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「チキン・パルメザン」のパスタランチ(9月のサークルハンズ)

 女性のための集会は2つあります。 「サークルハンズ」は、お楽しみ企画をするサークル(月1回)です。 「オリーブ会」は、聖書の学びとお祈りをする集会(月2回)です。

こんにちは、サークルハンズです。
9月に「チキン・パルメザン」を作りました。
定番?のヘルシーチキンむね肉です。
パルメザン入りの衣で焼きカツにして
パスタとコラボしました。

初めてカツ作りをした若者と
ご指導上手な熟練女性のコラボで
美味しいカツが出来上がり♪
どんどん出る洗い物を手早く洗って
片づけてくれる方々のコラボも素晴らしいです。

パスタソースは、今季ラストの生バジルを
持ってきてくれた方のおかげで
濃厚な香りのジェノバソースに♪
緑色のファルファーレになりました。
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バイブルタイムは「洞爺丸事故と宣教師」のお話。
北海道に台風が続いた今年、
3月に北海道新幹線が開業しました。
そのきっかけとなった62年前の9月26日。
洞爺丸を含む5隻の青函連絡船が沈没して
1400名以上が犠牲となった史上2番目の海難事故。

その事故で、北海に散った宣教師たちもいました。
日本人を愛して、その救いのために
いのちを捨てたアメリカとカナダの宣教師たち。
イエス様の身代わりの愛の証しを残して…

リアルタイムでニュースを見た方々もいました。
後日(9月26日)、同じお話をお伝えした東松島では、
当時仙台のミッションスクールの学生で、
学校に召集されて、皆で祈ったという女性が!
寒河江のかたも亡くなられたと後で聞きました。


この日は、久しぶりの再会も、
初顔合わせもありました。
県外や海外からの学生さんもいて
若いエネルギーもチャージして(笑)
みんなで囲む食卓は、
やっぱり感謝がいっぱいですね。
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人がその友のためにいのちを捨てるという、
これよりも大きな愛はだれも持っていません。
ヨハネの福音書15:13

by sagaech | 2016-09-27 19:57 | 女性の集会

夏と秋の味わい(8-9月のチェリーキッズ)

チェリーキッズは、毎月1回土曜日の朝に行っている子ども会です。    
詳しくはこちらをご覧ください。


こんにちは、チェリーキッズです。
つめたいデザートがうれしかった夏もすぎて
あったかいものがうれしい秋です。
2か月分の報告・記録をします。

7月がお休みになって、
8月にアイスクリームパーティをしました。
礼拝は、「抱きしめてくれるお父さん」のお話。
ボロボロになって帰った放蕩息子を抱きしめて歓迎した
やさしいお父さんは、天の神様のことです。
「私も神様の愛のふところに帰ります」と祈りました。

うれしいアイスクリームタイム。
おいしいバニラは、そのままでも、
味をプラスしてもおいしい。
今年は、ブルーベリー味とシナモンアップル味で♪
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Hちゃんが上手に焼いてくれたミニパンケーキを
好きな型で自分でくりぬいて
初参加の小さな姉妹ちゃんたちも楽しみました。
「海アイスできたっ!」
こうして夏が終わりました。
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9月は台風が多くて
秋晴れが少なかったけど
ちょうどよく陽ざしをおさえてくれる曇り空で
外の「いも煮」を楽しみました。

始まる前の準備は、みんなでします。
こんにゃくは、さして、ちぎって、ゆでて、
ネギを切りのHちゃんは涙目でがんばって
小さなお友だちはキノコを嬉しそうにさいて
肉切りのT君は「にくおくん」。

礼拝とクラスの後、外に行って芋煮会♪
もちろん、山形内陸の牛肉&醤油いも煮!
「私、Nちゃんの記録更新する!」って
おわんで5杯食べたHちゃん。
みんなでうれしくて、おいしかったね!


「お父さん。私は天に対して罪を犯し、・・・
もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」
「肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。
食べて祝おうではないか。
この息子は、死んでいたのが生き返り、
いなくなっていたのが見つかったのだから。」
そして彼らは祝宴を始めた。 
ルカ15:21-24より


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by sagaech | 2016-09-24 19:45 | チェリーキッズ(子ども会)

和のスィーツ2種(8月、9月のジュニア)

チェリーキッズ・ジュニアは、毎月1回日曜日の午後に行っている中高生会です。    
詳しくはこちらをご覧ください。



こんにちは、ジュニアです。
涼しいというより、寒くなったこの頃、
暑かった夏を思い出して、2か月分の報告です。

8月は、和風フルーツフラッペ。
「つったい」(冷たい)かき氷に
あずきと抹茶をトッピング。
フルーツいろいろ、地元のブドウとラズベリーも♪
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この日は、ボランティア交流として
震災で被災した東松島の方々への
メッセージカードとフルーツゼリーも作り、
翌日牧師夫妻がお渡しして来ました。
現地に行けなくてもできる応援がありますね。
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9月は、和風デザート第2弾。
冷たい白玉ぜんざいを作りました。
白玉作りが初めての人にも、
Nちゃんが上手にご指導してくれました。
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関東から来たインターン大学生も一緒に
白玉をクルクルまるめて…
絹豆腐で作る白玉は、もちもちして
かたくならず、好評でした。
ピオーネと黄色桃と梨も加えて初秋のデザート♪
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学びのほうも毎回深まっています。
大切な十代の時期に、
神様と自分と仲間がいて、
互いに分かち合えるのは幸いなことですね。

主よ。あなたは私を探り、
私を知っておられます。
あなたこそは私のすわるのも、
立つのも知っておられ、
私の思いを遠くから読み取られます。
詩篇139:1-2


by sagaech | 2016-09-20 17:06 | チェリーキッズJr(中高生会)

召天者記念礼拝「イエスにあって眠った人々を」

  日曜日の礼拝で牧師がお話した聖書のメッセージです。 

召天者記念礼拝説教   2016.9.18
「イエスにあって眠った人々を」    
 テサロニケ第一4章13‐18節

はじめに               
今日の礼拝は、「召天者記礼拝」として行わせていただいてます。 「召天者記念礼拝」というのは、私たちよりも先に天に召された敬愛する「召天者」の方々を偲びつつ、その方々を「天の御国」にお召しになって、いたわり、ねぎらって下さってる天の神様を崇める礼拝です。
 その礼拝に今日は、この教会に所縁のあるご遺族の皆様を、特別にご招待させていただきました。そして、今日の礼拝は、「イエスにあって眠った人々を」と題しまして、神様のメッセージをお伝えさせていただきたいと思います。 


