニアです。
むし暑くなってきた6月は、
「冷たい肉そば」を作りました。

はじめのインタビュー。
「子どもの頃、嫌いだった野菜は?」
 ・「ナス、ピーマン、トマト・・・。典型的な野菜嫌い」
  でも今は大好きで、うちで植えてる!
 ・「やっぱり、ナス嫌いだった…。でも今大好き!」
  成長すると、味覚も成長するんです。
 ・「嫌いな野菜なんて、なかったよ!」
  さすが、野菜の美味しい山形県。
 ・「おれも、なかったなあ」
  新鮮なものは、美味しいんですよね。

聖書のお話を聞くひととき、
中高生の真剣な顔に
こちらも励まされます。

真実なこと、本当の愛…
探し求めて、分かち合って、
じっくり祈りあう間に、
太麺そばが茹であがりました。
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スタッフKさんが作ってくれる
ジュニアの食事メニューは、
どれも人気ですが、肉そばは大人気!
親鶏のダシが味わい深くて…
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今回初めて食べた女子も、
美味しさに、目がキラリン!
肉そばの美味しいこの地域で
「隠れた名所だね!」って、ほめすぎ?
今月もありがとうございました。


主のすばらしさを味わい、
これを見つめよ。
幸いなことよ。彼に身を避ける者は。
詩篇34:8

by sagaech | 2014-06-20 16:46 | チェリーキッズJr(中高生会)

「恵みに応えていますか」

  日曜日の礼拝で牧師がお話した聖書のメッセージです。 
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「恵みに応えていますか」     2014.6.15
 マタイの福音書22章1‐14節



はじめに         
 皆さんは、最近どんな「恵み」を体験しましたか?「うーん、何も無かったなあ」って思いますか?そう言う私も、「何かあったっけ?」って感じかなあと思います。でも、よく考えてみると、「そう言えば、美味しい珈琲豆を貰ったなあ」ってことなどが、一つ、二つとあるんです。それに、「聖書を読んでたら、こういうメッセージを貰って励まされた」ってこともあるんです。これまでの人生を振り返ると、「あの時、神様に、人生のどん底から助け出してもらったなあ」ってことも、あるんじゃないでしょうか?
 だから、「恵み」はあるんですね。ちょっとしたものから大きなものまで、相当あるはずです。ただそれに、私たちが気付いているかどうか、分かっているかどうか、ではないでしょうか・・・?今日のお話も、「恵み」というものについて、イエス様が教えて下さった喩え話なんですね。


1 王の披露宴へのご招待・・・驚くべき恵み
 ある王様が、自分の王子のために結婚披露宴を設けました。この王様とは「天の父なる神様」のことで、王子は「天の父なる神様の御ひとり子イエス様」を喩えています。披露宴に招かれた人々は、この世界の人々、私たちのことです。そして、結婚披露宴とは「天の御国」のことなんです。その結婚披露宴に招き入れられるとは、「天の御国に入る」、つまり「神様の救いの中に入れられる」ことの喩えです。
 ところが、その披露宴に最初に招待されたお客さんたちは、どうしたことか、披露宴に行くのを断り出したんです。なんてこと・・・。だけど王様は、「ああ、そうですか」とは言わないで、再び使いを出して、諦めないで熱心に招き続けました。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください」って。ところが、このお客たちは、その招待も「気にもかけなかった」というんです。「ある者は畑に、別の者は商売に出て行った」っていうんですよ。どうしようもない事情で仕方なく断った・・・っていうのじゃなく、ただ単に、披露宴に出るのが嫌で、気が進まなかったんです。 
 これは、普通はあり得ない話です。だって、王様の披露宴に呼ばれるなんて、この上ない栄誉です!普通は、一生に一度もないことで、これぞ「人生の最高の晴れ舞台」ですから、どんな都合があっても、それを全部キャンセルしてでも出席するんです。この世の王様からのご招待でさえそうならば、天の神様からのご招待だったら、なおさらのことじゃないでしょうか・・・?
 それに、出て来る食事も凄いんです。「雄牛も、太った家畜もほふった」とありますが、それは当時の最高の食材です。昔も今も一国の王様がもてなす宴会は、食材選びから物凄く手間ひま掛けて準備するんです。 料理長も、じっくり時間を掛けて最高の料理を作るんです。
 この世の王様の披露宴でさえそうならば、天の神様の披露宴では、どれだけ素晴らしいものが出て来ることでしょう!それは実は、神様が天の御国で私たちに与えて下さる様々な祝福や幸いの喩えなんです。
 それなのに、「出たくない」なんて、断るなんて、なんで出来るんでしょう?もしどんなに「出たい」と思っても、招待されなきゃ出られません。だから、招待されるということは、物凄い「恵み」ですね。「物凄い」じゃ足りない「超物凄い恵み」なんですよ!!