1 「天に召された人」は、遥か彼方で風化しちゃうのか…?
私たちの教会は、ようやく20年が経ったくらいなんですが、それでもこれまでに、何人もの方々を天に送らせていただきました。その中には、もちろん教会として正式にお葬式をさせてもらった方々もいらっしゃいますし、そうは出来なかった方もおられます。
また、正式な教会のメンバーではなかったけれど、こちらの教会に通っておられたり、教会の皆に祈り覚えられていて…、そういう関係で私がお葬式の司式をさせていただいた…って方もおられます。そういう方々を全部を含めたら、この教会に所縁のある召天者の方々は、もう既に十何名にもなってるんですね。
私は、そのお一人お一人のお顔を、今日の「召天者記念礼拝」に当たって、改めて思い起こしてみたんです。そしたら急に懐かしくなっちゃって、お一人お一人と最期に交わした会話なんかが、いろいろ甦ってまいりました。 
あの人も、この人も、いろんな病気や、いろんな問題を抱えてて、簡単じゃないものを背負っておられたなあ…、でも、それぞれに一生懸命に生きておられたなあ…って思います。 苦しい中でも必死に神様におすがりし…、イエス様が向こうで待っててくれてることに信頼し…、ある方は、最期まで神様に感謝をしながら祈っておられました。また、最期まで、神様の救いを喜んで、神様のお恵みを、自分の家族や周りの人に証ししようと健気に励んでおられた…、そういう方もいらっしゃいました…。
 もちろん、いろんな弱さもあって、そういうことを十分に出来たってわけでもなかったでしょう。それこそ、ある方は、ご自分の過去の歩みを悔やんでは、「私は天国に行けるんでしょうか?」と心配したりもしてました。もちろん、私は「大丈夫です」って申し上げたんですが…、そうやって神様を砕かれた心をもって仰いでる人は、大丈夫、イエス様からしっかり覚えられてます!
 そうやって、あの人も、この人も、こちらの世界に「肉の体」を脱ぎ捨てて、目に見えないあちらの世界に、静かに移されて行ったんです…。
聖書は、そういう方々のことを「イエスにあって眠った人々」って呼んでるんですが…、ただ、その方々を失って、こちらの世界に残されてしまったご遺族の皆様は、それはそれは、とっても深ーい悲しみに沈んでしまったりするんですね。
 もしも、神様を知らなかったら、どうにもならない喪失感となってしまうでしょう。まるで、太平洋のど真ん中で、自分がとっても大切にしていた高価な宝石を海の中にポトンと落としてしまった…、そんな気持ちになるでしょう。もはや、とんでもなく遠い所に行ってしまって、どこに行ったか分からない…、あの人は、私の手の届かない世界に行っちゃった…、そんなふうに思わされるんじゃないでしょうか?
それは、神様を知ってる人であっても、そうかもしれません。だって、事実、私の大切なあの人は、もうここには居ないからなんです…。昨日まで、あの人が使ってたコップが、そのままそこに放って置かれてる…、それを見ただけで心が疼くんです! 一年前にはニッコリ笑って写真に納まってた笑顔を、今年はもう見れない…、あの人の笑顔は、もう私の手が届かない所に行っちゃった…、そう考えただけで、どうにもならもない寂しさに包まれてしまうんです!
そういう「目に見えない距離」っていうものが、毎年毎年ますます広がって行く…、そう感じてしまうってことがあるんじゃないでしょうか…? 写真の中のあの人…、私の記憶の中のあの方は…、何年経っても変わらない…。でも、私の方は変わって行くし、この世の中もどんどん変わって行く…。だから、私の大切なあの人だけが、一人、過去の世界にポツンと置いてきぼりにされている…、毎年毎年あの人は、遥か彼方にどんどん追いやられてる…、そんな感じになっちゃうことが、私たちはあるんじゃないでしょうか?

私の母は、私が26歳の時に亡くなったんですが、その時母は、58歳でした。その母は、当時の私にとっては、この世界で誰よりも近くて親しい存在だったんですね。ところが、あれから25年が経って、ほんと申し訳ないんですが、母の記憶は正直言って、だいぶ薄れて来ちゃってます。
というのは、青森の実家を取り壊してからは、母の写真すら、ほとんど手元になくなってしまったんです。そして、僅かに残った写真の中の母は、どうやら、今の私の年齢よりも若くなってしまったんですね…。それを思うと私の母は、ずいぶん昔の世界に置いてきぼりにされちゃったなあ…って、ふと、感じてしまうんです…。
それは、確かに寂しいことです。 でも、しょうがないことです。それに、ある意味それは、私たちにとっては良い事でもあるんだなあ…と思うんです。というのは、それによって私たちが、過ぎ去った過去に束縛されちゃうことから守られてるからですよ…。
 どんなに忘れたくない大切な人であっても、もしも私たちの中に、その人の記憶がいつまでもクッキリしてたら、逆に私たちは、過去の思い出の中に縛られてしまうでしょう。そして、今を生きられず、前を向いて進んで行けなくなってしまうんでしょう…。 だから、天に召されてすぐは「鮮やかなカラー写真」だったのが、だんだんと「セピア色の白黒写真」になって行く…、それは神様の憐み深いご配慮でもあるんです…。

けれども、それはそうだとしても、「先に天に召された方がどんどん遠い所に行っちゃって…、その人の存在そのものもどんどん色褪せて行く」だけだとしたら、本当にそれでいいんでしょうか…? だって、もしもそうなら、私たち自身もいつかはそうなる…ってことなんですね。
 私たちは、この世の人生を終わったら、あとはどんどん遠い所に追いやられ、遥か彼方に置いてきぼりにされて、そのうち誰からも忘れ去られちゃう…。そして、私たち自身も、私たちの愛する人の存在も、どんどん風化してしまう…。
もしも、そういうことだとしたら、私たちがこの世で必死に生きてることに、何の意味があるんでしょう? そういうのが全部、空しくなっちゃうんじゃないでしょうか…? そして、この世の最期を迎えたら「何の望みもない」ってことになっちゃって、ただただ悲しみに暮れるだけ…、そうなってしまうんじゃないでしょうか…?


2 「先にイエスにあって眠った人々」ほど、優先される!
ところが、聖書はキッパリと、「いいや、そうではないよ! 決してそんなことはありません!」って言うんです。むしろ、こう教えてるんですね。
「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。」
 つまり、「天に召された人たちのことについて、私たちは、望みを失ったり、悲しみに沈んだりする必要は、全くないんです!」って聖書は断言してるわけなんです。どうしてそうなんでしょう…?
その理由が、今日の聖書の所で教えられています。

まず、聖書は「先に天に召された人たち」のことを、「眠った人々」って呼んでるんですね。そのことを覚えたいと思います。 お分かりだと思いますが、「眠った」とは「死んだ」ってことを意味してるんです。
 ですが、この「眠った」って表現が、何とも慰めに満ちたことばだなあ…って思いませんでしょうか? というのは、「眠った」とは、言い替えると「死んではいない」ってことだからですよ! 確かに「死」ってことを体験した…。だけど、どこかに消えてしまったわけじゃなく、今はただ、別な所に移されただけ…。そうしてやがて、「目を覚ます」時を待ってるんだ!…ってことなんです。
因みに、「眠った」とは「意識がなくなってる」わけではなくて、私たちの目には「眠った」ように見えてるだけ…ってことなんです。だから、その「目覚め」の時には、単なる「寝ていた人が目を開ける」以上の驚くべきことが起きるんですよ! 
14節を見て下さい。
「私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです!」
 つまり、「イエスにあって眠った人々」は、イエス様が復活したのと同じように、新しいいのちと体に復活するんです!…ってことなんです。
 そしてその「復活させられた人々」を、イエス様はご自身と一緒に、再びこの世界に連れて来られる!!…って言うんですよ。だとしたら、これは、なんて驚くべきことでしょう! そして、なんて希望に溢れた話でしょうか!!

けれども、希望に溢れる話は、それだけじゃないんです。15節も見て下さい。
 「私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません!」って言われてるんですね。
 「主が再び来られるとき」とは、世の終わりの時に、イエス様がこの世界に再びお出でになられる「再臨」と呼ばれる出来事を指しているんです。その時まで「生き残っている私たち」とは、「その時になってもまだ死んでなくて、この地上の世界に生き残ってる人たち」のことなんです。
 その人たちが、「死んでいる人々に優先するようなことは決してありません」って言われてるんですが、これはいったい何を言ってるんでしょう…? それは実は、こういうことを教えてるんですね。
 「先に天に召された方々」と「今はまだこの地上に生き残ってる私たち」とでは、神様は、断然「先に天に召された方々」の方を優先するんです!!…ってことです。 「先に亡くなった人」は後回し…ってことは、神様は決してしません! むしろ「先に眠った人々」の方が優先されるんです!!…ってことなんですよ。
そのことがハッキリ分かるのは、イエス様が再びこの世界にお出でになられる「再臨」の時なんです。その「再臨」の時には、生きてる人も、死んでる人も全て、イエス様の御許に集められるんですね。
 でもその時に、まず真っ先に復活して集められるのは、「キリストにある死者」です!…、「イエス様にあって眠った人々」だ!…っていうんですよ。その次に、「この世で生き残ってる人たち」がイエス様の御許に引き上げられる…、そういう順序です。だから、「先に天に召された方々」の方が明らかに、神様の前では優先されているんです!!
この事実から、私たちは何を教えられているんでしょう?  それは、こういうことなんですね。
 「先に天に召された方々は、遠い所に置いてきぼりなんかはされてません! どこかに忘れ去られてもおりません! 風化するなんてことは、とんでもございません!!」ってことなんです。むしろ、事実はその全く逆なんです。 つまり、「先に天に召された方々の方が、この世で生きてる私たちよりも、神様の懐近くにしっかりと抱かれている。 この世に残ってる私たちよりも、神様の前で、遥かにリアルにクッキリと覚えられてるんです!!」ってことなんです…。

だとしたら、このことは、「天に召される」ってことについてのとっても素晴らしい希望を教えてるんじゃないでしょうか…? 「天に召される」とは、「どこかの遠い世界に飛ばされて、忘れ去られること」では決してないんです。 イエス様は「天に召された人」を、再びこの世界に連れて来る…って言いますね。
その時にイエス様は、誰からもすっかり忘れ去られちゃったその人たちを、山の上とか海の底とか宇宙の果てまで捜しに行って、ようやく連れて来る…って、そういう話じゃないんです! むしろ、「天に召された人々」は、神様のすぐ目の前にいるんです! いつでも神様のすぐそばの特等席で、くつろいでるんですよ!そして、「将来、復活させてもらってイエス様と一緒にこの世界に連れ帰ってもらえる時」を、安らかな気持ちで待ってるんですね…。


3 やがて召される「天」こそを、メインにして生きる
私たちが、このことを思い違いしちゃうのは、たぶん、「この世に残ってる私たち自身」を中心に考えてしまうからなんですね。 つまり、「私が今暮らしてるこの地上の世界」こそが、「本当のメインの世界」なんだと思っちゃってるからなんです。
 だから、「天に召される」ってことも、「天って所は、とっても素晴らしい所です」ってどんなに説明されても、「行くべきではない所に行かされるんだ」と思ってしまう…。さながら、「東京の真ん中で暮らしてる人が、山形のど田舎に単身赴任させられる」みたいに感じてしまうんです。
 ですが、事実はその全く逆なんです! 「本当のメインの世界」は、「こちら」じゃなくて、「あちら」なんです! 神様がおられる所こそが「本当のメインの世界」なんですね。 だから私たちも、「神様がおられる天という世界」を中心に考えるべきなんです。 そうすると、「イエスにあって眠った人々」が実は、「どんなに優遇された、とっても幸せな状態に置かれてるか」ってことに気付かされるはずなんです…。

この前、私の甥が遊びに来て、教会の皆さんに大変お世話になりました。本当に有難うございました。その甥っ子に、私は「せっかくこっちに来たんだから、肉蕎麦を食べさせたい」と思って、何度か有名店に連れて行ってやりました。そしたら、あるお店では、入口の前に行列が出来てたんですね。早速私も入口にあった順番待ちの紙に名前を書いたんですが、もう既に、何人もの人が順番待ちをしてました。
 その日は結構暑くて、外で待ってることもしんどかったんですが、先の順番の人が、一人、また一人とお店の方から呼ばれて行くのをただ黙って待ってるしかありませんでした。きっと皆さんも、そんな体験、何度かしてると思いますが、その時に、皆さんはどう思います? 皆さんよりも先にお店の中に呼ばれて行く人たちのことを、どう思いますでしょうか?
 「俺たちよりも先に呼ばれて行っちゃって、可愛そうだなあ…」って思いますでしょうか? 「もう少し長く、皆と一緒に並んでいれたら良かったのにねえ…」って、思う人っていますでしょうか?
 そんな人は、まずいないですよ! 当然、「ああ、いいなあ」って思いますよ! 時々、たった一人で順番待ってる人が、グループで待ってる人より先に呼ばれることがありますね。「一人ならカウンターの席も空いてます」って…。そういうのを見ると、ますます「羨ましい!」って思うんじゃないでしょうか…?
ちょっと変な譬えですが…、私は、「イエスにあって眠った人々」、すなわち、「先に天に召された方々」は、「肉蕎麦屋さんの前に並んでて、先にお店の中に呼ばれて行った人」のようなもんだと思うんです。その人たちは、優先的にお店の中で肉蕎麦にありつけます。同じように、「先に天に召された方々」は、優先的に「神様のすぐそばで、くつろげる」という、とっても幸いな恵みに優先的に与れてるんですね!
ただ、一つ違うのは、「肉蕎麦屋さんの前に並んでる人たち」は、誰もが皆、「これから呼ばれて行く所では、どんな素晴らしい物が用意されてるか」ってことを、ちゃあんと分かってる…ってことなんですね。お店の中に呼ばれたら、「おまちど!」って、美味しい肉蕎麦が運ばれて来る…、それを、ちゃあんと知っている。つまり、「お店の外」よりも、これから呼ばれて行く「お店の中」の方こそが、「本当のメインの世界」なんだ!…って、よーく分かってるんですよ…。
 じゃあ、それならば、私たちはどうなんでしょう?
 皆さんは、「これから皆さんが呼ばれて行く所」…、「皆さんの大切な人が先に呼ばれて行った所」…、そっちの世界を本気でメインに、中心に考えていますでしょうか? そして、「そっちの方で用意されてる素晴らしい救いのお恵み」を、しっかり信じて暮らしていますでしょうか…?