 「恵み」は他にもあります。もしも招待を断れば、普通はその時点で、その人の席は披露宴のテーブルから消されてしまいます。ところがこの王様は、お客の席を簡単には消さないんですね。むしろ、繰り返し「どうぞ・・・お出かけください」って招き続けてくれてるんですね。これもまた、普通じゃない「恵み」です!
 というのも、王様の招待を断るとは、そもそも非常識を通り越して、無礼なことでした。当時は、「王様に反逆してる」って思われても仕方のないことです。そんな無礼な振る舞いを、この王様は大きな心で赦しつつ、再三に渡って「どうぞお出かけください」って、王様の方が謙ってお願いしてるんです。これは、本当に信じられないような「恵み」です!!
 実は、「天の神様も、そんなふうに私たちを、ご自身の天の御国の救いの中に招いている、私たちが何度断っても諦めないで招き続けて下さってる」ってことなんです。


2 全ての人に無条件に広げられたご招待・・・信じられない恵み!
 けれども、なんということか、最初のお客たちは、それ程の「恵み」をあっさり拒んでしまいました。そしてなんと、「王のしもべをつかまえて恥をかかせ、・・・殺してしまった」っていうんですね!そんな酷いことが、あっていいのか!・・・って話です。
 そうしたら、さすがにこの王様も、怒ってその人たちを滅ぼし、町を焼き払った・・・っていうんです。それも、酷い話に聞こえるかもしれません。披露宴の招待を断ったからって、そこまでするの?・・・って言いたくなるかもしれません。だけど、これは当時の王様なら当然の話だったんです。この喩え話は、当時の設定に合わせた話になっているわけです。
 ぜひ注目して欲しいのは、それでもなおも「神様の恵み」は途絶えなかった・・・ってことなんです!むしろ、その後さらに、もっと凄い「恵み」が続いてます。もっと深い「神様の救いの恵み」が広がっているんです。
 この王様は、今度は、これまで招待されていなかった人たちを披露宴に招待し始めました。しかも、「大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい」って言ったんです。「それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めた」っていうんですね。これはもう、どんな人でもあらゆる人を、無条件に分け隔てなく招待した・・・ってことです。元々のギリシャ語では、「悪い人でも良い人でも」の順番になっていて、「悪い人」の方が強調されてます。つまり、世の中から悪人呼ばわりされてる人でさえも、積極的に「さあどうぞ」って招かれた・・・ってことなんです!

 この喩え話で「最初に招待されて、それを拒んだ人たち」と、「その後に無条件に招待された人たち」は、それぞれ誰のことを意味しているんでしょうか?
 実は、最初の人たちは、神様からそもそも「救いの約束」を与えられていたユダヤ人のことです。それなのに、ユダヤの人たちは、彼らを救いに招いた預言者たちやイエス様を、ずーっと拒み続けてしまったんです。それで今、神様は、ユダヤ人という垣根を取っ払って、世界中のあらゆる人々を分け隔てなく「天の御国」に招き入れることにされたんです。それが「その後に無条件に集められた人たち」です。
 すると私たちは、「その後に招かれた人たち」の方ですね。だから私たちは、驚くばかりの恵みを頂いているってことなんです!王様の披露宴、すなわち「天の御国の救い」に招かれる・・・、それは大変な「恵み」です。私たちは本来、そこに招かれる権利も資格もなかった、ただ、外から眺めていた者だったんです。
 そんな私たちにも、神様は声を掛けて下さって、しかも、「誰でもおいで・・・、生まれも育ちも暮らしぶりも問わないから、どんな人でもおいで」って仰ってるんです!「天の御国に相応しい事をしたかどうか、相応しい人間かどうかなんてテストもしないから、全然心配しないで、あなたもいらっしゃい」って言われてるんです!! これは、驚くべき「恵み」じゃないでしょうか・・・? 