まとめ           
この間、私どもの教会の団体、保守バプテスト同盟の事務局から、大変悲しい知らせがありました。日本で宣教師として働くために準備をしていたアメリカ人のパルズさんという宣教師のご家族が、アメリカで交通事故に遭って、パルズさんご夫妻と3人の幼いお子さんたちが、全員天に召されました…って知らせでした。
 これを聞いた時、「どうしてこんなことが!」って、さすがに私も絶句しちゃいました。こういう知らせを聞くと、やっぱり、こう思うんじゃないでしょうか? 「まだ若くて、たくさん素晴らしい活躍が出来たはずなのに、こんな形で天に召されるなんて、あり得ない!いいはずがない!」って…。そして神様も、もちろん、このパルズさんご一家の事故死を、とっても悲しんでおられるに違いないと思うんです…。
 けれどもです。それでも一つ確かに言えることは、こうして先に天に召されたパルズさんご一家は今、この世に残ってる私たちよりも遥かに幸いな御恵みを、私たちよりも優先して味わっている!…ってことなんです。
だから、ぜひ、私たちもしっかりと、希望を持たせていただきましょう! 聖書が教える通り、「他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのない」ようにさせていただきましょう! 
そしてむしろ、「『先にイエス様にあって眠った人々』と一緒に、イエス様の許で皆が一つとなって集められる日が来る」って希望を、しっかりと待ち望んで暮らして行く…、そういう歩みをこれからもご一緒に、励まし合わせていただきたいと思います。
by sagaech | 2016-09-18 20:46 | 礼拝メッセージ

敬老礼拝「本当の終活とは?」

  日曜日の礼拝で牧師がお話した聖書のメッセージです。 

敬老会説教      2016.9.11礼拝
「本当の終活とは?」
ヨハネの手紙第一3章1-3節

はじめに 最近の「終活」ブーム
皆さんは、「終活」ってことば、ご存じでしょうか? 今日の説教のタイトルにも書いてますが、それは「就職活動」の「就活」ではなくて、「終わりの活動」って意味の「終活」です。何の「終わりの活動」か?…って言いますと、「人生の終わりのための活動」なんですね。つまり、「人生の最期を迎えるにあたって、そのためのいろんな準備を行なって、自分の人生の総括をする」ってことなんです…。
この「終活」ってことばは、数年前に流行り始めて、流行語大賞にもノミネートされました。で、今は、ちょっとしたブームになってる感じです。たとえば最近は「終活セミナー」ってものがあるんですね。何をするかというと、自分のお墓や葬式の準備…、それから、自分が寝たきりになった時にどうするか…ってことだとか、自分が亡くなった後の相続税の説明会…なんてことが、葬儀屋さんや
保険会社の主催でやられていたりするんです。
 また、本屋さんには、「終活ノート」や「エンディングノート」って物が売られるようになりました。それは、「自分なりの終活」を考えるための手引書なんですね。そんな感じで今は、大勢の人が…、特にお年を召された方々が、普通に「終活」をするようになって来てるんです。
まあそれは、ちょっと前の日本じゃ考えられなかったことですよ。「人生の終わりの死」ってものは、「縁起でもない」って口にすら出来ない空気が、以前はあったもんでした。そんな中、この「終活」は、そういうものに風穴を開けました。もちろんこれには、ビジネス界からの後押しもあるんだと思いますね。「終活」は、高齢化社会の大きなビジネスチャンスになるからです。
でも、それを割り引いたとしても、「人生の終わりの死ってことに真っすぐ向き合いましょう」って取り組みは、とっても意味深いことだと思うんです。なぜならそれは、聖書が教える「人間の本来の生き方」ってものに、ピッタリ合致することだからなんですよ…。
キリスト教会では昔から、「メメント・モリ」ってことが言われてまいりました。 「メメント・モリ」とはラテン語で、「死を覚えよ、死を忘れるな!」って教えのことなんです。つまり、「この世の人生には必ず『死』ってことがある。その『死』ってことから目を背けずに、誰にでも訪れる最期の時を常に意識して、それに備えて暮らしましょう」ってことなんです。
 だから、「終活」ってことは、キリスト教会では何も新しいことではないんですよ。それは遠い昔から、私たちにとって当然のこととして教えられて来たんです…。


1 大橋巨泉さんの「終活」
ですが、その「終活」っていうのは、それじゃあ、どうすることなんでしょうか? どんなふうなことをするのが、「終活」なんでしょうか…?
一カ月くらい前に、大橋巨泉さんが亡くなった…ってニュースがありました。大橋巨泉さんは、昔のテレビ番組『ゲバゲバ90分』とか『クイズダービー』なんかで人気があった名司会者です。 何年か前には国会議員にもなりました。でもこの夏に、10年前から患ってた癌が悪化して、とうとう81歳でこの世を去られたんです。
 そんな大橋巨泉さんは、結構早いうちからテレビの仕事を引退し、海外に家を建てて暮らしておられたんですね。一年の半分は外国で、悠々自適に過ごしてた…っていうんですよ。ところが昨年の秋に、オーストラリアにあった家を手放しました。そして、「癌との戦いはもう終わり!」って宣言した…っていうんです。
その意味を、所属事務所の社長さんが、こう代弁していました。「本人は、もう打つ手がないから『終わり』と言ってるんです。これ以上の手術は体力が持たない。…オーストラリアの家を手放したのも、『終活』の一環です」って…。
つまり、あの大橋巨泉さんもまた、身近に迫った「死」ってものにジタバタしないで真っすぐ向き合い始める…ってことを、ある時から意を決してやって行かれた…ってことなんです。「オーストラリアの家を手放した」とは、もちろん「死を意識した財産処分」です。「癌との戦いはもう終わり!」とは、「人間らしさを失うような延命治療はもう止めて、残りの時を人間らしく過ごしたい!」っていう「ターミナルケア」についての意思表示です。
そういうことは、確かにとっても大切な「終活」なんですね。それは、自分を看取る家族のことを、いろいろ思い遣るからこそ考えることなんであって、「人が、人生の最期に取り組む、とっても尊い営み」なんだと思うんです。しかも、自分の死ってことから目を背けない「とっても勇気ある働き」です! だから、「癌」との闘いの真っ只中で、そうした「終活」に真摯に取り組んだ大橋巨泉さんは、やっぱり大した方だったんだなあ…って思わされました。
ですが、それでも私は、ふと、こういうことも考えさせられちゃったんですね。「もしも、財産処分やターミナルケアをどうするか?ってことだけで『終活してる』と言ってるんだとしたら、それはちょっと寂しい話じゃないのかなあ…」ってです。「おいおい、終活の『終』の字も知らないような若造が、なに偉そうなことを言ってるんだ!」って叱られそうですが…、でも敢えて、申し上げたいと思うんです。
もしも、そういうことだけの「終活」だったらば、それは単なる「人生の幕引きをするための準備」じゃないでしょうか?つまり、「消極的な意味での身辺整理をする」ってことに過ぎないんじゃないでしょうか…?

実は、先ほどお話しした「メメント・モリ」、「死を覚えよ」っていうことも、単なる「人生の幕引きの準備」を教えてるわけではないんです。 それよりも、「人生の幕引きの時が来るまでの間に、いかにして、神様がこの私に与えて下さった人生を、しっかりと生き抜くか」ってことを教えているんです!
「地上の人生は、『死』という幕引きによって限られたものとなっている。だからこそ、それまでの間を、どうやったら悔いなく尊く大切に暮らせるか…? どうやったら自分がこの世で生かされてる意味を、十分に果たし終えることが出来るのか…? そういうことを思い巡らして、残された人生を最期まで精一杯に生き抜いてまいりましょう!」、それが、「メメント・モリ」ってことばで教えられてる「終活」なんですよ…。