 この世の中じゃ、こんなうまい話はどこにもありません。「救いの恵みに、ただで招かれる」・・・、そんな話は、世の中ではあり得ないですね。必ず何かの資格が求められるんです。「それに見合うくらいに努力して、正しい良い人間になって合格点を取らないと・・・」って言われてしまうんです。
 だけど私たちは、そういう合格点を取ることは、ハッキリ言って無理なんです。「天国に入るための合格点」をしっかり取れる人なんて、誰もいないんです。
 ですが、その合格点を、私たちに代わってしっかり取って下さった方がいるんですね。それは他でもない、この喩え話を語っておられるイエス様です。イエス様はあの十字架で、この世界のあらゆる人たちのために、必要な合格点を全部取って下さったんです!だから今私たちは、良い人でも悪い人でも、皆、天の御国の救いの中に、ただで、無料で、ご招待されているんです。


3 しかし、その恵みに応えているだろうか・・・?
ところが、今日の話を読んで行くと、その「恵みに溢れるお話」が、なんだか水を差されてしまうような話に当たるんじゃないでしょうか? 11節からの所です。
 「ところで、王が客を見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか。』 しかし、彼は黙っていた。 
 そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ、そこで泣いて歯ぎしりするのだ』と言った。
 招待されるものは多いが、選ばれる者は少ないのです。」
 
 これはいったい、何を教えてるんでしょう?どんな人でも「天の御国」に招かれてます・・・って教えられたばかりなのに、「礼服を着てない人はダメ」って追い出されるのは、どうなっているんでしょう? やっぱり何か合格点が必要だ・・・ってことなんでしょうか・・・?
 いいや、そうじゃないんです。これは、「救いの恵みを頂くための資格」の話じゃないんですね。そうじゃなく、「救いの恵みに応える必要、神様の恵みに応答する必要」を教えているんです。
 「婚礼の席」は、当時も「礼服」を着ることが礼儀でした。「礼服」と言ってもフォーマルスーツじゃなく、汚れた作業着じゃない、小奇麗な服のことでした。そういうのを着て来ることが、有り難いご招待に対する、せめてもの応答だったんです。この時はもしかして、大通りで急に呼ばれたので、着の身着のままだったかもしれません。だけど、その場合も「礼服」の貸出しがあったというんです。だから、披露宴で「礼服」を着ていないということは、着る物があるのに着ようとしてない、招待された恵みに応えてない・・・ってことだったんです。
 実は、最初の話もそうでした。王様は、「これでもか」って恵みを備えて招いて下さいました。だけど、招かれた人は、それに応えなかったんです。そこで神様は、恵みの枠をもっと広げて、あらゆる人を無条件に招待するという「驚くばかりの恵み」を差し出したんです。ところが、それでも、応えようとはしない人がいた・・・ってことだったんです。

 これは、私たちと関係ない話ではないと思います。たぶん私たちも、そういうことをしているんじゃないでしょうか?いったいどうして私たちは、そんなふうに「恵みに応えないまま」でいるんでしょう・・・?
最後にそのことを、三つの点から考えてみたいと思うんです。

 1)「恵み」の価値を軽く見てるから
 一つには、私たちが「恵み」の価値を、ついつい軽く見てしまう・・・ってことが、あるからじゃないかと思います。皆さんは、お土産などの売り場にあるお菓子や漬物の試食品を食べたことがありますか?それは、誰が食べてもいいもので、お金を払う必要はありません。いわば、「恵みの品物」です。
 私も、買いもしないで食べるんですが、種類もたくさんあるし、見た目がどうも・・・ってものもあるんで、気に入った物だけ食べます。しかも、食べてから「イマイチだなあ・・・」と文句を付けたりもするんです。
世の中にはそんなふうに、ある意味「恵み」が溢れてます。但し、それは聖書の「恵み」とは違う「商業サービス的な恵み」ですね。ハッキリ言って「お客さんを呼ぶための餌」で、お店の方も「残ったら捨てればいい」って思ってるんですね。そういう中で暮らしていると、いつしかそういう「恵み」に慣れて、「気に入ったら貰えばいい、気に入らなきゃ捨てて置け・・・、それが『恵み』というものだ」って思ったりするんじゃないでしょうか。
 今日の話で最初に招待されたお客たちも、そんな感じだったんじゃないかと思うんです。ですが、もしも「神様の恵み」も、そんなふうに思ってるとしたら、それは「神様の恵みに応えること」に失敗してるんです。というのは、「神様の恵み」とは、「気に入ったらどうぞ」程度のものではないんです。「神様が下さる本当の救いの恵み」とは、私たちの人生の全てを投げ打ってでも、頂く価値のあるものです!それを私たちは、本当は受けるに値しない者だったのに、何の支払いも要求されずに、無条件で、ただで与えられるんですね。「恵み」とは、そういうものなんです。

 2)「招かれた」だけで満足しちゃうから
 二つ目に、私たちはもしかして、「恵みの中に招かれた」ことだけで満足しちゃって、「その恵みに応えて行く」ことを忘れてる、考えないで終わってる・・・ってことが、あるんじゃないかと思うんです。
 たとえば、どこかのお店から、こんなハガキが来たりしますね。「お誕生日おめでとうございます。このハガキをいついつまでにご持参下さると、全品何割引きです。」それも、ある種の「恵み」です。この前は、こんなハガキが届きました。「このハガキをご持参下さると、山菜汁を一杯、無料で差し上げます。」私の家内は山菜汁が大好きで、「これはいい」と思ったんです。だけど、気付いた時にはキャンペーン期間が過ぎていて、「貰いそびれた」ってことになっちゃったんですね。たぶんそれは、「無料ハガキ」を貰っただけで満足して、それだけで「山菜汁を食べた気分」になるからだと思います。 
 私たちがしっかり知らなきゃいけないことは、「山菜汁の無料ハガキ」を貰ったことと、「山菜汁を実際に貰い行くこと」とは違う・・・ってことなんです。「恵みの招待を受けた」だけでは、「恵み」は自分のものとは、まだ、なっていないんです。その招待に応える必要があるんです!

 3)「恵み」に気付いていないから
 最後の三つ目に、私たちはもしかして、「自分には、恵みなんか与えられてない・・・」って思うことがあるんじゃないでしょうか。つまり、「神様の恵みに気付いてない」ってことです。それで、「恵みに応える」こと自体を考えられないでいる・・・ってことがあるんじゃないでしょうか?
 ちょうど今、地球の裏側で、サッカーのワールドカップが始まっています。私は、ワールドカップというと思い出す事件があるんです。
 それは、12年前に日本で開催されたワールドカップの時でした。忘れもしない、日本が決勝トーナメントに進んで最後にトルコと当たって負けちゃった日のことです。その前夜、私たちは教会を留守にしていました。その間になんと、泥棒が入ったんです。帰って来て気付いて、警察を呼びました。教会も牧師館も調べられて、私も現場検証に付き合わされているうちに、日本とトルコの試合が始まって、私が見てないうちに日本が負けてしまったんです!
 それはもう、何とも言えないくらい腹立たしいことでした。「泥棒に入られた上に、俺が見てないうちに日本が負けた・・・、なんてことだ!!」って思いました。「今日は最悪、全然いいことが無かった・・・」って思ったんです。
ところが、後で分かったんです。泥棒に盗まれた物は、ほとんどなかったんです!その泥棒は、他の所じゃ現金や通帳を盗んでたんですが、家ではそっくり残っていたんです。それを知った時、思いました。「守られた!これは神様の恵みだ!」って・・・。
 私たちは、「恵み」よりも、そうではない事の方に心を奪われやすいんです。それで「恵み」はあるのに「最悪だ!」って言ってみたりするんです。実は、私もあの日のことを思うと、今でも「恵みだった」と思うよりも、「日本の最後の試合が見られなくて残念だった」って気持ちの方が先に立ったりするんです。そうなってると、「恵みに応えること」なんて、当然ながら考えられなくなるんです・・・。
 だけど、それは、残念なことじゃないですか?本当は「恵み」はあるのに、それが見えてなくてガッカリしてるとしたら、悲しいことじゃないでしょうか・・・? 