2 天皇陛下の「終活」…「お気持ちの表明」
先月、天皇陛下が「お気持ちを表明」されるというニュースがありました。「生前退位のお気持ちを、日本の全国民に向けて、自らご自分のことばで説明された」ってことだったんですね。 これまでは、天皇は一生涯天皇で、亡くなって初めて次の天皇が即位する…ということが普通だったんです。 今の天皇も、前の昭和天皇が亡くなられた後に、初めて天皇になられたんです。
 それを、亡くなる前に、生きてるうちに天皇の位を退いて、次の天皇に譲ってしまう…、 法律上はそういう決まりはないけども、何とかしてそういうふうにして行きたい!…、そういうお気持ちを国民に向けて訴えられた…ってことだったんです。
 ニュースでは、政府もその気持ちを酌んで特別措置を考えるようですが…、でも、どうして天皇陛下はそうしたいと思われたんでしょう? それは、テレビでもいろいろ解説されてました。
それによると、ただ単に「自分はもう年だから、早めに隠居させてくれ」という話ではないようなんですね。それよりも、81歳にられた天皇陛下が、自らの「人生の終わり」を意識した時に、自分の使命をどうやったら果たせるか…、それを一番に考えた…、そういうことらしい…って解説されていました。
おそらく、今の天皇が考えておられる「自分の使命」とは、「象徴天皇」としてのあるべき姿、理想像をご自分の代で確立する…ってことなんだと思います。今の天皇は、世界平和のために一生懸命に尽して来られたなあ…って私は思います。
 私自身は「天皇陛下万歳!」なんては叫びませんが、今の天皇がやって来られたことは立派だと思います。終戦後、日本がかつて武力で蹂躙した国々を訪問し、慰霊と和解を続け…、また、震災が起こる度に被災地を慰問し、被災者の方に寄り添って来られた…。
 そうやって今の天皇陛下は、「象徴天皇のあるべき姿」を必死で作り上げて来られたのかなあ…と思います。そして、昔のように戦争利用されない天皇のあり方を、しっかり確立し、次の代にもそれを受け継がせたい!…、そういうお気持ちだったのかなあ…って想像するんです。
 だから、お年になってやるべきことが出来なくなって行くうちに、そういう理想が無し崩しにされちゃうことを心配した…。それに以前、昭和天皇が亡くなった際に、日本の社会は一斉に喪に服させられて、娯楽もビジネスも強制的に自粛させられた…って国家主義的な統制がありました。
 もしも、今の天皇が亡くなられた時に、また同じことが起きるなら、今の日本はどれだけ右の方に引っ張って行かれてしまうか分からない…、そういうチャンスを与えちゃいかん… だから、天皇の葬儀をさせないで、天皇は葬儀をする前に「生前退位」をさせるべき!…そんなふうに、天皇陛下自身が考えられたのかなあ…って私は想像しちゃいました。
もしもそうならば、あれは天皇陛下の立派な「終活」だった…って思うんです。 81歳になられた天皇が、ご自分の死と真っ直ぐ向き合って、今、ご自分がやらなきゃいけないことを積極的に果たそうとされた…。そうすることが、自分に与えられた人生を精一杯に生きる道…、そう考えられたんじゃないでしょうか?
だとしたら…、この天皇陛下の「終活」は、ただ単に「財産処分」や「ターミナルケアをどうするか」っていうこと以上の「終活」だ…って思うんです。
そして、そういうふうな「終活」こそを、私たちもまた、やって行くべきなんじゃないでしょうか?「神様がこの私に与えて下さった人生を、どうやったら精一杯に生き抜くことが出来るのか? どうやったら私に与えられてる使命を最期まで全うできるのか?」…、 そういうことを考えた人生を幾つになっても積極的に生きて行く…、そういう「終活」こそを、私たちは、やって行くべきなんじゃないでしょうか?
つまり、「人生をいかに終わらせるか」だけの「終活」ではなくて、「人生を、いかに最期まで精一杯に生き抜くか」っていう「終活」なんですよ…。


3 「本当の終活」は、「次の本当の人生」のために備えること
けれども、私はさらに、こう思うんです。「聖書が教えてくれてる『本当の終活』は、そういうことだけでもない…」ってです。「それよりもっと積極的で、もっと前向きで、もっと明るい希望を持った『終活』を、神様は教えて下さっている!」ってです。その「聖書が教える本当の終活」は、果たしてどんなふうな「終活」なんでしょうか…?
一言で言うならば、それは、「この世の人生の後の、次の人生のために備えて行く」って「終活」なんですよ。「この世の後に始まる『本当の永遠の人生』のためにこそ準備する」…、そういう「終活」なんだ!…ってことなんです。
 だから、ただ単に「今の人生を、『死』というゴールに向かって、いかに生き抜くか」ってことだけでもないんですよ。むしろ聖書が教える「終活」じゃ、「死」はゴールじゃないんです。「死」っていうのは、「途中でちょっとトンネルを潜る」みたいなことに過ぎないんですね。むしろ、その「死」というトンネルを潜った後の「永遠の人生」ってものを新しく生き始めるための「終活」…、そういう「終活」を、聖書は教えてるんです。
 すると、「終活」って名前も、あんまり相応しくないのかもしれません。「本当の終活」は、「終わる」ことより「新しく始まる」ための活動だからです…。

だけど、「『新しい本当の人生』のために準備する」とはいったい、どんなふうにすることなんでしょうか…? そこで、最初に読んだ聖書の箇所を、もう一度ご覧いただきたいと思うんです。 そこの2節に注目して下さい。
 「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。 後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。 なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。」
 ここに、「後の状態」って言われてますが、これはつまり、神様が計画されてる将来の新しい世界のことを言ってるんですね。そして、「キリストが現れる」とは、イエス様が再びこの世界にお出でになって、この世の朽ち果てるものを過ぎ去らせ、「新天新地」と呼ばれる新しい世界を新創造される!…って出来事のことを言ってるわけなんです。
 すると、それっていうのはつまり、「死という出来事を通り抜けてしまった後のお話」なんですね。 そして、そこでは私たちのために、「次の新しい人生」が待ってるんですよ!
 どんな人生でしょう? それは、「私たちの前に現れて下さるイエス様…、すなわち神様のありのままのお姿を、私たち自身がこの目で見せていただいて暮らして行く」って人生なんですね。
 その時、私たちはどうなるんでしょう…? 
私たちは、「キリストに似た者となる」っていうんです! つまり、イエス様のありのままの姿を仰ぎ見たら、私たちもまた、「神様の聖くて真実で、愛に溢れたお姿」に似ている者へと変えられるんだ!!…っていうんですよ。

実は、それこそが、私たちにとっての「本当の人生」なんですね。 この世の人生を終わった後で、神様の許で新しくスタートさせていただく「本当の本番の永遠の人生」です!だから、私たちがするべき「本当の終活」は、その「本当の人生」のために備えることなんです…。