まとめ           
 イエス様は最後に言われました。「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」
 この意味は、「天の御国に入れる人は、そもそもごく僅かです」ってことではないんですね。ここでの「多い少ない」は比較の話です。だから、イエス様は「招待される者は多い!」って言ってるんです。「だけど、それに応えてくれない人がいるから、選ばれる人は、招待された人に比べてどうしても、少なくなってしまうんだ」って、嘆いているんです。
 神様が差し出して下さる「恵み」は、それに誰も応える人がいなければ、誰の「恵み」にもなっていないんです。イエス様が十字架の犠牲を払って与えて下さったその「御恵み」を、誰も手を付けないでほったらかしの試食品みたいにして、いいんでしょうか?
 だからぜひ、「恵み」に応えましょう!そうすることによって、「神様の恵み」は、初めて「私の恵み」、「あなた自身の恵み」となるんです。
by sagaech | 2014-06-19 19:47 | 礼拝メッセージ

愛用のラップ袋を入れて(6月のサークルハンズ)

 女性のための集会は2つあります。 「サークルハンズ」は、お楽しみ企画をするサークル(月1回)です。 「オリーブ会」は、聖書の学びとお祈りをする集会(月2回)です。
こんにちは、サークルハンズです。
早目に梅雨入りした6月、
ラップ袋を折りたたんで入れる
紙と布製のケースを作りました。

寒河江の方が考案したという物を
近隣の方を経由して、
教えていただきました。
ありがとうございます。

好きな布を選びます。
素敵な和柄も人気でした。
着物をほどいて持参された方もいて、
思い出の生地で、素敵ですね。
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おりしろを7mmくらい付けて裁断し、
角に切り込みを入れて、
台紙に木工用ボンドで貼り付け。
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表に袋の取出し口を、
裏に差し込み口を、切り入れて完成。
折りたたんだラップ袋を中に入れます。
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私たちの知る範囲では、山形では、
ラップ袋が愛用されていますが、
他県出身の方は「前は使ったことなかった」。
一同「へえ~っ!」と驚き(笑

簡単ランチは、炊き込みご飯と、
サクランボ&アセロラのゼリー。
冷凍サクランボは去年もの。
今年もまもなく、旬がやってきます。
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聖書のお話は、「ノアの箱舟」。
映画の公開に先立って、
聖書本来の記述とメッセージを
皆さんで分かち合いました。


ノアは、正しい人であって、
その時代にあっても、全き人であった。
ノアは神とともに歩んだ。
創世記6:9

by sagaech | 2014-06-12 19:41 | 女性の集会

仕えることの幸い④「御霊の現れ」

  日曜日の礼拝で牧師がお話した聖書のメッセージです。 

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「仕えることの幸い」4   2014.6.1
「御霊の現れ」
コリント人への手紙第一12章1‐11節



1 「クリスチャンの奉仕」は、「世の奉仕」と何か違うのか?
 パウロは今日の所で真っ先に、こう言ってます。「さて、兄弟たち。御霊の賜物についてですが、・・・。」 「御霊」とは、「聖霊」とも呼ばれる三位一体の神様の御一方、つまり、神様です。そんな「御霊の賜物」というのは、神様が私たち一人一人に与えておられる「奉仕のための力や能力」のことを指してるんですね。その「御霊の賜物」が十分に発揮されて、私たちを通して神様の喜ばれる様々な「奉仕」が、教会の中でも外でも成されて行くこと、それを神様は望んでいらっしゃるんです。
 今日の所では、「その奉仕には具体的にはどんなものがあるのか」が、いくつかの具体例を挙げて紹介されています。ざっと見ると、「知恵のことば」や「知識のことば」を用いる奉仕、それから「いやし」や「奇跡」を行う奉仕、「預言」の賜物、「霊を見分ける力」、「異言を語り、それを解き明かす」っていう奉仕が言われています。
 聖書の他の所では、もっと違う奉仕も出て来ます。「使徒」としての奉仕、「教師」や「伝道者」や「牧師」としての奉仕、人を「助け」て、困ってる人に「慈善」を行って、貧しい人たちに「分け与える」奉仕などです。挙げようと思えば、もっと挙げられます。「互いのために執り成し祈る」奉仕、ベタニヤ村のマルタがしたように「皆のために食事の用意をする」奉仕もあるし、ダビデが得意とした「礼拝で歌や楽器をもって神様を賛美する」奉仕もあれば、エズラやネヘミヤのように「主の宮、教会堂の管理や修理をする」奉仕、また、「子どもたちに分かりやすく神様の話を教えてあげる」奉仕もあります。どうやら聖書は、「神様が望んでおられる奉仕は、これで全部です」ってリストを教えてるんではなく、あくまでも、具体例として、「たとえば、こんな奉仕がありますよ・・・」ってものを紹介してるんですね。
 いずれにしても私たちは、「仕えて生きる」ことの大切さを知ったなら、「それじゃあ、私はどんな奉仕をしたらいいんだろう?」って実際に考えてみる・・・、そういうことが必要になって来るんじゃないでしょうか・・・?