4 「本当の終活」は、さらに、主との婚礼に備える「婚活」
私は思うんですが、そういう「本当の終活」は、例えるならば、結婚式に似てるんじゃないかなあ…って思うんです。最近の結婚式の披露宴に行くと、よくこういうことが、やられていますよね。 結婚したお二人のこれまでの人生を写真にまとめてスライドショーでスクリーンに映し出す…っていうやつです。
 まずは、生まれた時の赤ちゃんの写真から始まって、お母さんに手を引かれて幼稚園に行ってたよちよち姿…。家族旅行で遊んだ時の写真や…、小学校の運動会で走った姿…、中学・高校の部活で活躍している様子…。受験に合格したり、就職したり、成人式を迎えたりした時の晴れ晴れとした笑顔…。 そういうものを、BGM付きで感動的に振り返らせてくれるんです。
 そして、そういうのは大体「今までの人生の良かった姿、嬉しかった時のこと」を紹介しているわけなんです。だけど、時々新郎新婦の友だちが、それとは別の「ちょっと恥ずかしい新郎新婦の姿」も、スピーチなんかで、わざわざバラしてくれたりするじゃないですか? すると、新郎新婦は、互いにドキッとしたり、「もうやめて!」と顔を真っ赤にしたりするんです。
 まあ、そういう悪ふざけは調子に乗るとマズイんですが、でも、それはそれで、意味があるんじゃないかなあ…って私は思います。 「お互いに、良かったことも悪かったことも全部ひっくるめてこれまでの自分の人生を振り返り、新しいパートナーとの『次の本番の人生』のために備えて行く」…、そういう意味があると思うんです。
実は私たちも、この世の人生が終わって次の人生が始まる時に、それと同じようなことを、期待されてるんですね。 つまり、「自分の人生、良かったことも悪かったことも、嬉しかったことも恥ずかしかったことも全部ひっくるめて振り返り、これまでの恵みに感謝して…、あるいは、反省や悔い改めを行なって、『次の本番の人生』のために備えて行く」ってことなんです!
 なぜならば、私たちの「この世の人生の終わり」も実は、結婚式みたいなものになるからなんですね。誰と誰が、結婚するんでしょう? 聖書が言うにはなんと、私たちとイエス様が結婚するんです! 
実は、私たちが次に行く世界には、私たちを待ってるイエス様って「新郎」がいらっしゃるんです! そして私たちは、そのイエス様から喜んで迎えてもらう「キリストの花嫁」なんだ…って聖書は教えてるんですね。 そのイエス様の「花嫁」となって、「天」という世界で私たちは、やがて、「本当の永遠の本番の人生」を始めて行くんです。だから、そのために備えて行く…っていうことが、私たちにとっての「本当の意味での終活」なんですよ!

そして、もしもそうならば、その「終活」でするべきこととは何なのか?…ってことも、おのずと分かって来るんです。 ただ単に「自分の人生を、どうしたら納得できて、満足できて終われるか?」ってことが、「終活」なんではないんですね。 それよりも、「次の世界で私たちを待ってて下さってる御方に、どうしたら喜んでもらえるか?」…、「『私の永遠の伴侶』となって下さるイエス様のご期待に、どうしたらお応えできるのか?」…、そのことに勤しんで行くのが「終活」なんです。
 そのことは、今日の聖書の箇所でも、こう教えられています。3節。 「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします」って…。
 つまり、「『将来イエス様にお会いして、イエス様と一緒に暮らして行く』って望みを与えられてる私たちは、聖いイエス様に喜んでもらえる生き方を、心を尽くして訪ね求めて行く…。この地上の残された人生を、私たちはそうやって暮らすんだ!」それが、私たちにとっての『本当の終活』なんだ!」ってことなんです。


まとめ 明るい希望を持った「終活」を!
だとしたら、私たちは、なんて積極的で前向きで、明るい希望を持てる「終活」に、招いていただいてることか!…って思いませんでしょうか? この世の人生を締め括る「死」って出来事は、確かに厳粛です。 けれども、それを潜り抜けた先にこそ、「本当の本番の人生」が待っています。 私たちの救い主なるイエス様との「麗しい新婚生活」が待ってるんです!
 だから、その希望を信じ、イエス様を信じて、喜びをもって朗らかに、「本当の終活」に勤しんで行く毎日を、これからもぜひご一緒に、励まし合わせていただきたいと思います。
by sagaech | 2016-09-11 20:51 | 礼拝メッセージ

御国の福音⑮「続・義と認められるという福音」

  日曜日の礼拝で牧師がお話した聖書のメッセージです。 


(御国の福音を分かち合う)15   2016.9.4礼拝
「続・義と認められるという福音」 
 イザヤ書43章4節、ローマ書5章1-11節

はじめに          
今日のメッセージは、「続・義と認められるという福音」ってタイトルにさせていただきました。7月の礼拝で、「義と認められる福音」と題したメッセージを、ローマ書3章の所から語らせていただいたんですが、覚えておられますでしょうか? 今日は、その続きとして今一度、聖書が言ってる「義と認められるという福音」ってものについて、ご一緒に覚えさせていただきと思います。


1 「自分は、生きてていいのか?」と悩む私たち…
皆さんは、こう思ったことって、ありませんでしょうか? 「私って、生きてていいの? 生きる価値があるの…? 俺って、生きていい人間なのか…?」って。「突然、なんてことを聞くの!」ってビックリしたでしょうか? だけど、そういうことって実際は、結構多くの人が考えてるんじゃないでしょうか? 考えたくはないけど、考えさせられちゃっているんじゃないでしょうか…? 
たとえば、子どもだって、そう思うんです。学校で「おまえなんか死んじまえ」って虐められると、「僕って、生きてていいのかなあ…」って考えるんです。自分の親から「おまえはダメな子だ!」って、しゅっちゅう怒鳴られてると、「私は、生きる価値なんてないのかも…」って真剣に悩むんです。
また、大人だって、そうですよ。仕事をバリバリやれてるうちはいいけど、一旦うまく行かなくなって、仕事で失敗したり、パワハラを受けたり、変な所に左遷されたりすると、「俺はもう必要とされてない…」って思うんです。そんな重たい気持ちで家に帰ると、奥さんも素っ気なく、子どもも相手にしてくれない…、すると、ますます思うんです。「俺は、家の中でも要らない人間なんだ…、じゃあ、もう生きる意味がない」って…。
「いやいや、そんなことは、ちっとも考えたことはありません」って人も、もちろんいるでしょう。でも、そういう人だって、年を取って誰かに面倒見てもらわないとやって行けなくなると、こう思うんです。「人様に、こんなに迷惑かけて、私は生きてていいんだろうか…?」って…。 
そしてまた、震災や津波なんかの特別な災害に見舞われた人も、そう思ったりするんです。「あんな良い人が亡くなって、こんな私が生き残った…、私は生きてていいんだろうか?」って…。
こういう悩みとは、確かに、とっても辛い…。出来れば考えたくないことですよ。だけど、そんなふうに悩むのは、ある意味マトモなことだなあ…って私は思うんです。というのは、それはつまり、「この世の非常に生きづらい人生を必死に生きている」ってことの証拠に他ならないからですよ。
それに、こういう問題は、「私たちの誰しもが、生まれた時から抱え込んでる問題」なんだと思うんですね。いつか、何かの機会に表に出て来て、真剣に問われるようになるんです…。つまり、「私という人間の、根本的な存在意味や存在価値」ってものが問われて来る…ってことなんです!
私たちは、「自分って存在が否定される」と生きて行けなくなっちゃうんですね。たとえ、全てが何不自由なく揃ってても、お金も才能もたっぷり持ってても、「私は生きてていい人間だ」ってOKサインを手に入れることが出来ないと、簡単に私たちは生きる力を無くすんです…。反対に、「私は『生きてていい』ってOKを貰ってる」って確信があると、大概の逆境の中でも「生きて行こう!」と思えるわけなんです。
そして、そのことは実は、聖書が言ってる「義と認められる」ってことと、深ーい関係を持ってるお話なんですよ。「義」というのは「正しい」って意味なんですが、単なる「正しさ」じゃないんですね。それは「神様の前での正しさ」です!だから、「義と認められる」とは、「神様の前で『あなたは正しい』と認められる」ってことなんです!
 するとそれは、イコール「救われる」ってことと同じことになって来るんですね。なぜならば、それは「私という存在が、全ての事に究極の裁きをなさる神様の前で、『あなたは正しい』と認められる」ってことだからなんですよ!
 それにまた、「神様の前で正しい」とは、「私たちの中の正しくないもの、罪過ちが、すっかり聖められている」ってことに他ならないんですね。そうすると、それは実は、「この天地で唯一絶対的な判断を下せる御方から、『誰が何と言おうと安心して生きてていい立場』を保証してもらってる!」ってことに間違いないんです!!
 だとしたら、これこそは「福音」じゃないですか?「福音」とは、「神様の救いの良き知らせ」のことを言うんですが、その神様から、「あなたは正しい!誰が何と言おうと、このわたしは『あなたは生きていい』と認めてる」って言ってもらえるとしたら、それこそは「本物の救い」じゃないでしょうか…? 


2 「私は生きて良いのか?」と悩む理由…「自分の義」
ですが、ここでちょっと立ち止まってみたいと思うんです。いったい、そもそも私たちは、なんでまた「私は生きてていいの?」って悩むんでしょう? そんなの、自分で勝手に「生きてていい!」って結論を出せば、済むんじゃないでしょうか…?
 いいやそれは、そんなことでは済まされないんですね。だから私たちは悩むんです。というのは私たちは、「自分で自分に『俺は生きてていい!』ってOKサインを出す」ってことは不可能なんですよ!つまり、OKを出したくても出せやしない…、「自分で自分を正しいと認める」ことは、私たち人間には出来ないことなんだ…ってことなんです。
心の中の良心が麻痺しちゃってる人や、相当に自信過剰な人なら、自分にOKを出せるでしょう。あるいは、何かの理由で「自分の今までの人生を否定したくない」って思う人は、「私は正しい」って無理をしてでも言い聞かせるでしょう。
 だけど、普通の人は、「俺は正しい、生きてていい」って無理して言い聞かせても、自分の姿を正直に見つめたら、「そう思っていいのかなあ…」って心配になっちゃうはずなんです。だって、「自分の中は、自己中心で冷たい心が一杯だ」って、すぐに気付いてしまうからなんです。
ですが、仮にもし、「私の中には何一つ汚れたものはありません」って人がいたとしてもです。だからといってその人が、自分で自分を「私は正しい、義です!」って言えるのか?…っていうと、残念ながらそうではないんですね。 なぜなら、私たち人間は、どこまで行っても相対的な存在でしかないからなんです。
 つまり、誰かが「おまえは生きる価値がない」と言って来たら、「そうじゃない」と反論できる絶対的な根拠を私たちは、自分自身の中には持ってないんですよ。「おまえが勝手に、そう思ってるだけだろう」って言われちゃったら、もう終わりなんです…。

今年の7月に、相模原の障害者施設で19人もの障害者の方が、元職員に殺される…って悲惨な事件が起きました。 あの犯人は、「障害者は生きていてもしょうがない、生きる価値がない」って言ったんですね。それが彼の動機だったんです。しかも彼は、真面目にそう主張するんですね。
それには、ほんと驚かされました! まるで、昔のナチス・ドイツのヒットラーの話を聞いてるようだと思っちゃいました。ヒットラーも、当時の優生学の思想に影響されて同じ考え方をしたんですね。そして実際に、「世界をより良くするためだ」と言って、ユダヤ人を殺し、重度障害者を抹殺する…ってことをして行ったんです…。
 今の日本の多くの方は、あの犯人の言ってる事を「なんて酷いことだ」って反応してたんで、ホッといたしました。でもその一方で、「彼の話は尤もだ」って意見も、インターネットでかなり出回ってたんですね。それにはビックリしちゃいました。だけど、考えてみれば、昔の日本だって、そうだったんです。 今だからこそ「全ての人には生きる価値がある」って言うけれど、昔は日本でも、障害者の方や、特定の病気の方や、特定の部落の出身者の方は、「生きる価値がない」みたいに平気で差別されていたんです。
 だからもし、今の世の中が、またもやそういう空気に染まって行って、「おまえなんか生きる価値がない」って皆から言われてしまったら、どうします?「いや、そんなことはない」って自信を持って言えますか? 「『そんなことはない』って、おまえが勝手に思ってるだけだろ」って言われちゃったら、それに反論できる絶対的に確かな根拠が、皆さんの中にありますでしょうか…?

去年の秋に、本屋さんで『ゴースト・ボーイ』って名前の本が出回りました。それはマーティン・ピストリウスって方が書いた自伝なんですが、昨年その方が、日本のテレビ番組で紹介されて話題になりました。どんな人なのかと言いますと、この方は、突然の病気で何年間も昏睡状態に陥って、そこから奇跡的にカムバックした…って人なんです。
十四歳の時に、原因不明の脳の病気に罹って意識を失って、「植物人間状態」になっちゃったんですね。で、お医者さんからも見放されて、「生ける屍」みたいになってしまったんです。
 ところが、実際はそうではなかったんですよ! 実は、意識不明になった2年後に、ピストリウスさんはなんと、昏睡状態から完全に目覚めていたんですよ! ですが、それはむしろ、地獄のような毎日の始まりだったというんですね。というのは、意識は戻っても、誰も「意識がある」とは気付いてくれなかったからだったんです。
そのせいで彼は、完全な孤独の中に、すっかり閉じ込められてしまいました。意識がないなら、そうならなかったでんですが、彼は言うんですね。
「厳しい現実に直面しました。残りの人生を自分自身の内側に閉じ込められたまんまで、完全な孤独の中で過ごすことになるのかと(絶望しました)…」って。
その上、散々酷いことを体験させられて、でもそのことを何にも訴えられない…って日々を過ごさせられたんです。
「(私は)防御することのない物体で、感情すらもないと思われてたので…、私を介護していた人たちが、肉体的にも、ことばでも、私を虐待したんです。なぜ、こんな仕打ちを受けなければならないのか?」…、そう思わされたと言うんです。
 さらに辛かったのは、自分の存在が家族の皆にとって大きな負担となっている…ってことが分かったことだったって…。 お母さんは、彼が意識を無くした一年後、介護に疲れて自殺未遂をしたそうです。そんなお母さんがある日、彼のお父さんと喧嘩をした後、彼に向かって、こう口走ったというんですね。「死になさいよ、マーティン。もう死んでちょうだい!」って…。
 もちろん、意識がないと思って、そう口走ったんですが、それをしっかり聞いてたピストリウスさんは物凄いショックを受けました。 そして、そういう中で彼が思わされたのは、「私はもう生きてる価値がないんじゃないか…」ってことだったんです。
幸い彼は、やがて一人のセラピストから「意識がある」って気付いてもらって、コミュニケーションのリハビリをして行きました。そしたらどんどん意思疎通ができるように回復して行って、今では自らパソコンも打って、テレビの前でプレゼンテーションも出来るまでになってます。
 ですが、およそ10年間もの間、このピストリウスさんは「自分は生きてる価値がないのでは」って思わせられる苦しみの中で暮らしてた…っていうんですよ! もちろん、彼自身は、自分の存在価値を認めたかったんです。でも、そうすることが出来なかったんです!そう出来る立場が、彼にはなかったからなんです…。

だけど、それはなにも、ピストリウスさんだけではないと思うんですね。実は、私たちも、皆ピストリウスさんと同じなんです。私たちもまた、「自分自身では、自分に『俺は生きる価値がある』って言ってあげることのできない者」なんですよ!
じゃあ、そんな私たちは、どうなるんでしょう?私たちは、「自分の生きる価値」を見出せないまんまで、絶望するしかないんでしょうか…?