 けれども、ここに挙げられている奉仕を見ると、「ああ、これは、いかにもクリスチャンならではの奉仕だなあ」っていうものもありますが、必ずしもそうではないかも・・・っていう奉仕もあるんじゃないでしょうか? つまり、「世の中でも、これと似たようなことをしてるんじゃない?」っていう奉仕です。
 たとえば、この世の中でも、いわゆる「知恵のことば」や「知識のことば」を教える人がいます。もちろん、聖書の言う「知恵と知識」とは全く違う種類のことばですが・・・。また、「預言を語る」人もいますね。それも、聖書の言う「預言」とは全く違う、手の平を見たり、名前を見たりして、「あなたの人生はどうのこうのだ」って脅かして来るものです。それに、「奇跡を見せてくれる人」も、「病気をいやす人」もいたりします。
 そういうものと、聖書が言う奉仕とは、いったい何が違うんでしょう? この世の人たちもするような働きと、イエス様を信じた私たちがする奉仕じゃ、どんな違いがあるんでしょう?それとも、大した違いはないんでしょうか・・・? 
 いいや、そこにはやっぱり違いがあるんです。そしてもし、私たちが何らかの奉仕をしていても、この世の人たちがする奉仕と何ら違いがありません・・・だったとしたら、まずいんじゃないかと思うんですね。では実際に、どういう違いがあるんでしょうか・・・? 


2 私たちの奉仕を通して現される「御霊の現れ」
 実は、私たちのする奉仕には、「御霊の現れ」と言われるものがあるんですね。イエス様を信じるクリスチャンの奉仕には、「御霊の現れ」って呼ばれるものが伴っているんです。そのことが、この世の奉仕と大きく異なっている点です。「御霊の現れ」ってことばは、7節にあります。
 「しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。」
 この「御霊の現れ」っていうものは、直接的には「御霊の賜物」を指しています。でも、これは単に「御霊の賜物」の言い替えではないんです。 「御霊」とは、神様のことですから、「御霊の現れ」というのは、単なる「霊的パワー」ではないんですね。「超能力みたいな力」でもないし、「神々しいオーラ」のことでもないんです。「人格を持った何か」のことです。
 つまり、「御霊の現れ」というのは、「御霊なる神様の生きたご人格が、目には見えないけれども、私たちの奉仕を通して感じられ、伝わって来て、響いて来るもの」のことなんです。たとえば、「神様の愛と慈しみに満ちた温もり」といったものや、「人間のドロドロしたものとは無縁の神の清らかさ」、「この世の不正や悪とは正反対の神の正しさ」といったものです。そういう「神様ならではのご人格」がジワジワと滲み出て来て迸り出る・・・、そういうもののことなんです。

 1‐3節を見て下さい。
「さて、兄弟たち。御霊の賜物についてですが、私はあなたがたに、ぜひ次のことを知っていていただきたいのです。 ご承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない偶像の所でした。ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語るものはだれも、『イエスはのろわれよ』とは言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません。」 
 パウロがここで言ってることは、「本当の神ではない偶像の神々」と「本当の神であられる御霊」の違いです。偶像の神々は、「ものを言わない」人格の無い存在です。だけど、「神の御霊」は人格を持っています。だから、ご自分を信じて従う私たちに対しても「ものを言う」んです。この方は、「声なき声」で囁き掛け、人格をもって私たちに働き掛けるんです。そして、「イエスは主です、イエス様こそは真の神様です!」っていう血の通った証しを、あらゆる私たちの言動、振る舞いを通して語らせるんです。
 だから、「御霊の賜物」を頂いている私たちは、それを用いて奉仕をして行く時に、「イエスは主です」という証しを、私たちの奉仕を通して、私たちの仕える相手に聞かせることが出来る、無言のうちにも伝えることが出来るんだ!・・・ってことなんですよ。それこそが、「御霊の現れ」です。

 だとしたら、それはやっぱりクリスチャンじゃないと出来ないことですね。イエス様を信じて「御霊なる神様」が内側に住むクリスチャンだからこそ、果たすことができる務めに他ならないんです。クリスチャンは、たとえ、この世の人たちと同じ働きをしていても、この点で違いがあるんですね。全く同じ働きをしていても、「御霊なる神様」が住んでおられる人の奉仕は違う・・・っていうことなんです。自分に与えられた「御霊の賜物」を用いて仕えて行く時、「御霊の現れ」が不思議と伴って来る・・・ってことなんです! 
 もちろん、自動的にじゃありません。「神様のために喜ばれる奉仕をしたい」との思いがないなら、「御霊の現れ」は、さすがに十分には現れて来ないかもしれません。「私はこんなに立派なことが出来るんだ!」って誇り高ぶって奉仕をするなら、「御霊の現れ」は、すっかり消え去ってしまうかもしれません。
 一方で、「御霊の現れ」は、私たち自身の努力によって無理やり絞り出せるようなものでもないんですね。それはむしろ、私たちを用いて下さる神様が、私たちの奉仕を通して憐み深く、滲み出させて下さるものなんです。


3 「御霊の現れ」が大切なわけとは?
 けれども神様は、いったいどうして「御霊の現れ」を、これ程まで大事になさるんでしょうか? 世の中ではそんなことは、問題にもされません。別な結果を出す方が大事にされます。ノルマをこなし、いかに目標の数字を達成するか・・・、ビジネスだったら、いかに売り上げを伸ばすか・・・、そっちの方が大事で、評価されるのも、専らそっちの方ですね。
 たとえば、お医者さんは、患者さんを上から見下して、物みたいに扱うような人でも、腕が良ければ「名医」です。学校の先生は、クラスのいじめ問題には目を瞑っていても、生徒のテストの点数を上げることが出来たら「良い先生」と言われるかもしれません。ラーメン屋さんは、性格の悪い頑固おやじでも、美味しいラーメンを出す店が「評判のラーメン屋さん」になるんです。
 もちろん、どんなに人間的には素晴らしくても、やるべきことが何も出来ていないのも困ります。出来ないよりは、上手に出来た方がいい。だけど、神様にとっては、そういうことよりもっと大事なことがあるんですね。それが、「御霊の現れ」、つまり、「神様の栄光、神様の類稀なる麗しさが豊かに現される」ってことなんです。
 
 なぜ、それが大事なのか? それは、それこそが、神様が私たちを「奉仕」に召しておられる最大の目的だからです。だから、極端な話、神様にとっては、超一流の腕ではなかったとしても、患者さんに誠心誠意向き合って、「御霊の現れ」を醸し出すお医者さんの方がいいんです。テストの点数は十分には伸ばせなくても、子どもたちが真っ直ぐ育つようにと心を砕いてる先生の方がいいんです。ラーメンの味はそれなりでも、「御霊の現れ」が、いい味付けをしてるラーメン屋さんの方が、神様にとっては遥かにいいんです。
 というのも、神様が私たちに求めておられる「奉仕」とは、それがどんな奉仕であれ、仕える相手は「人格を持っている相手」だからなんです。相手が人でも、神様でも、私たちは「生ける魂、生きてる霊」に仕えているんです。ところが、私たちはもしかして、そのことをすっかり無視したり、忘れてしまったやり方で奉仕をしている・・・ってことが、実は結構あるんじゃないでしょうか・・・?