3 「あなたは生きて良い!」と義認くださる神…「神の義」
いいや、そうではない。決してそんなことはないんです! なぜならば、「こんな私たちのことを義と認めて下さって、私たちには立派な存在価値があるってお認め下さる御方」が、他に、いらっしゃるからなんです! 誰でしょう?  それは神様です!
「この天地でただ一人、絶対的な存在であって、唯一絶対的な判断を下せる御方…、天におられる真の神様」なんですよ。 そして、その神様が、皆さん一人一人に「あなたは生きる価値がある!」と語り掛けて「義と認めて下さってる」おことばが、今日最初に読んだイザヤ書43章4節のみことばだったんです。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」って…。

私たちにとって非常に有難いことは、神様がこう仰って下さってるおかげで、「自分で自分を義とする」って絶望的な努力をもはや、する必要がなくなった!…ってことなんですね。つまり、「私は生きてていい」って評価とは、私たち自身が作り出すものではない…ってことなんです! 私たちに必要なのはむしろ、「自分が作り出す義」ではなくて、「神様から与えられる義」なんだ…ってことなんですよ!そして、「それが確かに今や、神様から与えられてるんですよ!!」って聖書は教えてくれてるんですね。
 そしてもし、その「義」を頂いちゃったら、私たちはもう大丈夫なんですね! なぜなら、その「神の義」は、「人間の当てにならない義」とは違って、絶対的に信頼できるからなんです!
だから、たとえ全世界が「おまえなんか生きる価値がない!」と言って来ても、「決してそんなことはない!」って私たちは、確信をもって突っ撥ねられるんです。たとえ、私の心が「俺は生きててもしょうがない」と囁いて来ても、「いや神様は、この私のことを『あなたは高価で尊い』とご覧になってるんだ!!」って確信できるんです!
 だとしたら、これこそは「福音」なんじゃないですか? こんな素晴らしい「救いの知らせ」は、他にはないんじゃないでしょうか!


4 神様が義と認めて下さった「しるし」…それは、十字架の愛
けれどもです。ここで敢えて、もう一つのことを尋ねてみたいと思うんです。私たちは、いったいどういうわけで「神様が、こんな私のことを『義』であると…、『生きる価値がある』とお認め下さってるんだ」って分かるんでしょう? それは、いったい何によって確信できるんでしょうか…?  そのことを、最後に簡単にお話させていただいきたいと思うんです。
ローマ人への手紙5章を見てみましょう。その5節に、こう書かれてありました。「この希望は失望に終わることがありません」って…。 「この希望」はどんな希望かと言うと、それは1節で言われてあった「信仰によって義と認められる」って「希望」のことなんです。そして、「その希望は失望に終わらない」って…、つまり、「必ずや義と認めていただける」って教えられてるんですね。
 でも、それはなぜ?…っていうと、「なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからだ」って聖書は言うんです。つまり、「神様が私たちのことを愛して下さっている…、私たちに与えられてる聖霊によってそれが分かる。その愛によって私たちは『必ず義と認めていただけるんだ』って分かるんだ」って言うんですよ!
 そして、その愛とは、どういう愛なのか…ってことが、続く6節からの所で詳しく説明されているんです。
 「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました」…、これは、イエス様が私たちの身代わりとなって十字架で死んで下さったことを言ってるんですね。 しかも、イエス様が身代わりとなられた私たちとは、どういう者だったのか?…ってことが、さらに掘り下げられているんです。
 「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるはいるでしょう。」…、
確かにそうですね。この世で「誰かのために死ぬ」ってことがあるとしたら、それは「正しい人」のためか、精々「情け深い人」のためですよ。
 なのに8節じゃ、「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださいました」って言うんです! つまり、なんとイエス様は、私たちが、「正しい」とも「情け深い」とも「生きる価値がある」とも言えないような「罪人」であった時、そんな私たちのためにこそ、その尊いおいのちを捨てて下さったんだ…っていうんです!! そのことの中に、「神様の愛の凄さ」が凝縮されてます…って聖書は言ってるわけなんです。

つまり、「私たちが義と認められる」のは、「神様の物凄く深い愛」によってこそ、分かるんだ…ってことなんですね。神様が私たちのことを、とことん愛して下さった…。しかも、「正しくも、情け深くもない罪人」だった私のために死んで下さった…、そういう「半端ない愛」でもって愛して下さった!その「愛」によってこそ、「神様はこんな私のことをも『あなたは生きていい、生きる価値がある!』って仰って下さってるんだ」って確信できるんですよ!! 
だって、「愛してる」とは、そういうことだからです。 「愛してる」とは、「私は、あなたを尊い存在だと思ってる!あなたに生きてて欲しいんだ!」っていうことの最高のメッセージなんですね!
 だから、「愛して下さっている」ってことこそが、「義と認めて下さってる」ことの最高の「しるし」なんですよ…。

皆さんは、何をしてもらえば「自分は生きていいんだ」って思います? お金を貰うことですか? 「ダイヤモンドの指輪」でもプレゼントされたら、そう思いますか? それよりも、「本当の愛でもって愛してもらった」時に、そう思うんじゃないでしょうか?
だから神様も、「半端ない愛」でもって愛することで、「あなたは高価で尊い。わたしはあなたを義と認めてるよ!」って私たちに教えてくれたんです。 そして、その「半端ない神様の愛」が全人類に明らかにされた「しるし」…、それが、あの十字架だったんです…。


まとめ        
さっきのピストリウスさんですが、彼もまた、「愛される」ってことによってこそ、「自分の生きる価値」を見出して行きました。 あんな酷い事を言ったお母さんは、彼に意識があるって分かってからは、仕事を辞めて一日中付き添ってくれるようになりました。その姿に彼は、「深い愛情を感じた」って言ってます。
 また彼は、ジョアンさんって素敵な女性と巡り合って、結婚いたしました。そのジョアンさんの愛が、「私も愛される価値があるんだと感じさせてくれている」っていうんです。
 けれども彼は、何より、こう言ってるんですね。「神の存在がなければ、ボクは今日ここにいません。これまでも、これからも、神様が下さる恵みに有難うと伝えたい。」って…。 「神様が実在するという証拠はなかったけれど、ボクは神様の存在を信じてた。 実在すると知っていたからだ。神様はボクに対しても、同じことをしてくれた。周りの人と違って、ボクが存在するという証拠を、神様は必要としなかった。 ボクの存在を知っててくれていたからだ。」って…。
 つまり、ピストリウスさんは、「この世界の誰も自分の存在を認めてくれなくても、神様だけは、私の存在を認めて愛してくれている!」って信じていたんですよ。そのことが、ピストリウスさんの中に、「ボクは生きてていい」って思いを、ギリギリの中で繋ぎ止めてくれていたんです…。
願わくは、私たちも、そうであらせていただきたいと思いますね。 「自分も、他の人も、神様が愛して下さってるからこそ、生きてていいんだ、生きる価値がある!」…、その「福音」をしっかりと、心の中に握り締めさせていただきたい。 そして、「生きる価値」が簡単にポイ捨てされちゃう今の世の中で、この「福音」をぜひご一緒に、精一杯にお伝えさせていただきたいと思います。
by sagaech | 2016-09-04 19:45 | 礼拝メッセージ