 たとえば、「食事・料理を作る」という働きを、例に取ってみます。私たちは、「誰かのために食事を作る」ことが、家でも教会でもあるかもしれません。その場合、実際に向き合うのは、「人格を持たない、ご飯や肉や野菜なんかの食材」だったりします。だけど、その食材の向こうには、それを食べてくれる「人格を持った相手」がいるんですね。だから、料理を作る奥様やお母さんは、それを食べる家族を思って愛情を込めて作るんです。それで、「愛妻弁当」や「おふくろの味」は一味違うわけなんです。
 私の家内も、私の父が一緒に暮らしていた時、父が歯が悪くて固い物が食べられなかったんで、毎日いろいろ工夫しながら食事を作ってくれました。でもそれを、「食べられない」って、父が返していたりして、苦労が報われないことも多かったんです。だけど家内は、辛抱しながら、私の前では嫌な顔を見せても、父の前では嫌な顔を見せないで、毎日「父のための食事を作る奉仕」をしてくれました。それは「御霊の現れ」が添えられた料理だったんだなあ・・・って思うんです。

 一方で、私たちは「食事を作る」時に、単に、目の前の「お肉や野菜」しか見ないで、仕える相手の人格を忘れ、無視した奉仕をしてしまうことも、あり得るんじゃないかと思うんです。まあ、毎日の食事は、忙しくて仕方がないと思いますが。
 私は学生の頃、こんなことがありました。ある時、自分のアパートに友だちを呼んで鍋パーティーをしたんですが、「とことん拘った男の料理を食べさせてやる」と思って、買い出しとスープを作るのに、じっくり時間をかけたんです。そしてついに「これはうまい!」って自分を誉めたくなるくらいの鍋を、二種類も作って振る舞ったんです。ところが、お鍋が出来た時、ふと時計を見たら、なんと夜の10時だったんです。部屋で待ってた皆は、待ちくたびれて、疲れ果てていたんです。で、「遅いよ、眠くなったよ!」ってブーブー言われちゃったんです・・・。
 私はそれを、「奉仕」のつもりでやっていました。「皆にうまい物を食べさせてやろう」って。だけど、皆のブーイングを聞いて、ハッと思わされました。「本当は、『奉仕』って理由を付けて、自分の拘りに無理やり皆を付き合わせていたことだったのかも・・・。自分は本当に友だちを喜ばせたかったのか? それとも自分が満足したかっただけなのか?」そう反省させられちゃったんです。
 私たちは、「食事を作る」ことだけじゃなく、あらゆる奉仕の際に、そういうことが結構あるんじゃないでしょうか?それは、私たちの奉仕に「御霊の現れ」が欠けている・・・ってことじゃないでしょうか? そしてその代わりに、自分自身の罪深い「自我の現れ」の方が、たっぷり現れちゃっている・・・っていうことじゃないでしょうか?


まとめ
 それならば、どうしたら、「御霊の現れ」を、私たちの奉仕に溢れさせることが出来るんでしょう?それは、私たち自身には、相当難しいことではないでしょうか? 罪深い自我が一杯の私たちは、そもそもそういうことを期待されても無理なんじゃないでしょうか・・・。
 実は、そうなんですね。私たち自身には無理なんです。「御霊の現れ」を、自分で自分の中から絞り出すことは、むしろ不可能なことです。
 ですが、6節にこう書かれています。
 「働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。」
 「神様が、すべての人の中で、すべての働きをなさる」と言われているんです!つまり、「奉仕の働きをするのは、確かに私たちだけど、もう一方では神様が、私たちの中に働いて、ご自身の御心に適う奉仕をさせて下さっている」ってことなんです。「私たちの中で『御霊の現れ』に溢れた奉仕をなさるのは、私たちではなく、神様なんだ!」って言ってるんですね。
 だから、私たちのするべきことは、「私たちの中で神様が、自由にお働きになれるように、自分自身を神様に委ねること」です。「御霊なる神様が、私たちを用いてお望みどおりの働きをなさることが出来るようにと、私たち自身を『神様の手の中に握られた神様の道具』としていただくこと」です。
 そのためには、ぜひ、こうお祈りしましょう。「神様、どうかこの私を、あなたの御心に適うように、あなたが私を用いて下さい。こんな私の奉仕も、憐れみ深く聖めて下さって、あなたの『御霊の現れ』を少しでも豊かに現すことが出来るように、あなたご自身がこの私の中で、お働き下さいますように・・・。」
by sagaech | 2014-06-05 18:02 | 礼拝メッセージ